知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】2023年最重要の一人称群像劇、『オッペンハイマー』(ネタバレなし)

24 (Mon). July. 2023

2023年7月21日、クリストファー・ノーラン監督最新作"Oppenheimer"が公開されました。原子爆弾開発を巡る物語の為、プロジェクト発表当初から日本公開が危ぶまれていた本作ですが、案の定公開予定情報等は一切なし。ポール・シュレイダーのMishimaと同じであれば、円盤化もなく伝説の映画と化してしまうことになります。

筆者本人はノーラン作品に対して常々懐疑的な目を向けていたのですが、そうした事情も踏まえ「見られる時に見なくては」という思いで劇場まで足を伸ばしました。そして、これがノーラン史上ベストの圧倒的な傑作だった。

この事実に先ずは素直に驚きながら、純粋に作品の余韻に浸っていたのですが、徐々にある疑念が、詰まり「何故この作品が日本では規制されなければならないのか?」という疑念が筆者の中で大きくなりました。

こういった背景事情を踏まえ、"Oppenheimer"については何かを残して置かなければならない。物書きでも批評家でもない筆者ですが、1つのプラットフォームを持つ人間としてそう感じざるを得ませんでした。このまま日本公開がされない様であれば、その批判として。若し日本公開に成功したのであれば、その際の手引きとして。作品のネタバレは一切なしで映画と日本との関係について、そして本作の重要性について残して置きたいと思います。

普段は海外暮らしを傘に着たナルシスティックな日本批判は避けているのですが、今回ばかりはお許し下さい。最後までお読み頂ければ必ず意味のあるものだと感じて下さることかと思います。

 

 

最初に物語のざっくりとした構成について、次に恐らく問題視されているだろう(或いは公開後にされるだろう)日本描写について、最後にその上で何故公開されなければならないのか、全3部構成で記していこうと思います。

第一部に関してのネタバレは避け、予告編でも解禁されている情報のみに内容は留めますが、そうした枠組みについても知りたくないという方は第2部から読み進めて頂ければ宜しいでしょう。

www.youtube.com

Cillian Murphy in Oppenheimer (2023)

1. 物語の枠組み

複雑な物語構造で知られるクリストファー・ノーラン監督ですが、本作にも彼のシグネチャーははっきりと刻まれており、大きく3つの枠を使って原子爆弾という兵器を描いています。

  1. 科学的探究と努力の上に誕生した兵器
  2. 第2次世界大戦を終結させアメリカに世界の覇権をもたらす兵器
  3. アメリカの恐れる共産主義(=ソ連)と奪い合う兵器

①については分かり易いかと思います。J. ロバート・オッペンハイマーという天才量子力学/理論物理学者が研究を主導し、原子爆弾という兵器を開発するまでの物語ですね。②についても想像がつくことかと思います。予告編でナチスの手に渡る前に、といった会話がなされていますがナチス・ドイツが完成させるよりも先に、誰かがいつかは完成させるであろう原子爆弾を開発し、戦争を終結させなければならない。オッペンハイマーは当初そうした正当化を以て兵器開発に身を乗り出します。また一度戦争が終結したならばアメリカは講和をリードし、世界平和の中心となって影響力を誇示することが出来ます。そうした力を持つ兵器としての原子爆弾が描かれます。

そして③、彼について事前にリサーチした方であればご存知かと思いますが、オッペンハイマーのはアメリカ史上のある出来事に於いて共産主義という文脈で語られる人物でもあります。更に原子爆弾を巡っては当然ソ連も研究を進めていた訳ですから、彼は2国間競争の先頭に立って開発に勤しみアメリカに勝利をもたらした人物でもある訳です。そうした対ソ連戦に於いての鍵としても原子爆弾は理解することが出来ます。

そしてこれら3つの側面を持つ原子爆弾の全ての中心に立っていたのがオッペンハイマーであり、映画は彼の人生を中心に、兵器の3つの側面について照らし出す。その上で、それぞれのパートで深く関わる人物が入れ替わり彼の前に登場し、原爆を巡った複雑な群像劇を繰り広げる。これが映画の大きな枠組みとなっています。

ですから、原爆開発の苦難を描いた人間ドラマ(①のみにフォーカスしたサクセス・ストーリー)で大量破壊兵器、大規模殺戮兵器としての原子爆弾を軽く見ている、ということは全くありません。ではその上で何が問題となっているのか、以降で確認したいと思います。

2. 問題点/懸念点、公開が躊躇われている理由

第1の問題点としては映画が被害者/加害者構造に則って展開されている、ということでしょうか。これは勝者/敗者という上下関係に従って展開されている、と表現しても良いかも知れません。

歴史的事実としてアメリカ合衆国は第2次世界大戦の戦勝国ですし、日本は敗戦国です。原子爆弾を等価したのはアメリカで、落とされたのは日本です。その事実は揺らぎません。映画の中でもアメリカは戦争に勝つこと、勝ったことを前提として話は進んで行きますし、当然の様にヒロシマ/ナガサキの民間人は死亡します。

この点から例えば京王線の一件以来地上波で『ジョーカー』及び『ダークナイト』の放映が難しくなった様に、「被害者及び遺族に精神的な負荷を与える作品の公開は避けるべきである」という主張が為されるかも知れません。映画のある場面では上下構造を用いて「死体蹴り」(その意味については伏せますが)の様にも見える場面も登場します。

或いは被害者という主語を日本国民全体に拡張し、「本作を日本で公開することは、イスラエルヒトラーの伝記映画を公開する様なものだ」と訴える方もいるかも知れません。原子爆弾によって甚大な被害を被った日本国民を逆撫でする様な作品は一般的に不適切である、と。

第2の問題点としては日本の扱いが非常に軽いということが挙げられます。物語は全てオッペンハイマーの視点から彼の暮らすアメリカで展開され、ルーズベルト大統領やトルーマン大統領の発言も「アメリカにとって」という観点から為されます。

特に原子爆弾投下の是非を巡って議論を交わす場面、ある人物が偏った歴史理解に基づく、とは言わないまでも非常に誤解を与える様な発言をします。国家中枢メンバーによる最重要機密事項に関する決定ですから、本当の真実は一般人には分かり得ない側面も多いかとは思いますが、だからこそこの映画で交わされる会話とは異なった歴史理解を持つ方も多いと思われ(右左問わず)、故に公開された暁には極端なリアクションも予想されたものと思われます。

どの様な作品にも政治的批判は付きものですが、直接戦争に関わる事案では単なる批判に留まらず実害が出る懸念もあり、安全上の懸念から公開が難しい、ということもあるのでしょうか(法務省から下の様なファイルが公開されていたりもします)。

https://www.moj.go.jp/content/001335851.pdf

最後に第3の問題点としては、被曝者に対する表現に対する批判があるかと思います。原子爆弾投下後の実態については台詞で語られるだけで、映像や写真を用いた説明などはありません。

恐らくこれは映画全体のトーンとしてノーラン独特の機械的な淡々とした語り口を採用していること(故にあからさまな描写は馴染まないこと)、加えて実際の写真を使用した場合レーティングが18となってしまう可能性が高く(イギリスではR-15)、予算との兼ね合いから難しかったという理由があるでしょう。

しかしながら折角世界規模で原子爆弾について取り扱う機会であるのだから実際の写真等を用いて如何に凄惨な光景であったか伝えて欲しい、との意見は的を得たものでもあり、この点に関しては正当性があると思われます。とは言えそれだけの理由で、ノーランほどの監督の超大作映画の公開が差し止めになるとは思いません。

問題はそれ以外の2点にあります。

3. 『オッペンハイマー』が疑うことなき傑作である所以

少なくとも近代以降、我々の暮らすこの社会で正義も悪も存在しません。人生は妥協の連続です。どんな個人も代替可能であり、誰かが欠け落ちたとしても何事もなかったかの様に世界は回り続けます。

どれだけ普段考えまいとしていても或る時フッと脳裏をよぎる通りこれは世界の圧倒的な真実であり、大抵の人間はその真実に気が付かない振りをして日々を暮らしています。仮にこの真実を受け入れないとしても、何か別の真実を選択するとしても、こうした悲劇的な思想を人生で一度も抱いたことの無い人間などいないでしょう。その上で我々はそれを否定しようと努力しているのです。

筆者も脚本などを書いたことのある人間ですが、特にアーティストというものはこの点で非常に苦労するもので、否定し難い人間の生の悲劇的性格について如何なる答えを出すのか。この点に創作の姿勢の全てが左右されているといっても過言ではありません。

科学者と言えどもそれは同じことで、何か特別な科学的発見があり、自分にその発見を成し遂げるだけの才能があり、そして世界の歩みがその発見に向かっている時、善悪は別として発見は必ず為されるというものです。オッペンハイマーは或いは人類史上最も罪深い科学的発見によって歴史に名を残し、そして結果的に今回映画が作られた訳ですが、その罪は彼に責任のあるものではありませんし、彼の残した偉業についても彼に責任はありません。

その人物がオッペンハイマーであろうが、他の名前のどんな人物であろうと歴史に恐らく大差はなく、ただひたすらに世界は回り続けるだけなのです。

映画が描こうとしているのも正にこの点であり、最後オッペンハイマーは"I think I did it"という台詞("I think I caused it"だったかも知れません)を発して作品は終わります。"it"が何かについては触れませんが、その真意は「私はそれを引き起こしてしまった、故に私には責任がある」と言うよりも、寧ろ「私はどうしようもなくそれを引き起こしてしまった、後戻りできないその引き金を引いてしまった」に近い。

オッペンハイマーの発明が幾千人もの命を奪った大元であることは疑いようが無く、また原子爆弾などという兵器が作られるべきではなかったことも事実です。しかし人間の為すことには正義も悪もないのであって、ただ無常に回る世界の中で個人はもがいているだけなのです。本作は一人称の群像劇なのであり、オッペンハイマーの目線から原子爆弾を周りで究極的な善も悪もなく苦しむ人間が出入りしている。

ですから例えば「あなたは何故ここに居るのか」という質問に対して、父親と母親がセックスしたからだ、と答える馬鹿は存在しないでしょう。それは単なる因果関係であり、貴方の存在論は因果関係とは別の地平にあります。同様に原子爆弾を製造した因果関係は彼にあるかも知れませんが、その存在論的価値、「何故作られて、人間はどの様に対処するべきだったのか」と言う問題は別にあるでしょう。

クリストファー・ノーラン監督はキャリアを通して「見えていたもの/見えなかったもの」を描いている監督だという気がしています。『メメント』では記憶を失うことによって徐々に両者が溶け合い1つの意味を解き明かす様な作品でしたし、『TENET テネット』でも後ろ向きの矢と前向きの矢を交互に飛び移ることによって、「見えない」と「見える」の間を反復横跳びして見せていた。

今作でもオッペンハイマーは科学という自分にとってのメガネ=見える化装置を通じ、見えない世界に存在する自己を少しづつ発見していきます。何も彼は自分が大量破壊兵器を作っているという自覚がなかった訳ではなく、まして自分の行為を悪だと考えていなかった訳でもなく、ただ見える世界線で最善を尽くしていたのに過ぎないのだ、と。そして原子爆弾という1人の人間のスケールを超えた発明が生み出された時、一体何が「見える」様になり、何が「見えていなかった」ことに気が付くのか。最後の"I think I did it"という台詞は、その「見える/見えない」の間の境界を理解したという意味であり、ノーランの興味はそこにあったのだと思われます。そもそも彼が単なる伝記映画の制作に関心を示すとも思えません。

オッペンハイマー』という映画は彼の目を通して、原爆という兵器が人間に持つ存在論的影響を描いた作品なのです。

従って、加害者/被害者構造というのは本質的な問題になり得ません。原子爆弾の被害についてはオッペンハイマー自身も「見えていた」事項であり、その上で彼は何が「見えていなかったのか」。単純な善悪という二項対立を超えた先で苦しむ人間の等身大の姿を映画は伝えてくれており、作品を見た筆者としてはこの批判は底が浅いと逆批判せざるを得ません。寧ろ作品が公開されず「見えているもの」だけに留まってしまうことの実害の方が大きいと言えます。

また日本に対する扱いが軽いという批判も同じ理由によって棄却されます。原子爆弾、或いは戦争という問題を扱うに当たって実の所どちらの側にも正義も悪もないのです。日本は戦争に負けたから悪なのか?これはYesとNoで答えられる問題ではなく、また同時にそのどちらでもあるのです。原子爆弾被爆国への歴史的な評価はこの作品の問題ではなく、何度も語っている通り、善悪を超えた不条理な地平で人間は何を「見ているのか/見ていないのか」。これが作品の主題であるのであって、故に日本への配慮も何もないのです。不条理な地平では見方も敵も存在しません。アメリカが勝った、その時の愛国的描写にしても表面的な、オッペンハイマーにとって無価値なものでしかないというのは作品の中でもしっかりと語られています。

その上で個人がどの様な意見を持つか、これは全く個人の自由でしょう。正義も悪も本質的に存在しない世界、その理解に従って筆者はノン=ポリティカルな人間ではありますが、大抵の人々は何らかの政治思想を選択している事だと思います。それは結構なことで、そうした不毛な議論の上に人間の社会は成り立っています。

筆者が今回の件に関して一番問題だと考えているのは、この「個人がどの様な意見を持つか」を選択する機会を余計な忖度によって奪ってしまっている、という点です。

先に例に挙げた京王線の場合であれば、作品と被害がダイレクトに結びついており、その上で与える影響がある程度確からしいと予測されるからこそ「配慮」が必要になります。対して『オッペンハイマー』では作品と予測される被害が全く以て結びつきません。その上で様々生まれるであろう議論の土壌を「無かった事」にしようとしているのですから「忖度」以外の何物でもありません。どこの機関の誰が、誰のどの様な懸念を元に忖度しているのかは知る由もありませんが。

戦後78年が経って、トリニティ実験の描写が与える心理的ストレスが公開に当たっての懸念なのでしょうか?違う筈です。原子爆弾という兵器を巡って一定層の国民が持っている思想に逆行し、何らかの極端な意見が述べられたり行動が取られたりすること。そしてそれに伴って反対の立場からアクションが起こされること。これが公開に当たっての現実的な懸念でしょうし、それが如何なるもので、且つ正当性のない懸念であるか、上で説明された通りでしょう。

しかし議論が起こることを恐れて公開出来ないというのであれば作品が作られた価値はなく、そして我々は思想的不能に陥ってしまうことは言うまでもありません。

「どうせ価値のない命ならば殺してしまえ」と言う暴論が認められないのと同じ様に、「議論を呼ぶ作品だから公開しないのが宜しい」と言う暴論だって認められないのです。

仮に作品が公開されるならば、本記事で予測される様な意見が実際に飛び交うことでしょう。それで結構ではありませんか。彼ほどの頭脳はなくとも我々は皆オッペンハイマーなのであり、正しさも間違いもなく何かを選択し、その度に不毛な議論を繰り広げているのです。余計な忖度の結果議論の土壌が奪われてしまうと言うのは、「見えていたもの/見えていなかったもの」を交換する機会がなくなってしまうということ。そしてそれは作品の主題に真っ向から反対するものであります。

この様な作品が製作されたことに感謝し、意見の衝突を恐れないこと。それこそが『オッペンハイマー』という映画が真に求めていることなのではないかと思います。