知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【時事】東京オリンピック: Side A を見て(2022)/映画を見ない有識者たち

27 (Mon). June. 2022

酷評に次ぐ酷評で興行的にも大失敗している東京オリンピック2022公式記録映画。トップガン:マーヴェリックや映画 五等分の花嫁に及ばないことはある程度想定されたこととして、峠 最後のサムライや妖怪シェアハウスにまで大きく水をあけられているというのは、期待値や製作費に鑑みて失敗であると言って良いだろう。

筆者が見に行った時点で、多少公開から遅れてはいたもののTOHO シネマズの大きなスクリーンで観客が1人。これにはすっかり驚いてしまった。地方の小さな映画館ですら貸切状態になるのは稀であるから、つくづく異常な状態だと開演前から感じた所のものである。

SNSやインターネットではどこを見ても批判の声しか上がらないが、実際の所はどうだったのであろうか?時事問題として幾つか考えることがあり、解説することとした。

Official Film of the Olympic Games Tokyo 2020 Side A (2022)

東京オリンピック: Side A

通常筆者は映画の解説はしてもレビューをすることはない。平素は映画の技術面にフォーカスした記事を書いており、事実単なる映画のレビューであれば他にも沢山の方々がいるのであって、そうしたレビューや映画紹介は筆者の任ではないと感じていいるからだ。

しかし本映画に関してはレビューから始めたいと思う。それは余りにも実際の映画と世間の評価が乖離しているからであって、そこに時事的な日本の問題点が見えると思うからだ。

本記録映画は多くの方が指摘している通り真っ当な映画ではない。インタビューは不自然なクロースアップで顔が画面一杯はみ出る様な撮影をされており、その編集も滅茶苦茶だ。丁度先日記事にしたばかりの視線の一致や誘導もされておらず(「これ無くして説得力のある映画を製作することは難しい」と書いている)、右から左、左から右へと不器用な動き方をする。

sailcinephile.hatenablog.com

競技の様子もぶつ切りで、中心となる人物がブレブレのフォーカスで収められており、競技全体にはまるで興味が無いかの様だ。競技自体は撮影されるのだが、全体の展開や勝敗には興味が無く、どちらが勝ったのか、試合展開はどうかという基本的なエンターテイメント要素が余るで欠けている。

ライティングもまるで駄目で、中には全くライトを当てていない(部屋の照明だけで撮っている)のではないかと思わせる程の、陰鬱で起伏に欠ける画作りとなっている。特に柔道に注目した場面では、例の画面一杯のクロースアップに陰影の欠片も無い暗い画面で淡々と改革の過程を語る様子を収めており、素人の自主制作映画でもあり得ない位の画面になってしまっている。

しかし、筆者は開始20分位から湧き上がる感動を抑えることができなかった。それは何故か。東京オリンピク2020自体がその様な内容だったからだ。

映画開始冒頭から開会式の横で中止を叫ぶデモ隊が写り、聖火リレー等準備が着々と進む中で医療現場の窮乏がさりげなく写される。祝賀ムードとは程遠い不穏な空気の中でアスリート達は会場入りをする。開会式にしても競技会場にしても基本は無観客で、熱気はまるで感じられない。

テレビ越しに鑑賞する我々はつい忘れてしまうが、実況や解説もなく声援もない会場は静けさに包まれているのである。勿論演出である程度音を絞っている部分はあるだろうが、それにしてもオリンピック会場、延いては競技場だとは思えない盛り上がりの無さである。

これらがアスリートにとってどれだけ辛い状況であるか。普段孤独な環境で研鑽を積み、いざ晴れ舞台のオリンピックに臨もうかという所での延期決定。そして大会が始まっても自分を応援する観客の姿はどこにも無く、家族すらからも引き離されてしまう。スポーツをされたことのある方ならその辛さを伺うことも出来るのではないだろうか。

こうして「人」に焦点を置き、彼らの困難を記録する映画だと考えれば先ほどの演出にも納得がいく。敢えて不自然なクロースアップや断続的な競技内容に編集して見せることで、観客は選手の語る言葉を頼りに想像することしか出来ない状況に追い込まれているのだ。そして下手に競技の風景や平板なドラマ要素を取り入れることなく徹底してオリンピックの感動を捨象することで、彼らの困難が言葉の端と端、文学風に言えば行間から浮かび上がる様な作りになっている。

この東京オリンピック: Side A はアスリートに捧げられた映画だ。誰からも応援されない環境で孤独に闘い続けたアスリートを敢えて不自然な画で収めることにより、華々しい競技の様子から離れた苦痛を観客に強いる、我々の心を動かす映画に仕上がっていたと思う。そしてそれこそが東京オリンピック2020の真の姿だったのではないだろうか。想像力と共感力に訴えかける傑作だったと思う。

映画に寄せられた批判

筆者は河瀬監督のこの勇気ある演出にすっかり感動させられた訳だが、一般的には御存知の通り酷評の嵐である。映画.comやyahoo、Twitterから幾つか抜き出してみようではないか。

「競技主体で見せるべき所を、見せていない。何をしたいのかが分からない」

「コロナ禍開催の裏側を全く描かず、批判の声を上げるデモ隊の扱いが軽過ぎる」

「不適当な政治家をわざわざ映して、そこまでして阿る姿勢が不快」

河瀬直美の自意識が過剰で、無駄な作家性に拘った駄作」

「五輪が不祥事に塗れていた中で不祥事を起こした監督を使ってどうするのか」

大体こんな所だろうか。文春オンライン始め多数のメディアも大体似た論調で批判している様に思う。これに対して言えることはただ一つ、誰も彼も映画を見ていないだろうということだ。特に識者を称する方々に至っては実際に会場に足を運んだのかどうかすら疑わしい。

先に解説部で示した通り、本作は敢えて歪な構成にすることで歪なオリンピックそのものの姿勢を反映し、その中でアスリートに寄り添うことを目指した映画だ。その意図は画を見てはっきり伝わってきたし、形式上内容ともよく合っていたと思う。

sailcinephile.hatenablog.com

従って第一の批判である「競技主体で見せるべき所を、見せていない。何をしたいのかが分からない。」という批判は当たらない。少なくとも河瀬監督の意図は明々白々だし、その意図はアスリートの苦悩を浮かび上がらせることであるからして競技にしっかり注目していたと言える。好き嫌いはあるとしても、「分からない」と表現するのは単に彼らの共感能力が低いという事実を露呈しているに過ぎないだろう。

それから第四の批判。「河瀬直美の自意識が過剰で、無駄な作家性に拘った駄作」というのも間違いだ。抑も映画製作というのは多かれ少なかれ作家性が出るものであって、完璧に作家性を無くすことなどドキュメンタリー映画であったとしてもあり得ない。

それからこの批判を「河瀬直美の自意識が前面に出た結果主体となるべきアスリートを殺している」という意味だと読み変えたとしよう。それでも女性アスリートの授乳の様子や息子との電話の様子を見せる黒人アスリート、家庭でテレビ観戦する女性バスケットボール選手の姿を捉えている事実には変わりない。アスリート自身はそうしたプライベートを写すことを許可していたのであって、一応(そして多分実際にも)彼ら彼女らが河瀬監督が指揮する撮影班を認めていたことになる。その映像は少なくとも筆者に訴えるものがあったし、一概に殺していたなどと言えないのではないだろうか?

簡潔に言えば河瀬監督の「作家性」を過剰に読み取ろうとする諸氏は、目の前のスクリーンで展開される競技の様子よりも穿った見方をしているのではないか、ということである。詰まり形式上機能しているアスリートの姿よりもその底流を流れる河瀬監督の自意識を取り上げて、本当に着目すべき映画内容以外の二次的な側面に拘って、単なる粗探しをしているのではないのだろうか。

筆者が思うに一次批判は二次批判に優先する。仮に河瀬監督の自意識が鼻についたのだとしても、映画の内容(一次的)が優れているのであれば先ずそれを認めるべきだ。その上で二次批判は幾らでもすれば宜しい。二次批判で以て一次的な映画そのものを批評しないというのは、批評家としてあるまじき姿勢である。

そして残りの批判について。彼らは一様に映画を見る気が無い。これが一番根が深い問題だと筆者は考えている。

映画を見ることもしない有識者たち

コロナ禍の東京オリンピックの裏側だとか、デモ隊の主張、政治家の不祥事などその全ては政治に属する。映画とは全く関係の無い内容であって、少なくともこのSide Aを見てそうした批判をすることは全く的外れだ。彼らは映画を見て映画を批判しているのではなく、映画を借りて政治をやっているのである。

明確にする必要がある点だと思うから丁寧に見ることにしよう。少々長くなるかも知れないからお付き合い願いたい。以下全ての社会活動に直接関わる主張や活動を政治、本来で個人に属する行為を文学と纏め、古典的な政治対文学の対比で話すことにする。

この時政治と文学は両立する営みであって、全く対立するものではない。両者手を携え共に発展する必要があり、オリンピックに関する政治の問題と河瀬監督の公式映画は同列で語られるべきものだ。

しかし文学を政治でやることは許されないし、政治を文学でやることは許されないだろう。高尚なる文学の出発点には必ず社会に対する個人の熱情がある。社会に全く満足し、自分の感じる所は何もない者は筆を取ろうなど考えることもない。必ず彼は社会に対する自己の熱情をぶつけたいという衝動に駆られてペンを握るのである。

そうして個人の社会に対する熱情は勿論収斂すれば社会批判となるし、そうした個々の生活は大局的に一つの社会を構成しているだろう。従って文学と政治は両立する存在であり、その個人の生活と社会の生活の超え難い隔絶を表現する武器が文学なのである。

1人抽象論を振り翳しても無意味であるから、ここで1つ引用をしよう。埴谷雄高が『悲劇の肖像画』に寄せた文章の一部が次の様なものである。

そこに見られるのはひとりの個人の思いがけぬ運命であった。その振るい得る全精力、全情熱をそこに注ぎこんだあげく、しかもなお、スタンダールの嘗てのみごとな方式とはまったく逆に、政治に圧しひしがれる無惨な敗北のかたちのみがそこに見られることになったのである。

故に文学は一層の推進力を以て政治に向かっていったと彼は書いている。これが政治と文学の根本的な関係だと筆者は了解しているが、それは映画に於いても変わることはないだろう。

従って映画は根本的に政治を孕むものであっても、政治を語る言葉ではないのである。そこで出来るのはただひたすらに個人の熱情が社会と接する地点の苦しみを描くことであるに過ぎない。

「コロナ禍開催の裏側を全く描かず、批判の声を上げるデモ隊の扱いが軽過ぎる」、「不適当な政治家をわざわざ映して、そこまでして阿る姿勢が不快」、「五輪が不祥事に塗れていた中で不祥事を起こした監督を使ってどうするのか」、これらの批判は全て映画に向けられたものでは無いことは今や明らかだろう。これらは政治に向けられた批判であり、映画の中の政治を問題にしているのではなく、映画の仮面を被って政治論議をしているだけのことである。

文春オンラインだったり大手のメディアで訳知り顔で映画を批評する有識者たちは全くこの点を混同してしまっているのである。故に筆者は映画を見ずに映画を語っている、と言って糾弾しているのである。

是枝裕和監督の万引き家族にしても、PLAN75にしても、新聞記者にしても、日本の有識者(と有識者気取りのツイッタラー)は映画を見ずに政治を語り過ぎている。シン・ゴジラ愛のむきだし寝ても覚めても....幾らでも例を挙げることは出来るだろう。筆者が目を通した限り有識者を気取る人間の中で、このSide A をきちんと映画として捉えて語っていた者は皆無だったと思う(一般人の中には一定数いらっしゃった)。

筆者の様な一民間人が見て異常だと思う程、日本の映画批評は歪んでしまっている。文学と政治を全く区別出来ず、好き勝手政治的な主張を書き殴ってはクリック数を稼いでいる。秋山駿や石川淳などのしっかりした批評家が活躍した時代から何と大きな変化であるか。その点が正に筆者に記事を書かせた動機なのであり、誰も映画をきちんと映画として評価出来ない日本の有識者に憂慮の念を覚えたSide A 鑑賞体験であった。