知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】カット、ショット、シーン、シークエンスの意味/ヒストリー・オブ・バイオレンス(2005)

10 (Fri). June. 2022

この映画は斬新なカットで面白かった。あのショットはどうやって撮影したんだろう?泣けるシーンがあって、大変感動した。全くつまらないシークエンスがあった。

映画を分析したり批評したりする上ではどれも一般的な表現だが、果たしてそれぞれの意味を明確に理解し使い分けることは出来ているだろうか?或いは出来ているという方でもショットへの意識とカットへの意識を使い分けることは出来ているだろうか?

映画形式を捉える際にも欠かせないカットの概念と、それに伴う混同され易い3つの要素について整理しようと思う。

取り上げる映画はデイビッド・クローネンバーグが2005年に発表したヒストリー・オブ・バイオレンスだ。先日の記事との関連で述べると、原題は"A History of Violence"であることに注意して欲しい。詳しく解説するが、この不定冠詞の意識が前面に押し出された映画だと思っている。

Viggo Mortensen in A History of Violence (2005)

ショットとカットの違い

最近は撮影もデジタルで行われることが多く、映画館も殆ど全てデジタルでの上映となってしまっているが、本来映画はフィルムで撮影され、上映されるものだった。それは映画を示す英語が"film"であることからも分かるだろう(movieという英単語も英語を表すが、この単語が総合的な芸術様式としての映画を表すことは無い)。

今回問題にするショットという考え方、そしてカットという考え方はフィルムというメディアに由来している。カメラのシャッターを押して写真を撮影する行為を英語では"shot"という動詞を用いて表現するが、動画の場合はシャッターを切って撮影される動画は無数の微妙に異なる静止画像(frame, フレームと呼ぶ)が連なって1つの映像を形作っている。この時の1つの切れ目なく撮影された映像のことをshot=ショットと呼ぶのである。写真を一枚撮る様に一度の行為(shot)で撮影された一本の動画であるから、写真との類比関係でショットと呼ぶ訳だ。

そして映画は1つの映像から作られている訳ではない。映画は幾つもの映像を繋ぎ合わせ物語形式を提示するのだが、この時の映像Aから映像Bへ繋ぐ為にはフィルムを切断し(cut)、再び接合する必要がある。この時の切断する行為、喩え映像同士がピッタリと結合し切断が必要ないとしても(その様な事例はあり得ないが)2つのショットの間の継ぎ目、これをカットと呼ぶ。映像Aと映像Bの間にはカットが生じているのである。

従って次の様に定義される。ショットとは一度の行為で撮影された映像のことを指す。そしてカットとはショットとショットを繋ぎ合わせる行為を指している。対して完成作品を分析する観客がショットと呼ぶ場合、それはカットされていない映像のことを指すだろう。

思うにこの点に両者の混同が見られるのではないだろうか。観客が映画を見ている場合、純粋な意味で彼らは受動的だ。事前に観客がシーンを把握していることはなく、従って観客はカットが生じて初めてシーンを認識する。シーンはカットという終わりを迎えることで一つの単位として成立するから、カットの訪れを自覚的には知り得ない観客はカットを数えることでシーンを数えるのだ。

とは言え両者を混同させてはならない。筆者は両者を厳密に使い分けることの大切さを主張したい。何故ならばシーンの分析は物語の分析に通ずるのに対し、カットの分析はスタイルの分析に関係しているからだ。シーンを見て、そこに何が写り何が語られているのかという意識と、カットの仕方が全体に与えるのか考察することは全く別物である。

sailcinephile.hatenablog.com

こちらの記事で述べた様に、映画形式に意識を向けることは映画を批評する上で極めて大切だ。両者を混同することは即ち物語一辺倒、或いは撮影技法一辺倒の分析となってしまい、映画の価値を矮小化するものに他ならないだろう。ショットへの意識とカットへの意識は区別されなければならない。

ショット・シーン・シークエンス

ショットとカットの違いが整理された所で、次はショット・シーン・シークエンスの使い分けについて見る。こちらは物語に大きく関わっており、特に脚本家が意識する必要のある項目である。

ショットは基本的にシーンを構成している。監督が撮影をする際に考えることはシーンをどの様に撮影するかということであって、脚本上の最小単位であるシーンを撮影する為にはどれだけのショットが必要なのかを考えている。

具体的に考えてみよう。犯罪ものの映画で脚本に以下の様に書かれていたとする。

「女は急いで自宅のアパートへ駆け込む。誰に後ろを追われていないことを確認し、素早く鍵を開けて扉に滑り込む。扉が閉まり鍵がガチャリと掛けられ、チェーンのジャラジャラした音が響き静寂が訪れる。その時柱の影から黒い男がヌッと現れた。」

この帰宅の場面全体で1つのシーンを構成している。これは脚本上の最小単位であって、帰宅という要素を更に細かく分割することは出来ない。しかし撮影にあたっては玄関口から走り込む女を捉え(1)、階段を駆け上がり(2)、後ろを慎重に振り返る様子を見せ(3)、扉を閉め(4)、カットバックで柱を写しそこから現れる男を写す(5)と5つの要素を示さなければならない。単純に考えて5ショット、階段のショットを分割したり女の顔にクロースアップしたりすればショットは増える筈だ。逆に全てをトラッキングで撮影すればワンショットということになるだろう。

この様に映像で物語を伝える際に必要な映像のそれぞれをショット、それらが集まって作られる脚本上最も短く分割される場面をシーンという。そしてそれらのシーンが集まって大きな場面を作る時、そのひとまとまりをシークエンスという。

ラ・ラ・ランドではエマ・ストーンがプールサイドでライアン・ゴズリングが演奏するa-haのTake on Me に合わせて踊る場面で場面で1シーン。それから2人で喧嘩をし(1シーン)、そして坂道で車を探しながらダンスをする有名な場面でまた1シーン。これら全てのシーンが集まってパーティー会場のシークエンスを構成している。

まとめ

ショットは1つの途切れない映像

カットはショットとショットを結ぶ継ぎ目

シーンは幾つかのショットが集まった物語上の一場面

シークエンスは物語上整理されるシーンのまとまり

ヒストリー・オブ・バイオレンス

普段この欄で行っている解説は映画そのものに関わるもので、プロットとは関係ないものである様心掛けている。それまでに語った内容がその映画で如何に活用されているかを解説しながら、映画全体の優れている点を語っている。しかしながら今作に限っては是非先ず映画を見てから続きを読んで欲しい。プロットに何か秘密があるということではなく、寧ろその逆、想定の範囲内の物語から生まれる印象、これを大事にして頂きたいからだ。クローネンバーグが生み出す不思議な心象を是非読者の方々にも体験して貰いたい。

さて今作で最も重要なシーンが階段でヴィゴ・モーテンセンマリア・ベロを殴打し、首を絞め、そしてそのまま行為に及ぶシーンである。その前のシーンでは警官がヴィゴ・モーテンセンが矢張り殺し屋だったのではないかと嫌疑を掛けるのだが、これを妻のマリア・ベロが夫だと言い張ることで切り抜けるシーンだ。

当初から彼女は自分の夫が殺人者であるという可能性を拒絶しており、そして何より自分の夫が間近で人を殺す瞬間を目撃し、激しく動揺している。そんな彼女は夫が殺人者であると認め(彼をJoeyと呼んでいる)、そしてヴィゴ・モーテンセンの頬を張る。彼はそれに対し妻の首を絞め、憎しみのこもった目で睨みつける。その手を振り解いて二階へ逃げようとする彼女だが、ヴィゴ・モーテンセンは彼女の足を掴んで、引きずり下ろす。そのまま押し倒し、征服した彼は思い留まり、階下に戻ろうとするが、それをマリア・ベロは抱き寄せ、2人はそのまま階段の真ん中で性行為を行う。

監督のデイヴィッド・クローネンバーグは本作で取り扱う暴力について、主役の男が持つ暴力、問題の解決としての暴力、種の本能としての暴力の3つの層があると述べているが、それを踏まえるとこのシーンは象徴的な意味を持っていると分かる。

殺人者としての過去(第一の暴力)を持つ夫に対して、マリア・ベロは当初から激しい拒絶反応を示している。その彼女が先に頬を張っていること(第二の暴力)に注意しよう。主役のヴィゴ・モーテンセンにしても、田舎で平穏な暮らしを送ることを望んでいるのだ。そんな彼の望みはちょっとしたきっかけで破壊され、家族と友人を守る為再び暴力を行使することを(第二の暴力)選んでいる。夫の過去を認め、彼を糾弾するよりも、警官から彼を守った彼女は今やヴィゴ・モーテンセンと同じ地平に立っている。

そしてセックスとは何より暴力だ。様々な観点からそれは明らかだが、ここでは本来生殖行為である筈のセックスが、種の保存を伴わない快楽の為だけに行われているということを指摘するに止めよう。セックスという暴力=死への接近は何よりも手近で、破壊的な行為ということが出来る。

そんなセックスを通じて2人は互いの立場を乗り越え、そして第三の暴力へと昇華する。殴り合いによって始まるこのシーンは、2人を文字通り結び付け、そして種の本能に由来する高次の暴力へと向かっていく。そもそもが階段という場所が象徴的だ。一階と二階の接続部である階段に於いて、生と死の丁度狭間における行為=セックスを通じて彼らは種としての暴力性を感じているのである。

もう少し全体に関わる解説を書いて、終わりにしよう。本映画の各ショットは6秒から8秒程度だろう。ハリウッド黄金期の映画で大凡10秒から14秒、近頃のアクション映画、例えばアベンジャーズ:エンドゲームでは2秒から5秒位で撮影されているから、比較的各ショットは長いと言って良いだろう。反面各シーンに於けるアクションは少ない。

肝心の暗殺シーンにしても極めてあっけなく、アクション映画にある様な激しい戦闘はない。北野武映画の様な簡潔さである。こういう映画では顔や手足など細部の演技に注目するものだが、クローネンバーグはそれもしない。

タイトルが示す通り、本映画の主題は暴力だ。そしてその暴力は常に行使する側からされる側へ、という関係が成り立っている。或いは生と死を結ぶ境界に位置する概念として成立している。であるからしてクローネンバーグは、視線の一致や、会話の不成立といった要素を積み重ね、登場人物同士の関係性を炙り出すことを目的とし、長いショットと不自然な編集を施している。

映画を見終わった後に訪れる違和感と後味の悪さは全てこのショットの繋ぎ方=カットに由来していると筆者は思う。そしてそれが見掛け倒しではなく、暴力という主題を描くことにつながっており、それが1時間を超えた辺りで訪れる例の階段のシーンに全て集約されている。この見せ方は素晴らしいと思ったし、文学に造詣が深いクローネンバーグならではの技だと感じた。

恐らくタイトルが"A HIstory of Violence"となっているのも、普遍的な意味での暴力としての第二、第三の暴力を表現したかったからなのだろう。邦題も不定冠詞を入れたならば良かったのに、と感じずにはいられない。