知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】自己破壊的な脚本術、或いは不条理映画/欲望(1966)

17 (Fri). June. 2022

先日の記事に引き続き、本日も脚本について検討する。最も基本的で王道と思われるハリウッド流古典的脚本術から始めて、本日は脚本(物語)を破壊する試みについて見ていこう。

予め断っておかなければならないが、今回は脚本を持たない映画については取り上げない。従って例えばウォン・カーウァイらの様な厳格な脚本を用意せず撮影する監督や、ロバート・アルトマンの様に即興での演技を認める監督の映画は取り上げない。

筆者がここで取り上げる映画はミケランジェロ・アントニオーニが1966年に発表した欲望である。この映画は単に脚本に重きを置かない前述の監督らのアプローチとは異なって、しっかりとした脚本を持っていながらその脚本自体が自己の物語構造を破壊する様に作用している点に特色があると考えている。よって即興演出・現場主義的な脚本の放棄と、脚本そのものが自己破壊的なアプローチを明確に区別することを先に宣言したい。

それから先日の記事で脚本を4種類に分類してそれぞれ検討すると述べた訳だが、必ずしも全ての脚本がこの4種類に分けられるという意味では無いということも断って起きたい。その上で特にユニークな脚本にはどの様なものがあるのか、着目して欲しい。

David Hemmings and Veruschka von Lehndorff in Blow Up (1966)

欲望

普段とは少しフォーマットを変更して、映画の解説から始めたい。

デイヴィッド・ヘミングウェイ演じるキャラクターは破壊的な人物である。仕事場で写真を撮り(彼は有名な写真家らしい)、そのまま車に乗って街角のアンティークショップに立ち寄ると、衝動的にプロペラを購入する。

その彼がふと立ち寄った公園で撮影した写真を現像した所、サイレンサーを付けた銃を持った男と死体が写っており、好奇心を唆られたデイヴィッド・ヘミングウェイは死体の正体を突き止めるべく再び公園に向かう。そこで死体を発見するも、スタジオに戻るとフィルムは消えており、翌朝には死体も無くなっている。公園で彼は現実を見失い、抽象性のゲームに身を任せる。

これが物語の全容だが、導入部での設定が結末では見事に破壊されているということが分かるのではないだろうか。彼はカメラで空間を捉える人物で、事実を知る人間だ。彼は女性を撮影する人物で、女性を征服する人間だ。彼は裕福なブルジョワジーで、プロレタリアートとは異なる。彼は追われる人間で、追う人物ではない。

しかし公園で決定的な瞬間を撮影した所から彼のそうした性格は少しずつ否定されていく。先ずヴァネッサ・レッドグレイヴがスタジオへ写真を返して欲しいと頼みに来るのだが、彼はまだ高圧的で「多くの女が俺に撮って貰う為にやって来るんだ」などと言い放つ。

ヴァネッサ・レッドグレイヴを首尾よく追い払った所で写真の現像を始める彼だが、何やら奇妙なものが写り込んでいることに気が付く。デイヴィッド・ヘミングウェイが編集者に見せる写真はどれも街頭の労働者を写した写真でモデルを撮影する際の様式主義的な面影はないが、その時の彼は非常に熱心だ。このことを踏まえると、不明瞭な死体「の様なもの」という抽象は彼に取って我慢がならない。彼の第一の興味は労働者という対象であり、その具体を切り取ることであるからだ。

だがそんな彼が発見した死体は編集者も妻も誰も信じてくれる気配はない。彼は実際に公園まで迎いその存在を確かめる訳だが、この時点で最早彼が元々保有していた優越は奪い取られてしまっている。フィルムも死体も(どちらも事物であることに注意)次のシーンでは無くなってしまっている訳だが、それを奪い取った対象は明らかにされない。

最後の場面で冒頭も登場した白塗りの若者に混じってエア・テニスをするが、これは言わば抽象性のゲームだ。カメラという機材を持ち現実を切り取る男は、目に見えないボールの存在を最後には信じる様になってしまう。フィルムや死体を消し去ったのは誰か?観客もデイヴィッド・ヘミングウェイもそんなことには興味がないだろう。この映画は抽象が具体を破壊する物語を伝えている。

自己破壊的な脚本

ジェレミー・ソルニエの自主制作映画ブルー・リベンジも復習者が最後には殺害の理由を見失う様子を追いかける物語だったが、この欲望もまた脚本が打ち立てた設定を脚本自身が打ち壊している。

twist=ドンデン返しは設定された条件から意外な結末を導くことを言うが、こうした自己破壊的な脚本は導入部の設定そのものと矛盾する帰結を導く。ハリウッドが完成した究極の物語と比べてみよう。

sailcinephile.hatenablog.com

登場人物は簡潔なヴィジョンを持っている。そのヴィジョンに従って彼らは行動するが、その行動が物語を前に進め、明白な対立を産む。彼らは自分が持つヴィジョンが訴える通り対立を解決する為に行動し、ハッピーエンドで決着する。

これがハリウッド映画の基本だが、ここから次の様な言説を引き出すことが出来る。詰まりハリウッド流の古典的映画では登場人物は、観客が期待する通りに行動する。彼らは観客の期待通りに行動するから、結末もまた期待に沿ったものとなる。twistとは単に期待を意外な形で実現するというだけの形であり、本質的には同様である。

そうした観客が求める一貫性を否定する為にはどの様にしたら良いか?その究極の形は脚本自身が設定した物語条件を、脚本自身が否定してしまうことである。

所でそうした自己破壊について(そして欲望についても)不条理という合言葉が持ち出される様だ。しかし不条理とは人間精神が理解し得ない世界の姿に対して、彼が抱く感情に他ならない。合理性と明晰な因果関係を求める人間精神が時として納得出来ない様な世界のあり方を不条理と呼んでいるのである。

従って自己破壊的な脚本を不条理劇的と呼ぶことは出来るかも知れない。それは何故なら確かに観客の精神が映画世界に期待する展開を裏切ったまま終わるからだ。しかし欲望においてデイヴィッド・ヘミングウェイは最後にエア・テニスに興じる。即ち自己を否定する抽象を受け入れている。その意味で彼は不条理を克服しており、必ずしも不条理劇とは言えないのではないだろうか。

アラン・ロブ=グリエアルベール・カミュの『異邦人』に対して最後ムルソーが物との絶縁を保ち得なかった故に失敗作と評したことを思い出そう。寧ろ完璧な不条理劇は自己破壊に止まらず観客をも破壊してしまうのだ。そうした視点からロブ=グリエの書いた去年マリエンバードでを見ることも面白いかも知れない。

再び欲望、そして不条理

アルベール・カミュは自身で作品にテーマを設定したことで知られている。不条理から反抗へ、そして愛へと繋がる作品の系譜である。結局カミュの不条理は先に述べた通り、徹底されることは無かったし、彼自身のヒューマニズムがそれを許さなかった。寧ろ彼はトリュフォーと同じ愛の作家なのだと筆者は思っている。

ミケランジェロ・アントニオーニもまた完璧な不条理を追求することはなかった。本日の記事の写真にも設定している有名なショットは文句なしに美しい。御託を並べるまでも無い程に。そしてヤードバーズが出演したり、疾走感溢れるジャズを選曲する彼の決断は、観客への歩み寄りだったのではないだろうか。

脚本上は確かに難解な部分も多いが、映画全体として見ると不思議と最後に満足感が得られる、優れた作品だと思う。前回のお熱いのがお好きとの対比で今回は欲望を選んだ訳だが、どちらも同じ位に優れた映画であって、是非一度は見て欲しい作品である。

【映画解説】ハリウッド流古典的脚本術/お熱いのがお好き(1959)

16 (Thu). June. 2022

『ル・シッド』論争についてご存知だろうか。古典主義時代の17世紀フランスでピエール・コルネイユが著した劇『ル・シッド』が三単一の法則(時・場所・筋の一致)を無視したことから、両派分かれて展開した議論のことである。

当時の演劇界に於いて三単一の法則は絶対的なルールだったが、今になって見れば1つの作風に過ぎないということが分かるだろう。『禿の女歌手』にしても当時は評価されなかったが、現在ではイヨネスコの優れた劇作として認知されている。

さて本日のテーマは脚本、それもハリウッド流の古典的脚本だ。古典的と言っても1980年から90年代くらいまでは機能していた1つの型であって、幾つかの厳格な特徴を呈している。今回は映画の脚本について理解を深めるに当たって先ずは最も基本的で有名な型から始め、そして全4回に渡って解説する。第2回目では脚本を破壊する試みについて、第3回目では古典的脚本術に嵌らない現代の脚本について、最終回では脚本の失敗例について取り上げるつもりだ。

この古典的脚本術というのは丁度三単一の法則の様なもので、当時の文化・慣習・思想の上で最も好ましいと考えられた一形式である。従って現代から脚本術という表現技法のみに絞って批判することは不当な試みであることは、筆者も十分承知しているものである。しかしながら当ページで文化的・思想的背景にまで踏み込むことは些か手に余るものであり、純粋に技術的な側面のみを語っていると認識して欲しい。

取り上げる映画はビリー・ワイルダーお熱いのがお好き、である。映画史上ではサウンド到来以後の1930年代から1940年代までをハリウッドの黄金期とし、1950年代を凋落の時代とすることが多いが、その区分に従って黄金期の終わりに創られた典型的で記念碑的な本映画を見ることとしよう。

Marilyn Monroe in Some Like It Hot (1959)

古典的な三幕構成

シド・フィールドという人物をご存知だろうか。良くも悪くもハリウッド的な脚本術は彼の名前に負う所が大きい。『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術』という売れに売れた本を書いたその人である。筆者の住んでいた田舎の小さな図書館にすら置いていた本であるから、全国津々浦々よく知られた本ではあるまいか。

彼はハリウッド映画で基本と考えられた特徴的な要素を抜き出し、1つの体系として纏めることに成功している。後述する様にこうした法則に従うことは現代の映画制作に於いて殆ど無価値と言えるだろう。しかし純粋に史学的興味に基づいて、以下にその特徴を観察する。

先ず劇中の登場人物は必ず明確なヴィジョンを持っている。分かり易く目標と言っても良いかも知れない。風と共に去りぬオズの魔法使い、少し後ではサウンド・オブ・ミュージックなど、プロットが明確で「次に何をすべきか」というヴィジョンをはっきり自覚している様に見える。ジャンヌ・ディエルマンの様な映画はあり得ないという訳だ。

従って古典的なハリウッド映画では登場人物は何かしらの行動を起こす。そこに見られるのはヴィジョンがあれば行動するというシンプルな論理であって、無意識的・偶発的な行動とは区別されるだろう。換言すれば必然性のない行動は取らないということである。ブリング・リングで少年少女達は刹那的な犯罪行為に楽しみを見出すが、こうした行動を取るキャラクターは以前は見られなかった。

行動が映画を特徴づけるとすれば、物語形式の上でも行動が大きな要素となる。話が前に進む要因は登場人物が何らかの行動を起こしたからであり、例えばフランシス・ハという映画でグレタ・ガーウィグが税金の還付を受けて食事に出掛ける場面があったが、こうした天啓の様な原因(税金の還付)は見られない。

故に物語は行動によって分類することが出来る。事件の発端となる出来事が起き、登場人物が何かしらの「行動」を起こす。それに対して何らかの「行動」を相手が起こす(これは具体的には主役の人物に対する苦難となろう)。苦難を乗り越え事態を解決する為、登場人物は決定的な「行動」を最後に取る。これを以て物語=映画は決着するが、その全ての時点で行動が関係する。

前述のシド・フィールドはこの点に注目し、映画を三幕に分け物語を導入し、対決姿勢を鮮明にし、最後に解決するという図式を打ち出している。

反論

冒頭で記した通り現代でこの法則に従って映画を書いたとすれば、絶望的に陳腐で退屈な作品となるに違いない。否、映画化自体が難しいのではないだろうか。

ハリウッド流古典的脚本術は一見完成された完璧な法則を打ち立てている様に思える。フランスの劇作家達(と小説家たち)も古代ギリシア悲劇を完璧な作品と見做し、古典主義を成立させた。しかし個人の精神と同時代の動揺を背景に、よりドラマチックなロマン主義に発展したのではなかっただろうか。

同様に現代に於いて現実がフィクションを凌駕している状況、詰まりニュースが映画よりも圧倒的で信じ難いものとなっている状況で、平板な古典的物語は全く魅力的ではない。ヒーロー映画の象徴であり、頂点でもあったアベンジャーズがエンドゲームでは序盤アクション(行動)を放棄し、中盤ではアイデンティティの探求に向かったことを思い出そう。これまで繰り返してきた様な単純な勧善懲悪物語ではなくなっているのだ。

これ以上の分析は次回以降の記事に回すが、それでも古典的物語形式が最早過去の産物となっていることは強調したい。過去の作品の価値を下げるつもりはないが、そこにある価値は史学的な価値であって我々は反省的態度でのみ過去の作品から学ぶことが出来る。上記の古典的三幕構成を模倣するといった愚行に走ることは避けて頂きたい。

お熱いのがお好き

今回はあらすじを確認することから始めてみよう。

禁酒法時代のシカゴでジャック・レモントニー・カーティスはふとしたきっかけでギャング同士の殺害を目撃してしまう。証拠を完全に消し去りたいギャングは当然2人を追いかけることに決め、彼らから逃れる為2人は女性限定の楽団に女装して入り込む。楽団で2人はマリリン・モンローと出会うが、特にトニー・カーティスマリリン・モンローの関係が発展し、恋愛模様に繋がることが予測される。

列車が辿り着いたフロリダでジョー・E・ブラウン演じる裕福な紳士がジャック・レモンに惚れてしまう。そんな喜劇的な展開を他所にトニー・カーティスは水兵に変装し、マリリン・モンローと親密な関係になる。ジョー・E・ブラウンの所有する船で晩餐に出掛ける2人と、老人と踊る羽目になったジャック・レモンが交互に映し出されるシーンは最も喜劇的なシーンの1つだ。

物語は進み、追いかけてきたギャングに殺害されかけるものの何とか逃げ出した2人はそれぞれマリリン・モンロージョー・E・ブラウンに出会う。お互いに嘘をついていたことを告白するも、共に許されボートで無事に脱出し、ハッピーエンドを迎える。

以上が筋書きとなる。ジャック・レモントニー・カーティスマリリン・モンローと出会い、トニー・カーティスが彼女に惚れるまでで一幕。ジョー・E・ブラウンが登場し、二組のカップルが誕生するまでで一幕。最後にギャングとの物語が解決し、恋人同士が真に結ばれるまでで一幕の三幕構成となっている。

苦難や対決という言葉を上では用いたが、原語ではconfrontation, 詰まり葛藤である。確かにギャングとの対決という側面はあるもののこの映画の主題は恋愛であり、導入部分でマリリン・マンローの性格が示されたことを考えても葛藤とは2人の男女の間のものであると理解出来る。

更に行動に注目すると、トニー・カーティスは水兵に変装したりマリリン・モンローを船上に招待したりするが、これらはいずれも恋愛に関わっているものだと分かる。導入部分でギャングからの逃避行であったのが、徐々に本題である恋愛喜劇へと移行する様子が確認出来るだろう。この時マリリン・モンローへの恋愛が時間を掛けて育まれた心情ではなく、逃げ込んだ先の楽団で彼女に惚れられたことから発展していることに注意する。行動によって彼らの恋愛は説明されており、そして行動によって展開する感情なのである。

ビリー・ワイルダーと言えば深夜の告白とサンセット大通りの2本が取り分け有名だが、麗しのサブリナや本作、そして7年目の浮気などノワールものに限らず幅広く才能を発揮した監督である。筆者個人的には戯画化の才能が凄まじいという印象であり、画作りに於いて印象的なショットを生み出すことが出来る監督だと思っている。

画作りと言っても芸術的なショットや撮影方法が分からない様な高度な技術を駆使するという意味ではなく、自然に印象に残って離れないショットを作り出すという意味であり、7年目の浮気は特に良い例だろう。通風口のシーンでのマリリン・モンローは恐らく彼女の最も有名なショットの1つであり、紳士は金髪がお好き(マドンナがマテリアル・ガールで模倣している)よりも優れたショットだと思う。

喜劇映画として素晴らしいことは勿論だが、そうした印象操作の面からも学ぶ所が多い作品ではないだろうか。極めて「ハリウッド的」な映画でありながら、歴史に埋もれず今でも楽しまれているには必ず理由がある筈だ。筆者としてはそれはマリリン・モンローの才能とビリー・ワイルダーの手腕の賜物だと理解しているが(何故なら脚本は法則に厳格に従っているでから)、自身の目で鑑賞して考えてみて頂きたい。

【映画解説】ミザンセン(mise-en-scene)の意味と機能/ドリーマーズ(2003)

13 (Mon). June. 2022

カメラムーブメントについて学び、カットとは何か学習した所で、次の様な疑問が浮かんだのではないだろうか。

確かにカメラの動かし方、シーンの切り方は分かった。しかし映画は総合芸術で様々な要素が組み合わされて出来上がっていると述べていたではないか。映画は何を撮るものなのか?

その疑問に答える為に便利な単語がある。それがミザンセン(mise-en-scene)である。日本ではミザンセーヌという呼び方で親しまれている様だが、英語でも元となったフランス語でも”ヌ”という音は聞こえてこない。故にここでは正確にミザンセンという名前で取り扱う。

併せて解説する映画はドリーマーズである。後述するがセット、具体的には登場人物が暮らす部屋が物語上大きな意味を果たしている。ベルナルド・ベルトルッチ作品の内では恐らく最も分かり易い映画になるだろうから読者の方々も是非挑戦してみて欲しい。

Eva Green, Michael Pitt and Louis Garrel in The Dreamers (2003)

Mise-en-scene即ちMise-en-scène

ミザンセンとは何かという話から始めよう。この単語はフランス語が元になっており、mise-en-scèneで直接的には演出を意味する舞台用語だ。

scèneは英語のsceneと同じく場面、光景を意味するほか舞台や演劇という意味も持つ名詞、enはinに近い働きをする前置詞である。

miseはputting, 詰まり置くことを意味し、何かをある特定の状態にすることを示す名詞である。資産を置くことにすればmise de fonds(投資), 整えた状態に置くことにすればmise en ordre(整頓), 自由な状態に置くことにすればmise en liberté(釈放)という風だ。船を水の中に置くということでmise à l'eau d'un navire(進水)という表現もする。

これらを組み合わせるとmise-en-scène, 舞台に置くこと、となり演出一般を表現する単語として働く。ここで一般という点に注意して欲しい。ミザンセンとはカメラに映っている全ての要素、と認識されがちだが、語源的にはそれは誤りだ。実際には演出された要素一般を「包括的に」考えることを指す。従って、

De qui est la mise en scène de cette beau film?(この美しい映画の演出は誰ですか?)

という様な使われ方をする。Réalisateur(実現する人、監督)は誰かを直接には聞いている訳だが、作品全体の演出を特に指導している故にこの文意でqui(誰)とは監督を指すと理解されることになる。若し単純にカメラに写っているものを指すとすれば、我々は撮影監督の名前を答えなければならなくなるだろう。

概念を理解した所で、次は実際的な説明に移ろう。映画はセット、小道着、俳優、衣装、メイク、音、ライトなど様々な要素が関係しているが、基本的にそれらは全てカメラの動きと連動する。

sailcinephile.hatenablog.com

よって映画を分析する際に、各ショットに於いてそれぞれの要素がどの様に機能するかを議論する為にミザンセンという全てを包括した一般概念を想定し、それを諸要素に分析することになる。大きく分けてもう一つに要素は編集にある。ショットを如何に分析して映画を作るか、ということも大事なポイントだ。しかしそれぞれのショットの作り込み、という点に於いてはミザンセンの構築ということになる。

ミザンセンの機能

筆者が繰り返し述べている様にスタイルの分析、形式の分析が何よりも肝要である。それでは形式はどの様な点から見出すことが出来るのか。例えば色調(デイヴィッド・フィンチャーの暗い緑)、カメラムーブメント(エドガー・ライトのウィップパン)、構成(スタンリー・キューブリックのシンメトリー)などから見出されることになるだろう。

しかし個々の要素は全体に奉仕するのではなかったか。全体の作品としてどの様に機能するのかを分析することが映画研究の基礎であり、原則ではないのか。その通りである。

この問題を解決する為の装置がミザンセンなのだ。詰まり作品を分析する上で個々の要素に目を向けざるを得ないが、それを全体から分離させてはならない。従って演出一般という概念を持ち出し、個々の要素がミザンセンを如何に形作っているのかを見ることで全体との関係を保とうと考えている。だから必ずしもミザンセンという呼称を使用する必要はないとも言える。何故ならミザンセンとはカメラムーブメントの様に明確な型がある訳ではない為、その解釈や分析の仕方は個人に委ねられている。ただ世界的にミザンセンという名前で以て考えましょうというルールが定められているだけなのだ。

また制作者にとってミザンセンという概念は意味が無いということも言える。制作者(特に監督)は作品を第一に考え、そのイメージを具体化するためにシーンごとの撮影方法を考えていく。そして必要なセットやコスチュームが生み出されるのであり、ミザンセンを考えて撮影を始めるのでは「ない」。ミザンセンは完成した作品を見て分析する時に便利な考え方なのであって、後からやって来る概念なのである。

ドリーマーズ

明らかにジャン・コクトー恐るべき子供たち』を意識した作品と言える。一つの部屋で男女が奇妙な共同生活を送り、密接な結びつきの中で性と死が彼らを統御する。ベルトルッチは『恐るべき子供たち』に見られた死を共産主義運動という要素で置き換えているに過ぎない。

従ってセット、彼らが暮らす部屋が重要な意味を持っていることは容易に想像がつくだろう。コクトーの小説の中では彼らは風変わりなガラクタを収集し、死の香りで溢れさせる。これはデカダンス的な意味ではなくもっと精神的な意味、自然に立ち現れる死という意味で用いられている。

従って映画の中でも部屋の中には死の香りが漂っている。例えばどこからともなく現れる白いモップや部屋の中に立てられたテント、テーブルクロスの柄などから彼ら3人の如何しようも無い死のイメージが刻みこまれている。このイメージはラスト・タンゴ・イン・パリに於いて強化されていたものだろう。

そして『恐るべき子供たち』の中で恋愛と毒薬が最後の決定的な役割を果たしたのに比べ、本作では共産主義運動がピリオドを打つ働きをする。彼らは根本的に理想主義者で映画の世界に溺れ、マオイズムの闘争にのめり込んでいくがそれは決して政治的な共鳴に負っているのではない。ベルトルッチはこれまでも政治運動を積極的に描き革命前夜や暗殺の森、1900年などを製作したが、特に革命前夜でイデオロギーを打ち立てるのではなくイデオロギーに接近する姿を描写している。イデオロギーが彼のアイデンティティとなるのだ。ドリーマーズでも同様理想主義が要求する思想の具体化としてマオイズムに接近しているに過ぎず、最後彼らが闘争に向かうのは死が彼らを呼んでいるからにほかならない。究極的な死が闘争によってもたらされるという意味だ。

以上の通り『恐るべき子供たち』からの影響が見られる訳だが、それをミザンセンとの連関で考えてみよう。テーブルクロスやエヴァ・グリーンの肉体、ベルトルッチのコンポジッション等各要素が如何にして総合されるのか、総合された者がミザンセンだと思って頂ければ良い。

そして一度ミザンセンが意識されたら、作品の上でどの様な効果をミザンセンが与えているかを考えてみる。若しそれが上記で解説した通り、死の香りと一致したならばベルトルッチは優れた仕事をしたことになるだろう。特に小説を読まれた方であればコクトーの詩情を経験している筈だ。ミザンセンからコクトーの影響が伝わって来るのかどうか、是非自分の目で確かめて欲しい。

【映画解説】カット、ショット、シーン、シークエンスの意味/ヒストリー・オブ・バイオレンス(2005)

10 (Fri). June. 2022

この映画は斬新なカットで面白かった。あのショットはどうやって撮影したんだろう?泣けるシーンがあって、大変感動した。全くつまらないシークエンスがあった。

映画を分析したり批評したりする上ではどれも一般的な表現だが、果たしてそれぞれの意味を明確に理解し使い分けることは出来ているだろうか?或いは出来ているという方でもショットへの意識とカットへの意識を使い分けることは出来ているだろうか?

映画形式を捉える際にも欠かせないカットの概念と、それに伴う混同され易い3つの要素について整理しようと思う。

取り上げる映画はデイビッド・クローネンバーグが2005年に発表したヒストリー・オブ・バイオレンスだ。先日の記事との関連で述べると、原題は"A History of Violence"であることに注意して欲しい。詳しく解説するが、この不定冠詞の意識が前面に押し出された映画だと思っている。

Viggo Mortensen in A History of Violence (2005)

ショットとカットの違い

最近は撮影もデジタルで行われることが多く、映画館も殆ど全てデジタルでの上映となってしまっているが、本来映画はフィルムで撮影され、上映されるものだった。それは映画を示す英語が"film"であることからも分かるだろう(movieという英単語も英語を表すが、この単語が総合的な芸術様式としての映画を表すことは無い)。

今回問題にするショットという考え方、そしてカットという考え方はフィルムというメディアに由来している。カメラのシャッターを押して写真を撮影する行為を英語では"shot"という動詞を用いて表現するが、動画の場合はシャッターを切って撮影される動画は無数の微妙に異なる静止画像(frame, フレームと呼ぶ)が連なって1つの映像を形作っている。この時の1つの切れ目なく撮影された映像のことをshot=ショットと呼ぶのである。写真を一枚撮る様に一度の行為(shot)で撮影された一本の動画であるから、写真との類比関係でショットと呼ぶ訳だ。

そして映画は1つの映像から作られている訳ではない。映画は幾つもの映像を繋ぎ合わせ物語形式を提示するのだが、この時の映像Aから映像Bへ繋ぐ為にはフィルムを切断し(cut)、再び接合する必要がある。この時の切断する行為、喩え映像同士がピッタリと結合し切断が必要ないとしても(その様な事例はあり得ないが)2つのショットの間の継ぎ目、これをカットと呼ぶ。映像Aと映像Bの間にはカットが生じているのである。

従って次の様に定義される。ショットとは一度の行為で撮影された映像のことを指す。そしてカットとはショットとショットを繋ぎ合わせる行為を指している。対して完成作品を分析する観客がショットと呼ぶ場合、それはカットされていない映像のことを指すだろう。

思うにこの点に両者の混同が見られるのではないだろうか。観客が映画を見ている場合、純粋な意味で彼らは受動的だ。事前に観客がシーンを把握していることはなく、従って観客はカットが生じて初めてシーンを認識する。シーンはカットという終わりを迎えることで一つの単位として成立するから、カットの訪れを自覚的には知り得ない観客はカットを数えることでシーンを数えるのだ。

とは言え両者を混同させてはならない。筆者は両者を厳密に使い分けることの大切さを主張したい。何故ならばシーンの分析は物語の分析に通ずるのに対し、カットの分析はスタイルの分析に関係しているからだ。シーンを見て、そこに何が写り何が語られているのかという意識と、カットの仕方が全体に与えるのか考察することは全く別物である。

sailcinephile.hatenablog.com

こちらの記事で述べた様に、映画形式に意識を向けることは映画を批評する上で極めて大切だ。両者を混同することは即ち物語一辺倒、或いは撮影技法一辺倒の分析となってしまい、映画の価値を矮小化するものに他ならないだろう。ショットへの意識とカットへの意識は区別されなければならない。

ショット・シーン・シークエンス

ショットとカットの違いが整理された所で、次はショット・シーン・シークエンスの使い分けについて見る。こちらは物語に大きく関わっており、特に脚本家が意識する必要のある項目である。

ショットは基本的にシーンを構成している。監督が撮影をする際に考えることはシーンをどの様に撮影するかということであって、脚本上の最小単位であるシーンを撮影する為にはどれだけのショットが必要なのかを考えている。

具体的に考えてみよう。犯罪ものの映画で脚本に以下の様に書かれていたとする。

「女は急いで自宅のアパートへ駆け込む。誰に後ろを追われていないことを確認し、素早く鍵を開けて扉に滑り込む。扉が閉まり鍵がガチャリと掛けられ、チェーンのジャラジャラした音が響き静寂が訪れる。その時柱の影から黒い男がヌッと現れた。」

この帰宅の場面全体で1つのシーンを構成している。これは脚本上の最小単位であって、帰宅という要素を更に細かく分割することは出来ない。しかし撮影にあたっては玄関口から走り込む女を捉え(1)、階段を駆け上がり(2)、後ろを慎重に振り返る様子を見せ(3)、扉を閉め(4)、カットバックで柱を写しそこから現れる男を写す(5)と5つの要素を示さなければならない。単純に考えて5ショット、階段のショットを分割したり女の顔にクロースアップしたりすればショットは増える筈だ。逆に全てをトラッキングで撮影すればワンショットということになるだろう。

この様に映像で物語を伝える際に必要な映像のそれぞれをショット、それらが集まって作られる脚本上最も短く分割される場面をシーンという。そしてそれらのシーンが集まって大きな場面を作る時、そのひとまとまりをシークエンスという。

ラ・ラ・ランドではエマ・ストーンがプールサイドでライアン・ゴズリングが演奏するa-haのTake on Me に合わせて踊る場面で場面で1シーン。それから2人で喧嘩をし(1シーン)、そして坂道で車を探しながらダンスをする有名な場面でまた1シーン。これら全てのシーンが集まってパーティー会場のシークエンスを構成している。

まとめ

ショットは1つの途切れない映像

カットはショットとショットを結ぶ継ぎ目

シーンは幾つかのショットが集まった物語上の一場面

シークエンスは物語上整理されるシーンのまとまり

ヒストリー・オブ・バイオレンス

普段この欄で行っている解説は映画そのものに関わるもので、プロットとは関係ないものである様心掛けている。それまでに語った内容がその映画で如何に活用されているかを解説しながら、映画全体の優れている点を語っている。しかしながら今作に限っては是非先ず映画を見てから続きを読んで欲しい。プロットに何か秘密があるということではなく、寧ろその逆、想定の範囲内の物語から生まれる印象、これを大事にして頂きたいからだ。クローネンバーグが生み出す不思議な心象を是非読者の方々にも体験して貰いたい。

さて今作で最も重要なシーンが階段でヴィゴ・モーテンセンマリア・ベロを殴打し、首を絞め、そしてそのまま行為に及ぶシーンである。その前のシーンでは警官がヴィゴ・モーテンセンが矢張り殺し屋だったのではないかと嫌疑を掛けるのだが、これを妻のマリア・ベロが夫だと言い張ることで切り抜けるシーンだ。

当初から彼女は自分の夫が殺人者であるという可能性を拒絶しており、そして何より自分の夫が間近で人を殺す瞬間を目撃し、激しく動揺している。そんな彼女は夫が殺人者であると認め(彼をJoeyと呼んでいる)、そしてヴィゴ・モーテンセンの頬を張る。彼はそれに対し妻の首を絞め、憎しみのこもった目で睨みつける。その手を振り解いて二階へ逃げようとする彼女だが、ヴィゴ・モーテンセンは彼女の足を掴んで、引きずり下ろす。そのまま押し倒し、征服した彼は思い留まり、階下に戻ろうとするが、それをマリア・ベロは抱き寄せ、2人はそのまま階段の真ん中で性行為を行う。

監督のデイヴィッド・クローネンバーグは本作で取り扱う暴力について、主役の男が持つ暴力、問題の解決としての暴力、種の本能としての暴力の3つの層があると述べているが、それを踏まえるとこのシーンは象徴的な意味を持っていると分かる。

殺人者としての過去(第一の暴力)を持つ夫に対して、マリア・ベロは当初から激しい拒絶反応を示している。その彼女が先に頬を張っていること(第二の暴力)に注意しよう。主役のヴィゴ・モーテンセンにしても、田舎で平穏な暮らしを送ることを望んでいるのだ。そんな彼の望みはちょっとしたきっかけで破壊され、家族と友人を守る為再び暴力を行使することを(第二の暴力)選んでいる。夫の過去を認め、彼を糾弾するよりも、警官から彼を守った彼女は今やヴィゴ・モーテンセンと同じ地平に立っている。

そしてセックスとは何より暴力だ。様々な観点からそれは明らかだが、ここでは本来生殖行為である筈のセックスが、種の保存を伴わない快楽の為だけに行われているということを指摘するに止めよう。セックスという暴力=死への接近は何よりも手近で、破壊的な行為ということが出来る。

そんなセックスを通じて2人は互いの立場を乗り越え、そして第三の暴力へと昇華する。殴り合いによって始まるこのシーンは、2人を文字通り結び付け、そして種の本能に由来する高次の暴力へと向かっていく。そもそもが階段という場所が象徴的だ。一階と二階の接続部である階段に於いて、生と死の丁度狭間における行為=セックスを通じて彼らは種としての暴力性を感じているのである。

もう少し全体に関わる解説を書いて、終わりにしよう。本映画の各ショットは6秒から8秒程度だろう。ハリウッド黄金期の映画で大凡10秒から14秒、近頃のアクション映画、例えばアベンジャーズ:エンドゲームでは2秒から5秒位で撮影されているから、比較的各ショットは長いと言って良いだろう。反面各シーンに於けるアクションは少ない。

肝心の暗殺シーンにしても極めてあっけなく、アクション映画にある様な激しい戦闘はない。北野武映画の様な簡潔さである。こういう映画では顔や手足など細部の演技に注目するものだが、クローネンバーグはそれもしない。

タイトルが示す通り、本映画の主題は暴力だ。そしてその暴力は常に行使する側からされる側へ、という関係が成り立っている。或いは生と死を結ぶ境界に位置する概念として成立している。であるからしてクローネンバーグは、視線の一致や、会話の不成立といった要素を積み重ね、登場人物同士の関係性を炙り出すことを目的とし、長いショットと不自然な編集を施している。

映画を見終わった後に訪れる違和感と後味の悪さは全てこのショットの繋ぎ方=カットに由来していると筆者は思う。そしてそれが見掛け倒しではなく、暴力という主題を描くことにつながっており、それが1時間を超えた辺りで訪れる例の階段のシーンに全て集約されている。この見せ方は素晴らしいと思ったし、文学に造詣が深いクローネンバーグならではの技だと感じた。

恐らくタイトルが"A HIstory of Violence"となっているのも、普遍的な意味での暴力としての第二、第三の暴力を表現したかったからなのだろう。邦題も不定冠詞を入れたならば良かったのに、と感じずにはいられない。

【映画解説】カメラムーブメント、push-inとpull-out/20センチュリー・ウーマン(2016)

8 (Wed). June. 2022

先日の記事に引き続いてカメラムーブメント、特にpush-in shot と pull-out shot について解説する。pull-out shot の代わりに push-out shot という呼称も耳にしたことがあるが、恐らくは誤りだと思われる。少なくとも pull-out shot の方が広く使われている名前だ。

また日本語でこれらのムーブメントを何と呼ぶのか、筆者は把握していないのだが、そのままプッシュインショット、プルアウトショットでも通用するのではないかと推測している。

カメラムーブメントには沢山の種類があるのだが、基本となるものは既に紹介したスタティック、パン、ティルトに加えてこのpush-in shot と pull-out shot の合わせて4種類だろうと思う。他にもズームやトラッキングなどの種類があるのだが、ギア(設備)との兼ね合いで解説した方が分かり易く、且つ用途がシーンと密接に関係している場合が多い。対してこれらのショットは比較的汎用性が高くどの映画でも見られるものである。

紹介する映画はA24配給、マイク・ミルズ監督兼脚本の20センチュリー・ウーマンだ。ちなみに原題は20th Century Women であり、序数となっていることに注意しよう。些細な違いの様に感じるが、言語構造の違いが明確に見られる部分であり、英語の(及びその他の言語でも)上達にはこうしたディテールへの意識が非常に大切だ。

Elle Fanning in 20th Century Women (2016)

Push-in shot and Pull-out shot

この2つのショットは基本的にはドリーを用いて撮影される。ステディカムを用いた撮影も見られるが、こちらは別に章を当てて後ろで述べる。理由も後述する。

ドリーとは映画撮影でよく用いられる装置のことで、カメラを滑らかに動かす為に使用される。具体的にはトロッコの様な装置をイメージしてもらいたい。トロッコと聞いてピンとこられない方はジェットコースターをイメージして欲しい。どちらもレールが敷いてあってその上に台車が設置してあるだろう。その台車の上に貨物なり人なりを載せ、トロッコであれば輸送のために進んでいくし、ジェットコースターでは高速で走っていく。

ドリーも似た様な構造で、予め撮影したい経路に線路の様にレールを引いておく。そしてその上にカメラを乗せ、経路に従ってカメラが滑らかにスライドしていく。この装置を用いることによって、手持ちの場合と比べ安定した撮影が可能となり、またステディカムでは得られない横方向への動きが生まれる。映画の撮影では主に手持ち、ステディカム、ドリー、そしてクレーンショットによって画に方向性を持たせているのだ。

さてこのドリーなのだが、長さを一杯に引けばトラッキングとなるのだが、室内など限られた範囲で微細な動きに留め、俳優にじっくりと接近するショットを push-in shot と呼ぶ。勿論徐々に引いていくショットが反対に pull-out shot と呼ばれる。

ズームイン、ズームアウトと非常に混同されやすいのだが、両者とは異なってカメラそのものが動いている為、周囲の事物の距離感も変化していくことに注意しよう。ズームインでは対象にピントがあっているとすればその人物だけが拡大されるが、push-in shot ではカメラそのものが動き、テーブルの前に座っているならばテーブルにも近づいていき、逆に背景にある柱などからは遠ざかっていく。

撮影上の効果としては注意の引きつけ、孤立、集中及び哀愁などを表現することが出来る。以下それぞれ具体例を用いて見ていこう。読者の方々は情景をイメージしながら読み進めて欲しい。

初めに注意の引きつけである。会議室に入り口にカメラが設置され、テーブルを囲んで6人の男が座っている。push-in shot でカメラが段々に中央の男に近づいていき、彼は徐に喋り始める。この時観客は彼こそが主役であると了解するであろう。この様にして舞台設定を示しながら1人の人物なり、物体なりに注意を向けさせることが可能だ。

次に孤立である。友人皆と丸くなって食事をしている。それぞれ談笑に耽り楽しそうに会話を弾ませる中、1人の少女だけが下を向いてしまっている。カメラがじわじわと彼女に寄って行き、それに従って周囲の人物はフレームアウトしてしまう。遂には彼女1人が画面一杯に写り、不機嫌な顔がアップで写る。この場合女優の演技と相まって彼女の周囲からの孤立を効果的に表現することが出来るだろう。

続けて集中だ。刑事が寄り集まって何やら話し込んでいる。どうやら殺人事件の捜査中らしい。ここでも push-in shot でカメラが1人の男に近づく。その時同僚の刑事が何やら発言し、その言葉が彼の意識を掴まえる。カメラは更に近づいていき、その男が必死に何やら考え込んでいる様を写す。そして一杯に近づいた所で彼はガバッと顔を上げる。何かが閃いたらしい。この時の push-in shot はキーワードを耳にして集中し、考え込む刑事の様子を写す為に用いられている。

最後は哀愁である。1組の男女がソファに腰掛け、言葉を交わしている。2人は交際している様だが、その調子からは熱烈なエネルギーは感じられない。どうやら彼らの関係は終わりに近づいている様だ。pull-out shot でカメラが徐々に引いていき、その間も彼らは途切れ途切れに会話をしている。カメラは今や部屋の外に出てしまい、柱と扉の間から光と女の声だけが聞こえてくる。このシーンで pull-out shot は男女の関係性の破綻を描くと共に、過ぎた時間への哀愁を伝える役割も果たしている。

ステディカムの活用

以上4つの場面を例に挙げて解説したが、これらが大まかな push-in shot, pull-out shot の使われ方だ。そしてこれらは基本的にドリーを用いて使用される。

対してステディカムを用いるとはどういった映像表現となり、効果をもたらすのか。これに関しては実際に映像を見て頂きたい。

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映像の1分頃から非常に有名なシーンである。周囲の音が消え、ボクサー2人が睨み合う。そしてカメラがロバート・デ・ニーロの方を向くのだが、カメラが若干彼の方へ近づいていることに気づいただろうか。このシーンはステディカムを用いて撮影されているのだが、この時のカメラの接近も push-in shot と呼ぶ様である。

しかし筆者個人の意見としてはステディカムを用いた push-in shot は本質的にドリーを用いたそれとは別物ではないかと考えている。そもそものステディカム長回しの場面で使われる、または長回しの様に見せる撮影で使われることが多く、その一部分を切り取って push-in shot, pull-out shot と呼ぶことには抵抗がある。そして上記のレイジングブルに於いても、性質上通常の push-in shot、例えばこれから述べる20センチュリー・ウーマンで多用されている、とは異なったものだと気づくだろう。

ただ確かに定義上は一致するものだし、一般的に述べられている内容として紹介することとする。

20センチュリー・ウーマン

筆者も購入した某雑誌の映画特集、コンビニでも売られている大変有名な雑誌だが、ではこの映画をオシャレ映画として紹介していた。確かに洒落た空気の漂う映画ではあるのだが、内容的には極めて重い映画である為軽い気持ちで見ると思わぬダメージを被ることになろう。

そして折々で登場するシンボルはヘヴィなものが多く、これだけ強烈なモチーフを織り込みながらも全体として軽やかにまとめ上げるマイク・ミルズ監督の手腕はさすがの一言である。とは言え今回の本筋は push-in shot と pull-out shot であるから、ここでは主にカメラムーブメントに注目して解説したい。

登場する主要なキャラクターは5人である。ルーカス・ジェイド・ズマン演じる15歳の少年は母親との隔たりを感じ、何かと突っぱねた行動をする思春期真っ只中の人物。その母親をアネット・ベニングが演じ、時代に取り残される自分を感じつつ息子に寄り添いたいと尽力する。エル・ファニングは幼馴染の少女で、セラピストの両親に嫌気がさし家を抜け出して男と遊んでは主人公の少年の隣に毎晩寝にやって来る。グレタ・ガーウィグは子宮頸癌を患う写真家で、先進的なインテリである。そして最後にビリー・クラダップは彼らの同居人でヒッピー上がりの男性でありながら、これといったアイデンティティーもなくフラフラと暮らしている。

早い話が登場人物全員が「繋がり」に欠け、時代(抽象的な意味で)と個人の狭間で揺れる孤独なキャラクターなのだ。そして今作はそれらの人物を音楽や本、写真などで繋ぎつつ、会話の様子をじっくりと見つめることで彼らの人生と選択を描いている。

そしてその様子を表現するに当たって、push-in shot 及び pull-out shot が多用されている。勿論それは先に述べた通り、孤独と哀愁を演出する為であろう。

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他のクリエイターの動画で申し訳ないが、上記の映像を見て欲しい。実に多くのpush-in shot 及び pull-out shot が見られると分かるだろう。事実この映画では際立ってこの2つのカメラムーブメントが多用されており、筆者は他にこれ程 push-in shot と pull-out shot を多用する映画は思いつかない。

余談となるがこちらのYouTuberは映画の中の印象的なショットをまとめて短い動画にされており、筆者もよく見させて頂くチャンネルの一つである。映画だけでなく写真を撮られる方にも大変お勧め出来ると思う。それから余談ついでに述べると、一箇所ステディカムを用いた push-in shot が動画の中に含まれていた。ロウアングルからの撮影だったが、その映像を見ると、ドリーショットと違和感なくステディカムが用いられる例も多いのかも知れない。上述の内容に関しては参考程度に覚えて頂く方が却って宜しいかと思った。

さて最初に書いた通り、この20センチュリー・ウーマン、非常に重い映画だ。例えばグレタ・ガーウィグがキッチンで「私いま生理中なの」と述べるシーン。彼女は生粋のラディカル・フェミニストで、ルーカス演じる幼い少年にもスーザン・ライドンの論文なんかを読ませている。そんな彼女にすれば(原理的にも、恐らく感覚的にも)何ということはない台詞だろうが、大恐慌世代のアネット・ベニングは嫌悪感を覚える。正直に告白して筆者も"Menstruation" という単語に良い思いはしないし、続けてエル・ファニングがロスト・ヴァージンについて語り始める場面も堪えるものがあった。

パンク・ミュージックと男性性の関係であったり、時代との孤立感であったり、繰り返しになるが重いテーマを扱っており、どの個人が見ても共感出来るテーマや人物がいるのではないかと思う。関連して昨年のカンヌに出品されたパリ、18区、夜はセックスを媒介にしてコミュニケーションを描いているのに対し、本作はアンチ=セックス、純粋性の様なものを媒介にしている。英語で言うmalehood and femalehood である。この点もまた興味深かった。

デビッド・ボウイトーキング・ヘッズ、A Crisis of Confidence、スーザン・ソンタグの『写真論』、コヤニスカッツィ.....

興味深いトピックは他にも数知れないが、本稿ではここまでとしたいと思う。先ずは映画として楽しめる作品であるし、その上で今回の主眼であるカメラについて関心を持って頂ければ嬉しい。更に興味を持った方は各々独自の切り口から調べると、更に理解が深まるだろう。筆者としてもいつかまた別の記事で更に詳しく解説したいと思う。

【映画解説】基本のカメラムーブメント、スタティック・パン・ティルト/フラワーズ・オブ・シャンハイ(1998)

6 (Mon). June. 2022

これまで映画の見方、制作過程、そして基本的な映画の形式と続けてきたが以降いよいよ本格的な制作技術について見ていきたいと思う。

一番最初に取り上げる内容はカメラムーブメント、特に基本となる3つのムーブメントについて紹介する。撮影方法の呼び方や分類の仕方は人によって異なる場合もあるが、なるべく最も一般的な呼称を使用する様留意するつもりである。

及び紹介する映画は候考賢監督のフラワーズ・オブ・シャンハイである。台湾ニューシネマを代表する候考賢(他楊徳昌など)が羽田美智子トニー・レオンを起用して制作した時代物の映画だが、かなり特殊な撮影方法と編集を施しており、映画史の中でも独特な立ち位置を占めている。

Michiko Hada and Tony Leung in Flowers of Shanghai (1998)

スタティック・ショット(Static Shot)

逆説的だが最も基本的なカメラムーブメントはスタティック・ショット、即ちカメラを動かさないショットだ。

これは名前の通りカメラをどこか一地点に設置し、その動かないカメラの前で俳優が演技をするショットを指す。肩越しのリバース・ショット(切り返し)も広義ではカメラを動かしていないことから、スタティック・ショットに分類されるだろう。

極めてシンプルな撮影方法で、リバース・ショットに限らず会話のシーンで用いられることが多い様に思う。肩越しのリバース・ショットであれば主観的な効果、詰まり話の聞き手と同等の視点にカメラを置くことで観客は会話に集中することができる。対してテーブルと並行にカメラを設置した場合一歩引いた位置から会話を捉える為、話し手の周囲のモチーフに注意を向けさせたり、進行中の状況を説明することも出来る。

具体的に説明しよう。史上最も優れたリバース・ショットは恐らく羊たちの沈黙に発見される。ジョディ・フォスターが初めてアンソニー・ホプキンスと対面する場面で、第一人称視点のトラッキングから独房が写り、その後の2人の会話は殆ど全てリバース・ショットで撮影されている。このシークエンスではアンソニー・ホプキンスがややジョディー・フォスターよりも大きく映っているが、これは明らかに彼女を圧倒するレクター博士を描写することで、彼女とそして観客を威圧し、恐怖させることを狙っている。試みに音声を切ってこのシークエンスを見て欲しい。如何にして両者の緊張感が高められているか分かるだろう。

対して一歩引いた視点から捉えるスタティック・ショットにはミスティック・リバーを挙げることが出来る。警察署で娘の遺体を確認したショーン・ペンローラ・リニーを隣に座らせ、ケヴィン・ベーコン及びローレンス・フィッシュバーン演じる刑事から質問を受けるシーンだ。これもリバース・ショットではあるが、カメラは先ほどよりも遠く、肩越しの撮影ではないことが分かるだろう。そしてカメラを遠ざけることにより、ショーン・ペンが話す間苦しみに歪むローラ・リニーや高慢なローレンス・フィッシュバーンの振る舞いを画面に捉えることが可能になっている。

その他変わったスタティック・ショットの使い方としては、エイリアン3がある。シガニー・ウィーバーが医務室でエイリアンに襲われる場面で、壁際に追い詰められた彼女にエイリアンが口を開ける場面。完璧に造形されたエイリアンとそれに恐怖するシガニー・ウィーバーが静止したカメラによって捉えられ、彼女の今にも殺されるのではないかという恐怖感をじっくり演出する為にこのショットが選ばれている。

パン(Pan)、ティルト(Tilt)

パンは一箇所に固定したカメラを横方向に動かしす撮影技法であり、対してティルトはカメラを縦方向に動かすものを言う。

パンは比較的様々な場面で用いられ、道路の交差点や部屋の入り口にカメラを置き、、進入して来る車両や扉を開けて入る人物を描写したりする。

ティルトはそれに比べると使用範囲が限られ、事物のスケール感を表したり下方の人物が見上げたりする場合などに使われる。有名なシーンとしてはターミネーター2の登場シーンだろうか。映画の冒頭でアーノルド・シュワルツネッガーがワープをして登場するのだが、踞る彼を下にティルトダウンしてカメラが捉え、続けて立ち上がる様子をティルトアップして写している。

その他パンとティルトの使い方に関しては、以下の動画から学ぶ点が多かったので紹介させて欲しい。海外の方の動画になってしまうが、英語の苦手な方でも大凡の内容は掴めると思う。デイビッド・フィンチャーが微小なパンやティルトを駆使して我々の視線を誘導する様子を詳しく解説してくれている。

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フラワーズ・オブ・シャンハイ

以上3つの基本的なカメラムーブメントを見た所で、具体的な映画の解説に移りたい。

普通映画は無数に存在するカメラムーブメントを組み合わせ物語を伝えている。特に現代のカット割の細かい映画やアクション映画ではその動きは非常に複雑で、全てを的確に把握して追いかけるのは初見では困難となっている。

その一方1998年に制作されたこちらの作品はワンシーンワンカット、カメラの動きはパンのみという大変珍しい作品で、且つシーンの接続もフェイドアウト・フェイドインのみで行っている。

記事上部に貼り打つけた画像を見て欲しい。画像中央やや左寄りにランプの様なものが見えると思うのだが、各シーンの始りはそのランプの緑色の光が写り徐々に全体が明るくなる。そして終わりは逆を辿って全体が暗くなり、緑のランプが消えるだけの編集だ。

シーンの撮影に関しても中央からやや左右どちらかに偏って置かれたカメラが登場人物の会話に併せてパンし、彼または彼女をフレームに収めるというだけのものになっている。トラッキングやブームなどの撮影方法はおろかリバース・ショットすらも使用しないという徹底ぶりで、その為俳優もアクションすることはなく、基本的に会話だけで121分が構成される。

物語としてはアヘンが常用されていた頃の清末期、高級娼館を舞台に展開され、トニー・レオン演じる役人と彼に買われる2人の女の関係を描いていく。筆者は映画館で鑑賞したのだが、それでも眠気が襲来し、中々苦労しながら見たことを覚えている。

冒頭に記した通り、候考賢は台湾ニューシネマを代表する作家であり、台湾ニューシネマとは台湾版のヌーヴェルバーグの様なものだ。詰まりごく大雑把に言えば候考賢は台湾のゴダールということになるのだが、ゴダールがジャンプカット等編集と撮影の文法を破壊したとすれば、候考賢は撮影そのものを廃してしまったと言えるのではないだろうか。

複雑な撮影技法や編集を全く無くして、パンだけで登場人物を捉え会話によってじっくりと関係性を描いていく。ヌーヴェルバーグでも車中で登場人物が喋り通すが、それと似た様な撮影と言えないこともない。一方ヌーヴェルバーグは空虚なお喋りにすぎない面があるが、美しい台詞と繊細な気持ちの表現はずっと優れているとも言える。

恐らくはそれこそが候考賢の狙いで、登場する女は皆娼婦であり、口にしたくとも出来ない思いがある。一方男もそれぞれ地位の高く、体面も気にしなければならない者ばかりだ。それぞれの立場と境遇から自由に会話し、恋愛することすらもままならない人間模様を伝える為に下手なカメラやアクションを省き、パンのみ全編ワンシーンワンカットに至ったのではないかと察する。

そしてこれは的確な判断だった。何故なら以前述べた通り、それこそが内容と形式の一致だからだ。両者が一致している作品は、個人的な好みはさておいて芸術作品として高い評価に値する。微妙な恋模様と特に羽田美智子演じる没落する娼婦の姿は鑑賞する価値があると思う。本記事を読んで興味を持たれた方は是非挑戦してみて欲しい。

 

 

 

それにしてもじゃんけんゲームだけであれだけ吞めるものなんでしょうか...その点だけは理解に苦しんだ管理人です。

【映画ニュース】スペイン映画業界研究、映画制作・ロケーションの拠点として

5(Sun). June. 2022

スペイン映画というとどういった映画を思い浮かべるだろうか?

オール・アバウト・マイ・マザー、ボルベール<望郷>、REC、オープン・ユア・アイズ、それでも恋するバルセロナ...etc.

ハリウッド映画は勿論フランス映画や韓国映画と比較してどうしても知名度が低い感のあるスペイン映画だが、近年映画制作の拠点として、そして撮影のロケーションとして注目されていることは余り知られていない。

映画制作のホットスポットとしてスペインに注目し、映画業界研究として欧州全体に起きている変化について解説したい。

尚本記事で触れる内容はプロダクションがメインになることと思うが、以前に述べた様にロケーション、セットの決定はプレプロダクション段階でなされており、未読の読者は先にそちらの記事を読むと理解が深まることと思う。

sailcinephile.hatenablog.com

Penélope Cruz in Open Your Eyes (1997)

政府主導の取り組み

世界中がコロナ禍で苦しむ2020年、映画業界も非常な打撃を被ったことはよく知られているだろう。対面での制作が難しくなったことから多くの企画で撮影が中断され、公開が延期される作品も多かった。加えて映画館へ足を向ける観客も減ったことで、特に映画館経営者たちは極めて苦しい状況に追い込まれた。

一方でNetflix等のオンライン配信サービスは好調で、映画を鑑賞する人口は寧ろ増えたのではないかとも考えられ、コンテンツに対する需要は高まっていた。

その2020年3月、スペイン政府は外国の映画制作に対する戻し税(実質の減税)と国内の制作に対する税額控除を従来の約360万ドルから1440万ドルまで拡大することを決めた。

更に同時にスペイン首相ペドロ・サンチェス氏は19億ドルの投資を実施し、スペインを欧州に於ける映像制作の拠点とする計画(Plan "Spain AVS Hub")を発表した。この計画では2021年から2025年にかけて公的な投資を集中して映像制作業界(映画、テレビ、ゲーム等を含む)に行い、スペイン国内で実施される映像制作を30%増加させることを目的としている。

スペイン政府の発表した計画によれば具体的には以下の4つの分野で発展を促していく。即ち①デジタル化と国際化を促進し投資を呼び込むこと、②金融的・会計的優遇措置の充実、③人材の確保と人的資源の育成、④規制の撤廃と監査手続の控除、を達成し、海外からの誘致も通じて映像制作業界を支援することを目指している。

これらに加えてスペインの映画協会はロビイングを続けており、税制面での優遇と投資の規模拡大を訴えているそうだ。

国主導で映画業界の盛り上げが図られている訳だが、その試みは事実成功していると言って良いだろう。既に海外からの企画の持ち込みはコロナ禍以前の水準を超えており、ハリウッドの大作映画(アンチャーテッド等)や特にNetflix企画のプロジェクトを誘致することに成功した。

Netflixはメキシコやパリ、ロンドンに制作部門の部署を立ち上げ強みとする自社制作コンテンツを海外(アメリカ以外の国)で制作しようとしているが、その際のロケーションにスペインを積極的に選んでいるのだ。元々歴史的な建築物が多く、気候的にも恵まれたスペインはロケ地に非常に適している。日照時間が長く制作が容易で、都市部から農村地区まで幅広い地域を持ち砂漠や山間部など自然的地形にも富む国土は正にロケーション撮影にうってつけなのである。

加えてウクライナ侵攻も関係している。リスク軽減の観点から各社はハンガリーなど東欧諸国をロケーション地にすることを避けており、その点優れた地形と財政優遇策を提供するスペインは選ばれやすくなっているのだ。

これは全くの余談になってしまうが、実際はウクライナ侵攻とは関係のないハンガリーの映画制作者たちが苦労することを考えると、その影響の大きさと範囲の広さは計り知れないものがある。

人的資源の必要性

しかし税制上の優遇措置や優れたロケーションを有しているだけでは環境として不十分だ。AVS Hub計画にも示されていたが、人的資源を確保し高い水準に保つことは必要不可欠なのである。

元来ヨーロッパではイギリスが映画のロケ地として選ばれてきた歴史があるが、それは単に英語圏であるからというだけの理由ではない。パインウッドスタジオやワーナーブラザーズの大規模スタジオを始めとする世界最大級のスタジオを複数有し、設備的にも極めて優れていること。そして何よりそれらの設備を利用するスタッフの質が非常に高いことが挙げられる。優秀な人材に支えられ、イギリス映画界はロケーション地としての地位を地位を確立した。

所で映画制作業界が実は人材不足に悩まされているという事情をご存じだろうか?多い映画では1400人を超えるスタッフがクレジットされることもある様に、映画制作とは常に共同作業で高度な知識を持った専門職員が協力することで1つの作品が完成している。

配給会社などでは事情が異なるかも知れないが、少なくとも映画制作の場ではそうした大勢のスタッフを確保することは難しくなってきており、高度な知識を備えた人材の育成と需要の増加が釣り合わなくなってきているのが現状である。これはイギリスでも同様だ。

スペインはこうした事情をよく理解しており、ただ単に設備的な投資をするだけでなく人材の育成にも力を入れている点が評価されている。Netflixの比較的予算が潤沢でかつ小規模な映画制作はクリエイターが比較的自由に仕事をすることが可能で、彼らを最初に呼び込んだスペインはそこからノウハウを吸収し、経験を積むことが出来た。かつその過程でNetflixのスタッフから高評価を引き出し、次の企画を獲得することにも成功している。

詰まりNetflixを最初に取り込み、彼らとの制作で技術力を高めると共に、保有する優れた設備的・人的資産を提示することで彼らからも高い評価を得る。必然的にNetflixは次の制作も依頼し、そこで経験を更に積みながら評価も高め、それが別のスタジオからの企画も呼び込み、経済的にもプラスになることから国からの援助も増える...という好循環を生み出しているということだ。

総括と考察

ポイントをまとめよう。

  • コロナ禍でスペイン政府は映画業界に対する投資を発表した。
  • 元々優れた地形を有していたスペインはロケーション地として魅力的で、そこに減税が実施され一躍業界の注目を集めた。
  • しかし設備投資だけでなく人への投資も惜しまなかったスペイン政府は、Netflixの企画を誘致することに成功する。
  • 結果Netflixとの仕事がスペイン内のスタジオとスタッフの評価を高め、更に沢山の規模の大きい仕事が舞い込む様になった。
  • 現状スペインではこの好循環を維持し、成長を続けるために更なる投資が検討されている。

他業界でも同様だとは思うが、映画業界でも国際化が進んでおり、今回調査を実施し記事を書く上でスペインは非常に上手く時流を捉えたなと思った。先に述べた通りコンテンツへの需要は高まっており、そこにマンパワーを含めた大量の投資を実施するという考えは理に適っている。需要が伸びている以上しっかりとした環境さえ整備すれば必ず仕事は増える筈だからだ。

映画業界の人材不足という問題は本当に深刻で、個人的にそれはNetflixの発展の弊害だと思っているのだが、特に筆者が学ぶイギリス映画界は事態を重く見ている。業界人からは懸念の声が聞かれるし、その為の対策として筆者の様留学生を受け入れているという側面もあるだろう。

別の記事で書いたと思うが、日本の大学は映画制作という点に関して言えば非常に遅れている。映画学部の看板を掲げる大学も少ないし、高校生(受験生)に対するアピールも少ない。折角渋谷などの世界で指折りのカルチャータウン、和服やサムライなどの分かりやすい歴史的文化、アニメという世界中で人気のコンテンツを持っているにも関わらず、世界的に売り出せていない要因の1つは人材育成がなされていないという点もある筈だ(それから日本人が英語が出来ないという問題も忘れてはならない)。

何も自国の文化を軽視している訳ではない。筆者は日本が持つ資源はスペインの地形と同様非常に魅力的で強力だと思っているし、事実定期的に日本を題にする映画は作られている。ラストサムライワイルドスピードSAYURIウルヴァリンインセプションなど数多の例がある。

スペインの取り組みから学ぶ点は非常に多いし、経済的にも合理的だ。今回の記事は映画を見る際に立つ様なものではないが、日本では紹介されないニュースとして是非知って頂きたいと思ったし、読まれた上で何らか考えを深めて頂ければこの記事も有意義なものになるだろう。