知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】2023年最重要の一人称群像劇、『オッペンハイマー』(ネタバレなし)

24 (Mon). July. 2023

2023年7月21日、クリストファー・ノーラン監督最新作"Oppenheimer"が公開されました。原子爆弾開発を巡る物語の為、プロジェクト発表当初から日本公開が危ぶまれていた本作ですが、案の定公開予定情報等は一切なし。ポール・シュレイダーのMishimaと同じであれば、円盤化もなく伝説の映画と化してしまうことになります。

筆者本人はノーラン作品に対して常々懐疑的な目を向けていたのですが、そうした事情も踏まえ「見られる時に見なくては」という思いで劇場まで足を伸ばしました。そして、これがノーラン史上ベストの圧倒的な傑作だった。

この事実に先ずは素直に驚きながら、純粋に作品の余韻に浸っていたのですが、徐々にある疑念が、詰まり「何故この作品が日本では規制されなければならないのか?」という疑念が筆者の中で大きくなりました。

こういった背景事情を踏まえ、"Oppenheimer"については何かを残して置かなければならない。物書きでも批評家でもない筆者ですが、1つのプラットフォームを持つ人間としてそう感じざるを得ませんでした。このまま日本公開がされない様であれば、その批判として。若し日本公開に成功したのであれば、その際の手引きとして。作品のネタバレは一切なしで映画と日本との関係について、そして本作の重要性について残して置きたいと思います。

普段は海外暮らしを傘に着たナルシスティックな日本批判は避けているのですが、今回ばかりはお許し下さい。最後までお読み頂ければ必ず意味のあるものだと感じて下さることかと思います。

 

 

最初に物語のざっくりとした構成について、次に恐らく問題視されているだろう(或いは公開後にされるだろう)日本描写について、最後にその上で何故公開されなければならないのか、全3部構成で記していこうと思います。

第一部に関してのネタバレは避け、予告編でも解禁されている情報のみに内容は留めますが、そうした枠組みについても知りたくないという方は第2部から読み進めて頂ければ宜しいでしょう。

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Cillian Murphy in Oppenheimer (2023)

1. 物語の枠組み

複雑な物語構造で知られるクリストファー・ノーラン監督ですが、本作にも彼のシグネチャーははっきりと刻まれており、大きく3つの枠を使って原子爆弾という兵器を描いています。

  1. 科学的探究と努力の上に誕生した兵器
  2. 第2次世界大戦を終結させアメリカに世界の覇権をもたらす兵器
  3. アメリカの恐れる共産主義(=ソ連)と奪い合う兵器

①については分かり易いかと思います。J. ロバート・オッペンハイマーという天才量子力学/理論物理学者が研究を主導し、原子爆弾という兵器を開発するまでの物語ですね。②についても想像がつくことかと思います。予告編でナチスの手に渡る前に、といった会話がなされていますがナチス・ドイツが完成させるよりも先に、誰かがいつかは完成させるであろう原子爆弾を開発し、戦争を終結させなければならない。オッペンハイマーは当初そうした正当化を以て兵器開発に身を乗り出します。また一度戦争が終結したならばアメリカは講和をリードし、世界平和の中心となって影響力を誇示することが出来ます。そうした力を持つ兵器としての原子爆弾が描かれます。

そして③、彼について事前にリサーチした方であればご存知かと思いますが、オッペンハイマーのはアメリカ史上のある出来事に於いて共産主義という文脈で語られる人物でもあります。更に原子爆弾を巡っては当然ソ連も研究を進めていた訳ですから、彼は2国間競争の先頭に立って開発に勤しみアメリカに勝利をもたらした人物でもある訳です。そうした対ソ連戦に於いての鍵としても原子爆弾は理解することが出来ます。

そしてこれら3つの側面を持つ原子爆弾の全ての中心に立っていたのがオッペンハイマーであり、映画は彼の人生を中心に、兵器の3つの側面について照らし出す。その上で、それぞれのパートで深く関わる人物が入れ替わり彼の前に登場し、原爆を巡った複雑な群像劇を繰り広げる。これが映画の大きな枠組みとなっています。

ですから、原爆開発の苦難を描いた人間ドラマ(①のみにフォーカスしたサクセス・ストーリー)で大量破壊兵器、大規模殺戮兵器としての原子爆弾を軽く見ている、ということは全くありません。ではその上で何が問題となっているのか、以降で確認したいと思います。

2. 問題点/懸念点、公開が躊躇われている理由

第1の問題点としては映画が被害者/加害者構造に則って展開されている、ということでしょうか。これは勝者/敗者という上下関係に従って展開されている、と表現しても良いかも知れません。

歴史的事実としてアメリカ合衆国は第2次世界大戦の戦勝国ですし、日本は敗戦国です。原子爆弾を等価したのはアメリカで、落とされたのは日本です。その事実は揺らぎません。映画の中でもアメリカは戦争に勝つこと、勝ったことを前提として話は進んで行きますし、当然の様にヒロシマ/ナガサキの民間人は死亡します。

この点から例えば京王線の一件以来地上波で『ジョーカー』及び『ダークナイト』の放映が難しくなった様に、「被害者及び遺族に精神的な負荷を与える作品の公開は避けるべきである」という主張が為されるかも知れません。映画のある場面では上下構造を用いて「死体蹴り」(その意味については伏せますが)の様にも見える場面も登場します。

或いは被害者という主語を日本国民全体に拡張し、「本作を日本で公開することは、イスラエルヒトラーの伝記映画を公開する様なものだ」と訴える方もいるかも知れません。原子爆弾によって甚大な被害を被った日本国民を逆撫でする様な作品は一般的に不適切である、と。

第2の問題点としては日本の扱いが非常に軽いということが挙げられます。物語は全てオッペンハイマーの視点から彼の暮らすアメリカで展開され、ルーズベルト大統領やトルーマン大統領の発言も「アメリカにとって」という観点から為されます。

特に原子爆弾投下の是非を巡って議論を交わす場面、ある人物が偏った歴史理解に基づく、とは言わないまでも非常に誤解を与える様な発言をします。国家中枢メンバーによる最重要機密事項に関する決定ですから、本当の真実は一般人には分かり得ない側面も多いかとは思いますが、だからこそこの映画で交わされる会話とは異なった歴史理解を持つ方も多いと思われ(右左問わず)、故に公開された暁には極端なリアクションも予想されたものと思われます。

どの様な作品にも政治的批判は付きものですが、直接戦争に関わる事案では単なる批判に留まらず実害が出る懸念もあり、安全上の懸念から公開が難しい、ということもあるのでしょうか(法務省から下の様なファイルが公開されていたりもします)。

https://www.moj.go.jp/content/001335851.pdf

最後に第3の問題点としては、被曝者に対する表現に対する批判があるかと思います。原子爆弾投下後の実態については台詞で語られるだけで、映像や写真を用いた説明などはありません。

恐らくこれは映画全体のトーンとしてノーラン独特の機械的な淡々とした語り口を採用していること(故にあからさまな描写は馴染まないこと)、加えて実際の写真を使用した場合レーティングが18となってしまう可能性が高く(イギリスではR-15)、予算との兼ね合いから難しかったという理由があるでしょう。

しかしながら折角世界規模で原子爆弾について取り扱う機会であるのだから実際の写真等を用いて如何に凄惨な光景であったか伝えて欲しい、との意見は的を得たものでもあり、この点に関しては正当性があると思われます。とは言えそれだけの理由で、ノーランほどの監督の超大作映画の公開が差し止めになるとは思いません。

問題はそれ以外の2点にあります。

3. 『オッペンハイマー』が疑うことなき傑作である所以

少なくとも近代以降、我々の暮らすこの社会で正義も悪も存在しません。人生は妥協の連続です。どんな個人も代替可能であり、誰かが欠け落ちたとしても何事もなかったかの様に世界は回り続けます。

どれだけ普段考えまいとしていても或る時フッと脳裏をよぎる通りこれは世界の圧倒的な真実であり、大抵の人間はその真実に気が付かない振りをして日々を暮らしています。仮にこの真実を受け入れないとしても、何か別の真実を選択するとしても、こうした悲劇的な思想を人生で一度も抱いたことの無い人間などいないでしょう。その上で我々はそれを否定しようと努力しているのです。

筆者も脚本などを書いたことのある人間ですが、特にアーティストというものはこの点で非常に苦労するもので、否定し難い人間の生の悲劇的性格について如何なる答えを出すのか。この点に創作の姿勢の全てが左右されているといっても過言ではありません。

科学者と言えどもそれは同じことで、何か特別な科学的発見があり、自分にその発見を成し遂げるだけの才能があり、そして世界の歩みがその発見に向かっている時、善悪は別として発見は必ず為されるというものです。オッペンハイマーは或いは人類史上最も罪深い科学的発見によって歴史に名を残し、そして結果的に今回映画が作られた訳ですが、その罪は彼に責任のあるものではありませんし、彼の残した偉業についても彼に責任はありません。

その人物がオッペンハイマーであろうが、他の名前のどんな人物であろうと歴史に恐らく大差はなく、ただひたすらに世界は回り続けるだけなのです。

映画が描こうとしているのも正にこの点であり、最後オッペンハイマーは"I think I did it"という台詞("I think I caused it"だったかも知れません)を発して作品は終わります。"it"が何かについては触れませんが、その真意は「私はそれを引き起こしてしまった、故に私には責任がある」と言うよりも、寧ろ「私はどうしようもなくそれを引き起こしてしまった、後戻りできないその引き金を引いてしまった」に近い。

オッペンハイマーの発明が幾千人もの命を奪った大元であることは疑いようが無く、また原子爆弾などという兵器が作られるべきではなかったことも事実です。しかし人間の為すことには正義も悪もないのであって、ただ無常に回る世界の中で個人はもがいているだけなのです。本作は一人称の群像劇なのであり、オッペンハイマーの目線から原子爆弾を周りで究極的な善も悪もなく苦しむ人間が出入りしている。

ですから例えば「あなたは何故ここに居るのか」という質問に対して、父親と母親がセックスしたからだ、と答える馬鹿は存在しないでしょう。それは単なる因果関係であり、貴方の存在論は因果関係とは別の地平にあります。同様に原子爆弾を製造した因果関係は彼にあるかも知れませんが、その存在論的価値、「何故作られて、人間はどの様に対処するべきだったのか」と言う問題は別にあるでしょう。

クリストファー・ノーラン監督はキャリアを通して「見えていたもの/見えなかったもの」を描いている監督だという気がしています。『メメント』では記憶を失うことによって徐々に両者が溶け合い1つの意味を解き明かす様な作品でしたし、『TENET テネット』でも後ろ向きの矢と前向きの矢を交互に飛び移ることによって、「見えない」と「見える」の間を反復横跳びして見せていた。

今作でもオッペンハイマーは科学という自分にとってのメガネ=見える化装置を通じ、見えない世界に存在する自己を少しづつ発見していきます。何も彼は自分が大量破壊兵器を作っているという自覚がなかった訳ではなく、まして自分の行為を悪だと考えていなかった訳でもなく、ただ見える世界線で最善を尽くしていたのに過ぎないのだ、と。そして原子爆弾という1人の人間のスケールを超えた発明が生み出された時、一体何が「見える」様になり、何が「見えていなかった」ことに気が付くのか。最後の"I think I did it"という台詞は、その「見える/見えない」の間の境界を理解したという意味であり、ノーランの興味はそこにあったのだと思われます。そもそも彼が単なる伝記映画の制作に関心を示すとも思えません。

オッペンハイマー』という映画は彼の目を通して、原爆という兵器が人間に持つ存在論的影響を描いた作品なのです。

従って、加害者/被害者構造というのは本質的な問題になり得ません。原子爆弾の被害についてはオッペンハイマー自身も「見えていた」事項であり、その上で彼は何が「見えていなかったのか」。単純な善悪という二項対立を超えた先で苦しむ人間の等身大の姿を映画は伝えてくれており、作品を見た筆者としてはこの批判は底が浅いと逆批判せざるを得ません。寧ろ作品が公開されず「見えているもの」だけに留まってしまうことの実害の方が大きいと言えます。

また日本に対する扱いが軽いという批判も同じ理由によって棄却されます。原子爆弾、或いは戦争という問題を扱うに当たって実の所どちらの側にも正義も悪もないのです。日本は戦争に負けたから悪なのか?これはYesとNoで答えられる問題ではなく、また同時にそのどちらでもあるのです。原子爆弾被爆国への歴史的な評価はこの作品の問題ではなく、何度も語っている通り、善悪を超えた不条理な地平で人間は何を「見ているのか/見ていないのか」。これが作品の主題であるのであって、故に日本への配慮も何もないのです。不条理な地平では見方も敵も存在しません。アメリカが勝った、その時の愛国的描写にしても表面的な、オッペンハイマーにとって無価値なものでしかないというのは作品の中でもしっかりと語られています。

その上で個人がどの様な意見を持つか、これは全く個人の自由でしょう。正義も悪も本質的に存在しない世界、その理解に従って筆者はノン=ポリティカルな人間ではありますが、大抵の人々は何らかの政治思想を選択している事だと思います。それは結構なことで、そうした不毛な議論の上に人間の社会は成り立っています。

筆者が今回の件に関して一番問題だと考えているのは、この「個人がどの様な意見を持つか」を選択する機会を余計な忖度によって奪ってしまっている、という点です。

先に例に挙げた京王線の場合であれば、作品と被害がダイレクトに結びついており、その上で与える影響がある程度確からしいと予測されるからこそ「配慮」が必要になります。対して『オッペンハイマー』では作品と予測される被害が全く以て結びつきません。その上で様々生まれるであろう議論の土壌を「無かった事」にしようとしているのですから「忖度」以外の何物でもありません。どこの機関の誰が、誰のどの様な懸念を元に忖度しているのかは知る由もありませんが。

戦後78年が経って、トリニティ実験の描写が与える心理的ストレスが公開に当たっての懸念なのでしょうか?違う筈です。原子爆弾という兵器を巡って一定層の国民が持っている思想に逆行し、何らかの極端な意見が述べられたり行動が取られたりすること。そしてそれに伴って反対の立場からアクションが起こされること。これが公開に当たっての現実的な懸念でしょうし、それが如何なるもので、且つ正当性のない懸念であるか、上で説明された通りでしょう。

しかし議論が起こることを恐れて公開出来ないというのであれば作品が作られた価値はなく、そして我々は思想的不能に陥ってしまうことは言うまでもありません。

「どうせ価値のない命ならば殺してしまえ」と言う暴論が認められないのと同じ様に、「議論を呼ぶ作品だから公開しないのが宜しい」と言う暴論だって認められないのです。

仮に作品が公開されるならば、本記事で予測される様な意見が実際に飛び交うことでしょう。それで結構ではありませんか。彼ほどの頭脳はなくとも我々は皆オッペンハイマーなのであり、正しさも間違いもなく何かを選択し、その度に不毛な議論を繰り広げているのです。余計な忖度の結果議論の土壌が奪われてしまうと言うのは、「見えていたもの/見えていなかったもの」を交換する機会がなくなってしまうということ。そしてそれは作品の主題に真っ向から反対するものであります。

この様な作品が製作されたことに感謝し、意見の衝突を恐れないこと。それこそが『オッペンハイマー』という映画が真に求めていることなのではないかと思います。

 

【ディスカッション】"軽さ"と"異質さ"が際立った2023年上半期の映画たち

8 (Sat). July. 2023

恐らく記事がアップされる頃には上半期ベスト映画配信も終わっている事でしょう。皆様ご覧になって頂けましたでしょうか?果たして筆者は有識者の方々と並んで上手に話せていたのでしょうか?

今回は配信に向けて原稿、というほどのものでもありませんが思考の取りまとめも兼ねて上半期の映画の特徴と映画界のトレンドについて自分なりに整理してみたいと思います。

Margot Robbie in "Babylon" (2022)

全体として

先ずは全体として2023年はここまで不作の年であるとはっきり言って良いと思います。但し映画1つ1つのクオリティが低い為という理由ではなく、もっと時代的な、コントロール出来ない部分での理由による為でしょう。

詳しくは後述しますが、作品単体で見た時の質は決して低いということはなく、挑戦的な映画も数多く公開されていた様に見えます。ただ観客が作品に期待するアプローチと、実際の作品の方向性とに乖離が見られることが多く、或いは求められる要素を満たそうとした結果手堅い仕上がりで小さくまとまってしまったという様な、そうしたミスマッチにより評価を落とさざるを得ない作品が多かった。

因みにこれは大きな視点での話であり、日本映画界は寧ろ作品に恵まれていたのではないでしょうか。筆者個人としては全くチェック出来ておらず(そもそも見る手段がない)、公開情報とTwitterやインターネット上の反応を追うだけになっていますが、それでも優れた作品が多く公開されていたと理解しています。

確かにメジャーの映画に元気のない状態は続いているかも知れませんが、それでも『THE FIRST SLAM DUNK』といった大成功を収めた映画はある訳ですし、何より受け皿としてのインディー/マイナー/アートハウス映画に力がある点が最大の魅力です。

『ある男』、『ケイコ 耳を澄ませて』、『LOVE LIFE』、『怪物』、『BLUE GIANT』、『エゴイスト』、『逃げた男』、『岸辺露伴  ルーヴルへ行く』、『美少女戦士セーラームーンCosmos』...

パッと思いつく作品でも充実のラインナップとなっています(去年の作品もありますが)。メジャーが停滞している時にこそ、マイナー映画が台頭し、それをメジャーが吸収して勢いづく。それこそが健全なサイクルである筈で、少なくとも片方に力があるというだけで日本映画は不作などということは全くなかった。

あくまで映画界全体に対して「不作だ」という表現をしているのであり、それは特に供給量が多い英語作品に、近年注目を集める韓国映画などを指しています。詳しく見ていきましょう。

チャレンジングなメジャー映画

メジャー映画には総合的に挑戦的な作品が多かったと思います。

先ずは『バビロン』。魅力的なヴィジュアルで隠しながらも結局デイミアン・チャゼル監督の個人的映画偏愛映画であり、しかも「窮屈な映画は面白くない」という批判にもなっている。1億1000万ドル(=143億円)規模の予算を使って表現することではないとも思いますし、そもそも大作ミュージカル仕立て映画に観客がそうした口煩い文句を期待するとは思えません。予算と製作者側の意図の間に見られるミスマッチは否定しようもないでしょう。

同様の理由で失敗したのが『リトル・マーメイド』でしょうか。2億5000万ドルというディズニー実写化作品史上最大の予算を投じて製作されたとのことですが、ここまで興行収入は全世界で5億ドル程度と『ライオン・キング』の1/3程度になる見込みです。

 

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ディズニーはそもそも物販収入も込みの経営戦略で成長してきた企業ですから、トータルで見て一応最終黒字は達成できると思いますが、それでも当初目指していた数字には届かないでしょう。しかしキャスト発表の時点で(その正しさはは別として)一部の反感を買うことは容易に予想出来ていましたから、経営戦略として過去最大級の予算を与えたことは失敗でしかなかったと思います。本当にディズニー側がヒットを出せると予想していたのか、或いは企業理念としてリスク込みで挑戦をしたのかは分かりませんが、結果としては『リトル・マーメイド』ではなく『(ハル・ベイリーの)リトル・マーメイド』になってしまった感は否めません。

批評家/観客も『(ハル・ベイリーの)リトル・マーメイド』 という話題性こみでコメントしている様に思えますし、そうした意味で『リトル・マーメイド』に求められていた期待を超えられたとは言えないのではないでしょうか。

新たに指導したDC作品群から『ザ・フラッシュ』は記録的な失敗になる可能性があり(3億ドル近い予算に対して初週5500万ドル)、『シャザム!〜神々の怒り〜』に続いての低空飛行となっています。更に今年8月公開予定の"Blue Beetle"に関しても損失を埋め合わせるほどの成功は期待できないとあってDU Universe全体で苦境が続いており、やはりジェームズ・ガン主導の方針転換がファンに与えたショックは大きかったのでしょう。

ジェームズ・ガン監督が個人として才能に溢れた人物で、多くの観客に訴えることの出来る力があることは既に証明されていると思いますが、そのビジョンの元製作された『ザ・フラッシュ』の失敗はブロックバスター映画に於けるファン・ベースの大切さを物語っています。

結果としては大成功に終わりましたが、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』も所謂イロモノ的な企画でもあったと思いますし、全体としては挑戦的な作品が多かった。そして作品が挑戦的であればある程はっきり言って手頃な興奮が求められる大作映画ですから、反感を買うことも多かった。

つまりは事前の期待とのミスマッチという部分で評価されない作品が多かったと推察されますし、その意味で作品の質には問題がないが、評価も出来ない作品ばかりが並んでしまっているのです。

「軽い」映画たち/マイナー映画の手堅さ

所で、ここまでメジャー/マイナーという表現を何の前書きも無しに使ってきましたが、その意味をここで設定しておきましょう。筆者の言うところのメジャー映画とは、宣伝に資金が投下され、無自覚的に公開日を知ることができる映画、マイナー映画とは批評家がフォローアップ的に宣伝をし、観客が能動的に調べることで公開日を把握できる映画のことを指しています。

例えば『エゴイスト』は日本ではマイナー映画に当たると思いますが、イギリスでは全くの未公開ですからマイナー映画以下、と言うことですね。世界中の未公開映画を漁れば面白い映画に遭遇することは可能な訳で、その意味で不作な年というのは理屈上存在しません。それでも批評家らが作り上げる映画バブルというのが鑑賞体験の核となることもまた事実であり、その意味で筆者はバブルを形成する映画は先に述べた理由で不作だと思っています。

そんな中で「軽さ」が際立ったのが2023年のマイナー映画だったのではないでしょうか。

これには仕方のない側面もあり、特にマイナー映画は「ある程度売れること」がマイナー映画として未公開映画と差別化をする条件になります。配信全盛時代に異国の映画に打ち勝って宣伝される権利を獲得される為にも、それらの映画は「観客が求めるメッセージ」を堅実に表現する方向に流れるでしょう。

『アフターサン』、"Joykand"など、今年公開の映画はそうした予定調和的な感動、興奮が準備されているケースが多いと感じました。しかし先に述べた通りマイナー映画こそ挑戦的な精神が求められている(でなければ規模の小さいメジャー映画として劣化に終わる)以上、そうした映画を評価することは難しいのではないでしょうか。勘違いしないで頂きたいのは批評家がハイブロウでマイナーな映画を評価する時、その理由は殆どの場合独創的な挑戦が行われているからであって、手堅くまとめた小さな作品は総合芸術として大規模な映画に勝てる筈はないのです。

以上の理由で(バブルを形成する)2023年上半期の映画界は不作だった、というのが筆者の印象になります。そうした中でどの様な作品が際立って見えたのか、ランキングと簡単なメモをメモを纏めてみましょう。

 

 

10. Stars at Noon

 

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クレール・ドゥニ監督作、脚本にはレア・ミシウス。sexの隙間に入り込む社会構造という側面は『パリ13区』そのもの。

撮影、音楽共に良し。雰囲気作りの点では一段優れている反面、引き算をしすぎた結果物語上の起伏にはやや欠けるか。それでも安易な解決を与えないストーリーには好感が持てる。

9. バビロン

 

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デイミアン・チャゼル最新作。音楽とダンスの魅力を最大限に引き出した上で、その過剰な演出に見合うよう過激に演出された脚本、という演出。その外連味に対するリアクションで評価は分かれる。

反面0か100かを選択し、振れ幅の大きい映画こそ真に価値がある映画なのでは?メッセージ性も含めて意味のある映画であることは否定できない。

8. エンパイア・オブ・ライト

 

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物語構造はバビロンと同じ、ジャズエイジのハリウッドか、サッチャー時代のイギリスが舞台化という違い。或いは『雨に唄えば』を選択するか、『チャンス』を選択するかという問題でもある。

イギリス人に史上最も嫌われる偉人ことマーガレット・サッチャー時代の貧困、人種差別、混乱の全てを詰め込んだ濃密な映画であり、反面人間的な温かさにも溢れる。リアルなイギリス像。

物語のキーとなる場面でジョニ・ミッチェル『You Turn Me On, I'm a Radio』が流れる。今年のサウンドトラック・オブ・ザ・イヤーは確定でしょう。

7. Scream VI

 

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「何故フランチャイズ映画は続編を出さなければならないのか?」

この点を突き詰めて考えた物語構造の新しさ。『ゾディアック』の脚本家が執筆した脚本と言えばその複雑さにも納得できるだろうか。

ミステリーとしてもソコソコの作りでゴア描写も程よい。Devyn Nekodaさんも可愛い。日本公開しないパラマウント・ジャパンは何を考えているんだ?

6. We're All Going to the World's Fair

 

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インターネット上の怪しげなトレンドに身を投げようとする孤独な少女の物語。自分探し、アイデンティー探しの物語であることは明らかである一方、ネット空間に形成されるコミュニティに対してクリアな表現をしていた点が高ポイント。

どうやら監督が抱えていたセクシュアリティの問題がバック・ボーンにあるらしく、そうした読解も可能かも知れない。予習が」必須とは思わないが、事後的に考察を深めるには役に立つのだろうか。

5. When You Finish Saving the World

 

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日本公開時には「世界なんて救えない私たちの物語」、みたいなキャッチコピーが付きそう。反抗期の浅い知識でイキがる下手くそな歌手と、その母親で他人の子供に猛アタックする女性の物語。

誰も彼もが薄っぺらく見ているのが非常に辛い。しかしその「イタさ」は現実世界の真実でもあり、娯楽として「格好良さ」に変換していない部分には意味があるのでは。ジュリアン・ムーアの演技は過去イチ、こんな上手かったっけ?と驚かされる。

4. Blind Willow, Sleeping Woman

 

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村上春樹短編を繋いで作られたアニメ映画。映像表現の引き出しが広い。アニメでしか作れない映像、アニメでいる価値をよく理解している。最近のディズニーはこの映画を見て初心に蛙べきでは。

単なる原作小説の映画化に留まらず、それらを独自に解釈した上で自然に繋げている所も上手い。村上春樹、アニメ作品に挑戦と言われても信じられると思う。それくらい違和感がない。

3. ザ・ホエール

 

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今年公開の新作からもう一本、ダーレン・アロノフスキー監督の映画です。本作に関しては(先に挙げた『TÁR』を除いて)伝えようとする感情にしっかり重みがあったという点を高く評価しており、しっかりと身体を用いて映画の先へ、先へ踏み込もうとしてくれたという事実が素晴らしいと思えてのランクインとなっています。

筆者の住むイギリスを始め、日本でも今年最も高く評価された映画といえば『aftersun/アフターサン』だろうと思うのですが、筆者にはどうしても認められない、認めたくないと思う部分がありました。幼い娘が見つめる父の姿、そこには(恐らく無理に頑張って)よき父親であろうとする優しさと、壊れそうな胸の痛みがありました。なぜ彼が夜の海に消えていったのか、娘のベッドで寝る彼と本当に同一の存在なのか、時系列はどうなっているのか、ダンス・フロアで共に踊る人物は誰か、それは決して明確にはなりません。その必要もないでしょう。そして娘の目線に込められた思いや、父の苦悩が偽物だったというつもりは毛頭ありません。

しかし『aftersun/アフターサン』が『aftersun/アフターサン』としてでしか語れないのは何故なのでしょうか?詰まり劇中で描かれている感情が映画の枠内に留まり、フワフワとした軽さを以て観客自身に働きかけないのは何故なのでしょうか?結論から言ってしまえば「取り扱う感情に重さを与えず、観客に対して流動的であろうとしているから」だと思う。それは好意的に受け取れば観客に委ね、押し付け型の表現をしないということですが、ネガティヴに捉えれば主体が欠けており、作品の持つ本質的な力を弱めているということでもあります。

「そもそも何かを伝えたいと思うから作品を作るんだろ?等身大のエゴイスティックな表現だって良いじゃないか。人に気を遣う位なら、どうして公開するんだ?」

筆者としては感情自身に重さを与えて、作品に対してより観客の内側へ踏み込んで欲しいと思っています。長くなりました。公開される新作がそうした「気を遣った」作品が多い中で、『ザ・ホエール』は数少ない重みのある映画であったと思っています。恐らくは主演を務めたブレンダン・フレイジャーの肉体のお陰でしょう。娘の方を向こうにも首がまわらない苦しみ、突然息の出来なくなる恐怖。

正しく映画が語りかける通り、カギカッコ付きの、映画の中だけの「真実」ではない、真実が見えた映画だったと思います。フィルモグラフィーの中では目立たない作品だとしても、今年を代表する映画として褒めるべきなのかなと思いました。

2. ガール・アンド・スパイダー

 

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ベルリン映画祭エンカウンター部門に出品されたスイス映画(なんだけどオリジナル・タイトルはドイツ語)。方法論的に圧倒された一本で、筆者の鑑賞本数が足りないだけかも知れませんが、他にこんな映画は見たことがないという独創的な作品。

引越しの手伝いに訪れる友人や遊びにやってきた隣人、その子供などが入り乱れる小さなアパート。画面の前にはある人物が居て、作業をしたり会話を楽しんでいます。カット。カメラは180度切り替わり、先ほどまでのカメラはそこにいた別の人物の視点であったことが知らされます。そして彼/彼女の隣にキャラクターが侵入し、役者が交代。しかし続くショットによって彼らの物語もまた誰かに見られていたものとなるでしょう。

この様な手法で巧みに視点を移動しながら紡ぎ上げる群像劇は、淡々と進むにも関わらず不思議な緊張感に満ちています。これだけでも十分に面白いのですが、更に興味深いのが記憶の取扱い方。

例えばある場面で主人公の女性が、元フラットメイトで引っ越してしまう女性の写真を割ってしまう場面があるのですが、一日の終わり、カメラは誰もいなくなった部屋、床の上に落ちた写真を捉えるのです。他にも物語の中で登場した小道具がダイジェスト的にモンタージュされます。

これは入り乱れる人間関係と感情が、物体に並行移動することで、オブジェクティヴ(object的≒客観的)な物語へと移動しているということでしょうか。そもそも物語の舞台自体が「引越し」であり、設定自体がモノ・空間的です。そして場を移動することで浮かび上がる人間模様を誰かの視点=カメラの視点と擬似的に同化させて伝える、という試み自体がオブジェクティヴだと言えるかも知れません。

モノの陰に潜むヒトを捉えるという試み、筆者はこの映画をその様に受け止めましたが、如何でしょうか。作家というのは往々にして人を描こうとするものですが、そこから一旦離れカメラの客観性という了解を切り崩しつつ、最終的に人に帰ってくるという手腕は素晴らしかったと感じました。

こう書いてみるとロブ=グリエの『嫉妬』なんかと似ていなくもない、様な気がしなくもない様な.....

説明が非常に難しいですが、新鮮な驚きにあふれた一本でした。

1. TÁR/ター

 

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今年公開の新作映画からはトッド・フィールド監督の『TÁR』を推したいと思います。今年は新作のクオリティが絶望的で(田舎町に住んでいる所為で見れる作品が限定的というのもありますが)、ピンと来る作品に出会えていないのですが、無条件に手放しで褒められる唯一の作品でした。

冒頭から学術用語が飛び交い、その後も終始大量の会話が、しかも多言語で飛び交う作品など脚本家目線でとても書けるものではないのですが(企画の段階で却下されるだろう為)、そこを妥協せずレディ・ターという人物を描ききった本作はそれだけでも賞賛されるべき映画です。

加えてメトロノームや赤ちゃんの泣き声を使ったテクニカルな演出と、役者陣の演技。ケイト・ブランシェットが注目されるのは分かりますが、ノエミ・メルランやソフィー・カウアーも素晴らしかった。ソフィー・カウアーなんて本物のチェリストで、映画は初出演ですよ!

講堂でのパワハラ問題や、オチの演出を巡って賛否両論あった様ですが、個人的にはターについての映画で、ターにとって正直な演出を選び続けたんだから映画としては文句なしの100点を上げたいです。

 

 

 

*トップ3に関しては下の記事からの抜粋になっています。お時間のある方は合わせてご覧下さい。

sailcinephile.hatenablog.com

【ランキング】2023年上半期ベスト&ワースト映画

29 (Thu). June. 2023

つむじ風の様な速さで吹き抜け、あっという間に2023年も折り返しです。此方に渡ってからというもの、筆者はめっきりニュースを見ることも無くなり映画を見て、たまに作り、本を読んで、書き物に励むという日々であり、社会から取り残された曖昧な時間にいる所為か、本当に一瞬で過ぎてしまった感があります。

充実した毎日ですが見る映画にも大変恵まれた6ヶ月だった様で、どの映画もそれぞれ新鮮な楽しみを与えてくれたと思います。その中でも特筆すべき9本、それから数少ないワースト映画を2本簡単な感想と共にまとめました。中途半端な本数ですが、無理に選出するよりも誠実で良いだろうと思います。

普段映画の紹介などはしませんが、今回はどれも実りのある映画体験が得られると自信を持ってお勧め出来る映画たちが並んでいることでしょう。

Vincent Gallo and Florence Loiret Caille in Trouble Every Day (2001)

ベスト映画

1. 牯嶺街殺人事件(1991)

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エドワード・ヤン監督が1991年に発表した、3時間57分にも及ぶ青年映画。緻密な人物描写と、堂々として力強い構築の美が魅力の作品で、「三島由紀夫の小説みたいだな」と考えながら見ていました。

映画というものは平たく言って映像(ショット)の連なりである訳ですから、小説などと違ってその材料のみに着目すれば、本質は「視覚的快楽」、「映像的詩性」とかいうものにある訳です。しかしそれらは例えば現代アートの様な作品にも備わっている訳で、やはり映画が映画として生まれ変わる為にはショットがまとまった「構造的美観」というものが、端的に言ってしまえば「話の面白さ」が必要になってくるだろうと思うのです。ですから最上の映画というのは美しい映像を毅然とした構築の上に展開する作品というものではないかと筆者は考える訳ですが、その点でこの作品の右に出る映画はまずないでしょう。

(詳しくは『文藝的な、餘りに文藝的な』、或いは『個人的な余りに個人的な饒舌』をご覧ください)

先の見えない社会、恋心、虚栄心、大人になれない子供の焦り、こうした題材が繊細に観察され、美しくまとめ上げられている。三島文学の様な力強さと儚さが同居しているのだと思います。

クライテリオンから美しい4Kリマスターも発売され、解像度の上がった映像で見られたことも幸いでした。

2. ガーゴイル(2001)

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期待していた『ボーンズ・アンド・オール』がイマイチだった筆者の心の穴を埋めてくれたのが、クレール・ドゥニが2001年に発表した本作でした。DVDに何故か字幕設定が存在せず、フランス語パートが一切分からないという状況の中で視聴したにも関わらず、即座にオール・タイム・ベスト入り確定したという位、個人的には刺さった映画でしたね。

セックスの代わりに相手を食べずにはいられないという歪んだ性欲を持つ2人の男女が導かれ合う。物語としてはこれだけですが、単純な筋立てだからこそクレール・ドゥニの超絶技巧が光っており、情欲や抑圧を言葉を介さずに伝える繊細さに心を奪われました。

というのは建前で、否、事実ではあるのですが、何と言ってもキャラクターの美しさがこの映画の最大の魅力です。

今時ルッキズムだ何だと厳しく批判されそうですが、トリシア・ヴェッセイ、ベアトリス・ダル、フロランス・ロワレ=カイユ、アレックス・デスカス。皆非常に美しい。そしてヴィンセント・ギャロの御尊顔。ティモシー・シャラメの10倍は美しい(個人の感想です...)。

そんなキャラクターが目線や身振りでアンニュイに愛し合うというのだから、美しくない訳がない。最高に幸せな101分でした。

3. TÁR (2022)

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今年公開の新作映画からはトッド・フィールド監督の『TÁR』を推したいと思います。今年は新作のクオリティが絶望的で(田舎町に住んでいる所為で見れる作品が限定的というのもありますが)、ピンと来る作品に出会えていないのですが、無条件に手放しで褒められる唯一の作品でした。

冒頭から学術用語が飛び交い、その後も終始大量の会話が、しかも多言語で飛び交う作品など脚本家目線でとても書けるものではないのですが(企画の段階で却下されるだろう為)、そこを妥協せずレディ・ターという人物を描ききった本作はそれだけでも賞賛されるべき映画です。

加えてメトロノームや赤ちゃんの泣き声を使ったテクニカルな演出と、役者陣の演技。ケイト・ブランシェットが注目されるのは分かりますが、ノエミ・メルランやソフィー・カウアーも素晴らしかった。ソフィー・カウアーなんて本物のチェリストで、映画は初出演ですよ!

講堂でのパワハラ問題や、オチの演出を巡って賛否両論あった様ですが、個人的にはターについての映画で、ターにとって正直な演出を選び続けたんだから映画としては文句なしの100点を上げたいです。

4. ミレニアム・マンボ(2001)

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スー・チーを主演に迎えたホウ・シャオシェンの作品。彼と言えば単純な長回しを積み重ねた様な作風で知られていますが、今作ではその長回しと役者、具体的にはスー・チーとの間に生まれる関係がより有機的で、力強いものになっている様に感じられました。

筋書きとしては少女の視点から語られる『牯嶺街殺人事件』といった形で、だらしないが嫉妬深い彼氏と、立場のしっかりとしたヤクザの2人の男の間を揺れ動く若い女性の物語となっています。決定的に違うのは歴史的背景で、前者は戦後の不安定な情勢の中に於ける不安というものが見え隠れしていましたが、こちらではより一般的な、若さ故の不安というものに重きが置かれている様に見えます。

例えば序盤に次の様な場面があります。彼女がシャワーを浴びている間に、携帯の発信履歴を調べた彼氏が、「何故ウチに居る時にかけなかったんだ、浮気相手だろう」と言って彼女に詰め寄り、繰り返されるそうしたやり取りに飽き飽きした彼女が、家出を試みる、という場面です。3部屋程度の小さな壁の薄いアパートで、ビーズ・カーテンや量産品の衣類に囲まれて、そうした会話が行われるのですが、その場面を凡そ10分近い長回しで収めるのです。

そこら中に染み込んだ貧乏に対する嫌悪や、失われる若さへの焦り、彼女の感じるそうした苛立ちが淡々とした長回しから炙り出される表現は極めて的確だと思いましたし、役者と近過ぎず、遠過ぎず適切な距離感の作品でもあったと思います。

蛇にピアス』などの作品が好きな人には取り分け刺さるのではないでしょうか。

5. ガール・アンド・スパイダー(2021)

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ベルリン映画祭エンカウンター部門に出品されたスイス映画(なんだけどオリジナル・タイトルはドイツ語)。方法論的に圧倒された一本で、筆者の鑑賞本数が足りないだけかも知れませんが、他にこんな映画は見たことがないという独創的な作品。

引越しの手伝いに訪れる友人や遊びにやってきた隣人、その子供などが入り乱れる小さなアパート。画面の前にはある人物が居て、作業をしたり会話を楽しんでいます。カット。カメラは180度切り替わり、先ほどまでのカメラはそこにいた別の人物の視点であったことが知らされます。そして彼/彼女の隣にキャラクターが侵入し、役者が交代。しかし続くショットによって彼らの物語もまた誰かに見られていたものとなるでしょう。

この様な手法で巧みに視点を移動しながら紡ぎ上げる群像劇は、淡々と進むにも関わらず不思議な緊張感に満ちています。これだけでも十分に面白いのですが、更に興味深いのが記憶の取扱い方。

例えばある場面で主人公の女性が、元フラットメイトで引っ越してしまう女性の写真を割ってしまう場面があるのですが、一日の終わり、カメラは誰もいなくなった部屋、床の上に落ちた写真を捉えるのです。他にも物語の中で登場した小道具がダイジェスト的にモンタージュされます。

これは入り乱れる人間関係と感情が、物体に並行移動することで、オブジェクティヴ(object的≒客観的)な物語へと移動しているということでしょうか。そもそも物語の舞台自体が「引越し」であり、設定自体がモノ・空間的です。そして場を移動することで浮かび上がる人間模様を誰かの視点=カメラの視点と擬似的に同化させて伝える、という試み自体がオブジェクティヴだと言えるかも知れません。

モノの陰に潜むヒトを捉えるという試み、筆者はこの映画をその様に受け止めましたが、如何でしょうか。作家というのは往々にして人を描こうとするものですが、そこから一旦離れカメラの客観性という了解を切り崩しつつ、最終的に人に帰ってくるという手腕は素晴らしかったと感じました。

こう書いてみるとロブ=グリエの『嫉妬』なんかと似ていなくもない、様な気がしなくもない様な.....

説明が非常に難しいですが、新鮮な驚きにあふれた一本でした。

6. リバー・オブ・グラス(1991)

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ケリー・ライカート(ケリー・ライヒャルト?)が1991年に発表した処女長編。アメリカのインディペンデント系作品ということでジム・ジャームッシュとの比較がなされることもある様ですが、個人的にはハル・ハートリーにより近しい監督かと思います。

フロリダの片田舎、2児の母、その父でやる気のない警察官、半端者。3人の運命が絡み合います。ある日父が落とした拳銃を事の成り行きで手にした男は、バーで知り合った女(主人公の母親)に声をかけ、侵入した邸宅で酔いの中発砲します。その弾丸が住人に命中したと気づいた2人はそのまま投げやりな逃避行に繰り出し、また責任を問われた父親は実の娘を捜索することに、というのが筋書きです。

ロードムービーが体現する倦怠を主婦の毎日と結びつけ、更にアメリカの労働者階級が持つ停滞感と繋げてみせる手腕は圧巻で、その点センスが全面に出るジャームッシュではなく、生粋のGodardian(ゴダール支持者)であるハル・ハートリーの方が近しいでしょう。物語の組み立ては十分に意識的です。

その上で筆者が強調したいのは「外さないオフ・ビート」ですね。哺乳瓶にコカ・コーラを詰めて飲ませたり、拳銃の管理を怠ったり、強盗に入ったコンビニで別の強盗に襲われたり、という場面は緩い空気と笑いに満ちていますが、その一方で嫌らしい笑いでもあります。シンボリズムという程あからさまではないが、コメディとして外し過ぎている訳でもない。

皮肉と能天気さの間での絶妙な綱渡りに筆者は監督のセンスを最も強く感じました。スパイダーマンガーディアンズ・オブ・ギャラクシーといった映画で特に顕著ですが、わざとらしく一拍置いたオフ・ビートな笑い。こうした笑いが最近の作品にはあり触れている様に感じています。そして気取ったオフ・ビートな「クール」は下品なわざとらしさと紙一重でもあります。

近年のコメディ作品とは一線を画した繊細な語りに筆者は心を奪われてしまいました。"Showing Up"が発表された中で、"First Cow"は劇場公開されるんでしょうか...

7. 胸騒ぎのシチリア(2015)

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筆者のお気に入りの監督トップ3に名を連ねるルカ・グァダニーノティルダ・スウィントンダコタ・ジョンソンと後に『サスペリア』で共演する2人と先立って撮影した映画が本作です。

グァダニーノ作品に関しては賛否がはっきり分かれることも多く、彼を肯定する場合にはその技術力の高さとエモーショナルな美しさを、批判する場合には演出の底の浅さとセンチメンタルなわざとらしさを指摘することになるのでしょう。そのどちらも的を射ているとは思うのですが、グァダニーノ映画の本質は恐らく全く別の所に、具体的には「彼の幸運さ」を楽しむ所にあるのだろうと筆者は考えます。

真っ先に思い浮かぶシーンとしては矢張り『君の名前で僕を呼んで』から、最後にティモシー・シャラメが暖炉の前で涙するシーン。確かに彼の演技力を賞賛することも出来るのでしょうが、どちらかと言えば環境的な力の作用を、その場一回限りのマジックの様な力を筆者は強く感じました。他にも『サスペリア』ではダコタ・ジョンソンの身体に全ての怪奇を委ねることで、ただただ主人公が恐怖し翻弄される原作から差別化して彼女の物語へ昇華することに成功しています。彼女がベット側に佇むだけのショットで母なる力を感じさせる場面には絶対的な面白さがありました。

そして本作はその「ラッキー」が最も強烈に強烈に作用している映画と言えるでしょう。展望台でタバコを勧めるダコタ・ジョンソン、目線だけで「真実」を伝える終盤のディナー・シーン、カラオケに興じるレイフ・ファインズ。どれも素晴らしかったです。筋立てから考えると125分という上映時間は長過ぎるし、自ら「欲望3部作」を自称している割には欲望の捉え方もイマイチで恋模様にスリルの欠片も無い。

ですが、それら全ての欠点を差し置いて役者の演技で全てを解決してしまうという力技。ある意味最も映画らしい映画ではありませんか。彼の監督としての才能に屈服し、ベストに入れないという訳にはいきませんでした。

8. ダムネーション - 天罰 - (1987)

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ハンガリーを代表する監督、タル・ベーラが手掛けた一応のノワールもの?

タイタニックと名付けられたバーで"It's all over"と歌う女歌手に惚れ込んだ男の物語。『サタンタンゴ』のお陰かすっかり彼の代名詞となった長回しが冒頭から輝いています。

レールに乗ってゴンドラ(石炭を運ぶトロッコだと後に判明)が流れる風景、単なる場面設定かと思いきやカメラが徐々に交代し、窓枠越しのショットであったこと、そしてその退屈な部屋に住む男が髭を剃る様子に繋がっていく。一度彼が外に出れば、うら寂しい打ちっ放しのコンクリート・ビルに雨が降り注ぎ、その泥水の中を野良犬が駆けて行きます。

そんな世界は(スロバキア監督ですが)イヴァン・オストゥロホヴスキーの『神に仕える者たち』(2020)といった近年の映画にまで共通し、或いは(チェコ出身ではありますが)ミラン・クンデラといった作家の作品にも共通する東欧社会そのままである様に見えます。殆ど一緒に見えるのは、筆者に東欧理解が足りないからかも知れません。

ともかくそんな共産主義圏で、世界に絶望し協力者=労働者となることを拒んだ男の前には、自己本位な愛を注ぐ女性だけが写っています(そしてこの女性もまた同様に破滅した存在でもある)。そんな彼が女性の「ある行為」を目撃してしまった時、それは完璧な喪失であり社会に対する屈服ともなるでしょう。

映画を代表する最後の衝撃的なカットには、体制の「犬」となってしまったことのやるせなさ、そして東欧社会の閉塞感が等身大で映し出されている様にも見えました。中弛みを感じる場面もありましたし、そうした場面では長回し裏目に出てしまった感もありました。とは言え全体のクオリティとして見れば圧倒的、文句なしのベスト映画です。

9. ザ・ホエール(2022)

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今年公開の新作からもう一本、ダーレン・アロノフスキー監督の映画です。本作に関しては(先に挙げた『TÁR』を除いて)伝えようとする感情にしっかり重みがあったという点を高く評価しており、しっかりと身体を用いて映画の先へ、先へ踏み込もうとしてくれたという事実が素晴らしいと思えてのランクインとなっています。

筆者の住むイギリスを始め、日本でも今年最も高く評価された映画といえば『aftersun/アフターサン』だろうと思うのですが、筆者にはどうしても認められない、認めたくないと思う部分がありました。幼い娘が見つめる父の姿、そこには(恐らく無理に頑張って)よき父親であろうとする優しさと、壊れそうな胸の痛みがありました。なぜ彼が夜の海に消えていったのか、娘のベッドで寝る彼と本当に同一の存在なのか、時系列はどうなっているのか、ダンス・フロアで共に踊る人物は誰か、それは決して明確にはなりません。その必要もないでしょう。そして娘の目線に込められた思いや、父の苦悩が偽物だったというつもりは毛頭ありません。

しかし『aftersun/アフターサン』が『aftersun/アフターサン』としてでしか語れないのは何故なのでしょうか?詰まり劇中で描かれている感情が映画の枠内に留まり、フワフワとした軽さを以て観客自身に働きかけないのは何故なのでしょうか?結論から言ってしまえば「取り扱う感情に重さを与えず、観客に対して流動的であろうとしているから」だと思う。それは好意的に受け取れば観客に委ね、押し付け型の表現をしないということですが、ネガティヴに捉えれば主体が欠けており、作品の持つ本質的な力を弱めているということでもあります。

「そもそも何かを伝えたいと思うから作品を作るんだろ?等身大のエゴイスティックな表現だって良いじゃないか。人に気を遣う位なら、どうして公開するんだ?」

筆者としては感情自身に重さを与えて、作品に対してより観客の内側へ踏み込んで欲しいと思っています。長くなりました。公開される新作がそうした「気を遣った」作品が多い中で、『ザ・ホエール』は数少ない重みのある映画であったと思っています。恐らくは主演を務めたブレンダン・フレイジャーの肉体のお陰でしょう。娘の方を向こうにも首がまわらない苦しみ、突然息の出来なくなる恐怖。

正しく映画が語りかける通り、カギカッコ付きの、映画の中だけの「真実」ではない、真実が見えた映画だったと思います。フィルモグラフィーの中では目立たない作品だとしても、今年を代表する映画として褒めるべきなのかなと思いました。

 

 

ワースト映画

1. 桜桃の味(1997)

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今村昌平監督の『うなぎ』と並んでカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞した、実績的には文句なしの名作。しかしながら個人的には構造的にも、作品の質としても大きな問題がある様に感じました。

まず構造的な欠陥として、本作は2つの矛盾するアプローチを並行して選択しているという点が指摘されるでしょう。

自殺を決意した主人公が翌朝自分に土を掛けてくれる協力者を探す、というプロットなのですが、クライマックスの場面。主人公は報酬の入った自分の車の代わりにタクシーで現場まで出向き、それ以前にも協力者に「石をぶつけてくれよ、生きてるかも知れないから」などと語りかけます。ここで見られるのは死を前にした人間味であり、生の香りです。甘ったるいロマンティシズムです。対して人というのはもっと簡単に死んでいくのです。

それでは、ロマンティシズムとして例えば『人間失格』の様に彼の人生が展開されるのかと言えばそういうことはなく、上映時間の殆どは主人公が如何にして自分には死ぬ権利があるか滔々と語り、協力を仰ぐのみです。我々が聞くのは一種の存在論、神義論であり、自殺が如何に正当化されるのか、この問題が議論される。撮影的に見ても、脚本的な最後の落とし所を見ても此方が作品の意図である様なのですが、だとすれば最後に見える甘ったるさは余計だろうと。

そして作品の質としても問題があり、展開される神義論が薄い。油取り紙と同じ位に薄い。真剣に描き切る覚悟がないなら自殺なんて思いテーマを扱うんじゃないという話ですね。

名作だとの評を聞いて鑑賞した初キアロスタミでしたが、苦手意識を持ってしまう結果となりました。

 

*こちらの作品もCriterion Collectionから4Kレストア版が発売されています。添付の動画と比べて数倍の画質でご覧頂けます。

2. 正しい日 間違えた日(2015)

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同じく初めて挑戦した監督の映画で失敗したのが此方、ホン・サンスの作品ですね。上にも述べた通り、映画にはある程度の「構造的美観」というのが必要である様に思います。それは主題の統一かもしれないし、様式の統一かも知れず、或いはそのどちらでもあるかも知れませんが、とにかく何らかの構築への意識が存在するべきではないでしょうか。

そして本作は、「女性と上手くいかなかった一日」を「上手くいった一日」に比較させることで全体の構造を打ち立てようとしているのですが、そもそも関係性というのは「上手くいく/いかない」という描き方をするものではありません。関係性というのは飽くまで間にある記号であって、そこに友情やら愛やらが乗って初めて意味を持つのです。

だから「上手くいく/いかない」という構図を作った以上、「何が」という疑問に答えなければありませんが、それがない。よって構築に美しさがない。

下心丸出しの映画監督が女優にsexをせがむ、という内容であればまだ気持ち悪いと断じて終わりに出来ましたが、ふんわりと対照的な2つの事例を並べて人を描けたと思っているのは自分に自信がない証拠でしょう。不倫までして何度も映画撮ってるんだったら、それに見合う中身を詰め込んで欲しいものです。

 

 

 

【映画解説】視点の設定とフレームの作り方 /ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コルメス湖畔通り23番地(1975)

26 (Fri). May. 2023

今学期のモジュールは先日新たに発表されたSight & Sound誌が選ぶ歴代映画top250(批評家選出部門)からピックアップした映画を選び、「名作は何故名作と呼ばれるか」その所以を考える、というものでした。

既に皆さんご存知の通り、批評家選出部門ではシャンタル・アケルマン監督の『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コルメス湖畔通り23番地』(以下『ジャンヌ・ディエルマン』)が堂々の1位を、監督選出部門でも4位を獲得するという結果に終わっています。

どうやら日本ではシャンタル・アケルマン映画祭なるものが開催されていたらしく、彼女の作品の受容も広まってきた感があるのは大変喜ばしい。しかしその反面レビューや解説を読む限り、作品の既存の映画文法を破壊した革新性、特に排斥されがちだった主婦の日常を収めた意味ばかりが取り上げられている様に見えます(それは大変正しいのですが)。

しかし、果たして歴代映画のベストに君臨する映画が持つ価値としてそれは充分なのでしょうか?もっとシンプルな言い方をしましょう。スクリーンから退けられてきた存在を表現した彼女の功績は大きいかも知れませんが、それは例えば彼女が頼った映画という表現を確立した映画(『めまい』など)よりも意味あるものだったのでしょうか?或いは同じ革新性という観点からゴダールの『勝手にしやがれ』が連想されますが、『ジャンヌ・ディエルマン』はゴダール以上に映画の文法を変えたのでしょうか?

筆者はどちらも否だと考えます。『めまい』が与えた影響は『ジャンヌ・ディエルマン』のそれより多分遥かに大きく、仮に革新性という一点を最も高く評価するのだとすれば『勝手にしやがれ』がトップに選ばれるべきだったでしょう。

では何故『ジャンヌ・ディエルマン』は1位に選出されたのか?それは単純に映画として優れているからです。そして筆者には多くの人がこの単純な事実を見落としている様に見受けられるのです。ちょっと新しいことをした程度で1位を取れるほど甘いランキングではありません。映画として優れていることこそが最も大切なのです。

具体的にはカメラとアクション(行動)の関係を辿る事によって、この映画が如何に「誠実」な映画であるか(『ジャンヌ・ディエルマン』を形容する表現として最もしっくりくる言葉だと思います)語っていければと思います。

Delphine Seyrig in Jeanne Dielman, 23 Quai du Commerce, 1080 Bruxelles (1975)

冒頭:キャラクターの提示

201分と長尺の映画ではありますが、長ったらしいな導入で物語を展開するということはなく、殆どが最初のカットで端的に説明されてしまいます。

タイトル・クレジットが終わって最初のカット。ジャンヌ・ディエルマン(主人公)はキッチンに立ち、何やら調味料を手に、コンロに向かっています。鍋に蓋をしてマッチに火を点ける、この瞬間に来訪を告げるベルが鳴ります。驚く素振りも見せないジャンヌは身につけていたコートを脱いで、画面外の棚へ掛けると、これまた画面外のシンクでゆっくりと手を洗います。この動作は音声のみによって説明され、再びフレーム内へ戻ってきたジャンヌはコンロ側に掛けてあった布巾で手を拭きます。キッチンの灯りを消して、部屋の外へ。ここまでが1カットです。

続くカット。ドアの前に立つジャンヌ。お互い顔を見ることは出来ませんが、男性から帽子とコートを受け取っています。彼女は主婦の様ですから、配偶者でしょうか。彼女はそのまま廊下を進んで奥の部屋へと男性、随分高齢の男性を案内します。ここでカット。

全く同じ構図ですが、廊下の灯りが消えています。奥の扉が開いてジャンヌと男性が姿を現しました。電気を戻すジャンヌ。老人は戸口の方へと歩いていきます。帽子とコートを取り、彼に手渡します。

4カット目。老人とジャンヌのミディアム・ショットです。ポケットから紙幣を取り出した老人はそれをジャンヌに手渡すと、「また来週」と言って部屋を後にします。彼を見送ってすぐ、彼女は扉を閉め電気を消します。

5カット目、居間の様な部屋。机に置かれたポットにジャンヌは紙幣を落とします。

続くカット、再び最初のキッチンに戻ります(カメラの位置は全く同じ)。コンロの火を止め、鍋の中身を移し、水を切ります。シンクで使い終わった鍋を洗ったら、再びマッチで点火し、鍋を火に掛けます。そのまま電気を消して、部屋を後に。6カット目が終わります。

7カット目。寝室でベッドの上に皺が寄ったタオルが見えます。ジャンヌは窓を開け、空気を取り込むと別の部屋へ。男性の年齢、手渡された紙幣。くたびれたタオルは彼女が売春をしていたのだと伝えてくれるでしょう。

8カット目。浴室で彼女はタオルをゴミ箱の中に放り込みます。このシーンにはブニュエルの『昼顔』を思わせる部分もあり、彼女の主婦としての一面、社会的抑圧を感じる一場面です。

9カット目。開けておいた窓を閉めると、彼女はベッドを整えます。

10カット目、浴室。バスタブに小さく収まったジャンヌは、水を細々と流しながら体を隅々まで洗います。部屋の様子から終始感じられていたことですが、このシーンに於いて彼女が決して裕福ではないということが示されます(ただし貧困ゆえ売春をしている、という湿った空気は感じられません。彼女の行動はよりドライなものです)。

11カット目、浴室の別アングル。ジャンヌが着衣する様子、ただしキャミソールまでを着た段階で彼女は画面外へ向かいます。

12カット目。バスタブを入念に掃除するジャンヌを写しますが、この際も非常に少ない水と洗剤で済ませてしまいます。

13カット目。ジャンヌはキッチンに戻ると、何事も無かったかの様に料理を再開します。

ここまでで1つのシーン、導入のシーンだと考えることが出来るでしょう。凡そ20分が経過しています。そしてこのシーンは実際ジャンヌというキャラクターと、映画の主題を説明してしまっています。

ジャンヌ・ディエルマン。中年で家事仕事が板に付いた主婦(後のシーンでは彼女の子供が登場し、夫を戦争で亡くした未亡人だと明かされます)。その仕事振りは全くの無機質で、板に付いたという程度ではなく、全くルーティン化されている様です。そのルーティンの中に組み込まれているのが売春という行為で、彼女がベルの音に驚いている様子もないことからそれは明らかであり、またコンロにかけた鍋(夕飯のシーンでそれはジャガイモだったと分かります)が1人の男を相手する間に完璧に仕上がるという位よく計算されています。少しでも料理をする方であれば分かる事ですが、ジャガイモという焦付き/煮崩れしやすい食材を火にかけたまま目を離すというのは相当異常な行為ですし、まして茹で加減がピッタリ整うというのも機会並の正確さを必要とします。

これは余談ですがネット上には映画内で展開される3日間を同じ時系列で並行配置した動画が存在します。それを見ると1日目と2日目、ジャンヌの仕草が全く同一であり、マッチで火を点ける手の運び方から電気を消すタイミングまで、ぴったり一致していることが確認出来ます。その機械的なルーティンが乱されるのが2日目の売春の後なのですが、そのシーンに向かう前にもう少しだけ冒頭のシーンを細かく確認してみましょう。

究極の平等、故の抑圧

13カットの全てに於いて、そしてその後のシーンでもカットは全てジャンヌ・ディエルマン本人によって強いられています。彼女が部屋を移動するからカットが挿入される、ということです。腰より少し低い位置で固定されたカメラは常にジャンヌを中心に収め、彼女が空間から外れた時、初めてカットは為される。

ここでフレーミングに関して少し説明しておくと、よく挙げられる小津安二郎からの影響について筆者はそこまで大きくはないのではないかと考えています。彼の映画は基本的にメロドラマ調であり、画面全体をキャラクターが支配しています。文机やアタッシュケースの一つ一つから登場人物の気配が感じられる様に、極めて日常的に作り込まれています。対して詳しくは後述しますが、ジャンヌ・ディエルマンのフレーミングはより無機質で、あまり彼女の日常が透けて見えることはありません。何れにしても両者の比較は非常に興味深い研究になることでしょう。

さて、こうしたカットの仕方から観客が自然に受け取る印象は『ジャンヌ・ディエルマン』はジャンヌ・ディエルマンについての映画である、ということです。彼女の名前と番地を示したタイトルからも分かる通り、この映画はジャンヌを主人公とした映画である、とここから断言する事が出来るでしょう。

決まった定説というものは存在していませんが、映画の視点というものは以下の要素によって構成されています。

  1. 自覚=多くの映画で、最も自身について自覚的であるキャラクターが語り部となります
  2. 情報=最も多くの情報が提示されるキャラクターは必然的に作品の中心となるでしょう
  3. 伝達=観客にどれだけ積極的に関係し、情報を伝えるか。特にナレーターの場合。

自我が明確に与えられたキャラクターはジャンヌ・ディエルマンと彼女の息子だけであり、その上彼女がスクリーン上に写っている時間の方が長いことからも主人公はジャンヌで疑い様がありません。更にカットの為され方を考えれば、彼女が最も観客と多くをやり取りしていると考えることが出来ます。

これは至極当たり前の事実に聞こえます。しかし、映画を詳しく観察すると寧ろ答えはその逆だと分かります。映画の中に於いて、より正確に言えばフレームの中に於いて、ジャンヌ・ディエルマンの存在は非常に小さいものだからです。

ファースト・カットに戻りましょう。キッチンで料理をしているジャンヌが写っています。一般的な大衆映画であれば、映画の視点は彼女の動作を追いかけるでしょう。ですから、例えば彼女がマッチを手に取るカットであったり、ガス栓を捻る仕草が挿入されるのではないでしょうか?しかし本作に於いてカメラは一切の余計なカットインを省いています。彼女が部屋を移動するその瞬間まで彼女はフレームの中にただ「配置」されているのであって、彼女の主体がカメラと関係することはありません。

例えば『シンドラーのリスト』で赤い服の女の子がフォーカスされる様な、そうした特別な色彩効果も存在しません。音楽は全く挿入されず、diegetic(観客とキャラクターが共に聞くことが出来る)な音響だけが唯一のサウンドです。従って音楽が彼女の感情を強調しているということもありません。

整理しましょう。ここで観察されたのは、映画の主人公は間違いなくジャンヌ・ディエルマンでありながら、フレームの中に於いて彼女の存在は全くフォーカスされない、という矛盾が生じているという事実です。一般的な映画的文法から鑑みるに、フレーム内のジャンヌの取り扱いはキャラクターに対するそれよりも、オブジェクトに対する扱いに近いと言えるのです。ジャンヌは紛れもない主人公でありながら、彼女の動作は極めて正確な、機械の様なもので、行為をしていると言うよりは機能していると表現する方が近しい。

従ってこの映画を分析するに当たって考えなければならない問題は「何故ジャンヌの存在は矮小化された、機械的物体として捉えられているのか」というものになるでしょう。

解釈を巡って

そして恐らくこの問題に対する考え方が『ジャンヌ・ディエルマン』の評価を歪めてしまっているのではないでしょうか。

具体的に例えばマルクス主義的左翼的観点から考えてみます。彼らにとってジャンヌ・ディエルマンは「疎外された存在」です。彼女の機械的な正確さと、ルーティンを遵守する厳格さは正に文明が人間から労働する活力を奪い去り、彼らを彼らを疎外している状態として捉えられる筈です。

実存主義の観点からはどうか。彼女の主体を剥奪された存在は飼い慣らされた存在として、状況に縛り付けられた存在として読むことが出来るでしょう。ですから彼らはジャンヌに対して、「嘔吐」することを、コーヒー・メイカーやタオルの一片に「嘔吐」することを求める筈です。

或いは、そしてこれが最も一般的な見方でしょうが、フェミニズムの観点から。彼女は家庭に押し込められた女性として、且つ男からの性的欲望を受け入れる女性として理解されると思われます。

こうした『ジャンヌ・ディエルマン』の読解は恐らく、どれも一定以上に正しい。そして読解を強いる映画でもある。しかし読解を進めれば進める程に、映画本来が持つクオリティから離れてしまっているのではないか。フェミニズム的読解を進める程に、フェミニズム的観点からの価値だけが残ってしまい、映画に対する評価が社会問題に対する意見表明へとすり替わってしまっているのではないか。

言語を問わず筆者が読んだ『ジャンヌ・ディエルマン』に対する批評はどれもこうした問題を孕んでいる様に感じます。

そしてマルクス主義であれ、実存主義であれフェミニズムであれ、こうした読解はどれも「超テクスト的」(super-textual)なものです。

彼女の生涯については極めて断片的な情報しか提示されず、何故彼女がこうしたルーティンを構築するに至ったのか。彼女の売春は果たして本当に売春なのか、それとも個人的な行為の延長に過ぎないのか。こうした手がかりとなる情報については一切与えられず、従って彼女の抑圧に対する読解は「ある想像された一つの可能性の中での正しさ」でしかあり得ない。

『ジャンヌ・ディエルマン』の素晴らしさを言語化しようと思った時、その時に必要なのは純テクスト的な読解であり、筆者は映画の中で示された事実だけから先の質問に答える事こそが真に『ジャンヌ・ディエルマン』を批評する事であると考えます。

ルーティン + 機械的存在

彼女について、観客が映画の中から読み取り、且つ無条件に正しいと断言できる事実は2つしかないと思われます。それは即ち

  1. ジャンヌの日常は完璧にルーティン化されており、そのルーティンは非常に長い期間遵守されていること
  2. フレーム内に於いてジャンヌの存在が非常に小さなものであること

ジャガイモを調理する様子から、或いはカフェで全く同じ席に座り同じコーヒーを飲んでいる仕草から、彼女のルーティンが長い間続いているということは疑う余地がありません。2つ目の事実についても上で説明された通りです。

我々はこの2つの事実から「何故ジャンヌの存在は矮小化された、機械的物体として捉えられているのか」という質問に対する答えを見つけなければならない。

具体的に考えるに当たって、まずは1つ目の事実、ルーティンについて詳しく観察してみましょう。1日目から2日目の売春の時点まで、彼女のルーティンは完璧な正確さを保っています。超テクスト的な読解を避ける、という観点から我々は彼女が「意識的に」ルーティンを守っているのか、それとも何らかの要因によって「無意識的に」日常がルーティン化されてしまっているのか、それを判断することは出来ません。ただ彼女のルーティンが正確であると分かるだけです。

しかし、そんな彼女の日常は2日目に彼女を訪れた男性の行為が通常よりも長かったことにより、そして結果的にジャガイモが駄目になってしまったことにより乱されてしまう。1つの不協和音は折り重なって次なる不具合を誘発し、日常のズレは次第に大きくなっていきます。3日目の朝、彼女は靴磨きの最中にブラシを落としてしまい、コーヒーは強く作り過ぎてしまう。カフェのいつもの席は誰かに占有されてしまっています。

こうした不具合について彼女は取り乱している様に見えます。映画は冒頭から終幕まで、ずっと同じペースで彼女の日常を追い続けます。201分という上映時間、そして5分以上も続く長回し。こうした映画の「遅さ」は当初は彼女の生活の倦怠感や冗長さを表している様でした。しかし、彼女のルーティンの乱れが酷くなるにつれ、その「遅さ」は不釣り合いなものに感じられます。詰まりジャンヌのルーティンが破壊され、彼女が狼狽している様に見えるにも関わらず、流れる時間はいつも通りゆったりとしたものなのです。そしてこのギャップが大きくなっていることに彼女は自覚的である様に見えます。

例えば3日目の朝、彼女はストーブに火を入れるよりも先に電気をつけてしまいます。この時ジャンヌは「間違った」と呟いたかの様に慌てて灯りを消す。或いは強く作り過ぎたコーヒーにミルクを入れたり、砂糖を入れるジャンヌはどうにかいつもの味に戻そうと試行錯誤している様です。

従ってこれらの描写からジャンヌは「意識的に」自分の生活をルーティン化しており、自分の中に流れる時間が冗長なものであるべきだと考えている様だ、と演繹することが出来るでしょう。この時当初の質問は次の様に言い換えることが出来るかも知れません。

「何故ジャンヌのルーティン化された毎日を表現するに当たって、彼女の主体は剥奪されなければならないのか?」

不条理の哲学

この質問に対して、女性という属性が~と分析することは矢張り「超テクスト的」です。彼女が自分が女性であることに対して自覚的にアクションしている描写は見当たりませんし、従って彼女が自己を抑圧している理由にフェミニズムを持ち出すことは不適当です。第一フェミニズム的な抑圧を自分に進んで科すという読解自体が、抑圧の理由を女性性に求める元々の発想と矛盾してしまっています。

ただ一つはっきりしている事実は、彼女が意識的に自分の生活を制限していること、これだけです。

そして先に述べた通り、彼女の思想は「時間」、「遅さ」を通じて表現されています。ジャンヌがルーティン化によって獲得した時間は映画の進みと一致するものであり、どちらも非常にゆったりとした時間の進み具合です。それでは何故彼女はゆったりとした時間の流れにすがりつこうとしたのか?

フランスの文学者、アルベール・カミュは不条理の哲学を大きく発展させたことで世界的に知られています。彼曰く、不条理とは物体と人間の間に横たわる超えられない矛盾から発生する。詰まり物体に流れる、今日も明日も変わらぬ時間の流れに対して、人間は耐えられず「明日は良い一日になる筈だ」と願わずにはいられない。しかし、その「明日起こる良い事」も10年、100年という物体の時間からすれば些細な出来事に過ぎず、人間は何処かで時間の歩みに辟易せずにはいられない。この時間の歩みの遅さが彼が呼ぶ所の不条理であり、辟易する感情こそ正に人間性に他ならない。

こうした思想を持っていた彼は、人間にとって導き出される道徳とは「最大限の生活」を送ることだ、と宣言しました。詰まり物体の時間の中で行為に等しく価値がないのだとすれば、「何を為すか」は問題とならない。真に大切なこととは「どう為すか」であり、日々変わらず時間の流れを感じて最大限の人生を実感すること。これこそが人間の生き方だと彼は言います。歴史的な出来事を成し遂げ、それ以外の思い出が霞んでしまった10年よりも、時の歩みの遅さに辟易しながら過ごした退屈な10年の方が、同じ10年を「多く」過ごしているのであり、後者の方が彼にとっては優れている訳です。

この不条理の哲学に照らして考えた時、ジャンヌ・ディエルマンの生活は正しく「最大限の生活」だ、と分かるでしょう。彼女が何故ルーティンを築き上げたのかは分からない。しかし、彼女が意識的に「遅い」生活を作り上げていたことは事実であり、それはカミュ流の表現をするならば「不条理な生き方」を選んだ、ということなのです。

そして「不条理な生き方」とは物体の時間を感じることでした。そうです。不条理な時間の流れの中で、彼女の存在はフレームの中で物体と同等に矮小化されてしまうのです。「不条理な生き方」をしている際の彼女は、物体と変わらない退屈さを感じているからです。この点にジャンヌの生活と、その表現方法(=カメラ)との繋がりが見られるでしょう。

クライマックスと反抗

この映画のクライマックスは3日目の顧客をジャンヌがハサミで刺し殺す事によってもたらされます。映画の最後、それは薄暗いリビングで呆然と虚空を見つめる彼女の姿です。5分近くにも及ぶジャンヌの姿、彫像にでもなってしまったかの様な無表情のジャンヌのショットで映画は幕を閉じるのです。

このクライマックスは、彼女が最後に犯す殺人は唐突なものなのでしょうか?

カミュの代表作、『異邦人』もまた意外な殺人によって物語が転換します。主人公ムルソーはある暑い日、敵対的なアラブ人を太陽が暑かったから、と言って射殺してしまいます。

That was when everything shook. (...) I realized that I'd destroyed the balance of the day and the perfect silence of the beach where I'd been happy.  And I fired four more times at a lifeless body and the bullets sank in without leaving a mark. And it was like giving four sharp knocks at the door of unhappiness.

(訳)

その時すべてが変わってしまった。(...)幸せだった一日の調和は乱され、砂浜の静寂は破壊されてしまった。それから私はもう4度、息のない死体に向けて引き金を引いた。銃弾は後を残すことなく沈み込んでいった。それはまるで不幸せの扉を4度、鋭くノックするかの様であった。

「不条理な生き方」であっても、変化がまるで起きないということはありません。河辺の岸が段々と削れて行く様に、人間の生活も変化して行きます。恐らくはより劇的に。

そしてそうした変化に対して、再び不条理を受け入れる為に人間は抵抗していかなければならないでしょう。『異邦人』に関して言えば、太陽の如何ともし難い暑さが平穏を乱す中で、決定的に平穏を破壊するアラブ人が現れた時、ムルソーもまた決定的なアクションを起こさざるを得ません。それがアラブ人の殺害であり、監獄という新たな不条理の受容であった訳です。

ジャンヌに関しても、最早取り返しのつかない程彼女のルーティンが乱されてしまった中で、粘着質な顧客が現れた時、決定的なアクションを起こさざるを得なかったのではないでしょうか。

実際ムルソーの握る引き金が、銀のハサミであったとしたら。殺害するのがアラブ人の代わりに顧客であったとしたら。彼の置かれた状況は非常によくジャンヌ・ディエルマンのそれと似通っています。

As if this great outburst of anger had purged all my ills, killed all my hopes, I looked up at the mass of signs and stars in the night sky and laid myself open for the first time to the benign indifference of the world. And finding it so much like myself, in fact so fraternal, I realized that I’d been happy, and that I was still happy 

(訳)

堰を切った様に溢れた怒りが、まるで私の病気を皆取り除いてしまったかの様に、あらゆる希望を滅してしまったかの様に、私は夜空を見上げ星々を眺めた。横になって初めて、心地よい無関心に身を預けた。それは非常に私に似通っていて、そう実に兄弟であるかの様に似通っていて、私は幸福だったと理解した。そして私は今も幸せなのだとわかった。

『異邦人』の最後、ムルソーは彼の殺人に意味を見出し、彼の人生を理解しようとした神父に対して怒り狂い、お前は人生について何も分かっていないと怒鳴りつけます。そして一通り怒鳴った後、上の様に語るのです。

ここに見られるのは圧倒的なヒューマニズムムルソー個人の人間性の発露です。例え不条理な世界で、不条理な生き方を選んでいたとしても、彼は彼の目線で世界を捉えることを諦めてはいません。暑い砂浜、彼は降りかかった不調和を「彼にとっての不調和」として捉え、それを取り除くために「反抗」していたのです。そして不条理な生き方をしていた自分が、「幸福」であったと最後に理解するのです。

よって彼は進んで、笑顔で電気椅子に縛られんとするでしょう。彼は不条理を受け入れ、彼の視線によって、彼の判断で、不条理と同化するからです。

そしてジャンヌもまた彼女の人間性を諦めてはいません。主体を剥奪したジャンヌは、世界がそれを受け入れなかった時、再び自らの意思で不条理へと向かいます。ルーティンが破壊され、不条理な生き方を否定されたジャンヌは今日も明日もない、圧倒的な虚無の時間を最後に獲得するのです。我々は夜空を見つめるムルソーの様にジャンヌもまた虚空を見つめ幸せだったのだ、と結論したい欲求に駆られます。

まとめ

『ジャンヌ・ディエルマン』は3部構成の映画だ、と筆者は結論づけます。

第一部、不条理な生き方を守る、幸福なパート。

彼女は何らかの理由から長いこと自身の生活をルーティン化して暮らしており、機械並みの正確さで毎日を退屈に過ごしています。カメラは彼女を常に追いかけていますが、彼女に何か特別な主体を付与することはなく、逆に置かれた机やタオルと同じ程度の存在をしか彼女に与えてはくれません。

第二部、秩序が破壊される、混乱のパート。

しかし2日目の午後、売春に予定外の時間を要したことで全てが狂い出します。カメラは相変わらず冗長な時間(=物体の時間)に従っていますが、その中でジャンヌは明らかに困惑しており、彼女の平穏は取り返しのつかない程にまで破壊されてしまいます。

第3部、反抗と気づきのパート。

そして3日目の顧客が現れた時、ムルソーの様に彼女は決定的な行動を取ることを決意します。そして全てが終わり最後、今日も明日もない完璧な不条理に彼女は支配されることになるのです。

 

シャンタル・アケルマンカミュを読んでいたのか、筆者には分かりません。読んでいたとしても恐らく念頭には置いていなかったでしょう。しかし決定的な符号が両者の間にはあり、『異邦人』を通すことで『ジャンヌ・ディエルマン』の物語はより明らかなものとなると筆者は考えます。

そして明らかになった物語とは紛れもないジャンヌの物語に他なりません。そして201分という時間を掛けて描かれたジャンヌの物語は、正しく映画にしか語り得なかった物語だと断言出来ます。第一部の主体の剥奪、これは観客を強制的にジャンヌと同様の時間に放り込む長回しと視点の固定という2つのテクニックなしには成り立ちません。そして第二部に於ける不協和音。これもまた長回しと視点の固定によって常に物体の時間を感じさせることなしには生まれ得ないものです。

既存の映画文法に捉われずに描かれたジャンヌの物語は、『ジャンヌ・ディエルマン』という映画そのものに対して非常に誠実な物語であり、上映時間の最後の瞬間までその方法論を守り続けてみせました。この点に本作の素晴らしさがあると言えます。ただ単に新たな方法論を編み出しただけでなく、それを完璧に主題とマッチさせ且つ最後までそれを貫き通した。

そして第3部、映画はジャンヌのヒューマニズムに寄り添います。ジャンヌについての映画は、最後、ジャンヌに幸福を与えて完結するのです。このキャラクターに対する誠実さ、キャラクターを真に見つめる眼差し。ここに本作の2つ目の素晴らしさがあります。映画として新たな方法を編み出すだけでなく、それをキャラクターの物語として表現した。人を最後まで描き切ってみせた。筆者はこれが『ジャンヌ・ディエルマン』が史上最高の映画に選ばれた理由なのだと考えています。

超テクスト的な読解も結構です。しかし何よりもジャンヌの物語を鑑賞して欲しい。説明の為に今回は『異邦人』と不条理を引き合いに出しましたが、そんなものは本来必要ではありません。

1人の女性の物語を伝える映画として、『ジャンヌ・ディエルマン』は傑作なのであり、その素晴らしさに方法の新しさが新しさが乗っていること。この映画的な素晴らしさを社会的意義に優先してみては如何でしょうか?少なくとも筆者は傑作映画が映画として鑑賞されて欲しいと願っています。

 

 

 

【雑談】イギリスですずめの戸締りを見てビフォア・サンライズが大嫌いだったことを思い出した話

15 (Sat). April. 2023

新海誠監督最新作、『すずめの戸締り』が先日イギリスでも公開されました。早速見に行ってきた訳なんですが、鑑賞後映画とは全く関係のない所で中々複雑な気持ちにさせられた映画でもありました。

イギリスの映画館では予告が終わって本編が始まるまでの間に、レーティングの説明と含まれる危険な要素が紹介されるんですね(不適切な言葉使い、ゴア描写など)。そのレーティング・システムで『すずめ』、PG指定になっていたんです。

理由は幾つかあって、例えばティーンエイジャーが世界の運命を背負って脅威に晒される、という設定が与えるストレス。それから緊急地震速報が矢継ぎ早になることの恐怖。更に不適切な言葉使いも指摘されていました。それらと並んで5段階中星2つで危険が指摘されていたのが、"sex"のカテゴリー。

キャバクラが登場すること。ホスト崩れと指摘されるキャラクターが登場すること(芹澤くんの事ですね)。そして「淫らなジョークや、仄めかし」が見られることが指摘されているんですが、この3つ目に筆者は大いに不満だった訳です。

「淫らなジョークや、仄めかし」って主人公が人気者の草太に嫉妬する場面とか、後は精々で鈴芽と千果が恋バナする場面とかしか思いつかないんですよね。一応字幕も追って見てたんですが。っていうことは鈴芽の恋心を直接性欲と結び付けてるってことになって。映画見た方なら分かると思うんですが、そんな筈はないんですよ。

と、考えた所で筆者の大嫌いな映画、『ビフォア・サンライズ』の存在を思い出しました。そう言えばあの映画を見た後も似たようなことを考えたぞ、と。今日の記事は何かの勉強になる、というものではないですが、ちょっとした雑談程度に楽しんで頂ければと思います。最初に簡単な『すずめ』の感想、それから『ビフォア・サンライズ』の話をした後で映画の中の恋愛について少しだけ話す予定です。

The image from Suzume (2022)

すずめの戸締り

筆者は新海誠監督の映画、大好き何ですが彼の映画はファンタジーとしてではなく恋愛映画として楽しんでいます。その手前『すずめ』には乗り切れない部分もあって、というのも映画の初動は恋愛から始まるんですが、基本的にはより大きな人と人の繋がりがテーマになっているからですね。とは言っても脚本は綺麗に作られていて、十分に楽しむことが出来ました。

ネタバレは避けますが、「ある事」を見ない様に、見ない様に生きてきた主人公が世界の裏側(=常世)巡りを通じて自分に答えを与えてあげる。その過程で出会う人・出会った人との縁も解きほぐされていく物語が、過去を乗り越えて別な未来を作る物語と重なる構図は非常に素敵だと思います。異界を巡りをする日本昔ばなしに、ファンタジー要素が乗っかった物語と言えば良いでしょうか。

新海作品は基本的に「世界の誰から相手にされなくとも、譬え世界が滅んだとしても、私は君が好き」というテーゼでまとめることが出来ると思っていて、その1つの到達点が『天気の子』だったのかなと感じています。現実世界で考えると相当気持ち悪い考え方ですが、映画なんだから。リアルの殺し屋なんて多分月に1人殺すかどうかだと思うんですけど、ジョン・ウィックなんて50人、100人と殺してるんだから。映画の中では多少極端なことしてても良いでしょう、と思っている人間としては『天気の子』で見せた究極の恋愛というのは心動かされるものがありました。

しかし、ファンタジーとして眺めると『天気の子』には見過ごせない欠点が存在することにも気が付きます。そもそも特殊な世界の上に成り立つファンタジーで「世界が滅んでも」という前提は成り立たないからです。従って映画は基本的に一人称の物語として進行しますが、彼の「世界が滅んでも良い」理論に共感できなかった場合、利己的な少年が意地悪な街・東京に復習するだけの物語に見える事でしょう。

『天気の子』は究極の愛の物語を求めた結果、利他という側面が欠けてしまっていたと言えるかも知れません。愛の為に世界を犠牲にする事と、利他の精神を書く事は必ずしもイコールではないからです。『すずめ』はその点を踏まえて、草太を助ける為に非常に利己的な行動に走る主人公ですが、彼女の「お返しする」という行為によってバランスを取っている様にも思えました。その一方で小さく草太の側にも世界を救う為に◯◯に欠席してしまう、という利己の物語が存在します。

扉という此方(こちら)と彼方(あちら)を隔てる」装置を使い、利己と利他が緩やかに相転移する様な物語は、主題が重いという理由もあったでしょうが、『天気の子』からのアップデートにも思え、好みは別として間違いなく面白い作品ではありました。

『ビフォア・サンライズ』の話

わざわざ解説するまでも無いとは思うのですが、そんな新海作品、基本的に性とは無縁の物語です。当然『すずめ』の作中でも性に関する描写は一切登場しません。ただ恋愛という物語が存在するだけなのです(冒頭参照)。

この恋愛という物語を安直にsexと結び付ける欧米人の発想に腹が立った、という事なんですが、ここで思い出されるのが『ビフォア・サンライズ』という映画です。リチャード・リンクレイター監督、イーサン・ホークジュリー・デルピーが主演を務める映画ですね。

ヨーロッパを旅する電車の上である日偶然出会った男女が、夜明けまでの一晩を最高に楽しい時間にする為に全力を尽くす、という物語。時の巡り合わせで出会った2人が、一晩限り、夜明けまでの短い魔法の時間をダラダラと消費する中で恋心とは何か、思い出とは何か、繊細に汲み取っていく姿が非常に魅力的な作品でもあります。特に夜遅くなって、終わりが近づいた頃、彼らがふらりと入ったカフェのシーン。お互いが地元の友達の振りをして、今どこで誰と何をしているのか打ち明ける場面があります。この場面でお互い偶々出会った魅力的な彼・彼女と離れがたくなって、でも今夜限りの関係だから楽しいんだろうね、と理解する迄の一連の会話は間違いなくこの映画一番の見どころです。

しかし、リチャード・リンクレイター何を思ったのか、映画の最後にこれまでの全てを無に返す演出を施します。それがセックスという行為。それまで「出会い」について、「関係性の美しさ」について1時間半近く掛けて丁寧に描いてきたにも関わらず、最後の最後で「男女の物語」にすり替えてしまったのです。恋愛についての映画で性が登場するのは分かる。当然のことです。しかし恋愛とは何か、という物語で2人が出会うまでを描いてきた映画が事実関係としての恋愛を描いてしまってはテーマが崩壊してしまう。

それは例えば全国優勝を目指して努力するスポーツ映画で、最後の決勝戦前に試合結果(優勝したこと)をネタバレしてしまう様なもの。勝っても負けても構わない、その過程こそが面白い物語で「彼らこの先優勝するから、これまでの努力は意味があったよね」と言って締める様なものです。それまで優勝する為の過程の物語を描いていたにも関わらず、優勝する、という事実関係の物語にすり替えて主題を破壊してしまったのです。

それまで楽しんで見ていた映画が奪い去られて苛立ったことを筆者は今でも覚えています。思うに欧米人は「恋愛すること」は描けても「恋愛とは何か」について描くことは出来ないのだ、と。関係性という2人の間を見つめることが出来ず、それを個人の物語に、詰まり行為という事実の連なりに還元してしまう為にセックスが何の違和感もなく登場するのでしょう。だから『すずめの戸締り』で表現されている恋心(=関係性)が行為事実(=性描写)に取り違えられてPG指定になってしまったのではないでしょうか。

関係性について

欧米人vs日本人、という過度な一般化は誤りの元です。しかし大半のヨーロッパの映画が行為を重視しているのに対し、邦画はより過程に敏感である、と言っても間違いはないのではないでしょうか。特に青春映画に関してはこの傾向が顕著に見られると思います。

例えば細田守版『時をかける少女』。筆者が高校時代なんども見た映画で、個人的な青春映画の代名詞的存在です。その中で主人公の少女にとって大切なものは幾つかある訳ですが、当初彼女はそれを「今の時間がずっと続くこと」だと語ります。だから功介が告白されたことに内心面白くないし、千昭に告白された時には無かったことにしてしまいます。

そんな彼女が心変わりするきっかけの一つは叔母から折角勇気を出して伝えた言葉を無かったことにするのは可哀想だ、と教えられたこと。自分のタイムリープの巻き添えで傷つく同級生を見たこと。それから功介に自分が彼女を作らない理由は、彼女を1人にしない為だ、と伝えられたことです。時間を行き来する能力を得たことで一足早く「今」が続かないことを理解した彼女は「今」に支えられた関係から脱却し、時間に関係なく続く関係を大切にする様に成長する。それがこの映画の物語でしょう。

ここで彼女が見つめているのは何度も述べている通り「関係性」です。千昭の事を思っている彼女ですが、その気持ちは決して事実関係によって成り立っているのではなく、いつも過程に向けられています。従って最後のタイムリープ、彼女は3人で過ごした日々を回想する訳ですがその1つ1つの思い出が大切なのではなく、その何気ない時間が大切だった、ということは明らかです。

これを『ビフォア・サンライズ』式に変換するとどうなるか。カフェに行って、遊園地に行って、路面電車に乗って、という安易なフラッシュバックに置き換わる筈です。時間は行為によってしか実感されないからです。というより時間=行為となっているからです。

従ってエンディングも千昭がキスをする、という行為に置き換えられてしまうでしょう。全くときめかない展開ですね。そういえば「ときめく」とは古語の「時めく」から、栄える/寵愛を受けるという意味の単語から発生していると思われますが、「時期に見合って栄える/寵愛を受ける」という時間の移り変わりが前提となって、「時期に見合って、その場限りの喜びに胸が高鳴る」という意味に変化したのでしょう。通りで英語に訳せない筈です。英語にこの単語に相当する様な単語は存在していません。

そう考えると日本の恋愛映画/青春映画の特徴は「時めき」=「今しかない状況で生まれる関係性の喜び」にあると言えるのかも知れません。鈴芽だって偶然すれ違った男性に「胸が時めいた」所から全ての物語が始まっている訳です。その過程が面白いと思う人間にとっては『ビフォア・サンライズ』の様な過程と行為を取り違える物語を面白いと思えない訳ですね。筆者がリチャード・リンクレイターだったら、例えばジュリー・デルピーがハンカチで口元を拭う描写とか、イーサン・ホークが靴紐を結び直す場面とかにフォーカスするでしょう。その方が主題(出会について)が明確になるのでは?

欧米vs日本の二項対立には元より無理がありますから、置いておくとしても『すずめの戸締り』PG指定にはどうしても納得がいかない、と思った週末でした。

 

【映画解説】グレタ・ガーウィグの作家性と「逃避」について/ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語 (2019)

9 (Sun). April. 2023

先日Twitterでもコメントした通りグレタ・ガーウィグ、ジョー・スワンバーグ共作映画"Nights and Weekends" (2008)を観まして、それで以てこの映画が中々奇っ怪な作品で非常に驚かされました。

基本的にはビデオ・カメラを雑に構えただけ、といった撮影なんですが後半になるにつれて次第に画が能動的に変化し、それに連れて当初はカップル(監督2人が主演も務めています)を平等に移していたカメラがグレタ・ガーウィグを中心にシフトしていきます。しかしながらカメラに写っていない筈のジョー・スワンバーグ、鈍くてダメな男が彼女の頭から離れず、都合よく彼に呼び出されてはテンションが上がってしまい...

ジョー・スワンバーグが嫌味な男を演じていることもあって非常に気味の悪い作品に仕上がっています。所でメジャーに進出してからのグレタ・ガーウィグの作品を見ると「逃避」が大きなテーマになっていることが分かります。

レディ・バードは母親から逃げ出そうとするティーンエイジャーを、フランシス・ハでは現実から逃げ出してフラッとパリへ旅行しています。役者としてだけ出演した映画でも20センチュリー・ウーマンでも家出した少年・少女が登場し、ホワイト・ノイズはガス爆発から逃げる人々の物語となっています。そして本作。ストーリー・オブ・マイ・ライフ(以降Little Womenと呼びます。理由は後述)でも主人公はある事からひたすらに逃げている様に見えます。

この彼女の作家性とも言える「逃避」には"Nights and Weekends"他マンブル・コア時代の影響があるのではないか、と考えてみたりもする訳ですね。実際のところは分かりませんが、此処ではLittle Womenの開いた物語構造を解説し、彼女が作品に込めたメッセージというものを探ってみたいと思います。

(尚この文章は筆者が大学に提出したレポートの日本語訳に加筆・修正したものです。レポートの参考としても役立つのではないでしょうか)

Saroise Ronan in Little Women (2019)

導入:曖昧な結末について

Little Women(2019)のエンディングは非常に曖昧です。物語の舞台はまだ女性が結婚によってのみしか自らの立場を確確立し得なかった時代、作家として身を立てることを目指すジョー・マーチが本作の主人公な訳ですが、彼女はクライマックスの場面、編集者の提案に同意し、自身が書いた物語の結末を変更します。それを受けてフレデリック・ベアー、彼はジョーの作家としての成長を手助けしようとする大学教授ですが、が彼女を探すシーンが繰り返され、そして2度目のシーンではジョーがフレデリックに留まって欲しいとお願いする結末に変更されます。そして意味あり気に彼らがキスする場面が反復されます。

それまでの流れを考えれば彼らが結婚する未来が暗示されている、と捉えることが出来ます。そして実際その後に続くシーンではジョーが男女共学の学校を開き、そこで家族と一緒に暮らしている様子が、フレデリックも含めて描かれ、先の印象はより強固なものとなります。然しながら製本作業のモンタージュがシーンの間に挟まれ、ジョーが物憂気な顔で、出来上がった彼女の本を抱きしめながら、その様子を眺めるショットで映画は終了します。

この時オーディエンスは1つの疑問を胸に抱くでしょう。果たしてフレデリックと一緒に家族と過ごすジョーは現実の彼女なのか、それとも自身が書いた物語の結末に過ぎないのか、と。この文章は、仮に目的があると想定して、このエンディングの曖昧性の目的を明らかにし、且つその目的がどの程度効果的に達成されているのかを明らかにすることです。

所で詳しくは後述しますが、この映画の表現はルイザ・メイ・オルコットの手による原作からも、そして他の映画化作品とも大きく異なっています。従ってその変更は意図的なものであろうと推定することが出来ますし、別の言い方をすれば脚本兼監督のグレタ・ガーウィグは何らかの目的を以て小説を独自のやり方で映画化したのだろうと考えることが出来るでしょう。普通は、実際に他の映画化作品が行っている通り、原作をそのまま表現する方が自然だからです。

そして変更が意図的なものだと仮定した場合、エンディングは何らかの新たな意味を獲得しているに違いありません。恣意的な変更には芸術的に目指す、何らか別な意味が志向されている筈だからです。ですからLittle Women(2019)のエンディングは意味のあるエンディング(映画業界ではこれをクロージャー"Closure"と呼びます)となっていると仮定することも出来るでしょう。或いはクロージャーとしての機能を一切果たしていないかもしれません。

クロージャーとは単なるエンディングとは異なるもので、簡単に言ってしまえばエンディングらしいエンディング、それまで映画で登場した全ての要素を満足させる形で話をまとめ、観客が映画に関して何ら疑問を持たない様に、そして映画内世界の未来について心配することのない様に映画を終わらせる為のものです。

恋愛映画を例に取りましょう。仮に映画が主人公が今にも思い人に告白しようとする場面で終わったとします。この場合それまで長々展開した恋の駆け引きに意味が与えられず(Yes or No)、且つ主人公の未来が説明されていません(振られてしまうのか、それとも結婚出来るのか)。観客はこの結末に不満を覚えるでしょうし、これではクロージャーと呼ぶことは出来ません。しかし映画は実際に終わっている訳で、エンディングは存在しているのです。

さてこれがクロージャーとエンディングの区別であり、実際に映画を取り扱って検討する場合には様々な要素を見ていく必要があります。脚本構造、ジャンル上の慣習、映画のスタイル、テーマとの関連.....実に沢山の要素を検討し、エンディングでそれら全てを満足に応えられた場合にのみそのエンディングはクロージャーとなるのです。

従って当然クロージャーは映画のエンディングだけを見ていてもその有無を判断することは出来ないでしょう。逆の視点から捉えれば、監督がクロージャーの成し遂げる為には、製作の過程で常に全体の統合を意識し、意味のあるエンディングを作ろうと心掛けている必要があります。ですから、Little Women(2019)の様に、映画全体の構造が変更されエンディングも特異なものとなっている場合、当然監督は意識的に行っている訳ですから、そのエンディングはクロージャーとなっているのではないか?という仮定がなされる訳です。或いはエンディングが映画全体を破壊する様に、否定する様に、設定されているかも知れません。何にせよそのエンディングには意味がある筈なのです。

整理しましょう。Little Women(2019)のエンディングは曖昧なものです。しかし映画全体が原作や他の映画化作品と異なっていることを踏まえるとその変更は意図的なものであり、何らかの意味があるのではないか、と推定されます。そして意味がある場合、エンディングはクロージャーであると判断される訳で、必然Little Women(2019)はクロージャーを持っているだろうと仮定されます。だとすれば映画のクロージャーとしての性質を分析することはエンディングの意味を明らかにし、ジョーの物憂気な表情についても理解できるのではないか。これが本文章が示す仮説であり、論証までの道筋となります。

具体的には映画全体が行った変更点を洗い出し、そしてそれらに新たに加えられた意味を検討・統合することでエンディングが持つ意味を考えていきます。比較対象としては同じメディウムである映画からマーヴィン・ルロイ版のLittle Women(1949)を採用します。1917年版、1918年版はそもそもサイレント時代の作品であり、同じメディウムとは言えない部分があり、また2018年版は5カ国のみでのリリースの為、規模感に大きな違いがあります。1933年版、1949年版、そして1994年版の3つが候補として残る訳ですが、1933年版または1949年版の方がより古典的なハリウッド映画としての構造を有しており、分析が容易だろうと思われる為1994年版は却下されます。残る2つですが、1949年版はMGM創立25周年記念映画となっており、予算も潤沢だった背景を踏まえ、より2019年版に規模感が近いだろうと思われることから本作を選出しています。

数え上げればキリがない程両者の間には違いがある訳ですが、ここでは最も重要だと思われる4つの違いを取り上げることとします(エンディングを除く)。その4つとは具体的に

  1. 物語構造
  2. ジョーの姉妹たちの物語
  3. 編集者の登場
  4. エピグラフの有無

個別に観察していきましょう。

1. 物語構造

やはり最も顕著な違いと言えば物語構造ではないでしょうか。1949年版はジョーの青春時代からベスに捧げる物語の出版までを時系列で語るのに対し、2019年版はタイムラインを行き来し、姉妹たち(ジョーだけではなく、他の3人も含めて)の青春時代とNYやパリに別れて暮らす様になった成人後を比較する様に物語を展開しています。

そしてタイムラインの移動は多くの場合で、現在のジョーの行動がトリガーとなっており、嘗てのジョーの類似する行動を重ね合わせることで物語が変化する、といった形式が見られます。例えば映画はジョーが彼女の「親友」の小説を売り込みに行く場面から始まり、下宿先でフレデリックと出会う場面へと続きます。場面は一転、叔母とパリで絵を描くエイミーへと移り同時にローリーも顔を見せます。またメグが虚しさから贅沢に布を買ってしまい、自宅で後悔する様子。更にはベスが1人でピアノを弾く様子を見せるなど、それぞれの姉妹の様子を順番に捉えていきます。再び場面は変わって、芝居を見ているジョー。彼女は偶々居合わせたフレデリックを追って酒場へ、そこでダンスをします。このダンスがトリガーとなり舞台は7年前へ、ジョーが初めてローリーと出会った舞踏会の直前まで舞台は移ります。

この時姉妹は皆一緒に暮らしており、ジョーとローリーの関係性もこれから発展する、という場面です。2019年版の物語構造は姉妹の境遇を際立たせることに貢献していると言え、特に結婚の前後で変わってしまった彼女たちの夢や希望が描写されていると捉えて良いでしょう。また時間の前後が主にジョーの行動によって引き起こされていることから、観客はこれは「ジョーの記憶と結びついているのだ」という印象を得ることになります。言わばジョーが物語を書くプロセスを正に追体験しているといった格好になる訳です。

2. ジョーの姉妹たちの物語

しかしジョーの視点から語られる物語は、姉妹たちを蔑ろにしてしまうことはありません。1949年版では姉妹1人1人にフォーカスが当たることはなく、飽くまでジョーの姉妹として、言ってしまえば従者の様なポジションにあります

。例えばメグがジョンと結婚する場面。彼女は叔母に馬鹿にされ、金の無い男と結婚する様な真似はするなと諭されたことに反抗して彼との結婚を決めます。対して2019年版では彼女の考え方や性格というものがしっかりと描写されており、メグは4人の中では比較的家庭的な性格であることが伝えられます。彼女がローリーと一緒に上流階級に出入りするシークエンス(これは1949年版にはありません)、メグは少しの間だけでもデイジーで居させて欲しいと言い、ジョーが嫌悪する上流階級の暮らしを楽しんでいます。このシークエンスがあることで観客は何故メグが結婚に対してオープンなのか、女優になる夢を諦めても良いと思えるのか、結婚したいと思う様になったのか理解することが出来るのです。彼女は結婚してデイジーの様な生き方をするのも悪くはない、と思えたからジョンと婚約したのだ、と。

このバック・ストーリーがなくてはメグが病気に罹り、ベスがヨーロッパに行き、そしてエイミーが結婚するという形であっても物語は成立したでしょう。事実1949年版では成立してしまう様に思えます。

飽くまで映画はジョーの視点から語られる物語、という形を担保しつつも姉妹を置換可能な脇役で終わらせずそれぞれに意味を持たせているのだ、と言えるのです。ですから1949年版からのグレタ・ガーウィグの素敵なアップデートをわざわざ無に返して『ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語』などと邦題をつけるのは悪趣味でしかない。笑ってしまう様なダサい邦題というのは他にも幾つかありますが、監督の意図を無視してつけているという意味では筆者が知る中では最悪・最低の邦題で間違いないでしょう。

3. 編集者の登場

さて話を戻して3つ目の違いです。1949年版では編集者というキャラクターは全く登場せず、またジョーがクライマックスで書き上げた小説はフレデリックによって出版されます。彼女が作った物語は「男性」の手によって世に出され、彼女が直接編集者と交渉する様な場面は見る事が出来ないのです。

対して2019年版では、映画の冒頭から彼女が1人で編集者に売り込みに行く様子を目撃します。また対応するかの様に映画のクライマックス、ジョーはまたしても編集者と対面し、しかも自分の取り分についても堂々と主張してみせます。

単純に編集者との対話と結末の変更がなければこのエンディングは考えられませんし、その意味でも編集者の存在は重要です。しかしそれ以上にジョーという自立した女性を表現する上で編集者は重要な役割を果たしていると言えるでしょう。

加えて彼は映画の基本テーゼを最初に提示する、という役割も持っている様に見えます。彼はジョーに”And if a main character’s a girl, make sure she’s married by the end, or dead"(主役が女なら最後にソイツが結婚するか、或いは死ぬかどちらかにしろ)と伝えます。また最後にはテーゼを再提示し”Girls want to see women married, not consistent”(女の子が見たいのは女の強さじゃない、結婚するところだ)と語ります。これはジョーの苦悩と重なる所のものであり、簡潔にこれから起こる内容を伝えているのだと理解して良いと思われます。

3つの違いとそれぞれの関係性

4つ目の違いを見る前に、ここで3つの関係性に着目し、それらが全体としてどう機能しているのか考えてみましょう。第一の違い、物語構造の特異性は姉妹たちが置かれた状況の違いを過去と今とで強調し、ジョーの作家としての苦悩をも浮き彫りにします。彼女の苦悩とは詰まり1868年当時に強い女性でいること、自立した女性でいることの孤独であり、彼女が自身の夢を追い求めてしっかり生きていこうとすればする程、周りとの溝が深まっていく所にあります。ローリーは(或る意味で当然のことですが)ジョーを想う男性として、彼女にアプローチをし、それを断ってしまった以上それまでの仲良し同士ではいられません。例え芸術の才能がエイミーより優れていたとしても結婚の意思がなければヨーロッパ周遊も無駄、叔母には疎まれてしまいます(それはエイミーが二番手としての苦悩することにもつながるでしょう)。メグには結婚の価値を説かれてしまい、目指す人生の違いを突きつけられます。そして最後の友としてのベスとは物理的に2度と話し合う事ができなくなってしまうのです。

ジョーは誰かに愛されたいと願いながらも、愛することだけが女性の生き方である、という型に収まることに全力で抵抗します。”I'm sick of it, but I"m so lonley"(そんな価値観にはウンザリする、でも私は孤独なの)と語るジョーは正に、編集者のアドバイスへの返答となっており、ジョーはローリーを拒みフレデリックとの結婚も一度断ることで孤独となったのです。人並みに愛されたいと願いながらも、編集者のステレオタイプには嵌まらない。迎合する位なら孤独を選ぶのだ、と。

この点を踏まえるとはっきりしないエンディングはジョーが選ばなかった未来(フレデリックと結婚し家族と暮らすこと)への未練と捉える事が出来るかも知れません。

しかしジョーは自身を、結婚しないことを美化しすぎてはいないでしょうか?結婚とは、例えば殺人の様な邪悪な行為ではない訳で、常に沢山ある幸せの一つの形として存在するでしょう。そしてメグがジョーに諭す通り"Just because my dreams are different than yours doesn’t mean they are unimportant”(私の夢が貴方と違うからと言って、私のそれが重要でないことはない)のであり、結婚したメグやエイミーを責めることは出来ません。譬えジョーが作家として夢を叶えたとしても、です。

そしてジョーはそもそも作家として活動出来るだけの余裕があります。ルイザ・メイ・オルコットよりも後の女性作家、ヴァージニア・ウルフは著書『自分自身の部屋』の中で"a woman must have money and a room of her own if she is to write a fiction"(小説を書きたければ女はお金と自分自身の部屋を持っていなければならない)と書いています。ごく単純化すれば女性がフィクション作家として身を立てる為には自立して暮らしているお金と、自分を守る空間が必要だ、ということです。

そしてジョーはその2つを持っていると言って良いでしょう。確かに没落貴族ではありますが、マーチ家は貴族であり結婚せずとも何とか暮らしていけるだけの資金力があります。そして家族・友人もジョーに協力的で、誰も彼女の文筆活動を咎めはしません(精々が母親が小言を言う程度)。ローレンス氏という寛大で、裕福な後ろ盾さえもあります。教育とお金が女性に行き渡らなかった男根主義の時代でジョーの境遇は非常に恵まれているのです。

客観的な視点から(彼女たちの獲得できる最大の幸せでなかったとしても)メグとエイミーが結婚してそれなりの幸せをエンディングで獲得していることは、彼女たちの選択を極めて公平に評価していると言えるのではないでしょうか。またエイミーがベスに対して「彼女は私たちの中で一番だった」と語っている通り、彼女は最も愛された存在でもあり、唯一結婚でもキャリアでもない幸せを獲得した存在でもあります(若しかしたらベスの幸せこそジョーが求めていたものだったのかも知れません)。

姉妹それぞれの人生がしっかりと語られていることで、異なる人生と幸せの形が書き分けられていると言えるのです。映画の主軸は飽くまでジョーであり、彼女の結婚観というものが全体としては支持されていますが、その彼女にも欠点があるのであり、映画は誰の幸せを否定することもしていません。単なる男性社会批判に留まらず普遍的な愛の形、そしてその顕現としての結婚を否定していないという意味で、Little Women (2019) は単なるフェミニズム映画ではないのです。

4. エピグラフの有無

3つの違いが如何なる意味を持っているのか、分かって頂けたと思います。最後に第4の違い、2019年版には原作者によるエピグラフが掲げられています。

"I’ve had lots of troubles, so I write jolly tales"(辛い事ばっかりだから、楽しい話を書きましょう)

これは非常にアイロニックだと言えます。多くのトラブルを乗り越えて、ジョーは楽しい話を書いた訳ですが、彼女の人生の問題(結婚観について)は何一つ解決されておらず、仮に現実だとしても彼女の人生は"Jolly"とは言えないからです。

従って2019年版のLittle Womenは脚本の構造を変化し、過去と今を対比させることで編集者によって提示された「女→結婚」という考え方に対する苦闘を描くと主に、姉妹の人生も同時に描くことで結婚自体を否定はしていない、という作りになっていると捉えることが出来ます。そしてエピグラフによって物語>ジョーという図式を作り上げ、現実のジョーの問題は解決されていない(未練を抱かざるを得ない)としても、物語のキャラクターをしがらみから逃避させ、Jollyな物語にしてしまうことでハッピー・エンドを形作っているのです。

映画の脚本は開いた構造となっており、ジョーが書いた小説内のキャラクターがフィクション(Little Women)内のフクションに逃げ込むことでジョーの求める幸せが二重写となって表現されているのだ、と。詰まりジョーは、一つに決めることが出来ない心の迷いをフィクションに託すことで(曖昧性の提示)複雑に絡まった問題から逃れ、観客に私も幸せだと示して見せているのではないでしょうか。

まとめ

既に述べた通りグレタ・ガーウィグは作品の中で毎度逃避を扱っている様に見えます。しかしその実、彼女の逃避は関係性を真摯に見つめることと裏返しの構図になっているのであり、且つその結末も消極的な逃避ではなく積極的な逃避(明るい未来を予感させるもの)になっています。ですから"NIghts and Weekends"で見られた様な、人と人の関係性に縛られているキャラクターを描いた経験は今の彼女に大きな影響を与えていると見て良いのではないでしょうか。当時の経験が緻密な人間描写に繋がっていると共に、逃げられなかった関係性に対するアンチとして頭皮があるのだ、と。少なくとも筆者の目にはそう写ります。

この点から言っても彼女を単なる女性映画監督、フェミニズム映画の象徴の様な持ち上げ方をするのはやはり不適切だと言えます。そもそもフェミニズム映画であれば逃避を肯定しません。政治映画は結論ありき、極端な言い方をすれば政治信条が製作のモチベーションになっているからです。ズブズブ向き合って嫌になった逃げる、というやり方は政治映画のそれではありません。

その意味でも彼女の映画作りは(政治映画嫌いの筆者としては取り分け)好感が持てるものです。政治という概念ではなく、人を描いているのだ、と。Little Women(2019)はこの5年に発表された映画の中では間違いなくトップクラスの作品であり、筆者個人としても大好きな作品です。グレタ・ガーウィグその人も要注目です。ひとまずはBarbieを楽しみに待ちたい所。

ふざけた邦題に騙されず、ジョーと、姉妹の物語をもう一度見てみては如何でしょうか。

【メモ】映画に於ける手持ちカメラ=リアリティ、は本当か

2 (Thu). March. 2023

グラグラふらつく、上下に揺れる、手持ちのカメラはリアリティの表現だと何故だか、無条件に了解していた。しかし手持ちカメラ=リアリティという等式は成立しない様だ。Twitterでそうした意見を見たのである。確かに考えてみれば我々の視界がユラユラすることはないし、大抵まっすぐ焦点を定めて歩いていける。しかし「手持ち撮影のリアリティが云々」という文句は目に付く様だ。この慣習、表現方法、共通理解、そうした気分はどこから生まれているのだろう。少し調べてみたくなった。

真面目な分析は、たいへん。メモは気楽。ずっと簡単。気張って、一生懸命に調べていると、0と1の間に沢山の数があって、それではと思って0.1、0.2、と数えていると0.01や0.001が顔を出してくるというふうな、そんな難しさがある。そうして必死に数えていると果てがなく、とおまで数えたかっただけなのに、一つと呟く前に日が暮れてしまう様な、そんな風に思われる。かんたんが一番。

Adam Sandler in Uncut Gems (2019)
  • 基本的に映画研究の多くはデイヴィッド・ボードウェルとクリステン・トンプソンの研究を下敷きにしている事が多い。特にボードウェルが示した映画理解の体系はある種のスタンダード、王道を築いており、それに対する批判や補足といった形で議論する研究者は非常に多く、その意味で彼の研究を読むことは映画研究に於ける一般理解を知ることに繋がると言って良いと思われる。
  • 従って彼の単著 "The Way Hollywood Tells It: Story and Style in Modern Movies"に詳しい手持ちショットの記述が見られたから、その内容を基本的な共通理解として信頼して良いだろう。
  • 中身を読むと彼は1980年代以降の映画に見られる手持ちショットを問題にしている。これはジョーズ(1975)、スター・ウォーズ(1977)以降の、所謂ブロックバスター映画が与えた影響が大きいと彼が考えている為である。
  • そもそも手持ちショット自体は真新しい撮影方法ではなく、セルゲイ・エイゼンシュタイン戦艦ポチョムキン(1925)やアベル・ガンスのナポレオン(1927)など後期のサイレント映画にその最も早い使用が確認されている。
  • しかしサイレントの台頭以後しばらく手持ちショットは用いられなくなる。これは主に技術的な問題で、巨大なカメラを動かす事が難しかったり、録音機材の調整が困難だった為である。バビロン(2022)中の、マーゴット・ロビーサウンド映画に挑戦するシーンなど参照されたい。
  • 技術革新が進み、カメラ等の機材が発展してからは再び手持ちカメラによる撮影が確認される様になる。戦後早い段階の使用例としては硫黄島の砂(1949)などが挙げられる様だ。
  • しかし手持ち撮影がこれ程普及した要因は次の3つだろう。先ず第一にドキュメンタリー映画の発展。1960年発表のプライマリーが与えた影響が特に大きい。そしてフランスからヌーヴェル・バーグが与えた影響。最後にブリティッシュ・ソーシャル・リアリズム映画からの影響。これらの作品群が評価を得ると共にハリウッド内でも手持ち撮影を肯定的に捉える向きに変わっていった。

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  • それまでは戦艦ポチョムキンにしても、硫黄島の砂にしてもどちらも戦争映画であり、その他の映画でも手持ちカメラ=暴力演出の強化、という風に理解され使用されていた。敢えて言えば手持ちカメラ=リアルな暴力描写、という等式が成立していたが、これら3つのシネマ・ヴェリテ的な運動が「本物」として称賛されて以来、手持ちカメラ=リアリティの表現という考え方も生まれてくる。
  • 但し飽くまでもヌーヴェル・ヴァーグがリアルな映画である故に、ブリティッシュ・ソーシャル・リアリズムがリアルな映画である故に、そうした映画が用いていた手持ち撮影がリアルと呼ばれたのであり、本物らしさは手持ち撮影そのものとは直接関係がない様に思われる。
  • そして1970年代以降、ブロックバスター映画がゲーム・チェンジャー的な働きを果たし、映画業界の制作形態やマーケティング方針も変更されることになった。その他の様々の要因も含めて1980年代半ばには規模の大きい作品が次々と作られる様になったのであり、製作される映画もスペクタクル重視の、テンポの早い、カメラのよく動くものに変わっていった。
  • この際手持ち撮影もスペクタクルを生み出す目的で取り入れられ、これがブロックバスター映画で取り入れられた事で人々の目にも馴染みのある撮影方法に変化してきた。ここで用いられる手持ち撮影はポチョムキン的な暴力描写の強調に貢献するものであった(ブロックバスター映画のスペクタクルは暴力的なモノも多かった為)。

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  • 緊迫感や不安感というのはこの暴力描写と密接に関係している。インディ・ジョーンズでも心臓が飛び出したり、スープから目玉が出てきたりと相当バイオレントな映画だが、こうした側面をクロース・アップやファスト・カット、手持ち撮影で強化する事が当時の目的だった。
  • ボードウェル自身は "Intensified Continuity" という表現を用いて説明しており、要はハリウッドが歴史的に製作してきた「まとまりのある物語としての映画」をより激しい仕方で表現する様になったブロックバスター映画の傾向を指しているのだが、この際のテクニックとして彼は手持ち撮影を挙げている。だからボードウェル的な理解では手持ち撮影は伝統的なハリウッドの映画テクニックの一つなのである。
  • だから彼はインディーズ映画で手持ち撮影をする事をユニークではないと語っている。手持ち撮影やファスト・カットは独特なスタイルを形作っている様に思われがちだが、ハリウッドでは昔から使用されていたのだ、と。
  • ここから考えるにインディーズ映画での安易な手持ち撮影は、予算不足や撮影時間の不足から来ていると受け止められても仕方ないのかも知れない。本来の手持ち撮影の機能とは暴力描写の強調、或いはドキュメンタリー的な表現(Primaryなど)なのだからである。ブレア・ウィッチ・プロジェクトなどが分かり易い後者の例として挙げられるのではないだろうか。
  • 整理すると手持ちカメラ=リアリティ、は間違い。手持ち撮影=暴力描写の強調=暴力描写のリアリティ、であれば間違いではないという所だろうか。或いは手持ち撮影=ドキュメンタリーであることの示唆=リアリティ(ドキュメンタリーがリアルな為)、と言う事も出来る。
  • 間接的にしか関係しない筈の手持ち撮影とリアリティが結び付けられたのは、恐らくヌーヴェル・ヴァーグなどが「本物の映画」だと謳われていたから。