知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】post-production, ポストプロダクションの意味/告白(2010)

30 (Mon). May. 2022

ウディ・アレンが次の様に語っていたのをよく覚えている。

映画を撮影している時は、いつも自分が大変な失敗をしているんじゃないかとビクビクしている。これじゃ駄目だ。売れる訳が無いってね。それでも編集室に入ってフィルムを繋いでいると映画は出来上がってくるんだ。勿論その時でも僕はナーバスだけどね。

フランソワ・トリュフォーも似た様な話をしていた。映画を作る上でポストプロダクションが果たす役割は非常に大きいのである。特にそれは現代の複雑に構成された、大掛かりな映画になれば尚更だ。

解説に当たって取り上げる映画は中島哲也監督の告白。海外でも人気の高い作品で、管理人個人も高く評価している作品である。論争の元となる様な微妙な主題と原作との関係性から反対する人がいることも十分理解出来るが、映画の質は十分に高く、よく考えられて作られた作品だったと思う。

似た作品に三池崇史監督の悪の教典があると思うのだが、両者を比較すると主題の掘り下げ方、心情描写の痛切さ、ポストプロダクションの妙技、どれを取っても告白が一段上だったのではないかと感じた。

橋本愛 and 西井幸人 in 告白(2010)

ポストプロダクション①、カットの整理

初めに本記事を読む上でプレプロダクション、プロダクションとは何か把握しておくことをお勧めする。詳しくは当ブログでも解説しているので是非目を通して頂きたい。

さてポストプロダクションであるが、これは文字通りプロダクションの後に行う作業を意味する。そしてその過程は一般に考えられているよりもずっと複雑で、実に様々な仕事が行われている。

とは言え映像面に関してはプロダクション段階からポストプロダクションは始まっている。ラッシュの撮影が日々行われるからだ(その為ラッシュのことをデイリーと呼ぶ場合もある)。

編集者は撮影の間に沢山のフィルムを整理し、それらをシーンごとに暫定的に繋ぐことで映画がどの様に見えるのかを監督に提示する。この時に提出される仮のフィルムがラッシュと呼ばれるものなのだが、これがあることで監督は事前に撮影の出来を確認することが可能になる。

特に規模の大きな映画では再撮影に掛かる費用も大きくなるのが必然で、予めラッシュを確認し視覚的に成功しているかどうか(フォーカスはこれで良いか、ライティングは適切か、等)を確かめる。

こうして製作されたラッシュで問題がなければ今度はシークエンスごとに映像をまとめていく。これはラフ・カットと呼ばれる。ラフ・カットの時点で音響効果や音楽は挿入されておらず、シーンごとの繋がりも緩やかだ。監督によってはシーンの順番を入れ替えたりすることもある。

編集担当と監督はラフ・カットを何度も編集し、最終的なバージョン即ちアンサー・カットを作って行く。アンサー・カットの段階ではカットの結び付きは納得が行く形で決定されており、映画の映像面に関しては殆ど完成していることが求められる。出来上がったラフ・カットに満足がいかなければ再編集を施し、一応の決着が着いたならばそれをアンサー・カットとして音響面での編集に移る。

この時不必要なカットも生まれることだろう。こうしたアンサー・カットに含まれなかったカットはアウトテイクとされる。

またこの段階でタイトルや特殊効果の作業、色調の調整が行われる場合もある。しかし現在のポストプロダクションでは殆どの場合音楽面での作業をした後に付け加えられることが多い様だ。

ポストプロダクション②、音響編集

アンサー・カットが出来上がったのなら次は音響編集者の出番である。彼は音楽や音響効果の挿入場所を決定し(スポッティング)、実際にその作業に当たるのだがそれに加えてADRを用いた作業も行われる。

ADR(Automated Dialogue Replacement)とは撮影中に収録された音を再録音する装置であり、スタジオで俳優達はこのADRに向かってセリフを吹き込むのだ。吹き込みというとアニメーションを想像される方が多いと思うのだが、映画のセリフでも行われており、寧ろ殆どのセリフが再録音されることも珍しくない。

例えばナレーションや心情吐露のセリフは必ずADRに対して吹き込まれなければないし、画面外で話す俳優も同様にADRに向かうことになる。その他にも不明瞭な会話は再びADRに対して録音されなければならない。

同様に効果音も撮影外で録音される。大抵スタジオには音響ライブラリが存在し、雑踏やクラクションなどは別途必要に応じて追加されていく。フォーリーアーティスト(foley artist)と呼ばれる技師が加わることもあり、独自に効果音を作成していく。彼らは主にその映画内にしか存在しない新たな音の作成に責があり、寄生獣で怪獣が口を開ける際の効果音はフォーリーアーティストがキャベツを潰す音から生まれている。

その他必要なスコア、又はサウンドトラックもフィルムに付加されていく。よく混同されるのだが、スコアとは独自に作曲された音楽(例、スターウォーズよりダースベイダーのテーマ)を指し、サウンドトラックとは映画のために使われる音楽(例、アメリカン・ビューティーで流れるレニー・クラヴィッツアメリカン・ウォーマン)を意味している。

ポストプロダクション③、特殊効果、タイトルの挿入、色調の調整

一通りの音響が定まったら次は特殊効果の挿入である。特殊効果はVisual Effects, 詰まりVFXとして知られているが、それとCGIの区別は余り知られていない。

CGIとはComputer-Generated Imageryの略であり、現実には存在しない表現や、実際に撮影するのは危険過ぎる映像を収める為に作成される。CGIで作られた映像表現をVFXと呼ぶ訳だ。

ロード・オブ・ザ・リングに登場するドラゴンの様な実際には存在しない生物を表現したり、マトリックスの戦闘シーンの様な超自然的な映像を表現したりするためには欠かせない技術となっている。

タイトルに関しては別途アーティストが製作することが殆どだ。シンプルなタイトルも多いが、映画のトーンに合う様工夫が凝らされている場合も多い。極彩色の背景にQの文字が顔になってデザインされたタイトルのスーサイド・スクワッドなどは見た目にも楽しく、美しいタイトルだろう。

色彩の調整は一般的になっており、殆どの映画で今ではデジタル処理が施されている。空の鮮やかな水色に赤い煙、オレンジの炎などの色彩が印象的だったマッドマックス:怒りのデスロードは全編に渡って色彩が調整されている。

これらの作業が全て終わったのち映画は完成され、プロモーション段階に入る。このプロモーション段階もポストプロダクションに含まれるのだが、それは別個に次の記事としたいと思う。

告白

ポストプロダクションとは何か分かった読者は、この映画が如何に注意深く作られたかが分かるだろう。

先ず最初に気がつくのは印象的に暗い空の色だ。デイビッド・フィンチャー以降の2000年代映画かと思う様なグレーの色調に冷たい青は撮影技術だけで得られた効果では無いと思う。

冒頭の松たか子のセリフは教室内の映像と教室外の映像が組み合わされており、ADRが使用された可能性が考えられる。その他にも橋本愛藤原薫などそれぞれの登場人物がナレーションで語る場面は多く、彼らもまた吹き込みに取り組んでいた筈だ。

最終盤の爆破シーンでは携帯のクリック音などは別録音の筈で、爆破も特殊効果で後付けされたものだと思われる。フラッシュバックや繰り返しも多用されており、アンサー・カットを作成する上で多くの視覚効果が試された筈だ。

小説を読まれた方なら一層感じられたことと思うが、脚本上でも原作とは異なる工夫がされており、それに加えてのポストプロダクションの精密さは十分に高い評価に値するだろう。

そして管理人は中でも橋本愛の見せ方に感心してしまった。何と言っても告白はミステリーなのだから、松たか子が少年A、少年Bに対してどんな復讐をするのかが最大の見せ場である。彼女が容赦無く2人の子どもらしい浅はかな考えを斬って捨てていくことで、2人の苦悩と、付随する問題が浮かび上がってくるのである。

所で橋本愛は清々しい笑顔が印象的でありながらも、どこか冷めた様な話し方をする。

しかし同時に彼女は「修哉のことなら全部分かる」という真っ直ぐな言葉を投げ、岡田将生に対しては冷ややかな目で見つめるばかりだ。

そう、彼女は少年A、少年Bにならなかった「完璧な」中学生なのであり、クラスメイトが単純にイジメに走る中で、普通の中学生として観客に訴えかける存在として機能している。

本質的に橋本愛は普通の中学生で、クラスメイトとの違いは少ない。しかし彼女にフォーカスが当たることで、周りのクラスメイトは醜悪に見えるし、大人なら絶対に口にすることが出来ない様なセリフを彼女に喋らせることで、西井幸人の歪んだ感情が強調される。

教師や両親に対して反抗的で冷めた感情を持ちながらも、突き放されると甘えたくなり、恋愛には痛々しさが付き纏う、中学生特有のセンシティブさを見事に表現していると感じた。終始グレーの暗い画面で、残酷な物語が進行する中で、観客を惹きつける彼女の演技は素晴らしく、また彼女を上手に演出した中島監督は素晴らしい仕事をしていたと思う。

悪の教典は結局、伊藤英明というサイコパスが登場して殺戮を始めることで同級生同士のドラマが薄くなってしまっていた。学生間にはスクールカーストや成績主義といった背景が存在するのだが、何と言っても伊藤英明から如何に逃げるかがアクションのテーマになってしまっており、非常に面白い映画ではあったが、内容の深さの面では告白には及ばないだろう。

両者は別種の映画ではあるが、中学生を徹底的に観察し、彼らの間のドラマを描ききった告白はその点で素晴らしいと言える。