知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】視点の設定とフレームの作り方 /ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コルメス湖畔通り23番地(1975)

26 (Fri). May. 2023

今学期のモジュールは先日新たに発表されたSight & Sound誌が選ぶ歴代映画top250(批評家選出部門)からピックアップした映画を選び、「名作は何故名作と呼ばれるか」その所以を考える、というものでした。

既に皆さんご存知の通り、批評家選出部門ではシャンタル・アケルマン監督の『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コルメス湖畔通り23番地』(以下『ジャンヌ・ディエルマン』)が堂々の1位を、監督選出部門でも4位を獲得するという結果に終わっています。

どうやら日本ではシャンタル・アケルマン映画祭なるものが開催されていたらしく、彼女の作品の受容も広まってきた感があるのは大変喜ばしい。しかしその反面レビューや解説を読む限り、作品の既存の映画文法を破壊した革新性、特に排斥されがちだった主婦の日常を収めた意味ばかりが取り上げられている様に見えます(それは大変正しいのですが)。

しかし、果たして歴代映画のベストに君臨する映画が持つ価値としてそれは充分なのでしょうか?もっとシンプルな言い方をしましょう。スクリーンから退けられてきた存在を表現した彼女の功績は大きいかも知れませんが、それは例えば彼女が頼った映画という表現を確立した映画(『めまい』など)よりも意味あるものだったのでしょうか?或いは同じ革新性という観点からゴダールの『勝手にしやがれ』が連想されますが、『ジャンヌ・ディエルマン』はゴダール以上に映画の文法を変えたのでしょうか?

筆者はどちらも否だと考えます。『めまい』が与えた影響は『ジャンヌ・ディエルマン』のそれより多分遥かに大きく、仮に革新性という一点を最も高く評価するのだとすれば『勝手にしやがれ』がトップに選ばれるべきだったでしょう。

では何故『ジャンヌ・ディエルマン』は1位に選出されたのか?それは単純に映画として優れているからです。そして筆者には多くの人がこの単純な事実を見落としている様に見受けられるのです。ちょっと新しいことをした程度で1位を取れるほど甘いランキングではありません。映画として優れていることこそが最も大切なのです。

具体的にはカメラとアクション(行動)の関係を辿る事によって、この映画が如何に「誠実」な映画であるか(『ジャンヌ・ディエルマン』を形容する表現として最もしっくりくる言葉だと思います)語っていければと思います。

Delphine Seyrig in Jeanne Dielman, 23 Quai du Commerce, 1080 Bruxelles (1975)

冒頭:キャラクターの提示

201分と長尺の映画ではありますが、長ったらしいな導入で物語を展開するということはなく、殆どが最初のカットで端的に説明されてしまいます。

タイトル・クレジットが終わって最初のカット。ジャンヌ・ディエルマン(主人公)はキッチンに立ち、何やら調味料を手に、コンロに向かっています。鍋に蓋をしてマッチに火を点ける、この瞬間に来訪を告げるベルが鳴ります。驚く素振りも見せないジャンヌは身につけていたコートを脱いで、画面外の棚へ掛けると、これまた画面外のシンクでゆっくりと手を洗います。この動作は音声のみによって説明され、再びフレーム内へ戻ってきたジャンヌはコンロ側に掛けてあった布巾で手を拭きます。キッチンの灯りを消して、部屋の外へ。ここまでが1カットです。

続くカット。ドアの前に立つジャンヌ。お互い顔を見ることは出来ませんが、男性から帽子とコートを受け取っています。彼女は主婦の様ですから、配偶者でしょうか。彼女はそのまま廊下を進んで奥の部屋へと男性、随分高齢の男性を案内します。ここでカット。

全く同じ構図ですが、廊下の灯りが消えています。奥の扉が開いてジャンヌと男性が姿を現しました。電気を戻すジャンヌ。老人は戸口の方へと歩いていきます。帽子とコートを取り、彼に手渡します。

4カット目。老人とジャンヌのミディアム・ショットです。ポケットから紙幣を取り出した老人はそれをジャンヌに手渡すと、「また来週」と言って部屋を後にします。彼を見送ってすぐ、彼女は扉を閉め電気を消します。

5カット目、居間の様な部屋。机に置かれたポットにジャンヌは紙幣を落とします。

続くカット、再び最初のキッチンに戻ります(カメラの位置は全く同じ)。コンロの火を止め、鍋の中身を移し、水を切ります。シンクで使い終わった鍋を洗ったら、再びマッチで点火し、鍋を火に掛けます。そのまま電気を消して、部屋を後に。6カット目が終わります。

7カット目。寝室でベッドの上に皺が寄ったタオルが見えます。ジャンヌは窓を開け、空気を取り込むと別の部屋へ。男性の年齢、手渡された紙幣。くたびれたタオルは彼女が売春をしていたのだと伝えてくれるでしょう。

8カット目。浴室で彼女はタオルをゴミ箱の中に放り込みます。このシーンにはブニュエルの『昼顔』を思わせる部分もあり、彼女の主婦としての一面、社会的抑圧を感じる一場面です。

9カット目。開けておいた窓を閉めると、彼女はベッドを整えます。

10カット目、浴室。バスタブに小さく収まったジャンヌは、水を細々と流しながら体を隅々まで洗います。部屋の様子から終始感じられていたことですが、このシーンに於いて彼女が決して裕福ではないということが示されます(ただし貧困ゆえ売春をしている、という湿った空気は感じられません。彼女の行動はよりドライなものです)。

11カット目、浴室の別アングル。ジャンヌが着衣する様子、ただしキャミソールまでを着た段階で彼女は画面外へ向かいます。

12カット目。バスタブを入念に掃除するジャンヌを写しますが、この際も非常に少ない水と洗剤で済ませてしまいます。

13カット目。ジャンヌはキッチンに戻ると、何事も無かったかの様に料理を再開します。

ここまでで1つのシーン、導入のシーンだと考えることが出来るでしょう。凡そ20分が経過しています。そしてこのシーンは実際ジャンヌというキャラクターと、映画の主題を説明してしまっています。

ジャンヌ・ディエルマン。中年で家事仕事が板に付いた主婦(後のシーンでは彼女の子供が登場し、夫を戦争で亡くした未亡人だと明かされます)。その仕事振りは全くの無機質で、板に付いたという程度ではなく、全くルーティン化されている様です。そのルーティンの中に組み込まれているのが売春という行為で、彼女がベルの音に驚いている様子もないことからそれは明らかであり、またコンロにかけた鍋(夕飯のシーンでそれはジャガイモだったと分かります)が1人の男を相手する間に完璧に仕上がるという位よく計算されています。少しでも料理をする方であれば分かる事ですが、ジャガイモという焦付き/煮崩れしやすい食材を火にかけたまま目を離すというのは相当異常な行為ですし、まして茹で加減がピッタリ整うというのも機会並の正確さを必要とします。

これは余談ですがネット上には映画内で展開される3日間を同じ時系列で並行配置した動画が存在します。それを見ると1日目と2日目、ジャンヌの仕草が全く同一であり、マッチで火を点ける手の運び方から電気を消すタイミングまで、ぴったり一致していることが確認出来ます。その機械的なルーティンが乱されるのが2日目の売春の後なのですが、そのシーンに向かう前にもう少しだけ冒頭のシーンを細かく確認してみましょう。

究極の平等、故の抑圧

13カットの全てに於いて、そしてその後のシーンでもカットは全てジャンヌ・ディエルマン本人によって強いられています。彼女が部屋を移動するからカットが挿入される、ということです。腰より少し低い位置で固定されたカメラは常にジャンヌを中心に収め、彼女が空間から外れた時、初めてカットは為される。

ここでフレーミングに関して少し説明しておくと、よく挙げられる小津安二郎からの影響について筆者はそこまで大きくはないのではないかと考えています。彼の映画は基本的にメロドラマ調であり、画面全体をキャラクターが支配しています。文机やアタッシュケースの一つ一つから登場人物の気配が感じられる様に、極めて日常的に作り込まれています。対して詳しくは後述しますが、ジャンヌ・ディエルマンのフレーミングはより無機質で、あまり彼女の日常が透けて見えることはありません。何れにしても両者の比較は非常に興味深い研究になることでしょう。

さて、こうしたカットの仕方から観客が自然に受け取る印象は『ジャンヌ・ディエルマン』はジャンヌ・ディエルマンについての映画である、ということです。彼女の名前と番地を示したタイトルからも分かる通り、この映画はジャンヌを主人公とした映画である、とここから断言する事が出来るでしょう。

決まった定説というものは存在していませんが、映画の視点というものは以下の要素によって構成されています。

  1. 自覚=多くの映画で、最も自身について自覚的であるキャラクターが語り部となります
  2. 情報=最も多くの情報が提示されるキャラクターは必然的に作品の中心となるでしょう
  3. 伝達=観客にどれだけ積極的に関係し、情報を伝えるか。特にナレーターの場合。

自我が明確に与えられたキャラクターはジャンヌ・ディエルマンと彼女の息子だけであり、その上彼女がスクリーン上に写っている時間の方が長いことからも主人公はジャンヌで疑い様がありません。更にカットの為され方を考えれば、彼女が最も観客と多くをやり取りしていると考えることが出来ます。

これは至極当たり前の事実に聞こえます。しかし、映画を詳しく観察すると寧ろ答えはその逆だと分かります。映画の中に於いて、より正確に言えばフレームの中に於いて、ジャンヌ・ディエルマンの存在は非常に小さいものだからです。

ファースト・カットに戻りましょう。キッチンで料理をしているジャンヌが写っています。一般的な大衆映画であれば、映画の視点は彼女の動作を追いかけるでしょう。ですから、例えば彼女がマッチを手に取るカットであったり、ガス栓を捻る仕草が挿入されるのではないでしょうか?しかし本作に於いてカメラは一切の余計なカットインを省いています。彼女が部屋を移動するその瞬間まで彼女はフレームの中にただ「配置」されているのであって、彼女の主体がカメラと関係することはありません。

例えば『シンドラーのリスト』で赤い服の女の子がフォーカスされる様な、そうした特別な色彩効果も存在しません。音楽は全く挿入されず、diegetic(観客とキャラクターが共に聞くことが出来る)な音響だけが唯一のサウンドです。従って音楽が彼女の感情を強調しているということもありません。

整理しましょう。ここで観察されたのは、映画の主人公は間違いなくジャンヌ・ディエルマンでありながら、フレームの中に於いて彼女の存在は全くフォーカスされない、という矛盾が生じているという事実です。一般的な映画的文法から鑑みるに、フレーム内のジャンヌの取り扱いはキャラクターに対するそれよりも、オブジェクトに対する扱いに近いと言えるのです。ジャンヌは紛れもない主人公でありながら、彼女の動作は極めて正確な、機械の様なもので、行為をしていると言うよりは機能していると表現する方が近しい。

従ってこの映画を分析するに当たって考えなければならない問題は「何故ジャンヌの存在は矮小化された、機械的物体として捉えられているのか」というものになるでしょう。

解釈を巡って

そして恐らくこの問題に対する考え方が『ジャンヌ・ディエルマン』の評価を歪めてしまっているのではないでしょうか。

具体的に例えばマルクス主義的左翼的観点から考えてみます。彼らにとってジャンヌ・ディエルマンは「疎外された存在」です。彼女の機械的な正確さと、ルーティンを遵守する厳格さは正に文明が人間から労働する活力を奪い去り、彼らを彼らを疎外している状態として捉えられる筈です。

実存主義の観点からはどうか。彼女の主体を剥奪された存在は飼い慣らされた存在として、状況に縛り付けられた存在として読むことが出来るでしょう。ですから彼らはジャンヌに対して、「嘔吐」することを、コーヒー・メイカーやタオルの一片に「嘔吐」することを求める筈です。

或いは、そしてこれが最も一般的な見方でしょうが、フェミニズムの観点から。彼女は家庭に押し込められた女性として、且つ男からの性的欲望を受け入れる女性として理解されると思われます。

こうした『ジャンヌ・ディエルマン』の読解は恐らく、どれも一定以上に正しい。そして読解を強いる映画でもある。しかし読解を進めれば進める程に、映画本来が持つクオリティから離れてしまっているのではないか。フェミニズム的読解を進める程に、フェミニズム的観点からの価値だけが残ってしまい、映画に対する評価が社会問題に対する意見表明へとすり替わってしまっているのではないか。

言語を問わず筆者が読んだ『ジャンヌ・ディエルマン』に対する批評はどれもこうした問題を孕んでいる様に感じます。

そしてマルクス主義であれ、実存主義であれフェミニズムであれ、こうした読解はどれも「超テクスト的」(super-textual)なものです。

彼女の生涯については極めて断片的な情報しか提示されず、何故彼女がこうしたルーティンを構築するに至ったのか。彼女の売春は果たして本当に売春なのか、それとも個人的な行為の延長に過ぎないのか。こうした手がかりとなる情報については一切与えられず、従って彼女の抑圧に対する読解は「ある想像された一つの可能性の中での正しさ」でしかあり得ない。

『ジャンヌ・ディエルマン』の素晴らしさを言語化しようと思った時、その時に必要なのは純テクスト的な読解であり、筆者は映画の中で示された事実だけから先の質問に答える事こそが真に『ジャンヌ・ディエルマン』を批評する事であると考えます。

ルーティン + 機械的存在

彼女について、観客が映画の中から読み取り、且つ無条件に正しいと断言できる事実は2つしかないと思われます。それは即ち

  1. ジャンヌの日常は完璧にルーティン化されており、そのルーティンは非常に長い期間遵守されていること
  2. フレーム内に於いてジャンヌの存在が非常に小さなものであること

ジャガイモを調理する様子から、或いはカフェで全く同じ席に座り同じコーヒーを飲んでいる仕草から、彼女のルーティンが長い間続いているということは疑う余地がありません。2つ目の事実についても上で説明された通りです。

我々はこの2つの事実から「何故ジャンヌの存在は矮小化された、機械的物体として捉えられているのか」という質問に対する答えを見つけなければならない。

具体的に考えるに当たって、まずは1つ目の事実、ルーティンについて詳しく観察してみましょう。1日目から2日目の売春の時点まで、彼女のルーティンは完璧な正確さを保っています。超テクスト的な読解を避ける、という観点から我々は彼女が「意識的に」ルーティンを守っているのか、それとも何らかの要因によって「無意識的に」日常がルーティン化されてしまっているのか、それを判断することは出来ません。ただ彼女のルーティンが正確であると分かるだけです。

しかし、そんな彼女の日常は2日目に彼女を訪れた男性の行為が通常よりも長かったことにより、そして結果的にジャガイモが駄目になってしまったことにより乱されてしまう。1つの不協和音は折り重なって次なる不具合を誘発し、日常のズレは次第に大きくなっていきます。3日目の朝、彼女は靴磨きの最中にブラシを落としてしまい、コーヒーは強く作り過ぎてしまう。カフェのいつもの席は誰かに占有されてしまっています。

こうした不具合について彼女は取り乱している様に見えます。映画は冒頭から終幕まで、ずっと同じペースで彼女の日常を追い続けます。201分という上映時間、そして5分以上も続く長回し。こうした映画の「遅さ」は当初は彼女の生活の倦怠感や冗長さを表している様でした。しかし、彼女のルーティンの乱れが酷くなるにつれ、その「遅さ」は不釣り合いなものに感じられます。詰まりジャンヌのルーティンが破壊され、彼女が狼狽している様に見えるにも関わらず、流れる時間はいつも通りゆったりとしたものなのです。そしてこのギャップが大きくなっていることに彼女は自覚的である様に見えます。

例えば3日目の朝、彼女はストーブに火を入れるよりも先に電気をつけてしまいます。この時ジャンヌは「間違った」と呟いたかの様に慌てて灯りを消す。或いは強く作り過ぎたコーヒーにミルクを入れたり、砂糖を入れるジャンヌはどうにかいつもの味に戻そうと試行錯誤している様です。

従ってこれらの描写からジャンヌは「意識的に」自分の生活をルーティン化しており、自分の中に流れる時間が冗長なものであるべきだと考えている様だ、と演繹することが出来るでしょう。この時当初の質問は次の様に言い換えることが出来るかも知れません。

「何故ジャンヌのルーティン化された毎日を表現するに当たって、彼女の主体は剥奪されなければならないのか?」

不条理の哲学

この質問に対して、女性という属性が~と分析することは矢張り「超テクスト的」です。彼女が自分が女性であることに対して自覚的にアクションしている描写は見当たりませんし、従って彼女が自己を抑圧している理由にフェミニズムを持ち出すことは不適当です。第一フェミニズム的な抑圧を自分に進んで科すという読解自体が、抑圧の理由を女性性に求める元々の発想と矛盾してしまっています。

ただ一つはっきりしている事実は、彼女が意識的に自分の生活を制限していること、これだけです。

そして先に述べた通り、彼女の思想は「時間」、「遅さ」を通じて表現されています。ジャンヌがルーティン化によって獲得した時間は映画の進みと一致するものであり、どちらも非常にゆったりとした時間の進み具合です。それでは何故彼女はゆったりとした時間の流れにすがりつこうとしたのか?

フランスの文学者、アルベール・カミュは不条理の哲学を大きく発展させたことで世界的に知られています。彼曰く、不条理とは物体と人間の間に横たわる超えられない矛盾から発生する。詰まり物体に流れる、今日も明日も変わらぬ時間の流れに対して、人間は耐えられず「明日は良い一日になる筈だ」と願わずにはいられない。しかし、その「明日起こる良い事」も10年、100年という物体の時間からすれば些細な出来事に過ぎず、人間は何処かで時間の歩みに辟易せずにはいられない。この時間の歩みの遅さが彼が呼ぶ所の不条理であり、辟易する感情こそ正に人間性に他ならない。

こうした思想を持っていた彼は、人間にとって導き出される道徳とは「最大限の生活」を送ることだ、と宣言しました。詰まり物体の時間の中で行為に等しく価値がないのだとすれば、「何を為すか」は問題とならない。真に大切なこととは「どう為すか」であり、日々変わらず時間の流れを感じて最大限の人生を実感すること。これこそが人間の生き方だと彼は言います。歴史的な出来事を成し遂げ、それ以外の思い出が霞んでしまった10年よりも、時の歩みの遅さに辟易しながら過ごした退屈な10年の方が、同じ10年を「多く」過ごしているのであり、後者の方が彼にとっては優れている訳です。

この不条理の哲学に照らして考えた時、ジャンヌ・ディエルマンの生活は正しく「最大限の生活」だ、と分かるでしょう。彼女が何故ルーティンを築き上げたのかは分からない。しかし、彼女が意識的に「遅い」生活を作り上げていたことは事実であり、それはカミュ流の表現をするならば「不条理な生き方」を選んだ、ということなのです。

そして「不条理な生き方」とは物体の時間を感じることでした。そうです。不条理な時間の流れの中で、彼女の存在はフレームの中で物体と同等に矮小化されてしまうのです。「不条理な生き方」をしている際の彼女は、物体と変わらない退屈さを感じているからです。この点にジャンヌの生活と、その表現方法(=カメラ)との繋がりが見られるでしょう。

クライマックスと反抗

この映画のクライマックスは3日目の顧客をジャンヌがハサミで刺し殺す事によってもたらされます。映画の最後、それは薄暗いリビングで呆然と虚空を見つめる彼女の姿です。5分近くにも及ぶジャンヌの姿、彫像にでもなってしまったかの様な無表情のジャンヌのショットで映画は幕を閉じるのです。

このクライマックスは、彼女が最後に犯す殺人は唐突なものなのでしょうか?

カミュの代表作、『異邦人』もまた意外な殺人によって物語が転換します。主人公ムルソーはある暑い日、敵対的なアラブ人を太陽が暑かったから、と言って射殺してしまいます。

That was when everything shook. (...) I realized that I'd destroyed the balance of the day and the perfect silence of the beach where I'd been happy.  And I fired four more times at a lifeless body and the bullets sank in without leaving a mark. And it was like giving four sharp knocks at the door of unhappiness.

(訳)

その時すべてが変わってしまった。(...)幸せだった一日の調和は乱され、砂浜の静寂は破壊されてしまった。それから私はもう4度、息のない死体に向けて引き金を引いた。銃弾は後を残すことなく沈み込んでいった。それはまるで不幸せの扉を4度、鋭くノックするかの様であった。

「不条理な生き方」であっても、変化がまるで起きないということはありません。河辺の岸が段々と削れて行く様に、人間の生活も変化して行きます。恐らくはより劇的に。

そしてそうした変化に対して、再び不条理を受け入れる為に人間は抵抗していかなければならないでしょう。『異邦人』に関して言えば、太陽の如何ともし難い暑さが平穏を乱す中で、決定的に平穏を破壊するアラブ人が現れた時、ムルソーもまた決定的なアクションを起こさざるを得ません。それがアラブ人の殺害であり、監獄という新たな不条理の受容であった訳です。

ジャンヌに関しても、最早取り返しのつかない程彼女のルーティンが乱されてしまった中で、粘着質な顧客が現れた時、決定的なアクションを起こさざるを得なかったのではないでしょうか。

実際ムルソーの握る引き金が、銀のハサミであったとしたら。殺害するのがアラブ人の代わりに顧客であったとしたら。彼の置かれた状況は非常によくジャンヌ・ディエルマンのそれと似通っています。

As if this great outburst of anger had purged all my ills, killed all my hopes, I looked up at the mass of signs and stars in the night sky and laid myself open for the first time to the benign indifference of the world. And finding it so much like myself, in fact so fraternal, I realized that I’d been happy, and that I was still happy 

(訳)

堰を切った様に溢れた怒りが、まるで私の病気を皆取り除いてしまったかの様に、あらゆる希望を滅してしまったかの様に、私は夜空を見上げ星々を眺めた。横になって初めて、心地よい無関心に身を預けた。それは非常に私に似通っていて、そう実に兄弟であるかの様に似通っていて、私は幸福だったと理解した。そして私は今も幸せなのだとわかった。

『異邦人』の最後、ムルソーは彼の殺人に意味を見出し、彼の人生を理解しようとした神父に対して怒り狂い、お前は人生について何も分かっていないと怒鳴りつけます。そして一通り怒鳴った後、上の様に語るのです。

ここに見られるのは圧倒的なヒューマニズムムルソー個人の人間性の発露です。例え不条理な世界で、不条理な生き方を選んでいたとしても、彼は彼の目線で世界を捉えることを諦めてはいません。暑い砂浜、彼は降りかかった不調和を「彼にとっての不調和」として捉え、それを取り除くために「反抗」していたのです。そして不条理な生き方をしていた自分が、「幸福」であったと最後に理解するのです。

よって彼は進んで、笑顔で電気椅子に縛られんとするでしょう。彼は不条理を受け入れ、彼の視線によって、彼の判断で、不条理と同化するからです。

そしてジャンヌもまた彼女の人間性を諦めてはいません。主体を剥奪したジャンヌは、世界がそれを受け入れなかった時、再び自らの意思で不条理へと向かいます。ルーティンが破壊され、不条理な生き方を否定されたジャンヌは今日も明日もない、圧倒的な虚無の時間を最後に獲得するのです。我々は夜空を見つめるムルソーの様にジャンヌもまた虚空を見つめ幸せだったのだ、と結論したい欲求に駆られます。

まとめ

『ジャンヌ・ディエルマン』は3部構成の映画だ、と筆者は結論づけます。

第一部、不条理な生き方を守る、幸福なパート。

彼女は何らかの理由から長いこと自身の生活をルーティン化して暮らしており、機械並みの正確さで毎日を退屈に過ごしています。カメラは彼女を常に追いかけていますが、彼女に何か特別な主体を付与することはなく、逆に置かれた机やタオルと同じ程度の存在をしか彼女に与えてはくれません。

第二部、秩序が破壊される、混乱のパート。

しかし2日目の午後、売春に予定外の時間を要したことで全てが狂い出します。カメラは相変わらず冗長な時間(=物体の時間)に従っていますが、その中でジャンヌは明らかに困惑しており、彼女の平穏は取り返しのつかない程にまで破壊されてしまいます。

第3部、反抗と気づきのパート。

そして3日目の顧客が現れた時、ムルソーの様に彼女は決定的な行動を取ることを決意します。そして全てが終わり最後、今日も明日もない完璧な不条理に彼女は支配されることになるのです。

 

シャンタル・アケルマンカミュを読んでいたのか、筆者には分かりません。読んでいたとしても恐らく念頭には置いていなかったでしょう。しかし決定的な符号が両者の間にはあり、『異邦人』を通すことで『ジャンヌ・ディエルマン』の物語はより明らかなものとなると筆者は考えます。

そして明らかになった物語とは紛れもないジャンヌの物語に他なりません。そして201分という時間を掛けて描かれたジャンヌの物語は、正しく映画にしか語り得なかった物語だと断言出来ます。第一部の主体の剥奪、これは観客を強制的にジャンヌと同様の時間に放り込む長回しと視点の固定という2つのテクニックなしには成り立ちません。そして第二部に於ける不協和音。これもまた長回しと視点の固定によって常に物体の時間を感じさせることなしには生まれ得ないものです。

既存の映画文法に捉われずに描かれたジャンヌの物語は、『ジャンヌ・ディエルマン』という映画そのものに対して非常に誠実な物語であり、上映時間の最後の瞬間までその方法論を守り続けてみせました。この点に本作の素晴らしさがあると言えます。ただ単に新たな方法論を編み出しただけでなく、それを完璧に主題とマッチさせ且つ最後までそれを貫き通した。

そして第3部、映画はジャンヌのヒューマニズムに寄り添います。ジャンヌについての映画は、最後、ジャンヌに幸福を与えて完結するのです。このキャラクターに対する誠実さ、キャラクターを真に見つめる眼差し。ここに本作の2つ目の素晴らしさがあります。映画として新たな方法を編み出すだけでなく、それをキャラクターの物語として表現した。人を最後まで描き切ってみせた。筆者はこれが『ジャンヌ・ディエルマン』が史上最高の映画に選ばれた理由なのだと考えています。

超テクスト的な読解も結構です。しかし何よりもジャンヌの物語を鑑賞して欲しい。説明の為に今回は『異邦人』と不条理を引き合いに出しましたが、そんなものは本来必要ではありません。

1人の女性の物語を伝える映画として、『ジャンヌ・ディエルマン』は傑作なのであり、その素晴らしさに方法の新しさが新しさが乗っていること。この映画的な素晴らしさを社会的意義に優先してみては如何でしょうか?少なくとも筆者は傑作映画が映画として鑑賞されて欲しいと願っています。