知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【時事】竜とそばかすの姫を擁護してみる/果たして酷評されるべき映画だったのか?

24(Sat). September. 2022

日本時間で昨日、金曜ロードショーで竜とそばかすの姫が放送された様。公開当初から酷評されていた本作だが、今回改めて地上波放送されたことで改めて批判の声が高まっている。

脚本が酷い、リアリティが無い、ルッキズムがキツすぎる云々。言わんとしていることは理解出来る(understandable)且つ議論の余地がある(arguable)と思うものの、そんなに叩く程なのか?と筆者は正直に思った。特にトップガン:マーヴェリックに甚く感動した筆者としては、竜とそばかすの姫も同様に(同程度ではないにせよ)高く評価したいのである。

ということで今回は竜とそばかすの姫に触れながら映画の見方について考えてみよう、という記事である。短めの記事で、軽い内容なので気軽に読んで頂ければ幸いだ。

中村佳穂 and 幾多りら in Belle (2021)

トップガン:マーヴェリックは素晴らしかった

トップガン:マーヴェリックは素晴らしかった。いきなり全く違う映画の話で恐縮なのだが、筆者の圧倒的今年ベスト、オールタイムベストも更新した本作は世間的にも非常に高く評価されていた様に思う。実際全世界的な興行収入でも第11位、日本映画界でも記録的なヒットを飛ばしており、TwitterなどのSNSや各種メディアでも好意的なリアクションが大半を占めていた様に思う。

そのトップガン:マーヴェリック、筆者は没落する帝国に夢を見せるエンターテイメント映画として受け取った。第一作が公開された当初はアメリカが偉大な帝国としての威厳をまだ有していた頃で、日本も当然アメリカに追いつけ追い越せの姿勢でいたし、実際それだけの力がかの国にはあった。トップガンも軍人のリクルート映画だとか揶揄されていたけれども、それだけ明るいエナジーに満ち溢れていたと思う。フットルースやダーティー・ダンシング、バック・トゥ・ザ・フューチャーなどの大衆映画と同等のエッセンスを持っており、それは軍隊モノという特性を考えると少し驚くべきことだ(スリー・ビルボードハート・ロッカーの様な映画が増えてきた現代では特に)。

では現代のアメリカはどうか?もはや帝国としての力を持ってはいない様に見える。誰もがアメリカに憧れていた時代はとうの昔に終わり、日本のアーティストもアメリカ=最先端として捉えることをやめてしまった。国内でも人種や貧困、その他諸々の問題を抱えマクドナルド・グローバル主義的なイデオロギーは信頼に値しないものになっている。

そんな時代にアメリカ人は自らのアイデンティティと権威を求めて苦しんでいる様に見える。嘗ての家庭・郊外の一軒家・日曜日のミサなどに代表されるイデオロギーが通用しなくなり、唯一の勝者としての立ち位置を失いつつある中で如何に自らの価値を見定めるのか。トップガン:マーヴェリック前半部では新たな時代に不必要となりつつあるドッグファイトを若手のパイロットに伝授する訳だが、第一作が持っていた特徴を踏まえると新たな時代に嘗てのアメリカを継承しようとしていると見ることも出来る。

女性のパイロットをサポートし、指導方法やグースとの向き合い方を通じてトム・クルーズが再び輝きを取り戻していく様子は困難な時代にどう立ち向かうか、80年代の輝いていたアメリカが新たな時代、新たな問題にどう向き合っていくのか、その表れである様に見えた。

キャストの人種や性別を変更したり、ヒップホップ音楽を取り入れたり、その程度の方法でしか価値観をアップデート出来ない昨今のアメリカ映画、特にディズニー映画に飽き飽きしている筆者としてはトム・クルーズジョセフ・コシンスキーの演出は正に時代が求めているものではないのかな、と感じた。

*余談、アリエルの実写版について。端的に言って筆者は反対である。リメイクを製作して新しいメッセージを発信するに当たって、人種を変える、という安直な方法に頼ってしまう所が時代遅れだなと感じてしまうからだ。これが2015年から精々2020年くらいであればまだ納得出来るのだが、2023年の作品にもなって今更これをやるのか、という印象。その程度の多様性ならここ数年さんざん議論されてきた訳で、そしてそれが上手くいっていないことが問題であるにも関わらずまた同じ様な手法で同じ様な映画を生産してしまうことにガッカリした。

さて、嘗ての帝国が価値観のアップデートを試みる映画、トップガン:マーヴェリックだが、上映時間の大半を費やして作り上げたリアリティをラスト数十分でこの映画は見事に破壊してしまう。ミッションの成否に関してはまだ理解出来る。問題はその後、トム・クルーズが地上に降り立ってからグースを連れて再び飛行する場面だ。

100%現実では起こり得ない奇跡が連発するのである。筆者はそれに寧ろ感動したのであるが、それは何故ならそれまで描いてきた上手くいかない現実を映画というエンターテイメントで奇跡を見せることで、観客に希望を与えて見せたからである。

要約すると、嘗ての栄光の象徴の様な映画だったトップガンを凡そ40年ぶりにリメイクしたマーヴェリックは現代の問題を極めて真剣に扱い、それらに回答を与えようと試みている。そしてリアルの世界では必ずしも上手くいっていないアメリカ(と世界)に希望を与えようと、ラストで奇跡を連発し、エンターテイメントとして昇華させてみせた本作は正しく今我々に必要な映画だったと思う。

竜とそばかすの姫との共通点

所で竜とそばかすの姫もトップガン:マーヴェリックと似た構造を持っているのではないだろうか。主人公すず、またはベルは仮想世界Uで出会った竜がある深刻な危機に瀕していることを知り、解決に向けて走り出す訳だが、主にその点に批判は集中している様だ。曰く

  • 本来警察や行政に然るべき対応を促す場面で、一人で夜行バスに乗るなど不適切
  • まして周囲に母親代わりの大人がいるのだから冷静に止めるべき
  • どうしてもと言うならせめて付き添うべき
  • 父親も父親で呑気に感傷的なメールを送ったりして信じられない
  • DV男があの様な行動を取るとはとても考えられない。深刻な危害を加えられていてもおかしくなかった
  • 結局すずが助けに向かった子供達は救済されていない。安易な台詞を喋らせて解決したかの様に見せかけている
  • これらの問題点を含んでいる作品が「感動作」とか「勇気を与える」とかの枕詞がついて宣伝されている危険性

その他にも娘を置いて川に飛び込む母親の無責任さを批判する様なコメントも見られた。ただ筆者としてはこれらは問題にもならないと考えている。トップガンと比較しながら見てみよう。

すずがベルとして歌うことを思い出し、そして竜と出会って世界の歪みに気づく場面はトップガン:マーヴェリックで言えば前半部の教練のシーンにあたるのではないだろうか。詰まりそばかすだとか思いを寄せる彼だとか、父親との関係などの問題に向き合い、竜と出会う中で自分を発見する物語。この部分には十分な説得力があったし、見ていて面白い場面であったとも思う。

そして竜とコンタクトし、彼を救い出そうとする場面。これはグースが救出に現れて以降、敵機を乗りこなす奇跡の描写と構造的に重なる。すずは高校生だ。高校生なら現実味のない夢やロマンを抱え、時には無鉄砲なことを、そして大抵は大人になって恥ずかしくなったり公開してしまう様なことを言ったりするものである。

現実世界では起こり得ないとしても、喩え冷静に考えれば社会的に間違っていることであっても、その夢やロマンは映画の中では「奇跡」として実現してしまう。それはエンターテイメントとして素晴らしいことではないだろうか。竜とそばかすの姫ではその奇跡に向けて丹念にすずの性格や生い立ちが描かれているし、しっかりと背景が作り込まれた上での奇跡であれば筆者は問題ないと感じた。高校生や中学生の頃にすずが実際にやってみせた様な奇跡を妄想したり考えてみたことも無いという方がいればそれは余程の天才か、或いは死ぬほど退屈な生活を送っていたかのどちらかだろう。残念ながらよくある学生と変わらなかった筆者としては、すずがみせた奇跡に心を動かされたし、トップガン:マーヴェリック同様このエンディングを受け入れたいと思った。

心の余裕

ある映画ブログで、万引き家族に寄せられた批判(日本を万引き大国の様に見せている、万引きを美化する描写は経営者として心が痛い)を紹介し、現在の日本は映画を楽しむ心の余裕がなくなってしまっているのではないか、と書かれていたが、筆者も本当にその通りだと思う。

恐らく多くの人が嘗ては持っていた筈の馬鹿げた夢やロマンを忘れ、杓子定規に社会で生きているばかりに竜とそばかすの姫が提示して見せた極上の奇跡を楽しめなくなってしまっているのである。彼らの目には本作は社会の誤解釈(misinterpretation)にしか写っていない様だ。それは筆者にして見れば大変残念なことだと思う。

映画を巡って議論することは結構だ。先ほどのアリエルで言えば表現の方法に関して議論することは必要だと思う。どんな映画でも多様な観点から議論することが出来るし、社会問題と絡めて竜とそばかすの姫を批判することは構わないと思う。それに実際彼らの批判は的を得ている。

ただ社会問題の描き方故に「竜とそばかすの姫は酷い映画、大嫌い」という感想になってしまうことは違うのではないだろうか。繰り返し述べている様にこの映画が示す奇跡は十分説得力があって万人に通用するロマンのあるものだったし、その感動が社会問題の為に受け取れないというのは映画を楽しむ心の余裕に欠けているとしか言えないのではないかなと思う。

トップガン:マーヴェリックを賞賛した皆さん、是非落ち着いた心で竜とそばかすの姫を見直してみては如何でしょうか?

 

【留学】意外と知らない、知らないと苦労するイギリス生活のリアル

8 (Thu). September. 2022

随分更新期間が空いて久しぶりの投稿。NOPEが公開され、ヴェネツィア映画祭が開幕し、ロード・オブ・ザ・リング新作『力の指輪』を巡って揉め.....映画業界はニュースが絶えない中で皆様如何お過ごしだっただろうか。

筆者はと言えばプライベートのあれこれに奔走し、更新どころではなく、まして映画を見るどころでない1ヶ月だった。この1ヶ月で20本も見てないのではないだろうか。筆者にしては異例の少なさである。

そんなこんなで忙しかったが、漸くひと段落し、時間も少しずつ出来たということで本日は軽めの記事から。意外と語られない(少なくとも筆者は渡英前は知らなかった)、けれども知らないと苦労するイギリス生活のリアルについてお伝えしたいと思う。

留学・ワーキングホリデーで訪れる方、駐在予定の方(このご時世いるのか分からないけれど)、移住予定の方は勿論旅行で訪れる方も知っておくべき内容だと思うので是非お付き合い頂ければと思う。

Edward Norton and Brad Pitt in Fight Club (1999)

Superdry・極度乾燥(しなさい)

私が住む街は駅を降りてすぐこちらの店が、日本でも一昔前に流行った店がある。失礼ながら日本で見なくなった時点で一過性のブランドかな、と思っていたのでまだ存在していることに驚いた記憶。

さて何が言いたいかというと、空気が非常に乾燥している。イギリスと言えば雨が多く、晴れの日が少ない。霧も深くなる。そう聞くとどこか乾燥とは縁がない様に考えてしまうというもの。筆者も安直に湿度が高いイメージを持ってイギリスに入った。

場所によっては500mlのミネラルウォーターが400円近くもする国である。そして外食しようと思えばどんな店でも1000円は軽く超えてしまう国である。当然節約したくもなる訳だが、そうすれば必然的にのどが乾き、手先も乾燥する。真冬にジェットヒーターを焚いて温めていた小学校の教室と同じくらいには乾燥する。

この時点では時差ボケで体調が悪いのか?と軽く考えていた筆者だったが、夕方強烈な目の痛みで空気が乾燥していることに気が付く。コンタクトレンズが8時間も持たないのである。渡航後すぐで目薬もしていなかった為、コンタクトを外すしかなく....という状況になって初めて自分の体調が問題ではなく空気が乾燥していたんだな、と気が付いた。

今思えばもっと早く気が付いて良さそうなものだが、ともかくイギリスの空気は非常に乾燥している。季節を問わず夏でも非常に乾燥している。コンタクトで普段過ごされている方は使用時間に注意が必要。朝から観光して、夜遅くパブに行って、というスケジュールを組んでいるのであればメガネを着用するか目薬を用意してくることをお勧めする。乾燥肌の人なども同様に対策をしてから渡英することをお勧めしたい。

Bad Chaismokers, Terrible Manner

ヨーロッパと言えば環境に対する意識が進んでいて、健康意識も高く、添加物や医薬品に対する審査も厳しい。となればタバコなんて目にすることはない筈だ。では現実はどうかというと、確かにコンビニやスーパーでパッケージを見ることはないし、飲食店で喫煙可能な店も殆どない。

けれども路上喫煙に関しては40年分くらい時計の針を逆に回した様な有り様なのである。路上で吸っている人がいる、というレベルの話ではなく何処を歩いても喫煙者に出会う。それこそ1ブロックに2~3人くらいの喫煙者がいるイメージで、30分も散歩すれば最低でも5人の喫煙者には出会うだろう。

そして飲食店で喫煙出来ない分、店先やテラス席に集まって皆でタバコを吸っている。だからパブでは店の中よりも外の席の方が混雑している店もある位で、ロンドンの繁華街の人気店の前では40人から50人くらいがグラス片手にたむろしているのも珍しくない。

これだけでも頭の痛くなる話だが、更に最悪な事に彼らは非常にマナーが悪い。路上で吸う。百歩譲ってそれは良いとして、彼らは吸い殻をそのまま路上に捨てていくのである。だからイギリスの街中はいつでも汚い(これは後にもう少し説明する)。他には筆者が住んでいるフラットの隣のフラットの住人は窓から吸い殻をそのまま投げ捨てている。恐らく部屋に灰皿を準備して吸っているのだろう。フィルターぎりぎりまで短く吸ったタバコの吸い殻が朝起きて外に出てみると綺麗に放射状に散らばっていたのである。路上喫煙には見慣れてきた筆者でも流石に閉口してしまった。

ベビーカーを押しながらタバコを吸っている人も数えきれないくらい見るし、一番驚いた例としてはスーパーにベイプを吸いながらそのまま入ってきた客がいたことだ(ベイプはイギリスでは非常に普及している様で、大きいストリートには2軒から3軒ほどのvape storeがあるし、駅ではsmoking and vaping is not allowedとアナウンスされる)。

日本に居た際には付き合いでタバコを吸ってみたりしていた筆者で、元々タバコに対する嫌悪感は無い方だった。が、イギリスに辿り着いて2日で極度の嫌煙家に様変わりした筆者である。一部の例外を除いてほとんどの日本人は(喫煙者も含め)辟易してしまうのではないだろうか。必然的に大量の副流煙に曝されることにもなるから、喘息持ちの方や子供と一緒の方、出産直後のお母さんなどは渡英を控えた方が良いかも知れない。その程度にイギリスのタバコ問題は深刻である。

一周回って不便なキャッシュレス

ニュースでも事前にキャッシュレス化が進んでいるという話は聞いていたし、日本は現金社会で世界基準では電子化が遅れているという話を耳にした方も多いだろう。実際本当にその通りで、日本とは比べものにならない程度にキャッシュレス化は進行しており、留学が初海外、という状態だった私は文字通り目を丸くしてしまった。

日本ではPayPayなどで払える店も急速に増え、suicaなどの交通系電子マネーは殆ど誰もが利用しているが、これらは飽くまで「オプション」の一つだ。どういうことかと言うと、イギリスでは電子決済以外の支払いが出来ない店も多く、支払い方法の一つとしての電子マネーではなくスタンダードとしての立ち位置を確立してしまっているのである。

初日。イギリスに到着し、ヒースローからロンドン市内へ向かう為地下鉄に乗る必要があるのだが、チケットを買おうと思っても紙幣を入れることができない。硬貨は受け付けているが、硬貨など用意していないし、そもそもzone1(中心部)まで行くのに硬貨だけでは足りない。

ホテルに着き、支払いに紙幣を取り出した所「今どき現金なんて誰も使わないよ」と言われて断られ、併設のラウンジでの支払いも電子マネーのみと言われてしまう。他の店であっても大体似た様なもので「キャッシュ使える?」とこちらから聞かない限り問答無用で電子決済を促されてしまう。観光地のテムズ川周辺でも"NO CASH PAYMENT"と張り紙をした店もちらほら見受けられ、そうでない店に行っても現金は断られることが多かった。

筆者が住んでいる小さい街では問題なく現金が使えるが、ロンドンなど大都市では電子マネーでの支払いが不可欠だと感じた。筆者も羽田空港である程度まとまったお金を準備して貰ってから現地に向かったが、観光で数日滞在する、という方であれば用意した現金は無駄になる可能性が極めて高いと思われる。ロンドンを中心とした観光地を巡るのであれば特に。

デビットカードなどを用意しておくか、モバイルバンクを予め開設するなどして電子決済に対応してから渡英される方が賢明だろう。現金は精々100ポンドもあれば十分過ぎるくらいではないだろうか。電子決済が出来ない店は存在しないから(路上の屋台でさえもキャッシュレスで、現金お断りの張り紙をしている)1ポンドも持たなくとも支払い可能だし、モバイルバンクであれば何処でも無料でキャッシュが引き出せるので、そうした準備をしてから出ないと羽田や成田で用意した現金を大量に持て余してしまうことになるだろう。

キャッシュレス化も進み過ぎて最早不便になってしまっている。

色々と雑

イギリス人は色々と雑。繊細で完璧な仕事に慣れた日本人からすると驚くことばかりで、特に階級意識の残存する先進国イギリス、というイメージを持って訪れるとその驚きも一入。噂には聞いていてもイギリスだから、インドに行く訳じゃないから、という甘い考えで渡英した筆者は痛い目を見ることになった。パッと思いつく限り列挙してみよう。

  • ゴミの回収が気分次第。毎週火曜日に来る筈だが、市の中心部や高級住宅街のゴミが多いと飛ばされることもある。従って家の前に並べたバケツにゴミが溜まっていき、ハエや羽虫が耐えない。リアル・ジョーカーの世界。
  • 網戸がない。ハエが集っている中網戸がない地獄。窓も開けられないし、換気も出来ない。
  • カビ。窓を開けられない為、密閉した室内で生活しているからかカビが何処からともなく湧いてでる。引越してすぐカビ臭い室内に気が滅入りそうになった思い出。リアル・ファイトクラブみたいな家に暮らしている。
  • 土足での生活。正確には掃除のしなさ。カビ臭い家で土足で生活しているにも関わらず、全然掃除もしないし普通にカーペットの上に昨晩のチップスとかが落ちている。ハエが集ってても気にならないイギリス人だからこそ掃除もしないし、タバコも平気で路上に捨てれるのかなと思った。
  • タクシーもバスも電車も時間通りに動かないことが多い(ロンドンは例外。他の都市部は分からないが、筆者の知り合いはロンドンだけと言っていた)。特にタクシーはいい加減で、Uberの様な予約制のタクシーを頼むと時間通りに来ることがないらしい。教えてくれた彼曰くタクシーを取るなら流しに限る、らしい。その延長線上で宅配便や郵便も信用ならない。宅配はイギリス人も呆れる酷さ。
  • 片手鍋半分程度の水が沸騰するまで7分から8分くらい掛かる。しかもガスコンロで。何故かと言えば(TESCOの廉価品を買った筆者の責任だが)鍋の熱効率が異様に悪いから。他にも電圧が安定しないからなのか分からないが、ドライヤーは熱風設定にしていても一定間隔で冷たい風が噴き出てくるし、バスタオルは初回の時点で毛玉でボソボソになっている。詰まりは製品の質が微妙に低く、安定していない。
  • スーパーで売っているアスパラガスがクネクネと曲がっている。人参が袋の中で割れていたり、欠けていたり(寧ろ欠けていない人参の方が珍しい)。何でも完璧に整った日本での生活に慣れきった筆者は先の曲がったアスパラガスに妙なイギリスらしさを感じた。

ザッとこの程度だろうか。列挙してみると随分と酷い国の様だが、決してそうとは限らない。人によってはこうした雑さに耐えられない人もいるだろうが、3日も暮らせば意外と慣れるものである。筆者が耐えられないのはタバコくらい、おまけにもう一つ述べればタオルケットがないことぐらいである。それ以外のことは大概我慢できる。ただ筆者の様に何らの心構えもなく渡英してしまうと、心が折れたりホーム・シックになってしまう方もいるかも知れない。素敵な写真や動画の裏にはリアルな汚らしいイギリス生活があるのである。

それからイギリスなんかに足を向ける予定の無い諸氏へ。日本は中々に素晴らしい国である。と書くとありきたりだが、考えてみて欲しい。どれだけ安く高品質な製品が届けられるか、日夜真剣に研究開発がなされ、おかげで百円ショップやコンビニでも驚くほど高品質の商品を手に出来るのである。筆者がイギリスの百均(正確には1ポンド均一)で買ったタッパーは一度開けたら二度と蓋が閉まらなくなった。よく店頭で閉まって並べられていたなと感心するくらい、びっくりする程噛み合わなくなってしまった。一度も使っていない、ただ蓋を開けてみただけのタッパーが。

という訳で日本はそれだけの誠実さと勤勉さがある国なのである。円が多少安くともと政治家が信用ならなくとも、たとえ子供の数が少なくとも、それでも十分これからも成長していける国だと思う。G7と言って肩を並べておきながらタッパー一つまともに閉まらない国もあるのだから。

某TV局のコンビニなりチェーン店なりの商品をプロがジャッジする企画。あの様な番組はこの国では成立する筈がない。何故ならどの商品も雑に作られているどころか、より良い商品を、という改良すら恐らくされていないからである。この価格ならこの質、という所がしっかり決まってしまっているのだ。

ということでイギリスに出向く予定の方には待ち受けるトラブルを、予定のない方には海外から見た日本の姿を感じて頂けたら嬉しい。次回からは映画関連の内容に戻る予定だが、こうして度々イギリス関連の内容も投稿出来ればと思う。

 

 

 

【映画解説】カメラムーブメント、トラッキング・ショットの意味/マンハッタン(1979)

29 (Fri). July. 2022

一番手っ取り早い映画の作り方、それは「追いかけっこ」である。良い映画には必ず練り上げられたキャラクターが登場するし、カメラは彼らを明らかにする様に、彼らの物語を伝える様に撮影する。所で映画の物語形式の基本は行動(action)で表現する、ということだった。故に作り上げたキャラクターを行動させる一番簡単な方法は、彼らに「追いかけっこ」をさせるということになるだろう。

淀川長治北野武のその男凶暴につき、を鑑賞し、特に14分近くにわたる逃走劇のシーンに感銘を受けたという。「足、足、足とカメラが収める様子に、これぞ映画だと思った」とコメントしていたことが印象深い。

イージー・ライダー俺たちに明日はないテルマ&ルイーズといったロードムービーアポカリプトやハロウィンといった追跡もの。LIFE!/ライフの様な探求映画。多くの映画が「追いかけっこ」を原型として持っていることに思い当たるのではないだろうか。

そうした「追いかけっこ」を撮影する上で欠かせないテクニックがトラッキング・ショットであり、先日のドリー・ショットの記事でも触れた様にこの撮影技法無くして映画は映画となることは出来なかった。演劇の様な舞台に止まるのではなく、カメラが人物を追いかけることで初めて空間に三次元的な拡がりが生まれたのである。

sailcinephile.hatenablog.com

解説する映画はウディ・アレンのマンハッタン。美しい映像の数々で有名な本作は確かにそれ以上でもそれ以下でもないロマンスかも知れないが、時折ハッとさせる理知的なセリフが発せられる。

「人生は何故生きるに値するか。とても良い質問だね。実に世界は君を豊かにしてくれるもので溢れている。例えば、これは僕にとってということだけど、グルーチョ・マルクス、ウィリー・メイズ(野球選手)、モーツァルト木星第二楽章、ルイ・アームストロングのブルース、スウェーデン映画、フロベール感情教育マーロン・ブランドフランク・シナトラセザンヌの美しい林檎や梨、上手い蟹料理、それから....トレイシー(恋人)の顔....」

ラッキング・ショットの美しさを足掛かりに触れて見たいと思う。

Woody Allen and Diane Keaton in Manhattan (1979)

定義と撮影法

ドリー・ショットであればトラックを敷いてドリーを動かすショット、パンであれば固定したカメラの水平移動などと定義が出来る。だがトラッキング・ショットに関しては定義が出来ない。

それは何故かと言えばカメラの動きと視覚効果が常に一致しないからなのであるが、ひとまず「トラッキング・ショットとは移動する被写体を追う様にカメラを動かす撮影法」であるとしておこう。具体的にどの様な撮影方法があるかを確認することで、この定義が実用からはかけ離れていることが分かる。

例えばベイビー・ドライバーのクレジットシーン。ステディカムを用いたトラッキング・ショットで一般的に長回しと呼ばれたりもする手法で撮影されたものである。カメラが地面を向いたりするからワンテイクではなく、何度かカットしているのかも知れないが一応見た目上はワンシーンワンカットで撮影されている。

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街中に出てコーヒーを買うアンセル・エルゴートを追いかけて撮影した映像であるからこれはトラッキング・ショットと呼ぶに相応しいだろう。特に疑問もない筈だ。

それでは次の映像、スクリームの冒頭を見て欲しい。同じステディカムを用いた比較的長めの撮影で、ケイシー・ベッカーを追いかけるだけの映像である(アスペクト比が恐らく変更されて歪んでしまっているが余り気にしないで頂きたい)。

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これはトラッキング・ショットに分類されるだろうか。3分30秒ごろの鍵を掛けに走るカットは確かにトラッキングらしいが、1分ごろからのワンカットは何かを追いかけているという感じはしない。動く被写体(ケイシー・ベッカー)を追う様にカメラを動かしているが、彼女自身が歩いたり走ったりするというよりも只位置を変えているに過ぎない為、トラッキング・ショット特有の映像効果が生まれていないのである。この冒頭に見られるカットは後半の恐怖を煽る為の演出と考えることが出来、キャラクターの移動による空間表現を目的としたものではない。寧ろこのシーンはロングテイク(長回し)に分類されるべきだと分かる。

それでは奥行きの表現を伴ったキャラクターの追跡であればトラッキング・ショットと呼ぶことが出来るのだろうか。必ずしもイエスと答えることは出来ない。以下に示したキルビル: vol 1 より決戦直前のシーン。当初はクレーンを使ったトラッキング・ショットに見えるが、途中でユマ・サーマンからは離れ全然関係のないキャラクターを捉えるショットに変わる。その後も頻繁に被写体は変更され、最終的に敵役の女性が更衣室に入ってきた所で呆気なくカットが挟まれる。

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確かにこのシーンはトラッキング・ショットに見える。しかし途中で追いかけられる被写体はキャラクターとは呼べない様な瑣末な人物ばかりであり、キャラクターの性格を明らかにしたり空間の表現を強調したりする様な効果は見られない。

それではキャラクターの追跡を伴わない移動のショットもトラッキング・ショットと呼ぶことが出来るのだろうか?それは定義として殆ど意味をなさず、また受け入れ難いものでもあるだろう。

ドリーやステディカム、クレーンや手持ちカメラなど無数の方法で撮影することが出来るトラッキング・ショットは常に技術の変化と歩を共にしながら進歩を重ねてきた。映画の中心が人物を追いかけることにあるとすれば、映画の変化と共に人を追う技術であるトラッキング・ショットも変化してきたのであり、それは決まった定義により確立された技術ではない。従って実用の観点から人物の描写・空間の構成・継続するショットといった特徴を数えることは出来るものの、他のカメラムーブメントの様に定まった意味を与えることは難しいと思われる。

ミッドサマー中のワンシーン。下のクリップで10秒ごろのシーンだが、この車のトラッキング・ショットはドローンを用いて撮影されている。より安価で簡単に手に入れることが可能となったドローンは予算規模を問わず多くの現場で用いられつつあり、嘗ては広大なセットに巨大なクレーンを準備するかVFXで誤魔化していたショット(例えばタイタニックで水を切るシーンなど)もドローンを使うことで簡単に立体的で壮大な風景を表現出来る様になっている。

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マニアックな事例としてはステディカムを逆方向に向けて使うトラッキング・ショットもある。レクイエム・フォー・ドリームでエレベーターに乗るジェニファー・コネリーを収めたシーンや、バベルでブランコに乗る菊地凛子を撮影したシーンが有名だが、最も分かり易いシーンはチェインスモーカズのMVだろう。これは丁度メイキングも公開されているから確認して欲しいのだが、こちらではステディカムの代わりに安価なリグの一種を用いて撮影している。

映像効果としては殆ど同等で、歩くキャラクターを背後から俯瞰的に、そして親密さを持って捉えることが可能となっている。カメラを前面に装着した場合は逆POVショットなどとも表現される通り、キャラクターの表情を通じて行動を説明するショットとなる。映像の特性が極めて強く、取り入れることが難しい撮影方法ではあるが、正しい選択をすれば非常に強力なツールとなるだろう。

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マンハッタン

ラッキング・ショットが持つ映像効果について、詰まりどの様な感情を伝えることが出来るのか、という点についても触れたい。けれども結局は実用でしか語ることは出来ないというのが正直な所だ。大抵の場合こういった効果を持つ、という点に言及することは可能だが、その反面脚本やスタイル、機材に影響される部分も多い。

ラッキング・ショットに関しては本当にクリエイティヴな才能が試される、使い方の幅が広い技法であり、却って下手な説明をするよりも実用に任せ、読者の鑑賞時の個々の判断に委ねる方が得策だと判断した。よって概説は以上とし、マンハッタンという映画に注目することにしよう。

映画の大半は登場人物が取り止めもなく会話をするだけである。冒頭では男同士、女同士で夜の街を帰路に着く様子をトラッキングしているし、映画の序盤、展覧会の帰りにマイケル・マーフィー、ダイアン・キートンウディ・アレンマリエル・ヘミングウェイ(文豪アーネスト・ヘミングウェイの孫)の4人がをトラッキング・ショットで収めるシーンもある。いずれもただ真っ直ぐ通りを歩くだけで、なんと後退りしながらワンブロック以上もトラッキングするのである!

直後ディナーの帰りにはウディ・アレンダイアン・キートンの2人が同様に後ずさりながらのトラッキング・ショットで2ブロック程もーしかも今度は角を曲がってもカットを切らずにー歩いてしまうし、本作ではとにかく印象的なトラッキング・ショットが多い。

極め付けは科学博物館の様な場所に雨宿りするシーンで、このシーン至っては歩くことすらも止めてしまい、ひたすらスタティック・ショットでカメラを全く動かさない。同じウディ・アレン映画でもアニー・ホールでは適度に笑いを挿入することで間を繋いでいたし、ダラダラした会話劇を見せるタランティーノの脚本には実は緻密に計算された緊張感がある。何の仕掛けもなく、ただトラッキング・ショットだけで映画を成立させてしまう手腕はキャリアの絶頂にいた彼にしか出来ないものだった。

そしてこれらのトラッキング・ショット、例えば日中4人で歩く場面を見ると、空間的な工夫はされていないことが分かる。例えば遠近法を用いて立体感のある撮影をしている訳ではないし、背後や左右で展開されるサイド・ストーリーに意味がある訳でもない。4人の俳優は映画の中でそれぞれすれ違いを繰り返すが、それはアクションによるものでもなく、決定的なシーンが存在することもない。ただこのトラッキング・ショットに見られる様に会話をしているだけなのである。

ミディアム・ロングショット気味のフレーミングで後ずさるだけ。後にも先にもこれより美しいトラッキング・ショットは生まれないだろうし、これより簡素なトラッキング・ショットが生まれることもないだろう。それ位さりげない、美しいけれども説明の難しい、はっきり言って「書くことに困る」、そんなシーンである。

映画全体としてはメロドラマ調でウディ・アレン風のラブ・ストーリーだ。唯一決定的に他のウディ・アレン作品と異なるのはゴードン・ウィリスと組んで彼が愛するニューヨークを撮りきったこと。言わばマーティン・スコセッシにとってのミーン・ストリートだ。

本作以前も、そして以後もウディ・アレンは何度もニューヨークを舞台にしているし、街にフォーカスした作品も多数作っている。しかし例えばミッドナイト・イン・パリが単なる「お洒落」映画に留まっていることに対して、マンハッタンは街が主役といっても良いくらいに画面全体からニューヨークという舞台が感じられる様になっている。

自伝の中で彼は「よくマンハッタンのロケはどこでやったのか、本当にあんな場所はあるのか聞かれるんだけど、あれは僕の心の中にあるマンハッタンなんだ。子供の頃にはあったけど今は無くなった場所も多いし、そうしたイメージを集めて切り取った映画がマンハッタンだ」と述べている。恐らくそのイメージの蓄積という点で叙情の深さが違って見えるのだろう。

美しい街並み、ウィットに富んだ台詞、シンプルなトラッキング・ショット、そしてラストの理科室の場面。それだけでこの映画は名作として語られる価値がある。

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猿の模型を指して "We just gonna be like him!" と皮肉るウディ・アレンは正に、恋愛にかけては人間も猿も大差ない、といって笑っているのだろう。このシーンだけでも退屈なコメディ映画を十分に凌駕してしまう。

本国アメリカではおろか、日本でもあるゴシップ・ライター、自称LA在住映画ジャーナリストのことだが、のおかげですっかりイメージの悪くなったウディ・アレン。こうして映画をじっくり鑑賞すれば如何に彼が才能に溢れる人物であったかということが分かるだろう。その某ライターの様に流行りに乗って彼を叩いていれば自分は進歩派だなどと勘違いする人間も多いが、それは検討はずれ以外の何者でもない。

彼の私生活が(真偽はともかく)これまでに築き上げてきたキャリアを破壊することは許されても、彼の才能を否定することは許されないだろう。あれだけ美しいトラッキング・ショットを撮れる監督が一体何人いるだろう?

今回はトラッキング・ショットという一点に絞って解説したが、マンハッタンを取り上げたのは印象的だったからという理由が一番には来るものの、ウディ・アレンの映画をもっと見て欲しいという思いからでもある。本作は彼の最高傑作と言っても良い作品で、彼の悪評を理由に見ず嫌いしていた読者には鑑賞することを勧めたい。

 

【映画解説】カメラムーブメント、ドリー・ショットの意味/ボーイ・ミーツ・ガール(1984)

27 (Wed). July. 2022

ドリー・ショットという言葉は嘗ては存在しなかった。以前はドリーを使って撮る=トラッキングだと考えられていたからだ。だがドリー(dolly)という道具そのものが進化し、トラッキング・ショットの概念が拡大され、両者は最早同一のカメラムーブメントを意味しなくなった。

映画が奇術から芸術に進化し、演劇と袂を分つ様になった、その最大のきっかけはこのドリーという装置の発明だったと筆者は考えている。ではドリーとは何か?トラッキング・ショットとドリー・ショットとは如何に区別されるべきか?ドリー・ショットにはどの様な種類があり、何を表現することが出来るのか?こうした点を一つずつ確認していくこととしよう。

具体的にはレオス・カラックスの初長編、ボーイ・ミーツ・ガールを取り上げることとしたい。横移動にフォーカスするのであれば、ポンヌフの恋人中で日銭を稼ぐ為火吹き芸を見せるドゥニ・ラヴァンの方が有名であろうし、汚れた血に於いてデヴィッド・ボウイの Modern Love に併せて疾走するアレックスの姿の方が視覚的にも快感であろう。しかし本作に見られるドリー・ショット程ストレートに感情を表現した横移動は見当たらないし、筆者に言わせればカラックスの中でも最も優れた作品だと思う。以下で彼の技巧に触れながら詳しく解説したい。

Denis Lavant in Boy Meets Girl (1984)

ドリー(Dolly)とは何か

ドリーとは端的に言って機材の名前だ。

インターネットで各々検索して頂ければ視覚的にも分かり易いと思うのだが、丁度炭鉱などで使われるトロッコの様に車輪の上に台座が乗っており、その上にカメラが搭載出来る様になっている。基本的に小型のドリーであればその台座の上に撮影技師が乗り、カメラを操作しながら役者や風景を収めるということになるのだが、ドリーを転がすだけでは画面がぶれてしまい余り効果的ではない。

そこでドリーと一体となって使われるのがトラック(track)であり、これは文字通り軌道、線路を意味する(ここからドリー・ショットがトラッキング・ショットと呼ばれる様になった)。このトラックを必要な区間伸ばし、その上をドリーが下部の車輪で以て移動することで、カメラが滑らかに移動することが出来る。

スチール製やアルミ製などトラックにも様々な種類があるが、こちらは単体で使われることは少なく大抵木材などを下に敷いて高さを出して使うことが多い。より高い位置でカメラをスライドさせたい場合はレンガ程の木材を使うこともある様だ。鉄道線路も敷木の上に鉄製のレールを渡すと思うのだが、正しく線路同様トラックも敷木を必要とするのである。

トラックが線路と異なる点としては主にその形状だろう。詳しくは後述するが、360°ドリーという撮影方法も存在しこちらはカーブしたトラックを組み合わせ環状に敷いた上をドリーを走らせることによって撮影する。必ずしも360°でなくとも、カーブをドリーで収めたい場合もあり、そうしたケースを想定してトラックには緩やかな曲線を描いたものも存在している。

上部のドリー自体にも幾つか形状が存在しており、大型のものではクレーンを搭載したギアも販売されている。これは川辺にトラックを敷いてそこから水面上をクレーンで捉えたり(ハリー・ポッターで水面の上を箒で飛行するシーン)、アパートの玄関に入った主人公をカットなしに部屋までブーム・ショットで捉えるシーン(ウェス・アンダーソン映画によく見られる)などで用いられる。

その他登場人物がドリーに乗って演技出来るほど大型のドリーや、逆に部屋の中でドアをすり抜けられる位小さなドアウェイ・ドリー、撮影技師は移動せずカメラだけを動かすスライダーといった道具も用いられる。インディーズ映画では三脚の下に装着する車輪などもよく使われており、これはトラックを購入する費用を節約して三脚そのものを走らせようという発想に基づいて作られている。いずれにせよこれらの道具はスムーズな平行移動を実現する為に設計されており、如何に振動を少なくカメラを滑らかに動かすかが肝要である。

従って車の背後を開けてそこからカメラを回したり、車椅子に撮影技師が乗ってカメラを回す撮影方法も存在するが、それらではどうしても振動を抑えることが出来ず(ステディカムでない限り)ドリー・ショットというよりはトラッキング・ショットに分類される方が適当ではないだろうか。

ラッキング・ショット vs ドリー・ショット

既に述べた通り嘗てはトラッキング・ショット(tracking shot)と言えばドリー・ショットのことを指していた(従ってドリー・ショットという言葉の方が比較的新しい)。それは何故ならばドリーを転がす為にはトラック(track)を敷く必要があるからで、これが名前の由来ともなっている(但し trucking shot と呼んで区別することもある)。

もう一つの理由としてはシネマ・ヴェリテ、詰まりヌーヴェル・バーグ登場以前の映画に於いてブレの酷い画面は避けられる傾向にあったし、カメラが大きく移動することも少なかったことが挙げられる。フランスの映画人たちが外に出て小型手持ちカメラで人物を追いかけ、大きくパンやトラッキングを用いたのとは対照的に旧来のメジャー映画ではスタティック・ショットが多く人物を追いかける際にはドリーで滑らかに追いかけることが普通だった。従って手持ちでブレを気にせず追いかけるということは極めて稀だったのである。

しかし現在広く認識されている様に手持ちカメラでーステディカムの場合も多いがー人物を追いかけたり、ウルフ・オブ・ウォールストリートのロングテイクの様にオフィスをぐるりと回る撮影方法は一般的になっている。従って今ではトラッキング・ショットとドリー・ショットは同列に語ることは出来ず、前者は何かを追いかけるショット、後者はドリーを用いたショットとして区別されるべきだと言えるだろう。

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視覚的に両者の間に差異は殆どなく、特にステディカムを用いたランダム・カメラムーブメントとクレーンを活用したドリー・ショットは見分けるのが非常に難しい。ただ技術的な要件を踏まえると、リンクを添付したウルフ・オブ・ウォールストリートのシーンなどでトラックを敷き大型のドリーを走らせることは難しいと分かるだろう。製作者目線で考えて見ればオフィスの活気と喧騒を表現する為にはカットを割らず長回しで撮りたいが、一台のカメラでドリーする程の空間的な余裕はない。それならばステディカムでトラッキングすることにしよう、と決定される訳であり、両者を区別するのは純粋に技術的な理由からだと分かる。

映画を鑑賞する上でドリー・ショットとトラッキング・ショットを意識的に区別する必要は小さいが、若し貴方が制作に携わることを考えているのであれば両者をどの様な現場で使い分けるべきなのか、考える必要もあるのではないだろうか。

因みによく撮影に使われるドリーと言えばChapman/Leonard製のものなどが有名だが、具体的に示されていないものの非常に高価であるだろうと思われる。ステディカムが凡そ1万ドル、150万円を下回る位だが満足に映画一本撮影するだけのドリーとトラックを揃えようと思ったら150万円を上回ることは確実だろう。とは言え現代の映画でドリーを全く使わないことは難しいから、三脚を活用するなど工夫する必要があると思う。

ドリー・ショットの効果

一番大きな効果は矢張り滑らかに人物を追いかけることが出来る(tracking)というものだろう。左右にパンするだけでは人物が歩く方向を示唆するに留まるがドリーを用いることで、表情や歩き方、背後で変化する状況などを総括して示すことが可能となる。

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その他一般的なドリー・ショットの使われ方としては状況説明、英語で establishment と呼ぶところの効果を狙ったものがある。街の様子や村落の様子を示す為、通りの端から端までトラックそ敷き、その上をドリーが走ることでどんな店があり、どういった人々が暮らしているのか、こうした事実を端的に提示することが出来る。上で言及したハリー・ポッターで湖面を箒で滑走するシーン。これも establishment に近い働きをしており、ドリー・ショットで撮影することでホグワーツ城の周囲の建物や森、その位置関係をスペクタクルを交えて表現している。

更に既に以前の記事で詳しく書いた通り、push-in, pull-out の両ショットを撮影する際にもドリーは必要不可欠で、トラッキングとは違い短いトラックを敷いて人物に迫ることもある。こちらは軽微なカメラムーブメントで、緊張感のある場面を作ることから、よりカメラの動き方には滑らかさが要求されるだろう。

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マイナーな使用例としては超大型のドリーに役者を乗せ、その上で演技をさせるスパイク・リー・ドリー・ショットというものがある。彼が多用したことから付けられた名前で、彼の代名詞的な存在でもあるが、筆者の思う彼の最高傑作、マルコムX中でも印象的な使われ方をしている。Sam Cooke の A Change Is Gonna Come をバックにデンゼル・ワシントンが最後の演説会場に向かう場面、何かを悟った様な彼の表情が印象的だが、その様子を強調する為にスパイク・リーは彼をドリーの上に乗せた。

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この撮影方法では人物が浮遊している様に見えるが、正に彼の覚悟と決意、諦念を示すものであり、技法と感情が完璧にマッチした素晴らしいシーンである。

360°ドリーはサーキュラー・ショットの関連で、ズームとドリーを組み合わせたドリー・ズーム(dolly zoom, 通称zolly)は単独で解説した方が明快だろうから、続けてボーイ・ミーツ・ガールの解説に移ろう。

ボーイ・ミーツ・ガール

筆者に果たしてカラックスを語る資格があるかどうか、それは疑問である。演出にゴダール風を感じる部分などはあってもその引用の全てを筆者は把握していないし、恐らく出来ないだろう。故にこの映画の全てを理解していないのかも知れないし、それでは完全な解説は不可能かも知れない。

以上のことは筆者自身がよく承知している通りだが、それでも本作が印象深い傑作であることはよく分かる。好みで言えば筆者は Pola X を選ぶが、カラックスの最も優れた映画はこのボーイ・ミーツ・ガールに軍配が上がるのではないだろうか。

まだ顔も姿も知らぬミレーユ・ペリエを夢見てドゥニ・ラヴァンが橋の上を渡るシーン。デヴィッド・ボウイの When I Live My Dream をバックに彼は夜の街を放浪するが、その時彼はヘッドフォンを着けている。これは街中をはしゃぐ若者と遭遇した時に装着したものであり、彼が孤独で周囲から隔絶されていることが分かるだろう。アレックスは若く、寄る方なく、才気のない青年であり、後半彼はあらゆるものに恐怖していると告白している。外に出ることを恐れ、地下鉄に轢かれることを恐れ、爆破されることを恐れ、ガンになることを恐れ、社会に目を開きあらゆるものを恐れている。

そんな彼が必要としているものは他人との結びつきであり、社会と結び付くことで得られる自己である(極めてサルトル的なテーマだ)。従って彼の攻撃性は彼が攻撃的だから立ち現れるのではなく、彼が傷つきやすい人間だから故に現れる。彼は暴力的に、最も強い関係性、即ち女性との関係を求めるのだが、これは彼が弱い人間である為の発想だろう。フェミニスト的には女性の「モノ」化ということになるのだろうが、彼は二十歳にもならない青年であり、その感情の発露は至極純粋で納得のいくものに筆者には見えた。

横移動に戻ろう。When I LIve My Dream を聴きながら彼は橋の上を歩く。カメラはドリー・ショットで彼を捉えるのだが、この時編集でカラックスはタップダンスを踊るミレーユ・ペリエを挿入する。Dream が何を指しているのか、ドゥニ・ラヴァンが何を夢見ているのかは明らかだろう。そして橋の中ほど、彼は抱き合う恋人同士を発見する。1人佇む女性(ドストエフスキーの小説中人物の様に川に飛び降りそうにも見える)を見つけて男性が近づき、彼女を強引に抱きしめる。彼らはクルクルと回転し、それをドゥニ・ラヴァンはじっと見つめている。

批判的に見れば彼らが実在するかどうかは怪しいもので、彼の女性への欲求が生み出した幻影と捉えることも可能だろう。ともかくドリー・ショットでシンプルに歩く彼を捉えながらボウイの曲が進展するに合わせ彼の夢、恋人を登場させ、アレックスの抱える痛みを見せる手腕は絶賛されるべきだ。

ドリー・ショットは殆ど全ての映画に見られるが、これ程格好良く、美しいドリーは簡単には思い浮かばない。全編を通して何かを求め、1人の男として立つことを模索するドゥニ・ラヴァンを(アレックス三部作の共通の主題でもある)、横移動一つで表し、そこにタップダンスを挿入することで今後の展開全てを暗示して見せているのである。

自室の壁に日記を書き込む様子や、割れた公衆電話で電話をするシーン、電気が落ち2人だけの世界で会話するシーンなど美しく印象的なシーンが多い本作だが、この橋の上でのドリー・ショットは格別のものだ。海外の批評サイトでは本シーンを360°パンで撮っていると分析していたが、それは誤りだろう。少なくとも筆者にはドリーを使っている様に見える。

これ以上の映画の解説はしないが、本シーンを見れば全てが(汚れた血からポンヌフの恋人まで)分かる様な仕掛けとなっている。普段以上の褒め様だが、ありとあらゆるドリー・ショットのお手本でもあると思うし、ボーイ・ミーツ・ガールは強い言葉で、全てのシネフィルに是非鑑賞を進めたい。

【時事】レア・セドゥの魅力と彼女が告発する日本の広告業界の問題

25 (Mon). July. 2022

現役トップの女優といったら誰になるだろう?積み上げてきたキャリアを考えればジュリア・ロバーツマリオン・コティヤール、レガシーと影響力という観点ではメリル・ストリープハル・ベリーニコール・キッドマンも素晴らしいし、単純な出演料ではスカーレット・ヨハンソンジェニファー・ローレンスが一番手に挙がる。

決まった回答は存在しないだろうが、筆者はレア・セドゥこそ現代を代表する女優だと答えたい。今月37歳となった彼女は多くの意欲作に出演すると共に広告業界でも力強い印象を残し、映画業界を真にクリエイティブな方面で牽引する女優であると言えるだろう。

そんなレア・セドゥは、今年もルイ・ヴィトンのモデルとして起用され、Spell On You という香水のCMにも出演している。これまでの彼女のキャリアを振り返りつつ、ヴィトンとのタイアップが如何にユニークなものであるか、そして日本の広告業界(とそれに出演する女優)が如何なる問題を抱えているのか。こうした点について言及していきたいと思う。筆者の思うに、Spell On You の発売に併せて公開されたショート・フィルムは日本に於いては絶対に発表出来ない類のものであった。

Léa Seydoux and Daniel Craig in Spectre (2015)

キャリア

キャリアを振り返るといっても出演作品や生年月日、出生地などはウィキペディアを見ればそれで十分、書き尽くされていることである。それでは記事にする必要性もないから、ここでは彼女がキャリアに於いて何を表現してきたのか。この点にフォーカスして振り返ってみることにする。

キャリアの初期、美しいひと(2008)やイングロリアス・バスターズ(2009)、ミッドナイト・イン・パリ(2011)では金髪のロング、役柄も無垢で美しい女性を演じることが多かった。彼女自身もインタビューで語っている様に女性の長い髪は高潔な美しさを表現していると理解されてきた歴史があり、そのイメージ通りの美しさを体現していた。美しいひとセザール賞に選出された際には目元を強調したメイクにウェーブの掛かったロングの長髪、女性らしさを表現する銀色のトップスをゆったりとして光沢のある黒いドレスで併せており、上流の王道なスタイルで着飾っている。

しかしそのイメージは彼女の出世作アデル、ブルーは熱い色を以て大きく変わることになる。本作で髪を短く切り青く染めた彼女は共演のアデル・エグザルホプロスと共にパルムドールを受賞するが、ノー・メイク、短く整えたヘアスタイルはトラッドからモダンに一気に変容するものであった。思えばアンナ・カリーナからジェーン・バーキン(出身はイングランド)までフランスで最先端を行く女優はショート・ヘアを取り入れてきた歴史がある。レア・セドゥもその系譜に乗り、女優として一躍名を高めると共にアイコニックな存在としても認知される様になった。

2013年のカンヌ国際映画祭ではショートで端正な金髪を左右にまとめ、メイクアップもセザール賞の頃と比べてナチュラルなものだ。口元のピンクはより自然な色合いで耳元のシルバーのピアスと程よく調和している。ドレスはボディラインをさりげなく見せる黒に白のジャケットというシンプルなもので、モダンな女性らしさ溢れる格好良さがあっただろう。

アデルのヒットを受け、2013年にはプラダ/キャンディの広告に抜擢。ポップさがあり、女性の美しさというよりは可愛らしさを後押しするCandyにアデル直後のレア・セドゥが適切だったのか、今振り返れば疑問だが、彼女自身は撮影を楽しんだ様で、「どのキャンディも大好きで、はっきりした個性と変え難いオリジナリティを持ってる。」とコメントしていた。

さて一旦は美女と野獣(2014)やSAINT LAURENT/サンローラン(2014)では従来のトラッドな女性像に回帰するものの、007 スペクター(2015)と翌年のたかが世界の終わり(2016)ではクールで強い女性を演じ、特にたかが世界の終わりではキャリアの集大成的な演技を見せる。視線の交錯に焦点を当て、言葉による気持ちのすれ違いをギミックとして用いた今作に於いて、レア・セドゥはワイルドな女性でありながら兄を慕う心優しい妹、という役所だったのだが、強い女性を外見で示しつつ目線の中には初期の純真さを込めるという難しい演技を提供し、積み上げてきたキャリアを一度決算してみせた。

アンバー・ハードジェシカ・チャステインエヴァン・レイチェル・ウッズらの様な活動家兼副業女優とは違い、難しい役にも積極的に挑戦してきた彼女はシネフィルから十分な信頼を勝ち取ることに既に成功していると言って良い。レア・セドゥが出ているのなら見てみよう、という訳だ。加えてキャリアを通じて美とモダンさを体現してきた彼女は正にフレンチ・アクトレスの代表であり、その影響力は映画業界だけでなくファッションの世界でも非常に大きい。

実際に2021年には再びボンドガールも演じている彼女だが、その彼女が抜擢されたのがルイ・ヴィトンの公式アンバサダー。洗練されたゴージャスさと、シャープなラインが特に美しいブランドで、同じ高級路線のグッチと比較しても目指す方向はより機能的で貴族風だと言える。ヴィトンを代表する商品の一つ、カプシーヌを広告している他フレグランスの広告にも出演しているが、今回注目したいのは後者である。

Spell On You (恋の魔法をかけて)

ディオール Sauvage や、シャネルの手がける Égoïste に Nº5。競合ブランドと比較してフレグランスには弱いイメージのあるヴィトンだが、新作の Spell On You シリーズは中々高く評価されている様だ。

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美容ブログでもないし、特にフレグランスの良し悪しについては触れないが、注目して欲しいのはレア・セドゥの出演するショート・ビデオである。Spell On You (恋の魔法をかけて)と命名されている様に、ロマンチックで官能的な女性のイメージを表現することを目指したそうで、ビデオの中でも彼女が肉体の交歓を通じて男性に「魔法をかける」様子を写している。

フランスを代表する女優として、そしてモダンでクールな女性の象徴として彼女がキャリアを築き上げてきたことは既に述べた。それを踏まえれば(色々問題があったとは言え)10分超に及ぶ同性愛者とのシーンや、その他フレンチ・ディスパッチ等ではその肉体を顕にしているという事実。そして何より表彰式や写真の中で時代を先取りする「クール」を表現してきた肉体が広告として起用されている事実が大きな意味を持っていると分かるだろう。

ファッションとは自分らしさを外部に向けて示す表象、精神を肉体に重ね合わせる行為なのである。だから大衆迎合的に目立たない服を着て個を埋没させる衣服は衣服であってもファッションではない訳だが、そのファッションの最高峰、トレンドを形作るブランドがレア・セドゥーピクシー・カットで同性愛者を演じ、ボンド・ガールで世の憧れの男性007を虜にした女性のイメージーこそが官能性とロマンチシズムを表現する女性として適切だと判断したのである。

日本の広告業界

これは日本では全く考えられないことだ。最大手の衣服販売企業、ユニクロが起用する女優は綾瀬はるか。GUでは中条あやみ。彼女らが何のイメージを体現しているというのだろうか。彼女たちの仕事を批判している訳ではないが、社会を代表し日本の女性像を形づくってきたとはとても言えない女性を起用していて自分らしさの表現に繋がるのだろうか?衣服販売企業であってもファッションブランドとは呼べないことが分かるのではないだろうか。

ヴィトンとユニクロでは価格帯が全然違う。ハリウッドと日本の業界を比べても仕方がない。その批判は的外れだ。この様に考える方もいらっしゃるだろう。しかし嘗て資生堂のCMには山口小夜子が出演していたことはご存じだろうか。日本を代表する伝説的なファッション・モデルで、その着こなしは多大な影響を与えた。今では小松菜奈広瀬すず今田美桜らが努めている仕事だが、ポピュリズムではなくファッションに訴える面白い広告が展開されていた時代もあったのだ。

そしてこれはラグジュアリー・ブランドに限った話でもない。商品の値段の多少に関わらず、自社が広告に選んだ俳優を支持しているのか、それとも都合よく利用しているだけなのか。ただこの一点のみを問題としている。

レア・セドゥという女優がこれまでに表現してきたものの数々は、そのどれもが彼女の魅力となっている。そして筆者が特に感銘を受けた事実が、ルイ・ヴィトンというブランドが彼女の肉体と官能を売りに出す、と決めたことだ。昨今の日系企業は女優のイメージと肉体をサポートしたことがあっただろうか。「清純派」などという適当な名前で呼んで肉体を封じ、個性を消し去り、その結果大衆の曖昧な希望だけで作られた女優の他に広告に起用したことがあっただろうか。

肉体を余すことなく使い、美を追求し、そしてフレンチ・ウーマンのショート・ヘアーの新たなイメージを作った。それを讃えるCMが Spell On You だ。ユニクロ綾瀬はるかに求めていることは真逆、誰でも手が届く様な、誰もが同じくなる様なスタイルを理想的に見せること、これだけである。映画の中で肉体を見せることを推奨している訳ではない(寧ろその反対である)。ただ個性を消し去る様に広告やテレビが演出するのは如何なものか。Sonyが Bring Me The Horizon を広告に起用した際にはオリヴァー・サイクスの襟高のシャツに手袋で徹底的にタトゥーを隠させたが、それはオリヴァーのスタイルを否定しているということに他ならない。個性を抹消し、曖昧な連帯感しか作り出さない現状ははっきりと問題である。

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総括しよう。キャリアの中でトラッドな美しさからモダンな女性像までを表現してきたレア・セドゥは間違いなく現役トップ女優の1人だ。彼女が表す伝統的な優美さと最先端のクールの融合は間違いなく魅力的なスタイルで、そして女優としても信頼に値する。

ルイ・ヴィトンはレア・セドゥ本人が絶賛するニコラ・ジェスキエールに率いられカプシーヌなどを販売し、彼女がその広告を担当しているが、Spell On You という新作フレグランスで彼女の肉体と官能こそがロマンチックの定義だと認めた。彼女の持つイメージこそロマンティシズムを表す最適なものだとして彼女をサポートしている。

これは翻って考えてみると昨今の日本では見られない広告の仕方だ。日本の企業は女優に対し、大衆の期待を緩やかに代表すること、個性を発揮しないことを要求しており、女性をサポートするどころか圧迫してしまっている。そうして作り上げられたイメージ、例えば綾瀬はるかのイメージはレア・セドゥのそれとは大きく違い、美しさとは何かを考えさせられるものだ。

映画とは決してその世界のみに留まるものではない。批評を行う際には極力作品の中だけに集中する様にしていても、事実役者や監督の社会的な性格が大きな影響を及ぼす。逆も然りで映画の中で作り上げてきたイメージは、社会に対して作用し得るものだ。たかが広告と言えどその中で迫害された女優は決して個性を作中で見せることはできないだろうし、両者の間で相互的に支え合うことこそが真に魅力的なパーソナリティを作り上げるのである。綾瀬はるかに欠けていて、レア・セドゥが持っているものは何か。それは本人の才もあれど、社会からのサポートでもある。

レア・セドゥこそ世代を代表する魅力的な女性なれど、そこだけで思考を停止させるのではなく、自分の周囲の世界、身近な映画の世界にまで展開させてみて欲しい。

【映画解説】メソッド・アクティングの罪と性的暴力/ボーイズ・ドント・クライ(1999)

22 (Fri). July. 2022

演技にリアリズムを獲得する上でメソッド・アクティングが如何に強力で有効なツールか、このことは既に十分論じたつもりだ。

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理想的な演技が登場人物と俳優自身の境目が消失する様なものであるとする時、俳優は正に登場人物と同等の動作をする必要がある。そのことによってカメラに捉えられる演技は真の感情を表現することが出来るのであり、その為に役者は徹底的なリサーチを実行し、且つ行為そのものをキャラクターに近づけなければならない。これがメソッド・アクティングの骨子である。

所が、これも既に述べた様に、現代ではメソッド・アクティングは優れた演技法というよりも寧ろ俳優やスタッフを攻撃する有害な方法論であると捉えられる様になっている。その一つの契機となったのは間違いなくジャレット・レトがジョーカーを演じたスーサイド・スクワッドであるが、他にも俳優の演技に対するアプローチが問題となった例は枚挙に枚挙に遑がない。

具体的には1999年の映画、ボーイズ・ドント・クライを取り上げたいと思う。主人公を演じたヒラリー・スワンクは実際にメソッド・アクティングを取り入れ本作に向けて準備したと言われているが、そのアプローチは筆者としては大いに問題であったと思う。概観の後詳しく解説したい。

Hilary Swank in Boys Don't Cry (1999)

アイデンティティの侵害

メソッド・アクティングの問題点と言って真っ先に挙げられるのが肉体重視の価値観への反対である。確かに役柄の為に体重を落としたり、髭を伸ばしたりすることで演技にはそれらしさが添加される。しかしスタニスラフスキーが主張する様な深い感情の表現に必ずしも繋がるものではないという批判だ。

筆者としてはこの批判は的外れだと思っており、そもそもメソッド・アクティングはリアリズムを追求する際にしか採用されないのであって、それならば肉体を変形することは当然のことだ。ミザンセンを適切に機能させる、即ち現実的な描写を獲得する上で俳優の肉体をシーンに沿うものに変える努力はなされて然るべきだと思うし、その上で感情の表現が伴わないというのは役者の力量の問題でもある。

例えばNHKが制作した戦争ドラマ太陽の子(るろうに剣心The Final でも良い)に出演した有村架純。彼女がメソッド・アクターでないことは十分了解しているが戦争ドラマであるにも関わらず(且つ物資に欠けているという状況設定にも関わらず)肉体の変形を試みないのは如何なものか。ミザンセンからすっかりリアリズムが欠けてしまい、かと言って心情を抽出する様な演出をしている訳でもないから観客に訴える力が欠けてしまっている。俳優として肉体をキャラクターに近づける努力は多かれ少なかれ必要だろうし、メソッド・アクティングはその極端な方法だとすれば、感情の表現はあまり問題とはならない。

本当にメソッド・アクティングが問題となるのは肉体を変形することによる俳優自身の精神、延いてはアイデンティティが破壊される危険を孕んでいることだと思う。メソッド・アクティングは準備期間から、そしてプロダクション中もカメラの外でさえキャラクターに接近することを要求する。これは必然的に普段無意識に行なっていた動作を禁止し、不自然な行為をするということであり、また肥満や痩身など適正体重から程遠い体型は著しく精神に悪影響を及ぼす。

具体的に考えてみよう。レクイエム・フォー・ア・ドリームで薬物中毒の主人公を演じるにあたりジャレッド・レトは一切の性行為を断ち、その性衝動を代わりとして薬物中毒の渇望を表現していた。これはスクリーン上のみを見る我々からすれば素晴らしい演技であったが、ジャレッド・レトは当然銀幕の中に存在している訳ではない。彼自身にも我々と同様プライベートの生活があって、メソッド・アクティングにより(性行為の禁止)彼の個人的な生活が悪影響を受けたことは否定できない。

マリリン・モンロー等も役作りを通じて精神の安定が損なわれていたと報告されているが、この様にメソッド・アクティングによる肉体の変形はオンとオフのスイッチを切り替えることを難しくさせ、俳優のアイデンティティを破壊してしまう危険性がある。スクリーン上のことだけを考えるならば肉体の変形は素晴らしい影響をもたらすし、まして彼が一流の俳優であれば深い感情が伴ってくる。しかしその一方で彼の個人的な生活、撮影外の生活でもキャラクターを演じ続けなればならず、それは極めて不健康なことだと言える。

実際ジョーカーの為睡眠時間を削って撮影に臨んだヒース・レジャーは彼個人の精神を著しく傷つけ、鬱状態に苦しんだ結果命を落としており、この撮影外の精神の安定は大きな問題だと言えるだろう。

傷跡神話・性的暴力

確かに役柄と俳優の人格の切り替えは大きな問題だ。しかしそれは適切なメソッド・アクティングの実行、或いは十分なアフターケア体制の構築により乗り越えが可能であるとも言える。

だがハリウッドが長年継承してきた傷跡神話とそれに付随する性的暴力の問題は簡単に解決することは出来ない。ここで映画史全体を振り替える紙幅はないから簡単に説明するが、ハリウッドは昔から男女共に傷を見せることをキャラクターに求めてきた。

男性にとってその傷は強さの象徴となる。古くは西部劇の傷だらけのガンマンの肉体(アウトローなど)から近年ではレオナルド・ディカプリオが演じたレヴェナントなど体を傷だらけにすることで強さを表現する演出が見られてきており、寧ろ傷付いていること自体が強さであるかの様に考えられてきた。

故にハリウッド、特にオスカーでは傷付いた俳優が評価される傾向にあり、抑制した演技をする男性は好まれないという傾向にある。ウルフ・オブ・ウォール・ストリートでダラス・バイヤーズ・クラブのマシュー・マコノヒーに負けたディカプリオはレヴェナントで傷つくことで主演男優賞を手にしたし、2003年ジュード・ロウジョニー・デップビル・マーレイを制して栄誉に輝いたのは娘を亡くした男をミスティック・リバーで演じたショーン・ペンだった。アメリカン・ビューティーケヴィン・スペイシーレインマンダスティン・ホフマン。例外もあるが、大半が傷付いて強さを見せつけた俳優だ。

だからメソッド・アクティングを俳優が取り入れる際には輝く為ではなく、傷つく為に行為を変化させることが多い。詰まり弁護士や医者、完全無欠のスーパーヒーローを演じる目的でメソッド・アクティングを取り入れる俳優は少なく、大抵がトランス・ジェンダー鬱病精神障害、肉体の障害などの困難を抱えており、その傷を強調する為に睡眠時間を削ったり瞼を縫い付けたりする訳である。

これは一面では強さの賛美、傷付いて立ち上がる姿こそ素晴らしいという安易な表現に陥ってしまう危険があり(その困難の克服が素晴らしいという事実は否定し難いのだが)、アウトサイダーアウトサイダーとして生きていく、そうした人生を否定し映画を画一化してしまうことにも繋がりかねない。その意味で俳優に傷つくことを求めるメソッド・アクティングは問題だとも言えるし、或いは役者が傷つかないメソッド・アクティングを作り上げる必要があるとも言える。

そして女性の場合、傷つくことはステレオ・タイプとの合致を示す。女性は従来映画の中で傷つくことにより弱者、被保護者としての立ち位置に甘んじてきた。これは映画史上に存在しなかったという意味ではなく(その様な女性は幾らでも発見される)、女性は傷つき易いというイメージを埋め込んできた事実を意味する。

羊たちの沈黙アカデミー賞主演女優賞を獲得したジョディ・フォスター。彼女は極めて有能で、知的、行動力に溢れる強靭な人物だ。続編となるハンニバルでは強引に捜査を進め上司から疎まれてもいる。彼女に一般的な意味での「弱さ」は見当たらないものの、ハンニバルは彼女の中に羊を助けられなかったトラウマ、家庭で恵まれなかったトラウマを見つけ出す。

こうしたトラウマ自身は男女問わず見出されるものだろう。しかし仮にクラリスが男性であればそのトラウマを乗り越えて刑事として成長するだろう所を、ジョディ・フォスターは決して克服しない。その過去の苦悩を抱えたまま彼女は刑事になるのであり、単に殺人犯を捕まえるだけでは羊は救えないと明らかにしている。これは極端な見方をすれば「有能なクラリス刑事も傷(過去のトラウマ)を抱える脆い女性だったんだよね」という物語にもなっている。

強い女性でも、そして弱さを抱える女性なら尚更彼女たちが劇中で経験する(発見する)傷は弱さの象徴として使われており、その点で男性の傷の描かれ方とは逆行していると言えるだろう。メソッド・アクティングが既に述べた通り傷を強調する演技法であるとすれば、それは女性の弱さを意識させる表現方法でもある訳でこれも重ねて問題だと言えるのではないだろうか。

ボーイズ・ドント・クライ

1999年に発表された本作で主演を演じたヒラリー・スワンクアカデミー賞主演女優賞を獲得しており、それも納得の素晴らしい演技を、メソッド・アクティングを取り入れた上で見せていたのだが、筆者としてはこの映画はあまり好きではない。

事実を提示することから始めよう。劇中に見られる様にヒラリー・スワンクは実際に胸部に包帯を巻き、男性器を模した靴下を入れて生活をし、声を低くし、そして体重を落とすためにダイエットを実施した。髪を切り徹底して男性になることを目指したヒラリー・スワンクは隣人をして従兄弟が遊びに来ているのだと本気で信じさせた程だったそうだ。

当たり前の事実としてヒラリー・スワンクと彼女が演じたキャラクター、ブランドン・ティーナは全く別の人格である。

ブランドンは女性に生まれながら男性としての自認を持っており、恋に落ちたクロエ・セヴィニーとの生活を夢見て男性として生きていくことを決める。それはヒラリー・スワンクの人生ではなく、性別というアイデンティティの重大な構成要因を変え、見た目の話し方も服の着方まで変えた生活を撮影外でまでするというのは余りにも役者本人への負担が大き過ぎはしないだろうか?映画の中でそうした人生を描くことは賞賛に値する。スクリーンの中で彼女は素晴らしい演技を見せてもいる。だが既に述べた通り、俳優はスクリーンの中にだけ存在している訳ではない。

メソッド・アクティングという演技法は良くも悪くもキャラクターに完全に同化し、究極のリアリズムを手にすることを可能にする。その副作用として私生活でまでも俳優はキャラクターと同化して生活しなければならないが、筆者にはヒラリー・スワンクとブランドン・ティーナの間の差異が大き過ぎる様に、ブランドンという人格は日頃抱えるには辛過ぎるのではないかと考えてしまった。実際大きな問題は起きなかったから良いものの、メソッド・アクティングとして実行するには非常に大きな危険があったと思う。

詳しくブランドン・ティーナがどの様な人物かについては映画を見て欲しいのだが、その人格は追体験するには痛々し過ぎる。上に習った言い方をすれば傷が多過ぎる。所で監督のキンバリー・ピアースは観客がヒラリー・スワンクに共感する様な映画の作りにはしておらず、その意味で傷痕を弱さとして表現していない。佳作な監督だがその手腕は確かなものだろう。

正直映画そのものに関して筆者の口から言えることは少ないのだが(何故なら全体的に好感を持てずに鑑賞していたから)、最後に1つだけ付け足すとすればこの映画が発表された年に注目して欲しい。

1999年は映画史的には極めて大切な年でアメリカン・ビューティーマトリックス17歳のカルテファイトクラブ、バージン・スーサイドと価値観を揺さぶる作品が立て続けに発表されている。前年にはアメリカン・ヒストリーXが公開されており、この作品とボーイズ・ドント・クライアメリカン・ビューティーまでを繋げると世紀末に如何に人々の価値観が変わりかけていたかが分かるのではないだろうか。

2022年にこうした一連の映画群を振り返って感じるのは#MeTooムーブメントやその他諸々進歩派と称する人々の行動のエッセンスが如何に古くからあるものか、ということであり2001年のあの事件さえなければもっと早くに世の中が変わっていたかも知れない、という事実である。何かしらの危機、国難を前に人々は右傾化する傾向にあると言われるが、アメリカをひっくり返してしまった2001年の直前には素晴らしい映画が沢山公開されていた訳である。ボーイズ・ドント・クライは決して明るい映画ではないが、こうした事実を踏まえながら見ることもまた面白いかも知れない。

【映画解説】映画におけるメソッド・アクティングとは何か/ディア・ハンター(1978)

20 (Wed). July. 2022

ジャック・ニコルソンに始まりヒース・レジャーホアキン・フェニックスバリー・コーガン、アニメ版ではマーク・ハミルと数々の名優が挑戦してきた難役、ジョーカーだが、その中で一際酷評されたのがスーサイド・スクワッドでその役を演じたジャレッド・レトだ。演技自体の質もさることながら特に批判されたのはそのアプローチで、凶悪犯罪のビデオを見るというのは理解出来ない所でもないが、使用済みのコンドームや死んだ豚、生きたネズミを共演者に送りつける行為は厳しく非難されている。

彼のこの「凶行」は役作りの為のアプローチ、メソッド・アクティングの実践なのであるが、そもそもメソッド・アクティングとは何であろうか?

既に述べた通りジャレッド・レトのジョーカーを発端に近年では否定的な見方が多いメソッド・アクティングであるが、一時期は優れた役者による優れた演技を提供する方法として広く使われてきたものでもある。これがなければ数々の名作が誕生しなかったことも事実であり、ここではその優れた特徴を紹介したい(尚次回は何故メソッド・アクティングが問題なのか、如何に役者を破壊するかという負の側面を集中的に取り上げる)。

解説する映画はマイケル・チミノ監督のディア・ハンター。言わずと知れた名作だが、筆者本人も非常に高く評価する大好きな一本だ。実際に脚本、音楽、演技、撮影どの側面を取っても素晴らしく、その上でベトナム戦争という暗い主題に真剣に向き合っている点も評価される。                         レイジング・ブルやタクシー・ドライバーと比較するとデ・ニーロの役作りはあまり語られることはないが、そちらも踏まえて解説したい。

Robert De Niro, Meryl Streep, John Cazale and others in The Deer Hunter (1978)

メソッド・アクティングの発祥

メソッド・アクティングは元来ロシア人の演出家、Konstantin Stanislavski(コンスタンチン・スタニスラフスキー)が考案したスタニスラフスキー・システムに由来している。これは俳優自身と役柄(キャラクター)との間の境界線を無くすことを目的としており、彼はこれによって俳優がキャラクターの人生を生きる様に演じること、即ちより深い感情を表現することが可能になると考えた。この時"method"、メソッドとは彼にとって肉体を感情に接近させる為の運動であり、多分に弁証法的な発想に基づいた概念であったと言える。

さてスタニスラフスキーはキャリアの中でメソッド・アクティングに対する理論を発展させ続けたが(即ち彼は今日考えられている様な確定した理論を築いた訳ではない)、その理論を完成させたのは Lee Strasberg(リー・ストラスバーグ)であった。彼は後に述べるマーロン・ブランドロバート・デ・ニーロ、そしてマリリン・モンローポール・ニューマンといった数々の名優を指導し、メソッド・アクティングをハリウッドに広めた立役者でもある。

彼は肉体と感情の関係を見つめ直し、一つの事実を発見する。即ち肉体は無自覚に動作を行い、その動作は常に何らかの印象を与えている、という事実である。スタニスラフスキーはメソッドを感情に接近させる為に用いることを提唱したと述べたが、彼にとってそれは感情を構成する為のツールであった。役者はそれまでの人生で種々の経験をしている。その経験を活用し、キャラクターの感情を再生成することが「生きる様に演じる」為には肝要だとスタニスラフスキーは考えたが、その感情の再生成をメソッドによって促進しようとした訳だ。

所で映画の中で演技とは常にカメラの前での行為である。演劇とは微妙な差異が観察されるのであり、映画の中で俳優は常に行為、アクションを起こすことを求められている。であれば俳優は如何に行為を本物らしくするのかを要求されているのであり、その行為が自ずと与える印象は感情と結びつき本物らしく見える筈だ。ここにストラスバーグの根本原理がある。

我々は椅子に座ったり、ペンを持つ時に一々考えることはない。また水とウォッカの違い、傍目には一緒に見える、を味覚で体得しており、思考を以て区別することはない。こうした動作は極めて純粋なものであり、言わば本物の行為である。

こうした日常的な行為は俳優にとっても日常的で、そして恐らくキャラクターにとっても日常的なものだろう。従って両者には感情的な結びつきが生まれるのであり、そこから観客に与える印象は相似する筈だ。問題となるのは特殊な状況に於ける特殊な行為であり、それを如何に本物らしく見せるかが俳優に課せられた使命ということになる(何故ならば観客が提示するのは飽くまで行為であるから)。

この段を以てストラスバーグは言う。俳優自身が特殊な行為を日常に引き寄せれば良いのだ、と。詰まり徹底的なリサーチや行為の追体験、レヴェナントで動物の死骸の中で眠りバイソンの肝臓を食べたレオナルド・ディカプリオの様に、を通じて役者は自然な行為を体得するのだ。そして自然な行為は自然な感情を表現し、従って「生きる様に演じる」ことが可能になる。

以上がストラスバーグが完成させたメソッド・アクティングの思想の体系である。根本にある思想は俳優は役柄を生きる様に演じるべきだ、という思想。そしてその為には感情を再生成し、役柄と同じ様に泣き、笑う必要がある。所でカメラに映るのは飽くまで行為だけであり、行為が感情を表現する。それが極めて身近な行為である故に椅子に座ることは容易で簡単に表現出来る様に、キャラクターの好意を身近なものとすれば好意を自然に表現することが可能となるだろう。その為には徹底的なリサーチと人生の追体験が必要であり、従ってメソッド・アクティングとは周到な役作りを出発点とする。

マーロン・ブランドを見よ

先日の記事で筆者は良い演技とはミザンセンを適切に機能させるもので、リアリズムの追求ではないと書いた。

sailcinephile.hatenablog.com

これは映画のスタイルがリアリズムだけに止まらないからであり、コミカルな演出にはコミカルな演技(オーバーリアクションなど)が必要である故だが、当然リアリズム映画ではリアルな演技が必要であるということになるだろう。

上で述べたメソッド・アクティングは「生きる様に演技する」と謳うだけあってリアリズムを志向している(実際リアリズムの獲得の為には有効でもある)訳だが、このリアリズムを目指す傾向はどこから始まったのだろうか。

映画史的にはその問いには結論が付けられている。欲望という名の電車(1951)でスタンリー・コワルスキーを演じたマーロン・ブランドからだ。メソッド・アクティングの体現者であり、映画界に多大な影響を及ぼした記念碑的な作品で、その前後の作品で俳優の演技は決定的に異なっている。

彼は役柄を表現する、という今では当たり前の演技に初めて取り組んだ俳優なのである。ケリー・グラントのコメディ、ハンフリー・ボガートのハードボイルド、ジュディ・ガーランドの明るさ、それまでの俳優は役柄と自身のイメージがセットで語られていた。オズの魔法使い若草の頃イースター・パレードと出演していたジュディ・ガーランドは役柄以前に彼女そのものだったのである。だから両者の間に受け止められ方の差異はなく、寧ろ役者のスターパワーでキャラクターを売る向きもあった。

確かにマーロン・ブランドに対しても波止場や蛇皮の服を着た男、乱暴者といったロマンチックで乱暴といった役所を演じ、トラブルメーカーという評判とも相まってイメージが先行している部分もある。しかしラスト・タンゴ・イン・パリや野郎どもと女たちなど幅の広い演技を見せており、やはりそのレガシーは大きい。ジェームス・ディーンやジャック・ニコルソンといったハリウッドの名優の系譜はマーロン・ブランドから始まると一般には了解されているのである。

本題に戻ろう。このマーロン・ブランドが映画史に占める特異な立ち位置は彼がメソッド・アクティングを採用したことによる。それ以降ハリウッドはブランドの様なリアリズムを高く評価する様になり(勿論その限りではないが)、アル・パチーノダスティン・ホフマンといった役者を一流として評価する様になったのである。ニコラス・ケイジという例外を除き、現代の映画界で役者が役柄に先行することを許された俳優はいない。特に多様性を売りに出すメジャー映画界では、キャラクターにどれだけ寄り添った演技をするかが問われているのである。

その意味で現代でもマーロン・ブランドの作品を見る意義は大きい。決して過去の、古臭い俳優ではなく、またゴッドファーザーで名を馳せた役者なのでもなく、彼は現代でも生き続ける名優なのだ。

ディア・ハンター

さてリー・ストラスバーグの教え子、ロバート・デ・ニーロはブランド以来の系譜を受け継ぎメソッド・アクティングを実践する俳優として知られているが、その役柄に対するアプローチは本作でも変わっていない。

彼は撮影を始める前、実際に彼が演じるキャラクター、マイケルを理解する為実際にピッツバーグで数ヶ月間暮らしたと語っている。特にピッツバーグ周辺の山岳地帯とそれに伴う自然を理解することが重要で、街を取り巻く環境が人々に与える影響を正確に把握し、演技に反映することを希望していた。その一環として製鉄所も見学し、実際にそこで働くことまで試みたそうだ。

ディア・ハンターと言えばかの有名で、そして議論を呼ぶロシアンルーレットのシーンが真っ先に思い浮かべられると思うが、筆者は最も大切なシーンは最後、デ・ニーロやメリル・ストリープらが机を囲んでゴッド・ブレス・アメリカを歌うシーンだと思っている。様々な規制がスタジオの中に残っていたとは言え本当に戦争の惨劇を描こうとしたのであればロシアンルーレットという仕掛けは余りにも現実離れしていて、文学的に過ぎる。

寧ろ監督のマイケル・チミノが描きたかったのは傷ついたアメリカの姿そのものだったのではないかと考えている。だからこそ3時間を超える長尺の殆どが戦地以外、特に出征前のピッツバーグに費やされているのであり、そこで暮らす三人の工員がベトナム戦争という(恐らく今でも)アメリカ史上最大の汚点をきっかけに変化したかを描いているのだ。

当初の結婚式の場面、どの人物も丁寧に描き分けられており、そして彼らが謳歌する「アメリカ的」幸せがどの様な要素から作り出されているのかを余すことなく盛り込んでいく。田舎町、広大な国土に広がる自然、製造業、隣人同士の結びつき、教会、鹿狩り....こうした要素が混然一体となって形成されていることが分かる。しかし一度ロバート・デ・ニーロが帰省すると、彼には全てが違って見えてしまう。彼自身が丁度揶揄っていた戦争帰りの兵隊の様に、戦地のトラウマが世界を一変させてしまっており、鹿を捉えても撃つことも出来ない。

それは今風に言えばPTSDということだが、恐らくそこにあるのは彼らアメリカ兵がベトナムで残虐行為を働いたという事実、そしてそのことによって傷つけられた彼らのプライドだ。昨今聞くことは少なくなった主張だが、当時はアメリカ万能主義、アメリカこそが世界一の強国であると考えられていた。そしてそのアメリカがベトナムという小国に対し、民間人を殺し、国土を焼き払っているという事実が兵士に与えた衝撃は計り知れないものがあったのだろう。

その点でベトナム帰りの兵士のPTSDは他のそれと異なっていたのであり、デ・ニーロは苦しんでいたのだと考えられる。最後に歌われるゴッド・ブレス・アメリカは突きつけられた事実からは目を逸らし、安易なヒロイズムと盲目的なアメリカ賛美に繋がっているという点で批判もされる。しかし筆者としてはそれこそが本作が傑作である所以だと、詰まりアメリ絶対神話が崩れていることを証明する負の遺産として優れていると思うのだ。傷ついたアメリカの姿こそが本作の最大の主題なのである。

これは決して穿った見方だとは思わない。それを証明するのが、ロバート・デ・ニーロのメソッド・アクティングだ。何故彼はPTSDに罹った帰還兵ではなく、ピッツバーグの街のあり方を学んだのだろう。何故メソッド・アクターである彼は戦争に苦しめられた帰還兵ではなく、街の空気を学ぼうとしたのだろうか?それはきっとアメリカを体得し、アメリカのそれが戦争を通して徐々に変わっていく姿をこそ写したかったからだ。そしてより直接的に言えば傷ついたアメリカを描写する様に彼が受け取った脚本が書かれていたからだろう。

以上のことから筆者はディア・ハンターの最大の見せ場はゴッド・ブレス・アメリカを歌うシーンだと考えているし、そのシーンまでの登場人物の心情の描き方の素晴らしさこそが本作の最も優れている点だと考えている。読者の方々にはこの点を踏まえて鑑賞して頂きたいのだが、最後にもう一点だけ解説して結びにしよう。

それはブロマンスという観点だ。北村紗衣の言う所の「腐女子的」な要素である。ブロマンス自体は映画や文学の世界では広く見られる且つ伝統的に見られるもので、古い所では中世フランスの騎士道物語にも登場する。男同士の精神的な紐帯をテーマとしており、時には恋人(女性)や社会的な立場を投げ打ってでも親友の男を救い出そうとする、その精神的態度のことだ。

明日に向かって撃て!やワイルド・バンチなど映画の中にも同等の関係は登場するが、このディア・ハンター内のロバート・デ・ニーロクリストファー・ウォーケンもまたブロマンスを感じていたと言えるのではないだろうか。デ・ニーロが再びベトナムに行く理由が分からない、クリストファー・ウォーケンメリル・ストリープを大事にしない理由が分からない、等々聞かれたがそれも全て女性よりも大事なもの、詰まりブロマンス故の行動ではないだろうか。

ブロマンスは決して同性愛ということではない、という点は強調しておきたいが、その男同士の結びつきという観点にも注目するとロシアンルーレットがより深い意味を持っていると分かるだろう。何度見ても素晴らしい(筆者自身は4回ほど鑑賞している)傑作であるから、デ・ニーロの演技にも注目しつつ是非鑑賞して貰いたい。

*次回はメソッド・アクティングの弊害を取り上げる予定であり、そちらも併せて読んで欲しい。またブロマンスについても今後まとまった文章を書きたいと思う。