知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】脚本執筆の失敗例/鑑定士と顔のない依頼人(2013)

20 (Mon). June. 2022

過去3回に渡って脚本が映画内に於いて如何に機能するものか観察してきたが、最終回の本日は脚本の失敗例についてである。

脚本はプロダクションは勿論プレプロの過程で重要な役割を果たし、技術的な程度を保障する上で必要不可欠である。従って基本的な要求を満たさない脚本は映画化すらされることはない。例えばシーンの連続性が保たれていない、登場人物の服装や仕草が一致しない、小道具の選択に一貫性が無いなどといった欠点のある脚本は失敗例と言うよりも寧ろ脚本の体を為していない。

sailcinephile.hatenablog.com

故にここで具体的に言う失敗例とは技術的には高度な水準にあるけれども、プロットや主題の上で問題がある脚本のことを指している。そして具体的には2013年の鑑定士と顔のない依頼人を取り上げる。予め断っておくが、失敗例として解説はするものの大変面白く、楽しめる作品である。

このWebページでは映画に関してより専門的な内容を広く伝えたいと考えているから、当然映画の持つ欠点は欠点として指摘する。しかしながら基本的な筆者のスタンスはどんな映画も誉めるべき、というものであってどんな映画でも良い点が必ずあると思っている。こうして特に制作を志す読者に対して失敗例などという表現をするけれども、作品の価値を貶めている訳では無いと理解して頂きたい。それでは解説に移ろう。

Geoffrey Rush and Sylvia Hoeks in The Best Offer (2013)

「特別な何か」

村上春樹の『1Q84』では冒頭から意表を突くような、人によっては高慢とも思える、文章論が飛び出してくる。直接の引用は差し控えるが、良い文章を書く為には天性の才能が必要である。天才が無いならば死ぬもの狂いで努力しなければならないが、何にせよ小説を書く行為を愛し、加えて「特別な何か」が無ければ小説家になどなれない、という下りだ。

映画を作る場合にもこれと同じで、特に脚本を書くに当たっては文才を磨く修練と「特別な何か」を持ち合わせていなければならない。前者については映画脚本特有のフォーマットや盛り込まなければならない事柄(カットや視線の連続性など)があるから、純粋な努力が求められる。問題は後者だ。

真っ白な紙を前に「面白い脚本を書いてくれ」と言われた所で、手が動き始める人はごく稀だろう。ドストエフスキーバルザッククンデラよしもとばななでも無理だと思う。必ず何か物語を生み出し、そして観客(読者)に訴える為には「特別な何か」、作者にペンを取らせる何かが必ず必要なのである。

俗な喩えだが、恋愛を思い浮かべて貰えれば分かり良いのではないだろうか。誰か特定の人物に思いを浮かべた所で、そんな気持ちは決して長続きしない。Genuine, 詰まり自然に湧き上がる剥き出しの感情が貴方を揺さぶるのである。「特別な何か」を持たない脚本は結局「足りない」のである。

中身の一貫性

精神論の様なぼんやりとした事から話を始めたのには理由がある。映画は物語が全てではない。ニコラス・ワインディング・レフンのドライブは平凡なノワール風の物語で、意外性をもたらす要素はない。それでも(実際素晴らしい脚本が設定されているが)あの映画が優れている理由は、物語以外のヴィジュアルや音響といった側面が大きく関係している。

とは言え中身に一貫性が無ければ魅力的な作品にならないということもまた真である。寄せ集めの要素を詰め込んで、まとまりの無い脚本になってしまっては完成した映画も二流・三流の作品になってしまうだろう。

思うに脚本は文学と比べて求められる才能は大きくない。特に21世紀の今文学で読者に訴えかけることは余程の才能が必要だが、脚本では凝った台詞や設定よりも簡潔で締まったそれが、全ての脚本に当て嵌まる事実ではないが、求められることもある。それよりも大切な要素は正に技術的に不備が無く、映画化に耐えうるかという点だ。

であるならば貴方に筆を取らせ、最初から最後まで書き通させる「特別な何か」を持つことが第一に重要だということになるだろう。お熱いのがお好き、欲望、TITANE /チタン、と三作品を取り上げて解説してきたが、そのどれもが首尾一貫した方法論で物語を伝えている。それぞれ脚本上の特徴は異なるけれども、万人に訴える多幸感、自己矛盾を引き起こす破壊性、作者が感じた現状への怒り、という共通項がある。

それに比べて本日取り上げる鑑定士と顔のない依頼人では作品を纏め上げる一貫性が無い。これは脚本家に「特別な何か」が欠けていたことの証左だと考える。

鑑定士と顔のない依頼人

具体的に見ていこう。本映画には主に3つの要素から成り立っている。

第一の要素はジェフリー・ラッシュ演じる偏屈で孤独な老人が姿を見せない1人の女性と出会い変わっていく物語。これはカズオ・イシグロの『日の名残り』と似た物語で、凝り固まった価値観と長年の孤独からもたらされた盲目が一人の女性と触れ合うことで解きほぐされ、愛に気づく物語だ。

第二の要素は自動人形を巡るミステリー。これは不思議な自動人形の正体が明かされる共に主人公のジェフリー・ラッシュがある決定的な秘密と喪失を理解するというミステリーである。先ほどの要素が多分にメロドラマチックだったのに対し、こちらは本格派の謎を用意している。

第三の要素はジェフリー・ラッシュが密かに収集している絵画を巡る物語。そもそもこの絵画達は彼が違法に競り落とした作品であり、その道義性が疑問となる。加えて収集する絵画は全て女性の肖像画であり、彼の人格を理解する上で鍵となるモチーフであると共に、作品を表現する重要なシンボルでもある。

ジュゼッペ・トルナトーレ監督自身が執筆した小説を原作としている様で、筆者は未読だが、恐らく小説では第二の要素に集中した造りになっていたのではないだろうか。映画という表現形式で深みを持たせる為に第一のメロドラマ要素を打ち出し、第三のシンボルを多用したのだと想像するが、結果としてその試みは失敗だったと言える。

女性の肖像を収集することを生きがいとする偏屈な老紳士が、顔の見えない女性にこれ程執心する理由は何なのか?『日の名残り』であれば一人称形式の語りから伺われるプロ意識の高さ故の孤独、という原因が存在したが、本作ではジェフリー・ラッシュの心変わりが説得力に欠けている。

そもそも違法に競り落とした絵画を収集していること自体が問題であって、協力者の老人に報復されるという程度では背景の書き込みが甘過ぎるのではないだろうか。そして女性の肖像画だけ、という異常性が美しいセットと撮影技法によって薄められてしまっている。現実にあの部屋を想像してみれば彼の狂気は一目瞭然であって、そんな彼の心理がメロドラマ要素と衝突することでぼやけてしまっている。

次に第二の要素に関して、驚くべきミステリーの手口は確かに素晴らしい。しかし観客はメロドラマを見せられているが故に、顔のない依頼人というミステリー要素を忘れてしまっているし、加えて老紳士の視点に移入してしまっている。偏屈な老人に感情移入させる物語構成を取るならば、彼の観客との距離感も明確にする必要があるのではないか?

そして我々観客が感情移入する老人が、異常な収集癖の持ち主という点も気になってしまう。

結果として複雑に絡み合う3つの要素がそれぞれ矛盾し合い、お互いの魅力を低減させる仕方で機能しているのだ。これは明らかに脚本を書く際に方針のブレ、若しくはアイデア不足のまま執筆を始めてしまった故の詰め込みが原因であって、脚本上に問題があると指摘せざるを得ない。これは特にお熱いのがお好き、の脚本と比べるとより明瞭になるだろう。

sailcinephile.hatenablog.com

更に細かい脚本上の問題を指摘するならば、台詞が非現実的に過ぎる。我々日本人は字幕付きで見るから気にならないかも知れないが、少し英語に注意を向けてみるとまず耳にしないフレーズや言い回しが使われており、個人的には詩情にも欠けると思う。

多かれ少なかれ映画のフレーズというのは非現実的なもので、特にアカデミー賞にノミネートされる作品は凝った台詞を喋らせていることも多い。しかし凝った台詞は美しい詩として魅力があるから機能するのであって、筆者個人には鑑定士と顔のない依頼人に於いては気取った喋り方に聞こえてしまった。

園子温愛のむきだしのラストシーン、満島ひかりが「愛してる!心の底から愛してる!」と叫ぶシーンだが、現実にこんな文句を使う人もいないだろう。歯が浮く様な文句であり得ない台詞だが、それでも深く我々の印象に刻まれるのはそれまでも満島ひかりの人生を目にしているからだ。彼らの間ではこんな関係もあり得るかも知れない、と思わせるが故にこの台詞は魅力的なのである。

英語をよく勉強していてもこうした微妙なニュアンスを感じ取ることは難しいが、それでも本映画の台詞は気取り過ぎていると思う。特に物語が散らかっているだけに、余計に気になってしまう。こうした点も注目して再度鑑賞してみると、読者の方々は学びも多いのではないだろうか。そして未見の方に関しては、今回はなるべく物語の核心に触れない様な書き方を心がけたつもりである。驚きを持って楽しめる作品であることには間違いないから、是非挑戦して頂きたい。