知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【時事】東京オリンピック: Side B を見て(2022)/批評が出来ない批判家たち

29 (Wed). June. 2022

参院選の真っ只中、政治的には何かと騒がしい季節だが、その渦中で更なる論争を呼んでいるのが河瀬直美監督による東京オリンピック2020公式記録映画である。

特に Side B は「東京オリンピックの裏側を明らかにする」と予告で宣伝していることもあり、物議を醸している他映画的にも質が低いとのことだが実際にはどうなのであろうか?

Side A に関して筆者は傑作ドキュメンタリーだと断言したが、Side B はそれに及ばなかったなというのが鑑賞後の率直な感想である。

sailcinephile.hatenablog.com

それでも決して悪いドキュメンタリーではなかったし、大手メディアで「解説」されている様な極端な映画では全くなかっただろう。従って Side B に於いても問題は、鑑賞者・批評家にあるのだとの感を強めた。前回の記事では批評家が全く的外れな文言を書き殴っている事実を示したが、今回はそれを踏まえあるべき批評の姿勢について触れることが出来ればと思う。

Official Film of the Olympic Games Tokyo 2020 Side B (2022)

批評と批判の使い分け

批評(criticism)は美学に基づき、そして美学とは作品の存在に由来するものでなければならない。M. C. Beardsley (ビアズリー)が設定した批評の根本原理である。このビアズリーという哲学者はどうやら邦訳も少ない様で日本では余り知られていないが、米国の非常に高名な学者であり、美学研究の権威と呼べる人物である。

いきなりビアズリーの思想に触れても難解なだけである。彼の考え方を導いたウィトゲンシュタインの思想から見ていきたい。彼が『論考』中で語った所によれば、全ての(倫理学的)価値は命題を超えた所、世界存在の外にある。

それは何故ならば命題は語られる事柄のみを取り扱うが、世界の姿とは本来偶然的であるからである。価値は偶然的であってはならず、故に世界の中には確定された価値は無い。若し世界の中に価値があるとすれば、それは無価値という価値のみだ。

何故価値は絶対的でなければならないのか?それは認知と懐疑の関係から説明されるだろう。西洋の哲学に於いて懐疑、方法的懐疑は常に重要な問題だった。特に有名な人物はデカルトであろうが、彼らの懐疑もまたウィトゲンシュタインにとっては不十分だった。何故なら懐疑とは確実性、根本論理を前提にしているからであり、全てを真実だと見做さないということは彼自身の言葉(=思考と論理)すらも真実とは見做されないのである。彼の思考そのものが不確定であり、不確定だと認める所の世界存在すらも不確定かも知れない。

こうした究極の懐疑論を経て立てられる命題とは、常に限界的であると言える。前期のウィトゲンシュタインはこうした懐疑に対し、命題は必ず真か偽かいずれかの判断を下す為に判断を下し得ない懐疑は無意味であると捨象した訳だが、その真実性は常に言語の確実さに掛かっている(詰まり言語を不確定な形態だと断じてしまえば全ての命題は真と見做されない)。ここに命題の限界性がある。

そしてその限界は正確に言明の範囲、即ち世界を構成する可能な事実と一致する。だから我々の世界とは偶然的なものであり、そこから導き出される命題も真であることが可能なだけである。依って事実に基づく価値判断は相対的なものだ(熱い、早いなど)。しかし感覚的に広く認められている様に、我々の価値判断は事実だけに基づく訳ではない。こうした言語(相対的)によって表現し得ない様な価値をは、言語(=世界)を超えて人々を誘惑するという意味で絶対的なのである。

そうした絶対的な価値ー宗教や文学が一般に表現しようと試みてきたーを彼は倫理学的と表現した。善の価値観とは正しく人間に普遍的(普通人は殺人を嫌悪するだろう)であり、倫理学はこの絶対的な価値に由来すると考えたからである。

しかしビアズリーウィトゲンシュタインの思想を拡張し、美学もまた絶対的な価値の1つであると考えた。美学もまた普遍的に人間が追求してきた価値の1つであり、また言語によって(命題として)表現することが出来ないものだからである。だから美学は事実としての作品(絵画の色使いや交響曲の旋律)を超えた地点に存在するのである。そして批評とは美学の言語化に他ならないが故に、メタ言語として成立しているとビアズリーは考えた。

だから作品の検討は存在論的な地平から出発し、最終的には事実を超えた地点にある人間の本質を表現する様な営みでなければならない。その意味で批評とは困難で、且つ崇高な試みなのである。

批判は全くこうした高尚な目的を持たない。それはただ単純に誤謬を指摘するだけであり、価値判断とは一切関わらない。だから価値判断を批判によって行うことは不十分且つ不適当であり、説得力を持たないのである。批評とは作品事実を基盤に始められる一般的な営為なのであって、広く人々に訴えかけるものでなくてはならない。

東京オリンピック: SIde B

批評と批判をしっかりと区別した所で、本題の映画である(因みにウィトゲンシュタインも映画愛好家、特にアメリカ映画愛好家であった)。多くの有識者、自称「批評家」はこの大前提と言うべき作品に向かう姿勢に欠け、単なる自己主張を批判として繰り出しているだけの詭弁士だと思う。

河瀬直美監督の意図は明らかだ。2年近くに渡る密着取材の中で目標に向かって励むアスリート、それを支える現場の作業員、期待を込めて応援する人々、無能な役人、熱心なデモ隊、様々な人々を目撃してきた。その中で懸命に努力するアスリートを東京オリンピックという舞台で人々はどの様に受け止めてきたのか、それを明らかにすることが彼女の意図だったのだと思う。だからアスリート中心のSide A が先行で公開されたのであり、Side B ではアスリートの周縁で活動する人々を通してオリンピックと、人間の精神を写したかったのではないだろうか。

この主題の選択は納得出来るものだ。現場であれだけの不手際を見せつけられながら、何も出来ずただカメラを構えるだけの映画製作者はもどかしい思いがあったと思うし、その思いを表現したいと考えても不思議は無い。だから個人の作風の違いはあっても、その主題の選択を否定することは出来ないだろう。

特に河瀬監督の目線を感じた場面が次の2つ。初めに開会式の演出チームの解散を巡る場面。その以前のシーンで野村萬斎さんが語る日本の伝統、あるべき姿に対して佐々木宏氏が自身の手に余ると告白する。そしてカットが入り次のシーンでは、その佐々木氏が野村萬斎さんを始めとする演出家たちを批判する旨を会見で述べるのだ。「皆優秀な方々だけども我儘過ぎて話が前に進まない上に、広告業界出身の俺を軽く見ている」と(勿論この様な発言はしていないが、趣旨としてそう筆者には捉えられる発言をしたという意味)。河瀬監督もこの時に事実上解任された椎名林檎川村元気MIKIKOさんらと同じ目線で苦しんでいたことが伺われた。

もう1つは森善郎氏の組織委員会会長辞任を巡るシーン。周知の通り女性蔑視発言が問題視され辞任の運びとなる森元首相なのだが、その後新体制となった組織委員会で新たに就任した女性理事たちが所信表明をするシーンが写される。それぞれ勝手に演説し、終いにはアイヌ民族云々と述べる女性役員や、目を瞑ってしまう女性役員、以前の方と同じ内容でスピーチを繰り返す役員などがモンタージュされるのだ。「女性の話は長く会議がまとまらない」と言って辞めた森会長に続けて見せるには醜悪なモンタージュではあるまいか。

無関係なことを述べたり、全く同じ内容を繰り返したり。こうした発言は女性に限ったことでは全くないものの、「話が長い」と指摘された直後にこうした失態を犯すというのは随分反省と学習に欠けているだろう。「だから貴方たちは無能なんだ、現場のアスリートを見てみなさい」と悶々とする河瀬監督の姿が見える様な気がした。

こうした醜悪な場面を次々と流し、アスリートとは無関係なパフォーマンスに明け暮れる政治家やデモ隊と、日々努力するアスリートや下請けの作業員が対比関係で示されていく。観客にはひたすらストレスが溜まり、そしてそれを白抜きのカウントダウン(と字幕)による中断が強化する。それ故に時々カタルシスとして挿入される競技の場面や子供たちの笑顔に非常な爽快感を感じる作りになっている。

勿論筆者としても批判はある。河瀬さん程の監督であれば文字アートによる章立てなしに編集出来ただろうし、アスリートとの対比が弱く、「人」を描ききれていない様にも感じてしまった。しかし総体として悪い映画ではなく、傑作ドキュメンタリーの Side A と併せて良い映画だったと思う。

批評が出来ない批判家たち

こうした映画の中で描かれている事実とは全く関係なく好き勝手な批判の声が相次いでいる。「森喜朗とバッハの扱いが丁寧過ぎる」、「デモ隊にモザイクをかけるな」、「記録映画としてつまらない」、「ボランティアの方々にフォーカスしていない」、「医療現場の声を取り上げろ」......

先に述べた通り理想的な鑑賞の姿である批評とは作品ベースで行われるべきものだ。例えば日本社会の分断の描き方が中途半端で開催して良かったですね、という纏め方は不適切だという批判が見られたが、これは作品の意図に反しているから当然ではないだろうか?あくまでアスリートとそのサポーターを通して体現される人間精神と、その周囲で蠢く醜さを描く目的で撮影されているのに、分断云々と述べるのは作品を見ずに批判しているとしか思えない。これは作品解説でも何でもなく、ただ彼の主義主張を映画の名を借りて叫んでいるだけだ。だったら貴方の名前で、貴方自身が発言すれば良いではないか。どうしても映画に拘りたいのなら、自分が監督すれば良いのである。

また作品外部の事実を取り上げ、某自称編集者の様に「善郎とトーマス ぼくらの東京オリンピック」などど書くのは彼自身の批評家としての資格の無さを露呈している行為なのである。何故作品にその要素が盛り込まれなかったのか、それは全体に於いて不要な要素だと監督が判断したからである。その判断が間違っているという意味で外部事実を指摘することは結構だが、そもそも河瀬監督の意図がオリンピックの全貌を明らかにすることではないのだから、当然盛り込まれない事例も出てくるだろう。

ましてその含まれなかった素材を元に作者の意図を捻じ曲げる行為は最早論外である。作品に対して真摯に向き合っておらず、誤謬を指摘するという批判ですらもない。それはただの個人の解釈であり、公に映画に精通している風を装って書くことではない。それが許されるのは、政治家の演説原稿の中だけなのである。森氏とバッハ氏に近過ぎる?それなら来賓接待の係員の努力をよそに微笑む両氏、というシニカルな編集はどう捉えたというのか。ニュースで事実を知ることが多い、と言って諦観する3X3のコート建設家やMIKIKO氏をどう捉えたというのか。

筆者には「オリンピックは悪→デモ隊は善人で森会長らは悪人→彼らを批判せずデモ隊を持ち上げないこの映画は駄作→河瀬直美はやっぱりひどい」という図式が見えてしまって仕方がない。政治的な主義・信条を傍に置いて素直に作品を眺めれば、監督の率直な意志が伝わる良い映画だと感じた。そうした考えに目を曇らされ、批評家たるべき知識人が批判家に身を墜し、遂には自分の主張以外を受け付けなくなってしまっている現状は明らかに問題だと思う。少なくとも映画界にとっては大きな損失だ。

国民をリードするべき政治家が映画で示された様に醜悪なゲームに興じるだけで、そしてそれを指摘するべき知識人は適切な批判すらもすることが出来ていない。その事実を仄めかす為にユニークな知識人、エマニュエル・トッドのインタビューを挿入したのでは?と思ってしまった。流石に穿ち過ぎな見方だろうけれども、そう考えたくなる程に強い監督の意志を感じ映画であった。