知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】ハリウッド流古典的脚本術/お熱いのがお好き(1959)

16 (Thu). June. 2022

『ル・シッド』論争についてご存知だろうか。古典主義時代の17世紀フランスでピエール・コルネイユが著した劇『ル・シッド』が三単一の法則(時・場所・筋の一致)を無視したことから、両派分かれて展開した議論のことである。

当時の演劇界に於いて三単一の法則は絶対的なルールだったが、今になって見れば1つの作風に過ぎないということが分かるだろう。『禿の女歌手』にしても当時は評価されなかったが、現在ではイヨネスコの優れた劇作として認知されている。

さて本日のテーマは脚本、それもハリウッド流の古典的脚本だ。古典的と言っても1980年から90年代くらいまでは機能していた1つの型であって、幾つかの厳格な特徴を呈している。今回は映画の脚本について理解を深めるに当たって先ずは最も基本的で有名な型から始め、そして全4回に渡って解説する。第2回目では脚本を破壊する試みについて、第3回目では古典的脚本術に嵌らない現代の脚本について、最終回では脚本の失敗例について取り上げるつもりだ。

この古典的脚本術というのは丁度三単一の法則の様なもので、当時の文化・慣習・思想の上で最も好ましいと考えられた一形式である。従って現代から脚本術という表現技法のみに絞って批判することは不当な試みであることは、筆者も十分承知しているものである。しかしながら当ページで文化的・思想的背景にまで踏み込むことは些か手に余るものであり、純粋に技術的な側面のみを語っていると認識して欲しい。

取り上げる映画はビリー・ワイルダーお熱いのがお好き、である。映画史上ではサウンド到来以後の1930年代から1940年代までをハリウッドの黄金期とし、1950年代を凋落の時代とすることが多いが、その区分に従って黄金期の終わりに創られた典型的で記念碑的な本映画を見ることとしよう。

Marilyn Monroe in Some Like It Hot (1959)

古典的な三幕構成

シド・フィールドという人物をご存知だろうか。良くも悪くもハリウッド的な脚本術は彼の名前に負う所が大きい。『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術』という売れに売れた本を書いたその人である。筆者の住んでいた田舎の小さな図書館にすら置いていた本であるから、全国津々浦々よく知られた本ではあるまいか。

彼はハリウッド映画で基本と考えられた特徴的な要素を抜き出し、1つの体系として纏めることに成功している。後述する様にこうした法則に従うことは現代の映画制作に於いて殆ど無価値と言えるだろう。しかし純粋に史学的興味に基づいて、以下にその特徴を観察する。

先ず劇中の登場人物は必ず明確なヴィジョンを持っている。分かり易く目標と言っても良いかも知れない。風と共に去りぬオズの魔法使い、少し後ではサウンド・オブ・ミュージックなど、プロットが明確で「次に何をすべきか」というヴィジョンをはっきり自覚している様に見える。ジャンヌ・ディエルマンの様な映画はあり得ないという訳だ。

従って古典的なハリウッド映画では登場人物は何かしらの行動を起こす。そこに見られるのはヴィジョンがあれば行動するというシンプルな論理であって、無意識的・偶発的な行動とは区別されるだろう。換言すれば必然性のない行動は取らないということである。ブリング・リングで少年少女達は刹那的な犯罪行為に楽しみを見出すが、こうした行動を取るキャラクターは以前は見られなかった。

行動が映画を特徴づけるとすれば、物語形式の上でも行動が大きな要素となる。話が前に進む要因は登場人物が何らかの行動を起こしたからであり、例えばフランシス・ハという映画でグレタ・ガーウィグが税金の還付を受けて食事に出掛ける場面があったが、こうした天啓の様な原因(税金の還付)は見られない。

故に物語は行動によって分類することが出来る。事件の発端となる出来事が起き、登場人物が何かしらの「行動」を起こす。それに対して何らかの「行動」を相手が起こす(これは具体的には主役の人物に対する苦難となろう)。苦難を乗り越え事態を解決する為、登場人物は決定的な「行動」を最後に取る。これを以て物語=映画は決着するが、その全ての時点で行動が関係する。

前述のシド・フィールドはこの点に注目し、映画を三幕に分け物語を導入し、対決姿勢を鮮明にし、最後に解決するという図式を打ち出している。

反論

冒頭で記した通り現代でこの法則に従って映画を書いたとすれば、絶望的に陳腐で退屈な作品となるに違いない。否、映画化自体が難しいのではないだろうか。

ハリウッド流古典的脚本術は一見完成された完璧な法則を打ち立てている様に思える。フランスの劇作家達(と小説家たち)も古代ギリシア悲劇を完璧な作品と見做し、古典主義を成立させた。しかし個人の精神と同時代の動揺を背景に、よりドラマチックなロマン主義に発展したのではなかっただろうか。

同様に現代に於いて現実がフィクションを凌駕している状況、詰まりニュースが映画よりも圧倒的で信じ難いものとなっている状況で、平板な古典的物語は全く魅力的ではない。ヒーロー映画の象徴であり、頂点でもあったアベンジャーズがエンドゲームでは序盤アクション(行動)を放棄し、中盤ではアイデンティティの探求に向かったことを思い出そう。これまで繰り返してきた様な単純な勧善懲悪物語ではなくなっているのだ。

これ以上の分析は次回以降の記事に回すが、それでも古典的物語形式が最早過去の産物となっていることは強調したい。過去の作品の価値を下げるつもりはないが、そこにある価値は史学的な価値であって我々は反省的態度でのみ過去の作品から学ぶことが出来る。上記の古典的三幕構成を模倣するといった愚行に走ることは避けて頂きたい。

お熱いのがお好き

今回はあらすじを確認することから始めてみよう。

禁酒法時代のシカゴでジャック・レモントニー・カーティスはふとしたきっかけでギャング同士の殺害を目撃してしまう。証拠を完全に消し去りたいギャングは当然2人を追いかけることに決め、彼らから逃れる為2人は女性限定の楽団に女装して入り込む。楽団で2人はマリリン・モンローと出会うが、特にトニー・カーティスマリリン・モンローの関係が発展し、恋愛模様に繋がることが予測される。

列車が辿り着いたフロリダでジョー・E・ブラウン演じる裕福な紳士がジャック・レモンに惚れてしまう。そんな喜劇的な展開を他所にトニー・カーティスは水兵に変装し、マリリン・モンローと親密な関係になる。ジョー・E・ブラウンの所有する船で晩餐に出掛ける2人と、老人と踊る羽目になったジャック・レモンが交互に映し出されるシーンは最も喜劇的なシーンの1つだ。

物語は進み、追いかけてきたギャングに殺害されかけるものの何とか逃げ出した2人はそれぞれマリリン・モンロージョー・E・ブラウンに出会う。お互いに嘘をついていたことを告白するも、共に許されボートで無事に脱出し、ハッピーエンドを迎える。

以上が筋書きとなる。ジャック・レモントニー・カーティスマリリン・モンローと出会い、トニー・カーティスが彼女に惚れるまでで一幕。ジョー・E・ブラウンが登場し、二組のカップルが誕生するまでで一幕。最後にギャングとの物語が解決し、恋人同士が真に結ばれるまでで一幕の三幕構成となっている。

苦難や対決という言葉を上では用いたが、原語ではconfrontation, 詰まり葛藤である。確かにギャングとの対決という側面はあるもののこの映画の主題は恋愛であり、導入部分でマリリン・マンローの性格が示されたことを考えても葛藤とは2人の男女の間のものであると理解出来る。

更に行動に注目すると、トニー・カーティスは水兵に変装したりマリリン・モンローを船上に招待したりするが、これらはいずれも恋愛に関わっているものだと分かる。導入部分でギャングからの逃避行であったのが、徐々に本題である恋愛喜劇へと移行する様子が確認出来るだろう。この時マリリン・モンローへの恋愛が時間を掛けて育まれた心情ではなく、逃げ込んだ先の楽団で彼女に惚れられたことから発展していることに注意する。行動によって彼らの恋愛は説明されており、そして行動によって展開する感情なのである。

ビリー・ワイルダーと言えば深夜の告白とサンセット大通りの2本が取り分け有名だが、麗しのサブリナや本作、そして7年目の浮気などノワールものに限らず幅広く才能を発揮した監督である。筆者個人的には戯画化の才能が凄まじいという印象であり、画作りに於いて印象的なショットを生み出すことが出来る監督だと思っている。

画作りと言っても芸術的なショットや撮影方法が分からない様な高度な技術を駆使するという意味ではなく、自然に印象に残って離れないショットを作り出すという意味であり、7年目の浮気は特に良い例だろう。通風口のシーンでのマリリン・モンローは恐らく彼女の最も有名なショットの1つであり、紳士は金髪がお好き(マドンナがマテリアル・ガールで模倣している)よりも優れたショットだと思う。

喜劇映画として素晴らしいことは勿論だが、そうした印象操作の面からも学ぶ所が多い作品ではないだろうか。極めて「ハリウッド的」な映画でありながら、歴史に埋もれず今でも楽しまれているには必ず理由がある筈だ。筆者としてはそれはマリリン・モンローの才能とビリー・ワイルダーの手腕の賜物だと理解しているが(何故なら脚本は法則に厳格に従っているでから)、自身の目で鑑賞して考えてみて頂きたい。