知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】ポストプロダクション実態編、ファイナルカットの意味/エルヴィス(2022)

4 (Mon). June. 2022.

7月1日公開されたばかりのバズ・ラーマン新作映画、エルヴィスだがこれまでのバズ・ラーマン映画とは違うーそして従来の映画とも異なるーある問題を孕んだ、物議を醸す映画であった。端的に言ってカットを切りすぎており、信頼された俳優、トム・ハンクスのナレーションも非常に陳腐なのである。

その背景にあるのは、ファイナルカットの問題ではないのか?筆者は単なる一般人であるから真相は知る由もないが、エルヴィスがそう邪推させるだけの奇異な映画であったことは事実だ。現在一般に公開されている情報も踏まえながら、ポストプロダクションの過程を解説して行きたい。

今回の主題は時事問題としても十分取り上げることが出来る問題だが、ここでは映画解説として議論してみよう。初めにファイナルカット・プリヴィレッジ(final-cut privilege)とは何かを明らかにし、実際のポストプロダクション現場では何が行われているのかを解説する。続けてエルヴィスの解説を編集という観点から明らかにしたい。

筆者が書く記事はどれも映画の技術的な側面に注目しており、プロットに対する意識は希薄であるが、エルヴィスが公開中の映画であることも踏まえ、未鑑賞で事前情報を得たくない、という方に関しては鑑賞後に読まれることをお勧めしたい。映画のプロットを明らかにすることに筆者は興味がないが、一定数嫌悪感を覚える方も居るだろうからである。

Austin Butler in Elvis (2022)

Final-Cut Privilege

ファイナルカット・プリヴィレッジ(Final-Cut Privilege)とは字の如く、映画の最終版を決定する権利のことを指す。ポストプロダクションに於いてはラッシュからラフ・カット、アンサー・カットへと編集され、音響効果や視覚効果が足されていくが、その全ての工程を経た完成形をファイナル・カットと呼ぶ。

sailcinephile.hatenablog.com

このファイナル・カットを決定し、映画館で公開するフィルムとして決定する権利がファイナルカット・プリヴィレッジなのだ。読者の方は当然映画監督がその権利を有していると思うかも知れない(事実ある年代には映画監督が権利を持っていた)。しかし実際には配給会社が口を出すケースも多いのである。

有名な例ではデイヴィッド・リンチデューン 砂の惑星はラフ・カットで4時間、リンチ自身の編集で3時間になっていたが、配給のユニバーサルがファイナルカット・プリヴィレッジを持っていた為に2時間に短縮したものを劇場公開した(そして結果失敗した)。他にはセルジオ・レオーネ監督のワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカではアメリカ配給を手がけたラッド・カンパニー(ワーナー・ブラザーズ系の配給会社)が時系列順に編集し、且つ269分の映画を139分にまで短縮してしまった(これも米国では失敗した)。

この様に映画館の回転数を上げ、観客の足が向き易くする様に映画の長さを短くしたり、カットを切ったり、省略したりする等の編集を配給会社、プロデューサー(時には俳優が権利を持つこともある)らが行うことがある。これは一重にファイナルカット・プリヴィレッジをスタジオ等が保有してしまっているからであり、大抵の監督はこの権利を有する為に闘うのだ。

例えばウディ・アレンデイヴィッド・クローネンバーグなどの監督は自分の収入を減らす代わりにファイナルカット・プリヴィレッジを保証した契約を結んでいる。このおかげで彼らは自身のヴィジョンに沿った映画を自由に制作・公開することが出来る。特にウディ・アレンに関しては予算規模が小さいということも関係しているが、この様に収入を減額することでファイナルカット・プリヴィレッジを守る監督もいる。

他にはスタジオ側が高名な監督、スティーヴン・スピルバーグピーター・ジャクソンなど、に対し無条件でファイナルカット・プリヴィレッジを保証することもある。これは監督の名前が一つのブランドとなっているからであり、そのブランドを汚さない為にスタジオ側が余計な手を出さないという判断の結果と言えるだろう。逆に監督らは自身の名前でブランドを作り上げ、ファイナル・カットが保証される様売り込みを掛ける。

ポストプロダクションの実態

しかし実際にはこの限りではなく、高名な監督であってもファイナルカット・プリヴィレッジを持たないこともある。その例がサム・ライミだ。

彼はソニー配給の下オリジナル版スパイダーマン三部作(トビー・マグワイアが主演した)を監督したが、この時彼はファイナルカット・プリヴィレッジを認められたいなかった。結果として幾つかのシーンが削除され、彼とソニーの関係は悪化、スパイダーマン4は制作されず、アメイジングスパイダーマンが企画されることになった。因みにTwitter上には#ReleaseTheRaimiCut というハッシュタグが存在しており、ジャスティスリーグの様な抗議活動が展開されていた。

さてこのサム・ライミスパイダーマンであるが、報じられている所によれば第一作のポストプロダクション過程で背景のデジタル処理が行われた。無論世界貿易センターを削除する為である。こうした変更は軽微且つ致し方のないものだが、第三作では多くの、クリエイティブな側面で変更が加えられていた。

クリステン・ダンストの深刻な台詞は短縮され、トビー・マグワイアとジェームス・フランコの戦闘シーンも一部削除されてしまった。伝えられている所によればスパイダーマン3は倫理的な問題提起を図る作品となる筈だったそうだが、公開当時歴代最高額の予算を投じて作られた作品(直後パイレーツ・オブ・カリビアンに更新され、現在は15位の2億5800万ドル)はより一般向けに編集されてしまった。

莫大な予算はより多くの集客が見込める反面リスクの増加にも繋がる。過去にはマイケル・チミノ監督が巨額を掛けて制作した天国の門が記録的な失敗となり、結果配給のユナイテッド・アーティスツがMGMに買収された事例もある。スタジオとしてはリスク回避の為やむなくの判断だったのかも知れないが、一映画ファンとしてはサム・ライミが監督した、完全なスパイダーマン3を見てみたい、というのが本音ではないだろうか?

このファイナルカット・プリヴィレッジの問題はサム・ライミだけに関係する問題ではなく、特に現代で予算規模が拡大している映画業界では多くの監督がファイナルカット・プリヴィレッジを剥奪されている。直近ではロバート・エガース監督がノースマンに於いて権利を得られなかったと語っていた。ウィッチ、ライトハウスと良作を続けて発表したロバート・エガース監督が、である。

90年代頃から独立系の監督が活躍する様になり(ケヴィン・スミス他)、このファイナルカット・プリヴィレッジも監督に譲渡されるケースが増えていたが、最近では既に述べた通り予算規模拡大に伴って監督が割を食う場合が増えている様だ。ハーヴェイ・”シザーハンズ”・ワインスタインとボブ・ワインスタインの編集も遠慮がなかったが、エルヴィスにもそのシザーハンズ味が感じられた所に現代の映画界の本性が垣間見えるのではないだろうか。

エルヴィス

冒頭で述べた通り、本作は明らかにカットを切り過ぎている。確かにバズ・ラーマン監督はマキシマリスト、ミニマリストの対極に居る監督だ。華麗なるギャツビームーラン・ルージュなど煌びやかな映画を監督してきたことで知られるが、それでも見せるべき場面はじっくり見せる監督であった。

ロミオ+ジュリエットの中で、パーティーの後ロミオがジュリエット宅に侵入する場面。カメラはレオナルド・ディカプリオクレア・デインズを交互に捉えるが、10秒から15秒程度のカットもその中には含まれ、シェイクスピアの文章を活かした心情描写を見せている。バズ・ラーマンと言えばその派手な演出のみが注目されるが、しっかりと心情も捉えることが出来る監督なのである。

翻って本作。添付の画像にもしているエルヴィスが1人サーカス会場で佇み、思い悩む場面。トム・ハンクスの陳腐なナレーションに邪魔されながらカメラは彼を追うのだが、このシーンは明らかに彼の孤独や不安を写す上で鍵となる大切なシーンだ。じっくりと彼を収め、感情に起伏をつける場面だろう。にも関わらずカットは2秒もしない内に割られてしまうのだ。これでは感情移入などしている余裕もない。海外の批評家でスピード・レーサーと比較する批評があったが、それも納得の異様な編集なのである(因みにスピード・レーサーファイナルカット・プリヴィレッジを認められていた)。

さて映画冒頭からノンストップで展開した物語はこの段に及んでもスローダウンせず、ハイテンポのまま終わりまで突き進む。その狂気じみたカット数の多さ(体感で平均1秒から2秒だったから、全体で8000カット程だろうか)と、一本調子な編集にはバズ・ラーマンの監督としての資質など微塵も感じる所がなく、食あたりにも近い感覚を覚える。どれだけ美味しい食材でも食べ続ければ飽きてしまう様に、美しい高速編集も150分続くのでは飽きてしまうのだ。

加えてトム・ハンクスの独白だ。殆どの場面でナレーションを挿入する必要性を感じず、ただ物語を分かりやすくするだけの働きしかしていない。若しナレーションを省いてじっくりと登場人物の顔に迫っていたならば、豪華な演出との対比もなされていたことだろう。

ここで筆者が見たのはファイナルカット・プリヴィレッジの問題である。バズ・ラーマンファイナルカット・プリヴィレッジを保持する監督として知られており、オーストラリアでは配給会社の要望に応えずエンディングを一般向けに変更しなかったと言う。従って彼が権利を持っていなかったとは考えにくいが、この編集は明らかに彼の才能を考えれば異様だ。

推察するに、若者向けにカットを割り、ナレーションを増やす様に要求されたのではないだろうか。若者は集中力が低下し長いカットに耐えられず、また説明的な台詞を好むと一般に言われているから、彼らの好みに合わせ「売れる」編集をしたのではないか。これが筆者の推測である。

実際彼がファイナルカット・プリヴィレッジを持っていたかどうかは筆者には分からないが配給会社とプロデューサーの意向にバズ・ラーマンが同意したのだろう。結果として従来の映画とは方法論的に全く異なる奇異な作品が完成した。

筆者はそれ故に途中で飽きてしまい、肯定的な評価を下すことは出来なかったが、編集以外でもう一点書くとすれば黒人と彼らの文化の描き方である。そこに見られるのは嘗てのオリエンタリズム的視点で、虐げられてきた黒人文化に接近すれば良いだろう、といった安易な他者化が見られた点が気になった。

エルヴィスが発展させたロックンロールにしても黒人音楽を取り入れたのではなく、元々二つながらに存在していた音楽が彼の中で融合したからこそ、素晴らしい楽曲を発表出来たのだ。別個の存在としてあったブラック・ミュージックをエルヴィスは意識的に採用したのではないと思うし、その点で全くの他者として黒人を描くその姿勢には問題があると思う。だから doja cat の楽曲をはじめとして安易にラップをサウンドトラックに取り入れている所にも、疑問を感じてしまった。これではパリ万博の日本館で披露され、人気を博した芸者・川上貞奴さながらではないか。それは真の文化的な融和とは言い難い。

以上様々な問題を孕んだ映画であり、筆者個人はとても高く評価することは出来なかったが、市場では中々の成績を収めている。現代の映画としてはこれ以上ない典型例であり、且つポストプロダクション過程を学習する上でも大いに参考になる。言うまでもなく華麗な演出は相変わらずであり、一度は見るべき映画であることは間違いない。是非映画館で公開されている間に間に鑑賞してみて欲しい。

【時事】東京オリンピック: Side B を見て(2022)/批評が出来ない批判家たち

29 (Wed). June. 2022

参院選の真っ只中、政治的には何かと騒がしい季節だが、その渦中で更なる論争を呼んでいるのが河瀬直美監督による東京オリンピック2020公式記録映画である。

特に Side B は「東京オリンピックの裏側を明らかにする」と予告で宣伝していることもあり、物議を醸している他映画的にも質が低いとのことだが実際にはどうなのであろうか?

Side A に関して筆者は傑作ドキュメンタリーだと断言したが、Side B はそれに及ばなかったなというのが鑑賞後の率直な感想である。

sailcinephile.hatenablog.com

それでも決して悪いドキュメンタリーではなかったし、大手メディアで「解説」されている様な極端な映画では全くなかっただろう。従って Side B に於いても問題は、鑑賞者・批評家にあるのだとの感を強めた。前回の記事では批評家が全く的外れな文言を書き殴っている事実を示したが、今回はそれを踏まえあるべき批評の姿勢について触れることが出来ればと思う。

Official Film of the Olympic Games Tokyo 2020 Side B (2022)

批評と批判の使い分け

批評(criticism)は美学に基づき、そして美学とは作品の存在に由来するものでなければならない。M. C. Beardsley (ビアズリー)が設定した批評の根本原理である。このビアズリーという哲学者はどうやら邦訳も少ない様で日本では余り知られていないが、米国の非常に高名な学者であり、美学研究の権威と呼べる人物である。

いきなりビアズリーの思想に触れても難解なだけである。彼の考え方を導いたウィトゲンシュタインの思想から見ていきたい。彼が『論考』中で語った所によれば、全ての(倫理学的)価値は命題を超えた所、世界存在の外にある。

それは何故ならば命題は語られる事柄のみを取り扱うが、世界の姿とは本来偶然的であるからである。価値は偶然的であってはならず、故に世界の中には確定された価値は無い。若し世界の中に価値があるとすれば、それは無価値という価値のみだ。

何故価値は絶対的でなければならないのか?それは認知と懐疑の関係から説明されるだろう。西洋の哲学に於いて懐疑、方法的懐疑は常に重要な問題だった。特に有名な人物はデカルトであろうが、彼らの懐疑もまたウィトゲンシュタインにとっては不十分だった。何故なら懐疑とは確実性、根本論理を前提にしているからであり、全てを真実だと見做さないということは彼自身の言葉(=思考と論理)すらも真実とは見做されないのである。彼の思考そのものが不確定であり、不確定だと認める所の世界存在すらも不確定かも知れない。

こうした究極の懐疑論を経て立てられる命題とは、常に限界的であると言える。前期のウィトゲンシュタインはこうした懐疑に対し、命題は必ず真か偽かいずれかの判断を下す為に判断を下し得ない懐疑は無意味であると捨象した訳だが、その真実性は常に言語の確実さに掛かっている(詰まり言語を不確定な形態だと断じてしまえば全ての命題は真と見做されない)。ここに命題の限界性がある。

そしてその限界は正確に言明の範囲、即ち世界を構成する可能な事実と一致する。だから我々の世界とは偶然的なものであり、そこから導き出される命題も真であることが可能なだけである。依って事実に基づく価値判断は相対的なものだ(熱い、早いなど)。しかし感覚的に広く認められている様に、我々の価値判断は事実だけに基づく訳ではない。こうした言語(相対的)によって表現し得ない様な価値をは、言語(=世界)を超えて人々を誘惑するという意味で絶対的なのである。

そうした絶対的な価値ー宗教や文学が一般に表現しようと試みてきたーを彼は倫理学的と表現した。善の価値観とは正しく人間に普遍的(普通人は殺人を嫌悪するだろう)であり、倫理学はこの絶対的な価値に由来すると考えたからである。

しかしビアズリーウィトゲンシュタインの思想を拡張し、美学もまた絶対的な価値の1つであると考えた。美学もまた普遍的に人間が追求してきた価値の1つであり、また言語によって(命題として)表現することが出来ないものだからである。だから美学は事実としての作品(絵画の色使いや交響曲の旋律)を超えた地点に存在するのである。そして批評とは美学の言語化に他ならないが故に、メタ言語として成立しているとビアズリーは考えた。

だから作品の検討は存在論的な地平から出発し、最終的には事実を超えた地点にある人間の本質を表現する様な営みでなければならない。その意味で批評とは困難で、且つ崇高な試みなのである。

批判は全くこうした高尚な目的を持たない。それはただ単純に誤謬を指摘するだけであり、価値判断とは一切関わらない。だから価値判断を批判によって行うことは不十分且つ不適当であり、説得力を持たないのである。批評とは作品事実を基盤に始められる一般的な営為なのであって、広く人々に訴えかけるものでなくてはならない。

東京オリンピック: SIde B

批評と批判をしっかりと区別した所で、本題の映画である(因みにウィトゲンシュタインも映画愛好家、特にアメリカ映画愛好家であった)。多くの有識者、自称「批評家」はこの大前提と言うべき作品に向かう姿勢に欠け、単なる自己主張を批判として繰り出しているだけの詭弁士だと思う。

河瀬直美監督の意図は明らかだ。2年近くに渡る密着取材の中で目標に向かって励むアスリート、それを支える現場の作業員、期待を込めて応援する人々、無能な役人、熱心なデモ隊、様々な人々を目撃してきた。その中で懸命に努力するアスリートを東京オリンピックという舞台で人々はどの様に受け止めてきたのか、それを明らかにすることが彼女の意図だったのだと思う。だからアスリート中心のSide A が先行で公開されたのであり、Side B ではアスリートの周縁で活動する人々を通してオリンピックと、人間の精神を写したかったのではないだろうか。

この主題の選択は納得出来るものだ。現場であれだけの不手際を見せつけられながら、何も出来ずただカメラを構えるだけの映画製作者はもどかしい思いがあったと思うし、その思いを表現したいと考えても不思議は無い。だから個人の作風の違いはあっても、その主題の選択を否定することは出来ないだろう。

特に河瀬監督の目線を感じた場面が次の2つ。初めに開会式の演出チームの解散を巡る場面。その以前のシーンで野村萬斎さんが語る日本の伝統、あるべき姿に対して佐々木宏氏が自身の手に余ると告白する。そしてカットが入り次のシーンでは、その佐々木氏が野村萬斎さんを始めとする演出家たちを批判する旨を会見で述べるのだ。「皆優秀な方々だけども我儘過ぎて話が前に進まない上に、広告業界出身の俺を軽く見ている」と(勿論この様な発言はしていないが、趣旨としてそう筆者には捉えられる発言をしたという意味)。河瀬監督もこの時に事実上解任された椎名林檎川村元気MIKIKOさんらと同じ目線で苦しんでいたことが伺われた。

もう1つは森善郎氏の組織委員会会長辞任を巡るシーン。周知の通り女性蔑視発言が問題視され辞任の運びとなる森元首相なのだが、その後新体制となった組織委員会で新たに就任した女性理事たちが所信表明をするシーンが写される。それぞれ勝手に演説し、終いにはアイヌ民族云々と述べる女性役員や、目を瞑ってしまう女性役員、以前の方と同じ内容でスピーチを繰り返す役員などがモンタージュされるのだ。「女性の話は長く会議がまとまらない」と言って辞めた森会長に続けて見せるには醜悪なモンタージュではあるまいか。

無関係なことを述べたり、全く同じ内容を繰り返したり。こうした発言は女性に限ったことでは全くないものの、「話が長い」と指摘された直後にこうした失態を犯すというのは随分反省と学習に欠けているだろう。「だから貴方たちは無能なんだ、現場のアスリートを見てみなさい」と悶々とする河瀬監督の姿が見える様な気がした。

こうした醜悪な場面を次々と流し、アスリートとは無関係なパフォーマンスに明け暮れる政治家やデモ隊と、日々努力するアスリートや下請けの作業員が対比関係で示されていく。観客にはひたすらストレスが溜まり、そしてそれを白抜きのカウントダウン(と字幕)による中断が強化する。それ故に時々カタルシスとして挿入される競技の場面や子供たちの笑顔に非常な爽快感を感じる作りになっている。

勿論筆者としても批判はある。河瀬さん程の監督であれば文字アートによる章立てなしに編集出来ただろうし、アスリートとの対比が弱く、「人」を描ききれていない様にも感じてしまった。しかし総体として悪い映画ではなく、傑作ドキュメンタリーの Side A と併せて良い映画だったと思う。

批評が出来ない批判家たち

こうした映画の中で描かれている事実とは全く関係なく好き勝手な批判の声が相次いでいる。「森喜朗とバッハの扱いが丁寧過ぎる」、「デモ隊にモザイクをかけるな」、「記録映画としてつまらない」、「ボランティアの方々にフォーカスしていない」、「医療現場の声を取り上げろ」......

先に述べた通り理想的な鑑賞の姿である批評とは作品ベースで行われるべきものだ。例えば日本社会の分断の描き方が中途半端で開催して良かったですね、という纏め方は不適切だという批判が見られたが、これは作品の意図に反しているから当然ではないだろうか?あくまでアスリートとそのサポーターを通して体現される人間精神と、その周囲で蠢く醜さを描く目的で撮影されているのに、分断云々と述べるのは作品を見ずに批判しているとしか思えない。これは作品解説でも何でもなく、ただ彼の主義主張を映画の名を借りて叫んでいるだけだ。だったら貴方の名前で、貴方自身が発言すれば良いではないか。どうしても映画に拘りたいのなら、自分が監督すれば良いのである。

また作品外部の事実を取り上げ、某自称編集者の様に「善郎とトーマス ぼくらの東京オリンピック」などど書くのは彼自身の批評家としての資格の無さを露呈している行為なのである。何故作品にその要素が盛り込まれなかったのか、それは全体に於いて不要な要素だと監督が判断したからである。その判断が間違っているという意味で外部事実を指摘することは結構だが、そもそも河瀬監督の意図がオリンピックの全貌を明らかにすることではないのだから、当然盛り込まれない事例も出てくるだろう。

ましてその含まれなかった素材を元に作者の意図を捻じ曲げる行為は最早論外である。作品に対して真摯に向き合っておらず、誤謬を指摘するという批判ですらもない。それはただの個人の解釈であり、公に映画に精通している風を装って書くことではない。それが許されるのは、政治家の演説原稿の中だけなのである。森氏とバッハ氏に近過ぎる?それなら来賓接待の係員の努力をよそに微笑む両氏、というシニカルな編集はどう捉えたというのか。ニュースで事実を知ることが多い、と言って諦観する3X3のコート建設家やMIKIKO氏をどう捉えたというのか。

筆者には「オリンピックは悪→デモ隊は善人で森会長らは悪人→彼らを批判せずデモ隊を持ち上げないこの映画は駄作→河瀬直美はやっぱりひどい」という図式が見えてしまって仕方がない。政治的な主義・信条を傍に置いて素直に作品を眺めれば、監督の率直な意志が伝わる良い映画だと感じた。そうした考えに目を曇らされ、批評家たるべき知識人が批判家に身を墜し、遂には自分の主張以外を受け付けなくなってしまっている現状は明らかに問題だと思う。少なくとも映画界にとっては大きな損失だ。

国民をリードするべき政治家が映画で示された様に醜悪なゲームに興じるだけで、そしてそれを指摘するべき知識人は適切な批判すらもすることが出来ていない。その事実を仄めかす為にユニークな知識人、エマニュエル・トッドのインタビューを挿入したのでは?と思ってしまった。流石に穿ち過ぎな見方だろうけれども、そう考えたくなる程に強い監督の意志を感じ映画であった。

【時事】東京オリンピック: Side A を見て(2022)/映画を見ない有識者たち

27 (Mon). June. 2022

酷評に次ぐ酷評で興行的にも大失敗している東京オリンピック2022公式記録映画。トップガン:マーヴェリックや映画 五等分の花嫁に及ばないことはある程度想定されたこととして、峠 最後のサムライや妖怪シェアハウスにまで大きく水をあけられているというのは、期待値や製作費に鑑みて失敗であると言って良いだろう。

筆者が見に行った時点で、多少公開から遅れてはいたもののTOHO シネマズの大きなスクリーンで観客が1人。これにはすっかり驚いてしまった。地方の小さな映画館ですら貸切状態になるのは稀であるから、つくづく異常な状態だと開演前から感じた所のものである。

SNSやインターネットではどこを見ても批判の声しか上がらないが、実際の所はどうだったのであろうか?時事問題として幾つか考えることがあり、解説することとした。

Official Film of the Olympic Games Tokyo 2020 Side A (2022)

東京オリンピック: Side A

通常筆者は映画の解説はしてもレビューをすることはない。平素は映画の技術面にフォーカスした記事を書いており、事実単なる映画のレビューであれば他にも沢山の方々がいるのであって、そうしたレビューや映画紹介は筆者の任ではないと感じていいるからだ。

しかし本映画に関してはレビューから始めたいと思う。それは余りにも実際の映画と世間の評価が乖離しているからであって、そこに時事的な日本の問題点が見えると思うからだ。

本記録映画は多くの方が指摘している通り真っ当な映画ではない。インタビューは不自然なクロースアップで顔が画面一杯はみ出る様な撮影をされており、その編集も滅茶苦茶だ。丁度先日記事にしたばかりの視線の一致や誘導もされておらず(「これ無くして説得力のある映画を製作することは難しい」と書いている)、右から左、左から右へと不器用な動き方をする。

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競技の様子もぶつ切りで、中心となる人物がブレブレのフォーカスで収められており、競技全体にはまるで興味が無いかの様だ。競技自体は撮影されるのだが、全体の展開や勝敗には興味が無く、どちらが勝ったのか、試合展開はどうかという基本的なエンターテイメント要素が余るで欠けている。

ライティングもまるで駄目で、中には全くライトを当てていない(部屋の照明だけで撮っている)のではないかと思わせる程の、陰鬱で起伏に欠ける画作りとなっている。特に柔道に注目した場面では、例の画面一杯のクロースアップに陰影の欠片も無い暗い画面で淡々と改革の過程を語る様子を収めており、素人の自主制作映画でもあり得ない位の画面になってしまっている。

しかし、筆者は開始20分位から湧き上がる感動を抑えることができなかった。それは何故か。東京オリンピク2020自体がその様な内容だったからだ。

映画開始冒頭から開会式の横で中止を叫ぶデモ隊が写り、聖火リレー等準備が着々と進む中で医療現場の窮乏がさりげなく写される。祝賀ムードとは程遠い不穏な空気の中でアスリート達は会場入りをする。開会式にしても競技会場にしても基本は無観客で、熱気はまるで感じられない。

テレビ越しに鑑賞する我々はつい忘れてしまうが、実況や解説もなく声援もない会場は静けさに包まれているのである。勿論演出である程度音を絞っている部分はあるだろうが、それにしてもオリンピック会場、延いては競技場だとは思えない盛り上がりの無さである。

これらがアスリートにとってどれだけ辛い状況であるか。普段孤独な環境で研鑽を積み、いざ晴れ舞台のオリンピックに臨もうかという所での延期決定。そして大会が始まっても自分を応援する観客の姿はどこにも無く、家族すらからも引き離されてしまう。スポーツをされたことのある方ならその辛さを伺うことも出来るのではないだろうか。

こうして「人」に焦点を置き、彼らの困難を記録する映画だと考えれば先ほどの演出にも納得がいく。敢えて不自然なクロースアップや断続的な競技内容に編集して見せることで、観客は選手の語る言葉を頼りに想像することしか出来ない状況に追い込まれているのだ。そして下手に競技の風景や平板なドラマ要素を取り入れることなく徹底してオリンピックの感動を捨象することで、彼らの困難が言葉の端と端、文学風に言えば行間から浮かび上がる様な作りになっている。

この東京オリンピック: Side A はアスリートに捧げられた映画だ。誰からも応援されない環境で孤独に闘い続けたアスリートを敢えて不自然な画で収めることにより、華々しい競技の様子から離れた苦痛を観客に強いる、我々の心を動かす映画に仕上がっていたと思う。そしてそれこそが東京オリンピック2020の真の姿だったのではないだろうか。想像力と共感力に訴えかける傑作だったと思う。

映画に寄せられた批判

筆者は河瀬監督のこの勇気ある演出にすっかり感動させられた訳だが、一般的には御存知の通り酷評の嵐である。映画.comやyahoo、Twitterから幾つか抜き出してみようではないか。

「競技主体で見せるべき所を、見せていない。何をしたいのかが分からない」

「コロナ禍開催の裏側を全く描かず、批判の声を上げるデモ隊の扱いが軽過ぎる」

「不適当な政治家をわざわざ映して、そこまでして阿る姿勢が不快」

河瀬直美の自意識が過剰で、無駄な作家性に拘った駄作」

「五輪が不祥事に塗れていた中で不祥事を起こした監督を使ってどうするのか」

大体こんな所だろうか。文春オンライン始め多数のメディアも大体似た論調で批判している様に思う。これに対して言えることはただ一つ、誰も彼も映画を見ていないだろうということだ。特に識者を称する方々に至っては実際に会場に足を運んだのかどうかすら疑わしい。

先に解説部で示した通り、本作は敢えて歪な構成にすることで歪なオリンピックそのものの姿勢を反映し、その中でアスリートに寄り添うことを目指した映画だ。その意図は画を見てはっきり伝わってきたし、形式上内容ともよく合っていたと思う。

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従って第一の批判である「競技主体で見せるべき所を、見せていない。何をしたいのかが分からない。」という批判は当たらない。少なくとも河瀬監督の意図は明々白々だし、その意図はアスリートの苦悩を浮かび上がらせることであるからして競技にしっかり注目していたと言える。好き嫌いはあるとしても、「分からない」と表現するのは単に彼らの共感能力が低いという事実を露呈しているに過ぎないだろう。

それから第四の批判。「河瀬直美の自意識が過剰で、無駄な作家性に拘った駄作」というのも間違いだ。抑も映画製作というのは多かれ少なかれ作家性が出るものであって、完璧に作家性を無くすことなどドキュメンタリー映画であったとしてもあり得ない。

それからこの批判を「河瀬直美の自意識が前面に出た結果主体となるべきアスリートを殺している」という意味だと読み変えたとしよう。それでも女性アスリートの授乳の様子や息子との電話の様子を見せる黒人アスリート、家庭でテレビ観戦する女性バスケットボール選手の姿を捉えている事実には変わりない。アスリート自身はそうしたプライベートを写すことを許可していたのであって、一応(そして多分実際にも)彼ら彼女らが河瀬監督が指揮する撮影班を認めていたことになる。その映像は少なくとも筆者に訴えるものがあったし、一概に殺していたなどと言えないのではないだろうか?

簡潔に言えば河瀬監督の「作家性」を過剰に読み取ろうとする諸氏は、目の前のスクリーンで展開される競技の様子よりも穿った見方をしているのではないか、ということである。詰まり形式上機能しているアスリートの姿よりもその底流を流れる河瀬監督の自意識を取り上げて、本当に着目すべき映画内容以外の二次的な側面に拘って、単なる粗探しをしているのではないのだろうか。

筆者が思うに一次批判は二次批判に優先する。仮に河瀬監督の自意識が鼻についたのだとしても、映画の内容(一次的)が優れているのであれば先ずそれを認めるべきだ。その上で二次批判は幾らでもすれば宜しい。二次批判で以て一次的な映画そのものを批評しないというのは、批評家としてあるまじき姿勢である。

そして残りの批判について。彼らは一様に映画を見る気が無い。これが一番根が深い問題だと筆者は考えている。

映画を見ることもしない有識者たち

コロナ禍の東京オリンピックの裏側だとか、デモ隊の主張、政治家の不祥事などその全ては政治に属する。映画とは全く関係の無い内容であって、少なくともこのSide Aを見てそうした批判をすることは全く的外れだ。彼らは映画を見て映画を批判しているのではなく、映画を借りて政治をやっているのである。

明確にする必要がある点だと思うから丁寧に見ることにしよう。少々長くなるかも知れないからお付き合い願いたい。以下全ての社会活動に直接関わる主張や活動を政治、本来で個人に属する行為を文学と纏め、古典的な政治対文学の対比で話すことにする。

この時政治と文学は両立する営みであって、全く対立するものではない。両者手を携え共に発展する必要があり、オリンピックに関する政治の問題と河瀬監督の公式映画は同列で語られるべきものだ。

しかし文学を政治でやることは許されないし、政治を文学でやることは許されないだろう。高尚なる文学の出発点には必ず社会に対する個人の熱情がある。社会に全く満足し、自分の感じる所は何もない者は筆を取ろうなど考えることもない。必ず彼は社会に対する自己の熱情をぶつけたいという衝動に駆られてペンを握るのである。

そうして個人の社会に対する熱情は勿論収斂すれば社会批判となるし、そうした個々の生活は大局的に一つの社会を構成しているだろう。従って文学と政治は両立する存在であり、その個人の生活と社会の生活の超え難い隔絶を表現する武器が文学なのである。

1人抽象論を振り翳しても無意味であるから、ここで1つ引用をしよう。埴谷雄高が『悲劇の肖像画』に寄せた文章の一部が次の様なものである。

そこに見られるのはひとりの個人の思いがけぬ運命であった。その振るい得る全精力、全情熱をそこに注ぎこんだあげく、しかもなお、スタンダールの嘗てのみごとな方式とはまったく逆に、政治に圧しひしがれる無惨な敗北のかたちのみがそこに見られることになったのである。

故に文学は一層の推進力を以て政治に向かっていったと彼は書いている。これが政治と文学の根本的な関係だと筆者は了解しているが、それは映画に於いても変わることはないだろう。

従って映画は根本的に政治を孕むものであっても、政治を語る言葉ではないのである。そこで出来るのはただひたすらに個人の熱情が社会と接する地点の苦しみを描くことであるに過ぎない。

「コロナ禍開催の裏側を全く描かず、批判の声を上げるデモ隊の扱いが軽過ぎる」、「不適当な政治家をわざわざ映して、そこまでして阿る姿勢が不快」、「五輪が不祥事に塗れていた中で不祥事を起こした監督を使ってどうするのか」、これらの批判は全て映画に向けられたものでは無いことは今や明らかだろう。これらは政治に向けられた批判であり、映画の中の政治を問題にしているのではなく、映画の仮面を被って政治論議をしているだけのことである。

文春オンラインだったり大手のメディアで訳知り顔で映画を批評する有識者たちは全くこの点を混同してしまっているのである。故に筆者は映画を見ずに映画を語っている、と言って糾弾しているのである。

是枝裕和監督の万引き家族にしても、PLAN75にしても、新聞記者にしても、日本の有識者(と有識者気取りのツイッタラー)は映画を見ずに政治を語り過ぎている。シン・ゴジラ愛のむきだし寝ても覚めても....幾らでも例を挙げることは出来るだろう。筆者が目を通した限り有識者を気取る人間の中で、このSide A をきちんと映画として捉えて語っていた者は皆無だったと思う(一般人の中には一定数いらっしゃった)。

筆者の様な一民間人が見て異常だと思う程、日本の映画批評は歪んでしまっている。文学と政治を全く区別出来ず、好き勝手政治的な主張を書き殴ってはクリック数を稼いでいる。秋山駿や石川淳などのしっかりした批評家が活躍した時代から何と大きな変化であるか。その点が正に筆者に記事を書かせた動機なのであり、誰も映画をきちんと映画として評価出来ない日本の有識者に憂慮の念を覚えたSide A 鑑賞体験であった。

 

【映画解説】ジャンプスケア(jump-scare)の意味と機能/死霊館(2013)

25 (Sat). June. 2022

本日のテーマは現代ホラー映画、そしてホラーゲームで最も大切な技術となっているジャンプスケアである。ここには先日の記事で解説した視線の一致と誘導が非常に大きく関係している。

近年では何かと批判されることも多いジャンプスケアだが、それは一番に使われ過ぎている、という事実がある。しかしその反面本当に効果的なジャンプスケアは少なく、事前に調べるに当たっても例は幾らでもあるが技術的に真に優れた例は少ないと感じた。ともかく映画を理解する上で重要な技術には変わりなく、今回はホラー映画を中心に解説していく。

取り上げる映画はジェームズ・ワン監督の死霊館、その第一作だ。ジェームズ・ワンは現在最も過小評価されている監督で、且つ過大評価されている監督でもあると思う。特に彼のキャリアでも重要なこの死霊館は絶賛と中傷の両方が見られるのだが、果たして実際は良い映画なのだろうか?詳しく見ていきたいと思う。

Lili Taylor in The Conjuring (2013)

定義

筆者がこれまでに見た映画の中で最も完璧なジャンプスケア(jump-scare)が見られるのはデイヴィッド・リンチマルホランド・ドライブだ(ホラー映画から選ばれないという所が何とも皮肉である)。映画序盤の夢の内容を語る男が、実際に夢で見たのと同じ塀の向こう側を覗こうとする場面。観客は塀の向こう側に何が居るのか、本当に悪魔が居るのか待ち構えている。カットが入り切り返しのショットが挿入され、一瞬気が緩んだ所でPOVショットに戻り悪魔が横から現れる。

この様に意表を突いて観客を怖がらせる様な何かを登場させる、その演出の仕方をジャンプスケアと呼ぶ。角を曲がった先にお化けがいるかも知れない。化粧室に入って後ろの隅に何かが居るかも知れない。布団に入って目を瞑ると目の前に幽霊が姿を現しているかも知れない。こうした子供がよく抱く恐怖の妄想を具現化するテクニックがジャンプスケアだと言えるだろう。

しかしこれでは幾分抽象的に過ぎる。より具体的且つ専門的な検討を試みよう。視線の一致と誘導について先に解説したと思うが、ジャンプスケアを効果的に演出する急所は正にここに置かれている。未読の読者は先に目を通すことをお勧めする。

sailcinephile.hatenablog.com

通常編集者は観客の視線を誘導し、彼らの視点を固定することで映画の連続性を高め、自然な繋ぎを達成しようとしている。真ん中にアクションの中心が置かれていたならば、次のショットも真ん中を中心に。左方向にカットしたならば、次のショットは左側を意識して編集するといった具合である。

それでは観客の視点を中心に固定した上で突然「真ん中に」幽霊が出てきたらどうだろうか?或いは観客の視点を真ん中に固定した上でカメラを左側に動かすと、突然左手に殺人鬼が現れたらどうだろう?それまでの平穏なショットに一変して不安要素が映り込む訳であって、当然観客は幾らか驚くだろう。

仮に観客の視点を右側に固定していたとして左隅に小さく手か何かが移っていたとしよう。大抵の場合観客は気が付かない。こうして文字で読んでいるとまさかと思うかも知れないが、実際は観客の視点は一箇所に力強く固定されているのであり、些事に注意することは本当に難しい。まして今の例で右側にカメラをパンしたとしたらどうか?観客は右方向に何が移っているのかと期待をし、左側の小さな手のことなど忘れてしまうだろう。

この様に単に意表を突いて怖がらせるといっても、実際に観客を怖がらせる為には彼らがそれに十分注意を向けていることが必要である。死霊館でも良いし、他のどんなホラー映画でも良いが、画面の中央にテープを貼ったり指を置いて鑑賞して見て欲しい。何か恐怖を喚起する存在が現れるショットでカットの前後で必ず視点が真ん中に誘導されている筈だ。

従ってジャンプスケアとはひとまず以下の様に定義することが出来る。ジャンプスケアとは観客が画面上で注意を向けている場所に、突然意識していなかった恐怖が映り込むことである、と。

実際殆どのジャンプスケアはこの定義で説明出来る。死霊館バイオハザード、パラノーマルアクティビティ、ババドック、エクソシスト... 多くのホラー映画がジャンプスケアに頼り切っていることが分かるだろう。しかし例外的なジャンプスケアの使い方もある。

それは例えばイット・フォローズに見られるのだが、劇中登場する「それ」は感染した本人にしか見ることは出来ない。よって周囲の人間からは目視出来ないのだが、「それ」に怯える主人公を前に友人が扉を開ける場面。扉を開けても実際に「それ」は現れず、友人たちも「いないじゃないか」と言った反応をする。しかし我々観客は「それ」が現れることを知っている。だから最初「それ」が現れなかった時一瞬間、疑問に思うのだ。そして案の定「それ」は姿を見せ主人公に襲い掛かる。

このシーンでは観客は主人公の視点になりきり、「それ」を待ち受けている。しかし実際に確認出来なかったことでタイミングをずらされ、実際に「それ」が現れる驚いてしまうのだ。故に意識していなかった恐怖、という定義は修正が必要だろう。恐怖は観客の期待によっても強化されるのだ。

以上を踏まえジャンプスケアとは、観客が画面上で注意を向けている場所に突然予想されていなかった方法で、(知られていたかいないかに関わらず)恐怖が映り込むことである、と定義しよう。筆者が知る限り全てのジャンプスケアはこの定義で説明出来る。

使用法と注意点

ジャンプスケアとは何か理解した所で次はその使用法だが、これは実例に当たった方が早い。従って簡便な解説に留めるが、数点(特に製作者にとって)意識するべきポイントがある。

第一に観客の視線をしっかり誘導すること。これが出来ていなければ全く彼らを恐怖させることは出来ない。一般に視線の誘導と固定は編集段階で行われるが、例えばセットの制作段階で色を多く使い過ぎていたり、ドアと窓が両方写ってしまう様では観客の注意が削がれてしまう。色が多い程視線は誘惑されるし、ドアと窓の両方が写っていれば観客はどちらから恐怖が現れるか散漫な注意を向けるからである。

従ってプロダクション、プレプロダクションの段階でもしっかりと完成された映像をイメージし、観客が定められた一点を見る様に誘導することが大切だ。

第二に観客の期待・予想を把握すること。「予想されていなかった方法で」訪れるから怖いのであって、完璧に予測された仕方で訪れる恐怖は恐怖ではない。それは単なる期待外れと言う。従って観客が期待する恐怖を的確に予想し、如何にそれを裏切るかがポイントである。

例えばトラッキングショットで一分間主人公の背中を追い続けたらどうだろう?手ブレの多い映像で観客は一分間言わば焦らされることになる。これは効果を最大限に高めることに繋がるが、現れた恐怖が些細なものであれば観客は同様に落胆してしまうだろう。

また恐怖を矢継ぎ早に繰り出したらどうだろう?部屋に入ると化物が待ち構えていて、後ろを振り向くとそこにまた怪物が居り、彼らを避けて隣の部屋に逃げ込むともっと多くの怪物がいる。これは確かに効果的な演出で、恐ろしいが観客を疲れさせてしまうことにもなるだろう。

タイミングや現れる恐怖を観客の予想とは違ったものにすること。これが一つの大切な要素だ。しかし全く予想を裏切ってしまうと、これもまた観客を落胆させてしまう。

例えばスラッシャー映画の金字塔、ハロウィンで考える。観客はマイケル・マイヤーズが現れることを楽しみにしている。しかし廊下の角を曲がった先で現れるジャンプスケアがパラノーマルアクティビティの様な超常現象、壁の額縁が倒れるなど、であった場合観客を困惑させてしまう。意表を突くことには成功しているが、スラッシャー映画にオカルト要素を持ち込むことは適当ではない。

この様に観客の期待を的確に把握し、効果的にそれを裏切ることがジャンプスケアを成立させる鍵となる。

最後にジャンプスケアを連発しないこと。ジャンプスケアは観客に心から怖いと思わせるのでなく、悪い表現をすれば単に驚かせているだけである。従ってジャンプスケアばかりに頼っているとびっくり箱と変わらない。観客を怖がらせる為には「怖い」という感情とジャンプスケアを結びつけ、感情を煽る1方法としてそれを用いるべきである。これはコメディ映画に対するギャグの関係と似ているだろう。

死霊館

さて以上がジャンプスケアの基本だが、この死霊館ではどの様に使われているだろうか?端的に言って非常に効果的な使われ方をしている。

ジェームズ・ワン監督は何と言ってもジグソウシリーズを生み出したことから、ツイストホラーの旗手の様に認識されているが、実際は王道のハリウッド映画を作ることが上手い。ジグソウにしてもシリーズ全体で見ると1だけが密室スリラーとして異色を放っていて、それ以降の作品は全てジグソウの哲学を掘り下げたスプラッタホラーになっている。寧ろワイルド・スピード7や、アクアマンといったブロックバスター映画にこそ彼の真骨頂があると筆者は考えており、この死霊館も恐ろしいホラー映画とはなっていないと思う。

具体的に説明しよう。本作は脚本的には非常に陳腐だ。アナベル人形が登場する必然性は殆ど無いと言って良いし(アナベル人形以外の霊媒でも良いという意味)、背景となる怨霊の過去も不明瞭だ。観客の方でもそうした点には興味が無いだろう。バチカンキリスト教といった細かい情報も意味が無い。

本作はそんな些事は取り払って如何に観客を怖がらせるか、ジャンプスケアを如何に効果的に使うか、という点にのみ注意が向けられている。極端なことを言えば、字幕を無くして台詞の意味が殆ど分からない状態で見ても楽しめる映画だと思う。その位筋立ては乱暴だ。

けれどもその分ジャンプスケアの使い方は非常に上手だ。今回のタイトル画像にも設定しているclap-clapの場面もそうだし、オルゴールの鏡に少年が映り込むシーン、そして箪笥の上から老婆が襲い掛かる場面、寝室の扉の後ろから何かが現れるシーンと印象的なジャンプスケアが多い。

中でも物語中盤、本格的な捜査をエクソシストと巡査と共に行う場面で、幽霊が縦横無尽に歩き回るシーンは必見である。先に述べた通りジャンプスケアでは観客の注意を一点に集中させていなければならない。それにも関わらずジェームス・ワンは広い屋敷でカメラを引いた位置で構えさせる。

複数のドアと窓とが映る訳だが、登場人物は一方のドアに幽霊が歩いているのを確認する。そちらの方に慌てて走って行き、カメラも彼をトラッキングするのだが、背後のドアを同じ幽霊が歩いているのが映る。そちらに振り返ると、今度は対角線状に幽霊が現れるのだ。屋敷という特異な構造を上手く使った演出だと思う。

clap-clapのシーンにしても真っ暗な画面にマッチ一本。観客は本映画のクリーチャーが現れるのではないか、どんな恐怖が待っているのかと期待してしまう。そして実際に現れるのは誰のものとも知れない両手だけ。これは映画の導入で期待を高めるには十分過ぎる。見ていて感心した演出であった。

この様にジャンプスケアがこれでもか、という位多用されており観客に対するサービス精神にあふれた映画になっている。それでいながら結末も期待外れに終わるのではなく、観客の期待を満たす様に設定されている。それまでジャンプスケアを多用していた分結末のアクションは一際派手にする必要があるのだが、最後の除霊の場面は呆れるほど派手だ。

こうした観客を楽しませる、という見せ方が上手い監督がジェームス・ワンその人であり、彼に対してホラー映画の担い手といったレッテルを貼ったり、下手な商業監督と決めつけることは不当だと思う。ホラー映画としては確かに乱暴な作りになっているが、実際文句なしに面白い映画だし、しっかり怖がらせる構成になっていると思う。

ホラー映画を作りたい人にとっては必見の映画だし、それ以外の方々でも十分に楽しませてもらえるだろう。変に捻った駄作映画を見る代わりに、こうした直球のホラー映画を鑑賞することを筆者は強くお勧めしたい。

 

 

 

【映画解説】編集の基本、視線の一致と誘導(eye-trace)/聖なる鹿殺し(2017)

24 (Fri). June. 2022

映画の本質は編集にある、というテーゼが一応映画学上では認められている。芸術の本質など時代ごとに変わる曖昧なものでしかなく、特にそれが映画の様な総合芸術では一際曖昧にもなるのだが、それでも映画に対する編集の大切さは十分強調されるべきだろう。

優れた表現方法の多くが編集の過程で生み出されており、カメラムーブメントや音響効果も編集なくしては成立しない。僅かの例外を除いて実験映画は新たな編集効果を追求してきたし、映画の発展は編集技術の発展と歩みを共にしてきたと言える。

しかしその編集技法は筆者は基本的に2つのポイントに代表されると思っている。様々な編集技法はそれぞれ独特な効果を持っているが、最も重要な点は視線を一致させること、そして視線を誘導することであり、これら無くして説得力のある映画を製作することは難しい。換言すれば視線の一致と誘導が出来てさえいれば、一応見るに耐える作品が出来るということだ。

取り上げる映画は聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアである。一見すると過去の名作を繋ぎ合わせた凡庸なサイコ・ホラーに見えるのだが、ある非常に素晴らしい視覚効果を用いており、それ故無視出来ない作品になっていると思う。撮影技法的には堅実という印象を受けたが、幾つか併せて取り上げてみたい(下のショットは特に印象的だろう)。

Nicole Kidman and Sunny Sujljic in Killing of a Sacred Deer (2017)

視線の一致

エスタブリッシュメント・ショット(舞台情景を説明するショット)などを除いて殆どのショットはカメラの中心に対象が存在する。平たく言ってカメラを真ん中に持ってきているということだ。試みに当ブログの記事を眺めてみて欲しい。必ず記事の冒頭で取り上げる映画から印象的なショットを選んで貼り付けているのだが、殆ど全てのショットで真ん中に対象が置かれていると思う。この様にカメラは観客の視点が画面の中心に来る様な撮影をすることが多いのだ。

これは必ずしもスタンリー・キューブリックが病的に愛したシンメトリーの構図を意味している訳ではない。例えば右斜めを向いている役者を視線の先から捉えたとすれば、役者はカメラの中心で真っ直ぐを見据えて写るが、後景はカメラと交差する様に写るだろう。兎も角映画で殆どのショットはカメラの中心に何らかの対象が置かれている。これが撮影上の基本的な了解事項だ。

従って譬えカメラが動いていたとしても、カットの後のショットも同様に観客の視点は真ん中に置かれていなければならない。以下のシーンを思い浮かべて欲しい。一人の女性がカメラ中央に据えられた階段を降りて右側に歩いていき、カメラはゆっくりと左方向にパンして彼女を追う。次のショットでは廊下を歩く彼女を正面から捉えるのだが、この時彼女はカメラに対して正対することになるだろう。何故ならばパンをする時点で彼女はカメラの中心に居たのであり、カットを自然に行う為にも彼女は中心を正面に向かって歩く筈だからだ。

この様にカットの前後のショットで視点が一致する様に編集する技術を、視線の一致と呼ぶ(専門的にはeye-trace, アイトレースと呼ぶ)。繰り返し述べている様にカメラは対象を真ん中で捉えることが多く、或いはシンメトリーの構図で中心線を挟んで相対する様に撮影することが多いから、視点は真ん中に置かれることが多い。よってeye-traceも真ん中で視点が一致する様に編集することが一般的だが、場合によっては画面の端で一致させることもある。

sailcinephile.hatenablog.com

この視点の一致は極めて基本的な編集方法だが、カット数の比較的多い現代の映画では重要度が高まってきている。ショットの平均的な長さが長さが2〜3秒という映画もザラで、アクション映画などでは0.5秒程度でカットが入ることも多い。この様に頻繁にショットが切り替えられる映画では、観客を画面に集中させる為に視点を真ん中で固定するこ編集がよく行われている。

その他にはホラー映画で用いられるjump scare, ジャンプ=スケアでは観客の視点を一点で集めた上で直後に驚かすことが必要な為、視点を一致させる様編集することも行われている。

視線の誘導

先程と同じ女性が中央から階段を降りてくる場面を想像する。しかし今度はカメラのすぐ左側に男が座っている。女はそのまま右手に歩いていき、カメラは左方向にパンをするが、この時女の後ろ姿を男が見遣っている様子が写る。

さて次のショットをドリーを用いて、横方向のトラッキングショットで収めることにしよう。貴方は女性を奥側から撮影するだろうか?それとも手前側から捉えるだろうか?

正解だが、普通はカメラを女性の手前に置く。これはカメラ正面向かって左に女性を追いかける男性が写っているからであり、手前側にカメラを置くとドリーは左側に動いていくことになる。この方がショット間の繋がりが分かりやすく、女性の移動を捉えやすくなるからだ。対してカメラを女性の奥側に置いてしまうと、カメラは右方向にトラッキングすることになり、男性が前のショットで見遣っていた方向と逆になってしまう。

この様に登場人物が意識している方向(視線が向けられている方向)にカメラを動かしたり、そちらの端にオブジェクトを設置する編集を視線の誘導と呼んでいる。先程の例で言えば左方向を見る男と、左方向にトラッキングするカメラを一致させることで、観客の視点は男のそれと一致する事になる。男の視線が観客の意識を誘導しているという訳だ。

キルビル:vol1中の戦闘場面で、ユマ・サーマンの両目がクロース・アップで写り、彼女の目が動いた方向から刺客が飛び出す有名なシーンがあるが、あのシーンは素晴らしい視線の誘導の例だと思う。仮に彼女の視線と反対に刺客が動く様に編集してしまっていたら、観客は空間の方向性が全く分からなくなってしまう。特に縦・横・斜めと広く使って撮影するシーンなどでは、この視線の誘導を意識した編集を行うことが極めて有効だ。

そして殆どの編集はこの2つのルールに則って行われている。勿論編集効果の中には敢えて視線をずらしたり、全然関係ないシーンを挿入したりすることもあるのだが、それでも基本的にこれらのルールに従っている。1つ目のルール、視点の一致はどうやら人間の感覚上強烈な違和感を与える様で、多くの映像で守られている。アマチュアの撮影し、編集した簡単なビデオでも視点は一致することが多い。しかしながら2つ目のルール、視線の誘導に関しては等閑にされることが多い様に感じる。こちらを意識するだけでも、貴方の編集した映像のクオリティは格段に上がることと思う。

例えば2人の人物が対話している場面で、画面右側の人間が左側に立ち上がったとしよう。この時話の聞き手(正面に座る人物)は、彼を左側に見る筈だ。従って編集も左側に視線を誘導する様にして行うと良いだろう。この様に視線を誘導することで映像効果は理解のしやすいものとなる。

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア

先に述べた通り、eye-traceと視線の誘導は普遍的な技法だが、特にこの映画で面白い使われ方がされるシーンがあり取り上げることとした。

そのシーンは映画の2/3程が過ぎ、ニコール・キッドマンが夫コリン・ファレルの業務上のミスを知る場面。既に彼らの2人の息子と娘は、バリー・コーガンの残した何やら不思議な予言によって歩行不可、食事拒否の状態に陥っており、死期が近いと言われている。

そんな状態で医者らしく医学を信じるコリン・ファレルだが、ニコール・キッドマンは予言を信じ、そして夫が飲酒によってバリー・コーガンの父親を死なせていた(可能性がある)ことを知る。夫婦間はすっかり冷え切り、彼ら2人は食事中に喧嘩をしてしまうのだが、予言に怯えるニコール・キッドマンに対してコリン・ファレルは「ワニの歯やら何やらで儀式すれば息子達は治るのか?」と言って、妻に当たり散らす。

このシーンでカメラ中央でキッチンに座るニコール・キッドマンにじっくりカメラがズームインし、カット。次のショットは考え込むコリン・ファレルの横顔だ。彼は立ち上がりキッチンの引き出しや棚から食器等を床にぶち撒ける。そして妻に彼は詰め寄るが、その様子を引きでカメラは収めている。ここでカットが入り、その夜ベッドの端と端で眠る準備をする2人のショットへ繋げられる。

この時ニコール・キッドマンに怒鳴るコリン・ファレルが画面中央にいるのだが、次のショットで寝台の柱が画面の中央に来るのだ。そしてその右側にニコール・キッドマンが、左側にコリン・ファレルが写り込む。

筆者はこの編集の凄まじさに完璧に痺れてしまった。この場面を以て夫婦の断絶は決定的になり、コリン・ファレルは復讐を決意する訳だが、その転換を寝台の柱一本でヨルゴス・ランティモスは表現してみせたのである。ベッドという最もパーソナルな場所で柱により隔てられる、彼ら夫婦の距離は長大だ。喧嘩のシーンからeye-traceで寝台の柱に繋ぎ、その両端にコリン・ファレルニコール・キッドマンを対置させ断絶を表現する。何気なく見ていると見逃してしまうが、監督の天才的な才能が現れた印象的なシーンだ。

映画自体はとにかく引きの画で、上から眺める様なショットが多い。それを以て「映画がギリシア悲劇から題を取っていることも踏まえ、神の視点を表現している!」と述べる安易な考察がネット上では散見されるが、筆者的にはどれだけ都合良く解釈してもそれは誤りだと考える。短絡的に過ぎるのだ。筆者の解釈では、監督ヨルゴス・ランティモスは新たな形で、映画的にギリシア悲劇の再現を試みたのだと思っている。

元となったギリシア悲劇は色々なソースが取り上げているから、興味のある方はそれぞれ検索して頂きたい。ただしそれは本作とは殆ど無関係で、登場人物の関係性もギリシア悲劇とは対応していない。コリン・ファレル演じる主人公が犠牲を選ぶ受難を経験するという側面は一致しているものの、逆に言えばそれ以外の共通点は無い。従って神の視点云々は問題にならない。

映画内で印象的な俯瞰のショットは寧ろ観客の視点の表現であり、我々に芝居を見ているのだと意識させる為に敢えて通常よりも倍程度遠い距離から撮影したのだと思う。そうすることで、コリン・ファレルが自身の内から生じた避け難い要因により追い詰められ苦しむという典型的な悲劇の側面を強調しているのだろう。そしてタイトルにも見られる様にギリシア悲劇を想像させることで、映画の悲劇性を打ち出しているのだ。額面通りに元の悲劇と対応するなどと考えてはいけない。

しかしながら悲劇として本作はお粗末だと言える。確かに俯瞰ショットは美しく、我々鑑賞者自身の存在を意識させるが、最も肝要なカタルシスが我々にもたらされない。冒頭からバリー・コーガンの行動は異様に不気味で、我々はコリン・ファレルの立場で彼を恐れるしかない。そうして彼に共感していくのだが、ニコール・キッドマンは「私たちならまた子供を産める。撃ち殺すなら子供のどちらかよ。」などと言ったりする。

これでは彼を真の受難者として捉えるには無理というものだ。観客はその様なキャラクターには共感出来ない。更に飲酒によって患者の死に関わっていたかも知れないというのは、バリー・コーガンとの必然の結びつきを生み出すには必要でも到底共感出来る要因ではない。

従って最後まで見終わってもカタルシスアリストテレスが『詩学』で述べる所の魂の浄化はもたらされない。ただひたすらにバリー・コーガンを恐怖して終わるのだ。これでは悲劇としてはお粗末と言われても仕方ない。

悲劇の1つの大切な要素は観客が登場人物を自分のこととは「思わずに」、彼らの苦悩を感じ、そしてそこから自身の魂を震わせるカタルシスを得ることだ。劇中の登場人物は神話上の人物など、観客よりも遥かに偉大な人物であることが多い。その彼らが避け難い恐怖の中に巻き込まれ、苦悩する様を見て恐怖を感じ、自分の魂によって彼らのそれを追体験することが大切とされている。

引きの画や不自然なズームインは観客に自分が登場人物その人(例えばコリン・ファレル自身)であると錯覚させることを防ぎ、主観化を阻止しつつ彼らに共感させることを意図した演出だったのではないか。安易なPOVショットでは観客が登場人物の人格に入り込み過ぎる。まるで劇場で悲劇を見ているかの様な距離感で観客には悲劇を体験して貰うことを狙って、カメラムーブメントはこの様になったのだろう。

只繰り返しになるが、その目論見は失敗だった。肝心のカタルシスが無い以上「不気味な演出」という以上の域をでない。その点が残念だったとは思う。

しかし矢張り全体として興味深い作品であることには間違いない。悲劇としては失敗しているし、作品としても失敗作だろう。それでも直線を意識した空間に富んだセットは美しく、撮影も独特で的確に監督の意図(芝居を見せること)を表現している。また先述の視点の一致による表現は必見(must see)の編集だ。

ホラー映画としても上出来で、単なるファニー・ゲームとアイズ・ワイド・シャットのリミックスに止まらない魅力と怖さを持っている。是非一度は見るべき作品だろう。

 

【映画解説】脚本執筆の失敗例/鑑定士と顔のない依頼人(2013)

20 (Mon). June. 2022

過去3回に渡って脚本が映画内に於いて如何に機能するものか観察してきたが、最終回の本日は脚本の失敗例についてである。

脚本はプロダクションは勿論プレプロの過程で重要な役割を果たし、技術的な程度を保障する上で必要不可欠である。従って基本的な要求を満たさない脚本は映画化すらされることはない。例えばシーンの連続性が保たれていない、登場人物の服装や仕草が一致しない、小道具の選択に一貫性が無いなどといった欠点のある脚本は失敗例と言うよりも寧ろ脚本の体を為していない。

sailcinephile.hatenablog.com

故にここで具体的に言う失敗例とは技術的には高度な水準にあるけれども、プロットや主題の上で問題がある脚本のことを指している。そして具体的には2013年の鑑定士と顔のない依頼人を取り上げる。予め断っておくが、失敗例として解説はするものの大変面白く、楽しめる作品である。

このWebページでは映画に関してより専門的な内容を広く伝えたいと考えているから、当然映画の持つ欠点は欠点として指摘する。しかしながら基本的な筆者のスタンスはどんな映画も誉めるべき、というものであってどんな映画でも良い点が必ずあると思っている。こうして特に制作を志す読者に対して失敗例などという表現をするけれども、作品の価値を貶めている訳では無いと理解して頂きたい。それでは解説に移ろう。

Geoffrey Rush and Sylvia Hoeks in The Best Offer (2013)

「特別な何か」

村上春樹の『1Q84』では冒頭から意表を突くような、人によっては高慢とも思える、文章論が飛び出してくる。直接の引用は差し控えるが、良い文章を書く為には天性の才能が必要である。天才が無いならば死ぬもの狂いで努力しなければならないが、何にせよ小説を書く行為を愛し、加えて「特別な何か」が無ければ小説家になどなれない、という下りだ。

映画を作る場合にもこれと同じで、特に脚本を書くに当たっては文才を磨く修練と「特別な何か」を持ち合わせていなければならない。前者については映画脚本特有のフォーマットや盛り込まなければならない事柄(カットや視線の連続性など)があるから、純粋な努力が求められる。問題は後者だ。

真っ白な紙を前に「面白い脚本を書いてくれ」と言われた所で、手が動き始める人はごく稀だろう。ドストエフスキーバルザッククンデラよしもとばななでも無理だと思う。必ず何か物語を生み出し、そして観客(読者)に訴える為には「特別な何か」、作者にペンを取らせる何かが必ず必要なのである。

俗な喩えだが、恋愛を思い浮かべて貰えれば分かり良いのではないだろうか。誰か特定の人物に思いを浮かべた所で、そんな気持ちは決して長続きしない。Genuine, 詰まり自然に湧き上がる剥き出しの感情が貴方を揺さぶるのである。「特別な何か」を持たない脚本は結局「足りない」のである。

中身の一貫性

精神論の様なぼんやりとした事から話を始めたのには理由がある。映画は物語が全てではない。ニコラス・ワインディング・レフンのドライブは平凡なノワール風の物語で、意外性をもたらす要素はない。それでも(実際素晴らしい脚本が設定されているが)あの映画が優れている理由は、物語以外のヴィジュアルや音響といった側面が大きく関係している。

とは言え中身に一貫性が無ければ魅力的な作品にならないということもまた真である。寄せ集めの要素を詰め込んで、まとまりの無い脚本になってしまっては完成した映画も二流・三流の作品になってしまうだろう。

思うに脚本は文学と比べて求められる才能は大きくない。特に21世紀の今文学で読者に訴えかけることは余程の才能が必要だが、脚本では凝った台詞や設定よりも簡潔で締まったそれが、全ての脚本に当て嵌まる事実ではないが、求められることもある。それよりも大切な要素は正に技術的に不備が無く、映画化に耐えうるかという点だ。

であるならば貴方に筆を取らせ、最初から最後まで書き通させる「特別な何か」を持つことが第一に重要だということになるだろう。お熱いのがお好き、欲望、TITANE /チタン、と三作品を取り上げて解説してきたが、そのどれもが首尾一貫した方法論で物語を伝えている。それぞれ脚本上の特徴は異なるけれども、万人に訴える多幸感、自己矛盾を引き起こす破壊性、作者が感じた現状への怒り、という共通項がある。

それに比べて本日取り上げる鑑定士と顔のない依頼人では作品を纏め上げる一貫性が無い。これは脚本家に「特別な何か」が欠けていたことの証左だと考える。

鑑定士と顔のない依頼人

具体的に見ていこう。本映画には主に3つの要素から成り立っている。

第一の要素はジェフリー・ラッシュ演じる偏屈で孤独な老人が姿を見せない1人の女性と出会い変わっていく物語。これはカズオ・イシグロの『日の名残り』と似た物語で、凝り固まった価値観と長年の孤独からもたらされた盲目が一人の女性と触れ合うことで解きほぐされ、愛に気づく物語だ。

第二の要素は自動人形を巡るミステリー。これは不思議な自動人形の正体が明かされる共に主人公のジェフリー・ラッシュがある決定的な秘密と喪失を理解するというミステリーである。先ほどの要素が多分にメロドラマチックだったのに対し、こちらは本格派の謎を用意している。

第三の要素はジェフリー・ラッシュが密かに収集している絵画を巡る物語。そもそもこの絵画達は彼が違法に競り落とした作品であり、その道義性が疑問となる。加えて収集する絵画は全て女性の肖像画であり、彼の人格を理解する上で鍵となるモチーフであると共に、作品を表現する重要なシンボルでもある。

ジュゼッペ・トルナトーレ監督自身が執筆した小説を原作としている様で、筆者は未読だが、恐らく小説では第二の要素に集中した造りになっていたのではないだろうか。映画という表現形式で深みを持たせる為に第一のメロドラマ要素を打ち出し、第三のシンボルを多用したのだと想像するが、結果としてその試みは失敗だったと言える。

女性の肖像を収集することを生きがいとする偏屈な老紳士が、顔の見えない女性にこれ程執心する理由は何なのか?『日の名残り』であれば一人称形式の語りから伺われるプロ意識の高さ故の孤独、という原因が存在したが、本作ではジェフリー・ラッシュの心変わりが説得力に欠けている。

そもそも違法に競り落とした絵画を収集していること自体が問題であって、協力者の老人に報復されるという程度では背景の書き込みが甘過ぎるのではないだろうか。そして女性の肖像画だけ、という異常性が美しいセットと撮影技法によって薄められてしまっている。現実にあの部屋を想像してみれば彼の狂気は一目瞭然であって、そんな彼の心理がメロドラマ要素と衝突することでぼやけてしまっている。

次に第二の要素に関して、驚くべきミステリーの手口は確かに素晴らしい。しかし観客はメロドラマを見せられているが故に、顔のない依頼人というミステリー要素を忘れてしまっているし、加えて老紳士の視点に移入してしまっている。偏屈な老人に感情移入させる物語構成を取るならば、彼の観客との距離感も明確にする必要があるのではないか?

そして我々観客が感情移入する老人が、異常な収集癖の持ち主という点も気になってしまう。

結果として複雑に絡み合う3つの要素がそれぞれ矛盾し合い、お互いの魅力を低減させる仕方で機能しているのだ。これは明らかに脚本を書く際に方針のブレ、若しくはアイデア不足のまま執筆を始めてしまった故の詰め込みが原因であって、脚本上に問題があると指摘せざるを得ない。これは特にお熱いのがお好き、の脚本と比べるとより明瞭になるだろう。

sailcinephile.hatenablog.com

更に細かい脚本上の問題を指摘するならば、台詞が非現実的に過ぎる。我々日本人は字幕付きで見るから気にならないかも知れないが、少し英語に注意を向けてみるとまず耳にしないフレーズや言い回しが使われており、個人的には詩情にも欠けると思う。

多かれ少なかれ映画のフレーズというのは非現実的なもので、特にアカデミー賞にノミネートされる作品は凝った台詞を喋らせていることも多い。しかし凝った台詞は美しい詩として魅力があるから機能するのであって、筆者個人には鑑定士と顔のない依頼人に於いては気取った喋り方に聞こえてしまった。

園子温愛のむきだしのラストシーン、満島ひかりが「愛してる!心の底から愛してる!」と叫ぶシーンだが、現実にこんな文句を使う人もいないだろう。歯が浮く様な文句であり得ない台詞だが、それでも深く我々の印象に刻まれるのはそれまでも満島ひかりの人生を目にしているからだ。彼らの間ではこんな関係もあり得るかも知れない、と思わせるが故にこの台詞は魅力的なのである。

英語をよく勉強していてもこうした微妙なニュアンスを感じ取ることは難しいが、それでも本映画の台詞は気取り過ぎていると思う。特に物語が散らかっているだけに、余計に気になってしまう。こうした点も注目して再度鑑賞してみると、読者の方々は学びも多いのではないだろうか。そして未見の方に関しては、今回はなるべく物語の核心に触れない様な書き方を心がけたつもりである。驚きを持って楽しめる作品であることには間違いないから、是非挑戦して頂きたい。

【映画解説】現代的脚本術に見られる主題の重要性、創造を支配する理性/TITANEチタン(2021)

19 (Sun). June. 2022

既に述べた通り、今日の時事が与える脅威はフィクションのそれを凌駕してしまっている。だからフィクション(それが映画にせよ文芸にせよ)は単に脅威を提出するだけでなく、それを超えて安息や恐怖などの感情を生み出すことに存在意義を求めなければならない。

現代の脚本はこうした事実を踏まえ、主題を予め設定した高度に知的なものが多くなっていると感じている。脚本家はアイデアや登場人物、感情を真っ先に思い浮かべるのではなく、表現するべき主題を思い浮かべている事例が多い様に感じるのだ。

本稿では昨年のカンヌ国際映画祭を制したTITANEチタンを取り上げたいと思う。現代の脚本術と銘打っているだけあって具体例は数多いのだが、その中でも特に注目を集め、且つ誤解されていると感じる本映画をケーススタディとして脚本術に至るまで掘り下げることとしよう。

Agathe Rousselle in Titane (2021)

創造力の本質

創造力と想像力とあって紛らわしいが今回問題にするのは前者、creativityについてである。一般には創造力とは技巧や知性、想像力(!)を駆使して新しい又は独自の何かを作り上げること、と考えられる。しかしながら実際創造力とは如何に定義されるべきものであろうか。

1つの断定をしよう。創造とは決して無から何かを生み出す行為では「ない」。若し全くの無の状態から何かを創りだすことが出来るとしたら、それは彼が世界の創造主である場合のみである。普通我々は感覚器官が捉えた世界の姿から何らかの影響を受けてーそれは形態の模倣かも知れないし、感情がもたらす観念かも知れないがー何かを創造しているのである。従って教育現場や企業で創造力=creativityの動員を促す行為は、指導者の努力不足を粉飾する詭弁である。問題解決は創造力によってなされるのではなく、現状を正しく把握し別様な方法で取り組むことによって成されるのだ。

さて特に現代では殆ど全ての創造的営為が模倣と再創造からなっている。長い人類の歴史の中で原初に於いては自然の表現が、機械化以降は機械の表現がなされてきたが、現代新たなモチーフを世界から発見することは不可能に近くなっている。ある芸術作品の背後には直接のモチーフと言うよりも寧ろ影響を与えた芸術作品が見られるのであって、事物そのものが観察される訳ではない。

文学の世界ではこうした考え方を間テクスト性・インターテクスチュアリティなどと呼んでいるが、要は何かを創造する際には必ず下敷きになる要素(古代では自然、現代では作品)が存在するということだ。これは音楽の様な純粋芸術でも同様であり、抽象絵画の如き作品でも同様である。そこでも必ず創造者(作曲家又は抽象画家)にインスピレーションを与えた作品が存在しており、彼らは情念のみを表現していると言うことに過ぎない。

従って創造力とは次の様に定義することが可能かも知れない。即ち創造力とは感性と理性を組み合わせ、諸々の経験から独自の仕方で何かを提示することである、と。

理性を強調する現代の脚本、主題の重要性

所で現代の映画に於いても創造力は同様に定義することが出来る。過去の映画や小説、現実の出来事から発展させ、脚本は執筆されることが専らなのである。

しかし現代に於いて特に顕著な傾向が、理性を動員し明確な主題を脚本の中に設定しているということである。主題がインスピレーションとなって脚本を書かしめている、と言っても良いだろう。

具体例を挙げて見たい。2020年公開のハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY。マーゴット・ロビー演じるハーレイ・クインの単体作品なのだが、脚本上全くハーレイ・クインというキャラクターを掘り下げていない。その代わりに主題としてのフェミニズムシスターフッドが前面に打ち出されている。

脚本執筆の際には主題の設定は極めて大事な項目なのだが、それは事項、具体的には登場人物や生物などを生き生きと動かす為に必要とされる。対してBIRDS OF PREYでは、フェミニズムを主題にするならキャラクターはこの様に行動すべきだろう、舞台上のモチーフはこれらであるべきだろう、といった安易な操作で終わってしまっている。

ユアン・マクレガー演じるヴィランにしても「こんな台詞を喋っておけば女性嫌いの悪役だって伝わって、フェミニズムの大事さが分かるよね」という意識が透けて見えてしまっているのだ。これは登場人物にフォーカスを置き、彼らの行動に注目していた従来の脚本術とは異なっていると分かって頂けるだろう。BIRDS OF PREYの中では(折角原作となるコミックがあるにも関わらず)誰1人登場人物は存在せず、フェミニズムシスターフッドという主題の具現化として創造された駒がいるに過ぎないのだ。

この様に主題が登場人物よりも先に立つ脚本が非常に多いのが現代の映画脚本の特徴である。現代と言ってもマン・オブ・スティールは2013年の作品であるし、必ずしもここ数年の現象ではないのだが、特に評価される映画でこうした書き方をしているものが多くなっている印象である。対照的に現実主義と理想主義の対立という主題をニール・アームストロングに託して描いたファースト・マンが評価されていないという現状もある。1人の宇宙飛行士に着目して主題を表現した秀作だったが、監督の話題性にも関わらず売れなかった印象を持つ。

それでは理性が創造を支配し、主題の脚本中の立ち位置を理解した所でそうした脚本の成功例を見て見よう。

TITANEチタン

監督のジュリア・デュクルノーはインタビューで本作のインスピレーションの1つは怒りであると語っていた。RAW-少女の目覚め-が高評価を博し、世界中の映画祭を回る中で女性としての性別から色眼鏡で評価され(女性なのに素晴らしい作品を撮った)、周囲に自分と同じ信念を共有する仲間がいない現状に対する怒りがこの脚本を書かせたと彼女は話す。

その怒りを全身に漲らせた主人公アガト・ルセルはチタンプレートという無機物を脳髄に埋め込まれ、車の上で踊る時には美しく輝くものの、普段の生活上は愛想の無い、攻撃的な女性である。彼女は怒りに満ちた「冷たい」存在であって、その彼女がセクハラ気味に言い寄ってきた男を衝動的に殺してしまった時から、彼女の人生は一変する。

シャワーと浴びて血を洗い流すと、外から物音がする。警察か誰か追手がやって来たのだろうか。物音の正体は彼女の愛車(無機物)であり、それに気が付いた彼女は車と結合する。さて翌朝早くも彼女の体には異変が起こり始める。ガソリンの様な液体が溢れで、腹部からは激痛が走る。

これは明らかに妊娠の表現であり、丁度妊婦の体内で胎児が成長する様に彼女の怒りも成長していく。親しげな態度を見せる同業のストリッパーやその友人も皆殺してしまい、彼女は逃げることを余儀なくされる。

そこで出会ったのは孤独な消防士のヴァンサン・ランドンで、彼はアガト・ルセルを行方知れずの息子と思い込み家に引き取って養うと宣言する。勿論これは彼女にとっては耐えられない仕打ちであり、腹部が肥大するのと同様、彼女の怒りも大きくなっていく。

しかしその実ヴァンサン・ランドンはステロイドを注射して何とか生きている孤独な「男性」であり、腐敗臭にもめげず必死に老婆の心肺蘇生をして彼女を助ける様子を見るなどする内に、2人の間には自然と絆が芽生え始める。

別れた妻が訪れ、2人の仲も破壊されそうになり、またある時はヴァンサン・ランドンに裸体を目撃されるも、両者は便宜上の父親と息子で居続けることを選ぶ。こうして怒りに満ちたアガト・ルセルと孤独なヴァンサン・ランドンの関係性は最早疑い様のない程に強くなったが、この時彼女が抱え込んだ「怒り」は遂に出産の時を迎える。

どんな怪物が生まれるのだろうか?登場したのは背骨がチタンで出来た赤ん坊、端的に言って無機物と有機物の融合体であった。出産を手伝ったヴァンサン・ランドンは(この比喩的な意味に注意)、感動して涙を流しながらその赤ん坊を育てていくことを決意する。

鑑賞中ジュリア・デュクルノー監督が感じる問題意識と怒りが痛い程に伝わってくる。誰の目にも性差の問題意識という主題は明らかでありながら、BIRDS OF PREYの様に登場人物を殺してしまうことなく、感情的なレベルに踏み込み、そして単なる女性の権威発揚に終らず真のあるべき姿(無機物と有機物の結合体、即ちアガト・ルセルとヴァンサン・ランドンという傷付いた2人の感情的な結合体)を提出している点で非常に優れた映画だと言うことが出来る。

主題(怒り)から出発して脚本を書いていることは伝わるけれども、主題に支配されず登場人物を生かす技はこれから脚本を書く諸氏にも大いに参考になるだろう。

それから映画に関して幾つか付け足すとするならば、ジュリア・デュクルノー監督は現場でヴァンサン・ランドンにヒッチコックのめまい中のジェームス・スチュアートを参考にする様求めたそうだ。彼もまた失った女を求めて苦しむ孤独な男である。

それから前作同様、監督は痛みを効果的に使っている。暴力描写が強烈で、化粧室内で自分の鼻を打ち砕いたり、かんざしを女性器内に差し込むといった痛みを通して観客とのコミュニケーションを図っているのだが、これは大変効果的だ。主題が高度に知的で、且つ無機物と有機物の結合というトリッキーな演出をしているのだが、痛みという観客・登場人物双方が持ち合わせる感覚指標を使って、観客を映画内世界に繋ぎ止めることに成功しているのだ。

カンヌ国際映画祭パルムドール受賞という箔無しに非常に面白い作品である。日本で公開されていることに感謝すると共に、是非多くの人にも鑑賞して頂きたい作品である。