知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】現代的脚本術に見られる主題の重要性、創造を支配する理性/TITANEチタン(2021)

19 (Sun). June. 2022

既に述べた通り、今日の時事が与える脅威はフィクションのそれを凌駕してしまっている。だからフィクション(それが映画にせよ文芸にせよ)は単に脅威を提出するだけでなく、それを超えて安息や恐怖などの感情を生み出すことに存在意義を求めなければならない。

現代の脚本はこうした事実を踏まえ、主題を予め設定した高度に知的なものが多くなっていると感じている。脚本家はアイデアや登場人物、感情を真っ先に思い浮かべるのではなく、表現するべき主題を思い浮かべている事例が多い様に感じるのだ。

本稿では昨年のカンヌ国際映画祭を制したTITANEチタンを取り上げたいと思う。現代の脚本術と銘打っているだけあって具体例は数多いのだが、その中でも特に注目を集め、且つ誤解されていると感じる本映画をケーススタディとして脚本術に至るまで掘り下げることとしよう。

Agathe Rousselle in Titane (2021)

創造力の本質

創造力と想像力とあって紛らわしいが今回問題にするのは前者、creativityについてである。一般には創造力とは技巧や知性、想像力(!)を駆使して新しい又は独自の何かを作り上げること、と考えられる。しかしながら実際創造力とは如何に定義されるべきものであろうか。

1つの断定をしよう。創造とは決して無から何かを生み出す行為では「ない」。若し全くの無の状態から何かを創りだすことが出来るとしたら、それは彼が世界の創造主である場合のみである。普通我々は感覚器官が捉えた世界の姿から何らかの影響を受けてーそれは形態の模倣かも知れないし、感情がもたらす観念かも知れないがー何かを創造しているのである。従って教育現場や企業で創造力=creativityの動員を促す行為は、指導者の努力不足を粉飾する詭弁である。問題解決は創造力によってなされるのではなく、現状を正しく把握し別様な方法で取り組むことによって成されるのだ。

さて特に現代では殆ど全ての創造的営為が模倣と再創造からなっている。長い人類の歴史の中で原初に於いては自然の表現が、機械化以降は機械の表現がなされてきたが、現代新たなモチーフを世界から発見することは不可能に近くなっている。ある芸術作品の背後には直接のモチーフと言うよりも寧ろ影響を与えた芸術作品が見られるのであって、事物そのものが観察される訳ではない。

文学の世界ではこうした考え方を間テクスト性・インターテクスチュアリティなどと呼んでいるが、要は何かを創造する際には必ず下敷きになる要素(古代では自然、現代では作品)が存在するということだ。これは音楽の様な純粋芸術でも同様であり、抽象絵画の如き作品でも同様である。そこでも必ず創造者(作曲家又は抽象画家)にインスピレーションを与えた作品が存在しており、彼らは情念のみを表現していると言うことに過ぎない。

従って創造力とは次の様に定義することが可能かも知れない。即ち創造力とは感性と理性を組み合わせ、諸々の経験から独自の仕方で何かを提示することである、と。

理性を強調する現代の脚本、主題の重要性

所で現代の映画に於いても創造力は同様に定義することが出来る。過去の映画や小説、現実の出来事から発展させ、脚本は執筆されることが専らなのである。

しかし現代に於いて特に顕著な傾向が、理性を動員し明確な主題を脚本の中に設定しているということである。主題がインスピレーションとなって脚本を書かしめている、と言っても良いだろう。

具体例を挙げて見たい。2020年公開のハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY。マーゴット・ロビー演じるハーレイ・クインの単体作品なのだが、脚本上全くハーレイ・クインというキャラクターを掘り下げていない。その代わりに主題としてのフェミニズムシスターフッドが前面に打ち出されている。

脚本執筆の際には主題の設定は極めて大事な項目なのだが、それは事項、具体的には登場人物や生物などを生き生きと動かす為に必要とされる。対してBIRDS OF PREYでは、フェミニズムを主題にするならキャラクターはこの様に行動すべきだろう、舞台上のモチーフはこれらであるべきだろう、といった安易な操作で終わってしまっている。

ユアン・マクレガー演じるヴィランにしても「こんな台詞を喋っておけば女性嫌いの悪役だって伝わって、フェミニズムの大事さが分かるよね」という意識が透けて見えてしまっているのだ。これは登場人物にフォーカスを置き、彼らの行動に注目していた従来の脚本術とは異なっていると分かって頂けるだろう。BIRDS OF PREYの中では(折角原作となるコミックがあるにも関わらず)誰1人登場人物は存在せず、フェミニズムシスターフッドという主題の具現化として創造された駒がいるに過ぎないのだ。

この様に主題が登場人物よりも先に立つ脚本が非常に多いのが現代の映画脚本の特徴である。現代と言ってもマン・オブ・スティールは2013年の作品であるし、必ずしもここ数年の現象ではないのだが、特に評価される映画でこうした書き方をしているものが多くなっている印象である。対照的に現実主義と理想主義の対立という主題をニール・アームストロングに託して描いたファースト・マンが評価されていないという現状もある。1人の宇宙飛行士に着目して主題を表現した秀作だったが、監督の話題性にも関わらず売れなかった印象を持つ。

それでは理性が創造を支配し、主題の脚本中の立ち位置を理解した所でそうした脚本の成功例を見て見よう。

TITANEチタン

監督のジュリア・デュクルノーはインタビューで本作のインスピレーションの1つは怒りであると語っていた。RAW-少女の目覚め-が高評価を博し、世界中の映画祭を回る中で女性としての性別から色眼鏡で評価され(女性なのに素晴らしい作品を撮った)、周囲に自分と同じ信念を共有する仲間がいない現状に対する怒りがこの脚本を書かせたと彼女は話す。

その怒りを全身に漲らせた主人公アガト・ルセルはチタンプレートという無機物を脳髄に埋め込まれ、車の上で踊る時には美しく輝くものの、普段の生活上は愛想の無い、攻撃的な女性である。彼女は怒りに満ちた「冷たい」存在であって、その彼女がセクハラ気味に言い寄ってきた男を衝動的に殺してしまった時から、彼女の人生は一変する。

シャワーと浴びて血を洗い流すと、外から物音がする。警察か誰か追手がやって来たのだろうか。物音の正体は彼女の愛車(無機物)であり、それに気が付いた彼女は車と結合する。さて翌朝早くも彼女の体には異変が起こり始める。ガソリンの様な液体が溢れで、腹部からは激痛が走る。

これは明らかに妊娠の表現であり、丁度妊婦の体内で胎児が成長する様に彼女の怒りも成長していく。親しげな態度を見せる同業のストリッパーやその友人も皆殺してしまい、彼女は逃げることを余儀なくされる。

そこで出会ったのは孤独な消防士のヴァンサン・ランドンで、彼はアガト・ルセルを行方知れずの息子と思い込み家に引き取って養うと宣言する。勿論これは彼女にとっては耐えられない仕打ちであり、腹部が肥大するのと同様、彼女の怒りも大きくなっていく。

しかしその実ヴァンサン・ランドンはステロイドを注射して何とか生きている孤独な「男性」であり、腐敗臭にもめげず必死に老婆の心肺蘇生をして彼女を助ける様子を見るなどする内に、2人の間には自然と絆が芽生え始める。

別れた妻が訪れ、2人の仲も破壊されそうになり、またある時はヴァンサン・ランドンに裸体を目撃されるも、両者は便宜上の父親と息子で居続けることを選ぶ。こうして怒りに満ちたアガト・ルセルと孤独なヴァンサン・ランドンの関係性は最早疑い様のない程に強くなったが、この時彼女が抱え込んだ「怒り」は遂に出産の時を迎える。

どんな怪物が生まれるのだろうか?登場したのは背骨がチタンで出来た赤ん坊、端的に言って無機物と有機物の融合体であった。出産を手伝ったヴァンサン・ランドンは(この比喩的な意味に注意)、感動して涙を流しながらその赤ん坊を育てていくことを決意する。

鑑賞中ジュリア・デュクルノー監督が感じる問題意識と怒りが痛い程に伝わってくる。誰の目にも性差の問題意識という主題は明らかでありながら、BIRDS OF PREYの様に登場人物を殺してしまうことなく、感情的なレベルに踏み込み、そして単なる女性の権威発揚に終らず真のあるべき姿(無機物と有機物の結合体、即ちアガト・ルセルとヴァンサン・ランドンという傷付いた2人の感情的な結合体)を提出している点で非常に優れた映画だと言うことが出来る。

主題(怒り)から出発して脚本を書いていることは伝わるけれども、主題に支配されず登場人物を生かす技はこれから脚本を書く諸氏にも大いに参考になるだろう。

それから映画に関して幾つか付け足すとするならば、ジュリア・デュクルノー監督は現場でヴァンサン・ランドンにヒッチコックのめまい中のジェームス・スチュアートを参考にする様求めたそうだ。彼もまた失った女を求めて苦しむ孤独な男である。

それから前作同様、監督は痛みを効果的に使っている。暴力描写が強烈で、化粧室内で自分の鼻を打ち砕いたり、かんざしを女性器内に差し込むといった痛みを通して観客とのコミュニケーションを図っているのだが、これは大変効果的だ。主題が高度に知的で、且つ無機物と有機物の結合というトリッキーな演出をしているのだが、痛みという観客・登場人物双方が持ち合わせる感覚指標を使って、観客を映画内世界に繋ぎ止めることに成功しているのだ。

カンヌ国際映画祭パルムドール受賞という箔無しに非常に面白い作品である。日本で公開されていることに感謝すると共に、是非多くの人にも鑑賞して頂きたい作品である。