知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】映画の見方応用編/ディストラクション・べイビーズ(2016)

18 (Wed). May. 2022

先日の概説編に続き、映画の見方、本日は応用編である。

sailcinephile.hatenablog.com

取り上げる映画は、真利子哲也監督作品のディストラクション・ベイビーズ柳楽優弥菅田将暉小松菜奈村上虹郎池松壮亮他豪華なキャスト陣が顔を揃えた映画だが、この手の邦画にしては観客に媚びを売らない、珍しい映画でもある。

同じく菅田将暉×小松菜奈コンビの糸(2020)も、両者に加えて成田凌斎藤工二階堂ふみ榮倉奈々松重豊など超がつく程豪華なキャストを揃え、潤沢な資金を提供された訳だが、瀬々敬久監督は結果俳優陣を持て余し、満遍なく見せ場を与えるだけの大衆映画で終わらせてしまった。

一方で本作は無難な売れ線映画に逃げなかった点で評価できると思うのだが、果たして内容は如何だろうか。

村上虹郎 in ディストラクション・ベイビーズ(2016)

分析される対象

今回も再び文学との比較から展開しようと思う。幾許かでも分かりやすい記事になっていれば幸いだ。

先日の記事では文学を読む際、主だって3通りの読み方があると紹介した。そしてその内特に2番と3番の読み方に関しては、テキストに実際に当たらなければならないと述べた。

ではテキストに実際に当たるとはどういうことなのか。次の例文を見て欲しい。

  • 彼は今朝パン屋に行った。クロワッサンを1つ買った。帰って犬に与えてやった。

上の文章が小説中に登場したとする。3つの文章にそれぞれ1つずつ情報が示されており、文末は全て〜した、という形で言い切られている。1つ1つの文章が短いことから、リズムも良く、感情的な含みを持たせることも出来る。このスタイルで小説1つが描かれているとすれば、恐らくそれはアルベール・カミュ『異邦人』中のムルソーの様な人物が主人公となるだろう。

対して「よく晴れた朝、xx氏は〇〇通りのベーカリーに寄った。薄茶色の木板に大きなガラス窓で仕切られた店の外観は決して贅沢というものではなかったが、少し色褪せた金色に濃紺で縁取られた店名が記されたガラス板は釣り合いの取れた心地よいものであると感ぜられた。」などと文章が続いて行った場合、その文学内世界にムルソーは登場し得ないだろう。

文章や場面に細かく区切って検討するだけでも全体に奉仕するスタイルは浮かび上がってくるし、そこから重大なモチーフが得られることもあるだろう。先の例で言えばクロワッサンというモチーフが、後々の場面でも登場し、両者の場面を対比させることで、一定の感情効果が生まれているなどと述べることが出来るかも知れない。他には韻が踏まれていることによるリズム効果などを分析する人もいるだろう。

ディストラクション・ベイビーズ/シーン解説

それでは映画における文章とは何だろうか。

それは端的に言ってカメラである。Le caméra-stylo(カメラ=ペン)理論というものが提唱された程、映画の物語方法とカメラの動きは密接に関係している。他にも様々な仕掛けは登場するが、基本線としてカメラとカメラに写ったものという2点は絶対に必要である。

ディストラクション・ベイビーズの6:27からのシーンに注目して欲しい。

先の場面で集団と喧嘩をしていた柳楽優弥がどこかの街中を歩いている。広い港のショットから一転して街中を写すことで、そして村上虹郎の兄は帰ってこなかったとのナレーションにより、失踪した彼の姿を捉えていることが分かる。

カメラはトラッキングショット(恐らくハンディカメラの種類の1つで撮っていると思われる)で街中を歩く柳楽優弥を後ろから写しているのだが、彼が常に画面の中心にいることに注意する。我々の注意は自動的に彼へと向けられ、彼がこの次何を始めるのか意識しながら彼を追っていく。

ドリーショットなどの滑らかな動きではなく、揺れのある撮影をすることで緊張感は必然的に高められていく。柳楽優弥は何かを探しているようだ。彼はギターケースを抱えた男とすれ違い、足をとめ、振り返る。彼を追いかける柳楽優弥と、それを追いかけるカメラは我々に第二の注目点を伝える。

詰まり我々は柳楽優弥が何をするのか、という意識から、ギターケースの男と柳楽優弥の間で何が起こるのだろう、という2人の関係性に注目をする。

曲がり角でギターケースの男がフレームの中から消え、曲がり角の先も映らない。この先に何が待っているのだろうか。柳楽優弥は何をするつもりなのだろう。彼と喧嘩を始めるのだろうか。緊張感が高まっていく。

そしてその緊張感が最高潮に達した時、彼は走り始める。喧嘩を始めるのだ。しかしそれはジェームス・ボンドジョン・ウィックの様な華麗な殴り合いではない。アクション映画に見られるスピード感溢れる闘いではなく、ただひたすらに生々しい殴り合いをシンプルなカットで見せていく。

多数のカメラを使って細かく演出するのではなく、背後から見せるか、正面から見せるかの基本的には2つだ。その他のカットは押し倒され、殴られ、血を出す柳楽優弥の顔をアップで写すカットのみである。

10:00頃までざらついた緊迫した空気感が続くが、それは柳楽優弥の演技も勿論だが、加えて佐々木靖之撮影監督(寝ても覚めても他)のカメラの働きも大きいと思う。

映画は全体的にカット割が少なく、じっくりと役者の動きを追っていく。そのためショットの名前や撮影方法が分からなくともカメラの動きを辿りやすいと思われる。日本では撮影監督や編集者の名前が注目されることが少ない様に感じられるが、先に述べたテキスト分析の様な仕方で、じっくりと映画に向き合うためには彼らの仕事に注目することが不可欠だ。

先日は全体的な映画の見方を概説したが、細かい部分としてこうした要素にも気を配って頂きたい。より深い理解に繋がることは確実である。

ディストラクション・ベイビーズ/総評

本映画について、日本のファイト・クラブではないか、というレビューをネット上で読ませて頂いたが、個人的にはノー・カントリーに近いものを感じた。

ノー・カントリーはアントン・シガーという暴力の権化の様な存在が、最後には事故という不条理に襲われる様子を描いた現代の二重の不条理劇だと思う。

このディストラクション・ベイビーズでも柳楽優弥は所構わず喧嘩をふっかけていく、恐ろしい存在だ。彼がアントン・シガーと異なるのは、彼が弱いということだ。彼は決して無敵の存在ではなく、アクション・ヒーローの様に1人で10人の倒すことはない。

しかし、彼が怖いのは彼がひたすら暴力を行使し続けることであり、その暴力が伝染していくことだ。分かりやすい人物は菅田将暉であろう。鬱屈とした生活を送っていた菅田将暉は、彼に心酔し、彼を追いかけ、呆気なく死んでしまう。

万引きを繰り返し、常にお高くとまっている小松菜奈は誘拐されると、強者(柳楽優弥菅田将暉)の前にボロボロにされる。交通事故を誘発し、何とか逃げ出すも、既に暴力に取り憑かれた彼女は菅田将暉を殴り殺してしまう。それでも彼女は柳楽優弥には噛みつかないし、警察の聴取に対しては、弱者を演じて庇護を求める。

兄を慕う無垢な少年であった村上虹郎も、暴力に取り込まれ同級生に喧嘩を挑む。その姿は映画冒頭の柳楽優弥そっくりだ。この先の彼の人生は、兄の様になってしまうのだろうか?

現代に蔓延する暴力、狂気を柳楽優弥というキャラクターを媒介に、それぞれの仕方で社会の中で蔓延する様子を描いた映画が本作である。即ち模倣犯菅田将暉)、知能犯(小松菜奈)、後継者(村上虹郎)という3つの形で暴力は社会に広がっていくのだ。それを老人の目から諦観した映画がノー・カントリーだったとすれば、より直接的に暴力と不条理を描いた映画がディストラクション・ベイビーズだと言える。

しかし非常なリアリティを追求した結果、作品に制限が加えられてしまった感も否めない。純粋な暴力がそこにあって、それを超える要素は個人的には見出せなかった。その点ラブ・」ストーリーという軸を持ち込んだ真利子監督の次作宮本から君へ、の方が管理人の好みではあった。

繰り返しになるが、カメラの動きが丁寧で非常に追いやすい作品であると思う。キャスト陣の演技と合わせて楽しんで頂けたら幸いだ。

【映画解説】映画の見方概説編/LUCY(2014)

16 (Mon). May. 2022

2014年のリュック・ベッソン監督作、LUCYの解説である。

90分という小品でレオス・カラックス、ジャン=ジャック・べネックスと並び称された監督でありながら、早々にCinéma du look路線を脱し、Taxi (1998) やアルティメット(2004)を手掛けた監督らしい、一見軽妙な作品である。

ところがその実2001年宇宙の旅リスペクトな壮大なメッセージが込められた作品でもあり、映画の見方と合わせて解説していく。

Scarlett Johanson in Lucy (2014)

ディテールへの意識

普段映画を見る際、どの様な点に注意して鑑賞しているだろうか?

恐らく夢中で筋(プロット)を追いかけているという人が殆どだろう。基本的に映画は娯楽として楽しむものだし、全くそれで問題はない。因みに研究に際してはプロットという単語を用いることが多く、当ブログでもなるべく標準的な語彙を使いたいという意図でプロットと述べる。

ところが実際に研究対象として細かく映画を分析したいと思った場合それでは不十分である。今回取り上げるLucyの様な娯楽作品であっても、ディテールを意識することで沢山のことが見えてくる。

これから取り上げる映画の技術的な側面に留意することで管理人は映画がずっと面白くなると信じるところではあるのだが、その為にもプロット以外の側面にも是非目を向けて欲しいし、例えばアンダー・ザ・スキン 種の捕食の様なプロットへの意識が希薄な映画も楽しめる様になってくるだろう。

勿論映画の楽しみ方に絶対的な仕方などないし、これから紹介する見方も飽くまで一例に過ぎないが、考え方として次の様なものがあるのだと理解して頂きたい。例えばバスケットボールのシュートフォームは、極論シュートが安定して入ればどの様な形でも良いのだが、最初に教科書的な綺麗なシュートフォームを教わると思う。それから段々自分流に崩していってシュートフォームが固まるのであって、野球の投げ方や水泳の泳ぎ方でも同様だろう。今回紹介する映画の見方は基本的な型の様なものだと思って欲しい。

文学との比較

所で小説の読み方は以下の3通りに分類されることは概ね納得されるだろう。

①周辺の事情に気を配りテキスト外の事象と絡めて研究する

②テキストを集中的に読み、その文学的な機能を研究する

③テキストを集中的に読み、単なる作品を超えた内奥を研究する

1つ目の読み方は例えば作者の交友関係や、執筆の影響を与えた出来事を明らかにすることで、文学作品を外に開こうとする試みである。

それに対して2つ目は、より内向きな読み方で主題やモチーフの考察、言語的な働きを仔細に検討していく。

3つ目の読み方では先と同じくテキストを集中的に読むのだが、そこから文化的・心理学的考察を加えるなど、テキスト内世界の内部を明らかにすることを試みる。

管理人の大雑把なまとめ方には批判もあるだろうし、現在の文学界は第三の読み方を超えた新たな方法論を模索していることも承知しているが、概ね上記の様に分類して多大な誤解は生じないものと信じる。

さて実は映画でも同様のことが言えるのだ。

即ち1つ目の見方に関しては、映画の制作過程や資金の使われ方、配給のされ方などの情報を総合的に研究することで作品を深く理解しよとするものであり、例えばテレンス・マリックハイデッガーの研究に取り組んでいたことを知ることで、シン・レッド・ラインは単なる戦争映画ではなく、存在への問いに答えようとしたのだということが分かる。

2つ目の見方はカメラの動き、ショットのサイズ、色の使い方、シーンとシーンの繋ぎ方、ライトモチーフとシーンの関係性などの分析と絡めてプロットを分析し、全体として映画がいかなる作品として成立しているかを明らかにする。

最後の見方ではそれらの技法に関する分析を、文化的・心理的あるいはフェミニズム研究の立場から映画世界を批判的に分析することに役立てていく。

ここで肝要なことは個々のシーンに対する分析は必ず、全体としての映画の分析のために役立てられなければならないということである。小説でも1つの場面だけを切り取って全体の作品を議論出来ない様に、分析の帰結は最終的に映画全体に関わるものである必要がある。

LUCY

冒頭のクレジットで細胞が1つから2つ、2つから4つへと分裂していくグラフィックが示される。

続いて本編が始まるのだが、私達が最初に目にするショットは川辺で水を飲む猿の姿である。モーガン・フリーマンのナレーションが加わると共に林から、都市へ(原初から現代へ)カメラは移動し、高速で動く人間の都市生活が描写される。

次のシーンはスカーレット・ヨハンソンがボーイフレンドと話しているものだが、ボーイフレンドは最初の人間がLucyと名付けられていることを彼女に伝える。そして彼女の名前はLucyなのだ。

現実世界では単なる偶然なのだが、これは映画内世界であるから、この一致は必然であろう。

ボーイフレンドはLucyに荷物をホテルのとある人物に届ける様強制するのだが、フロントのボーイとの会話の最中には草食動物とそれを狩るチーターの映像が挿入される。Lucyが狩られる側の獲物であることを分かり易く伝える為であろう。囚われたLucyは麻薬の運び人として協力することになってしまう。

一方モーガン・フリーマンは大学の講堂で生命の誕生・進化と脳容量の拡張についてついて講義している最中だ。リュック・ベッソンらしい洗練されたモンタージュで、人間の活動が科学的・社会的に発達してきたことが示される。彼によれば人間は脳容量の10%しか使用していないが、イルカは20%を使用して、超音波を発出している。それでは人間も脳容量を拡張していくことが出来るのだろうか?

映画の中では答えはイエスだ。Lucyは体内にドラッグを埋め込まれてしまうのだが、運搬途中で彼女は別の中国人勢力に捕まってしまい、暴行される。蹴られた下腹部から体内でドラッグが破裂し、Lucyの体内に取り入れられていく。クロースアップとグラフィックの組み合わせでこの様子が映されていく。その結果彼女は超人的な力を手に入れるのだ。

モーガン・フリーマンの講義は続く。彼は仮説として脳容量が拡張された場合の人類の進化について、紹介していく。100%解放された場合には?彼にもそれは分からない。

それを体現するのがLucyだ。彼女は超人的な力で組織から脱出し、病院で特殊な薬物が吸収されたこと、自分の肉体が長くは持たないことを知る。彼女は自身の生命を維持する為に薬物を摂取すると共に、残りの薬物の回収に向かう。

この時点でLucyはモーガン・フリーマン接触し、次々と阻止を試みる中国系犯罪組織を倒していくのだが、この部分のヴィジュアルは流石の一言だ。詳しいストーリーやヴィジュアルに関してはここでは問題とならないので省略するが、興味を持たれた方は是非ご自身で見て楽しんで頂きたい。

さて敵の殲滅と並行してLucyの脳の覚醒も進んでいく。脳の覚醒が90%を超えた時、彼女は現代のフランスから、臨海の峡谷、そして消費社会のシンボル的なタイムズスクエアへとワープするのだ。そこで彼女は時間を逆転させ、開拓直後のニューヨーク、インディアンの時代、大恐竜時代へと遡る。そして少しだけ時計を進めLucyは最初の人間、Lucyと接触する。人類史を再体験したLucy(スカーレット・ヨハンソン) はそのまま宇宙史を追体験するのだ。これはグリーンバックを使用しての撮影だろうと推測される。

ここまで来れば何故スカーレット・ヨハンソンの役名がLucyだったのかが、理解出来るだろう。彼女は人類を象徴する存在なのであり、脳の覚醒というSF的な仕掛けとスリリングなアクションを挟みながら、人類の歴史を追体験していたわけなのだ。

これは霊体となったオスカーがエンター・ザ・ボイドで目の当たりにするヴィジョンと同様だし、その大元となるのは猿人の投げる骨を宇宙船と繋げ人類の歴史を総括してみせたスタンリー・キューブリック2001年宇宙の旅と同様のコンセプトである。

そのことを端的に表す為にスカーレット・ヨハンソンはLucyと名付けられ、冒頭から細胞分裂を我々は見せられていたのだ。モーガン・フリーマンは監督の意図を明確にするために作られた狂言回しとして、脚本上創作されている。

この映画Lucy自体は非常に楽しめるライトな作品でありながらも、1つ1つのモンタージュに意識を向け、それらの部分が全体として如何に機能しているかを意識することで、2001年宇宙の旅という大きなテーマが浮かび上がってくる。そして勿論その主題は、作品の部分を説明することに役立つのだ。

今回は特に技術的な専門用語には触れなかったが、管理人が映画を見る際に意識をどこに向けているかを辿って貰えれば幸いだ。プロット=全体としての映画ではない。映画を構成するのはシークエンスであり、シーンであり、そしてショットなのだ。往々にして監督は主題というものを映画に設定している。プロットはその主題を物語として伝えるためのものであり、個々のシーンや描き方(ナレーションやモンタージュ)が何のために挿入されているのか考えることで、映画はずっと面白くなると思う。

【時事】Wokenessの翻訳、Cancel Cultureと映画業界の変化

15(Sun). May. 2022

映画祭や時機を捉えたニュースについて日曜日は解説していきたい。

カンヌ国際映画祭も間もなく開幕を迎え、是非当ブログでも取り上げたい所ではあるのだが、何よりも先ずWokenessという言葉を紹介しない訳にはいかないだろう。

本日のテーマは、日増しに混迷を極めるWokenessを取り巻く現状と、それに付随する映画業界の変革、そしてその様な重大な議論が全く日本では取り上げられていないことに対する問題的である。

Daniel Kaluuya in Get Out (2017)

Woke vs Broke

woke (目覚めた状態でいる) のか、それともbroke (終わってる)のか。こうした議論が英語を媒体としたメディア・SNSでは盛んになっている(なっていたという方が正確かも知れない)。

Wokenessとはこのwokeである状態を指し示す単語で、一種のイデオロギーを形成する単語でもある。

歴史的にはアフロ=アメリカンの間で広く使われていた言葉であり、特に活動家として人々を教化するアフロ=アメリカンが積極的に使用していた単語だった。

人々の耳目を集めるきっかけとなったのは2014年、ミズーリ州ファーガソンで起こった警察による、Michael Brown殺害事件である。この事件に対する抗議では"Stay Woke(目を逸らしてはいけない)"が合言葉として用いられ、抗議活動は日本でもよく知られた#Black LIves Matter 運動へと繋がっていく。

この#Black LIves Matter 運動は日本のメディアは、2020年のGeorge Floyd 殺害事件を機に起こった運動であるかの様に取り上げていたが、実際には以前から続く根が深い問題なのである。正確には#Black Lives Matter というハッシュタグは2013年の Trayvon Martin 殺害の罪に於ける George Zimmerman 訴追の際に登場したものであるとされ、もっと言えば警察による人種的横暴は歴史的に繰り広げられてきた行為であり、突発的な運動として捉えるべきではないだろう。但しWokenessとの連関に限っては2014年 MIchael Brown 殺害事件からの動きと見て良いと思う。

さてこの事件をきっかけに社会的不正義や人種間差別に目を閉ざしてはいけない。こうした問題に対して自覚的であるべきだ、との声が特に若者の間で高まってくる。

そしてそうした新時代的な感覚はソーシャルメディア等々と結びつき、1つの運動となってWokeなのか、Brokeなのか、まるで踏み絵の様に人々に選択を迫り、分類していく。

Wokenessという単語の多義化、概念の曖昧化

しかし活発になった運動は、徐々に不明確さを増して、主に2つの側面から恣意的に使用される様になっていく。

1つは左翼的陣営からの使用で、これは従来の運動の発起人でもある。彼らは運動を常々変革し、押し進めていくことを要求した結果"Not Being Woke Enough" であると主張する様になったのだ。

同時代的な社会の変化に伴い、常にWokeであることを要求する姿勢は、不徹底な姿勢を糾弾し、運動の先鋭化に疑問を呈する人々を "Broke" であると批判してしまう結果となった。例えば当初は白人警官による暴力の撤廃と警察の構造改革を支持していた人々の中にも、その結果として(その人本人の能力とは必ずしも関係なく)アフロ=アメリカンやアジア系の警官を所長に据え、立場上優遇させる措置をとるべきだ、という意見には賛同できないと考える人もいる。しかし、そうした慎重派は "Not Being Woke Enough(十分に目覚めていない)" として批判され、時には攻撃されてしまうのだ。

これは共産主義者に対する無政府主義者アナーキスト)の関係と似ているかも知れない。

左翼陣営の中でも最早、Wokeな状態とは何か不明確になってしまい、且つ理想とされる社会とは何か、運動の目的は何か、こうした根本的な基盤も失われてしまった。

もう1つは右翼的陣営からの使用で、これはWokenessという考え方に賛同できない人々が、皮肉として用いる場合を指す。これには当初のWokeness運動から離反した人々も含まれる為、右翼的陣営をナショナリストの様な純右翼集団として理解することは誤りである。

彼らはWokenessは問題を十分に理解していない、という認識で共通点を持っている。Wokenessは現状のやり方では問題の解決策にはならない、という認識と言い換えても良い。

中でも比較的右寄りなMatt Gaetz(共和党党員で、ドナルド・トランプの賛同者として有名)は左翼陣営に対してWoketopians という言葉(woke と utopians の混合)を用いて、彼らが国を破壊していると批判している。

Matt Gaetz の批判には賛否共々あるにせよ、彼のWoketopians という発言は知っておくべきだろう。つまり右翼陣営は左翼陣営に対して、理想主義的な非現実的改革だと考えているのだ。

Cancel Culture と映画業界への影響

こうして広く共有される様になったWokeness という意識は、現実に影響を与え始める。その1つの典型が Cancel Culture である。

Cancel Culture とは主に若者(ミレニアル世代、Generation Z)がSNS上で有名人の不適切な言動を批判し、謝罪を強要し、社会的恥を負わせることを目的とした運動である。これまでに多数の著名人が被害者となっており、例えばトランスジェンダーへの批判的コメントでJ.K.Rowling(ハリー・ポッターシリーズの作者)や婚約者への虐待によりJohnny Depp(ファンタスティック・ビーストからの降板を強いられた)などが批判されてきた。

日本でも主にTwitter上で政治家や有名人に対する批判は散見されるが、ある程度社会的なコンセンサスとして成立しているWokenessに基づいているのか、単に個人の政治的立ち位置に基づいて批判しているのか、という点で違いが見られるのではないだろうか。

このCancel Culture そのものは社会改革を大衆が参加する形で主体的に推し進めるという点から問題はないのだが、これが映画業界をはじめとしたエンターテイメント業界や政治家への言論の自由を奪う形で進行していることが議論を呼んでいる。

詰まりWokeな表現を取らなかった場合、インターネット上でCancel される恐れがあることから、自由な表現ができなくなってしまっているのである。それを歓迎する人々もいる一方で、中には"Wokeness killed cinema" といったタイトルで昨今の映画界を批判する人々もおり、先ほどのWokeness という考え方の不明確化と相まって陣営の対立を深めている。

例えばスターウォーズの新たな三部作では主人公が女性に変更され、黒人のジェダイが誕生した。ゴーストバスターズも主要キャラクターは全て女性に変更されている。アカデミー賞の選考基準には女性やアジア系の俳優を一定割合以上キャスティングすることが条件化され、プロダクションチームにもトランスジェンダーのスタッフなど社会的マイノリティの割合を高めることが求められている。

観客から分かりやすく見える部分でも、見えない部分でも多様化が押し進められており、それ自体は歓迎されるべき変化である。しかしながらその結果本当に良い作品が選考外となってしまったり、あるいは創作面で制限が加えられてしまう自体は歓迎されるべきであろうか?

ジョージ・ルーカスによるスターウォーズのファンの中には、JJ エイブラムスによるスターウォーズは以前ほど面白くないと考える人もいる。

こうした意見は差別的故に本当にCancel され、批判されるべきものであろうか?それとも表現の自由に基づく、純粋な意見として守られるべき発言であろうか?

管理人がどちらかの立場を擁護しているという訳ではないが、双方の陣営から幅広い人々に検討されるべき議題だと私は考えている。だからこそ、映画に批評を加えたり、あるいはニュースを取り上げる以前に必要な知識として今回記事に起こしている。

教条化

Wokenessが一種の教条として宗教的な役割を果たしていることも指摘されている。

1つのイデオロギーとして機能する現在のWokenessは正に宗教の様に、人々の言動を矯正しており、それに批判的陣営(他宗教、他派閥)との間との宗教戦争の様相を呈示しているという指摘である。

確かに公にキリストの不在を(キリスト教信者でなくとも)批判し難い様に、多様性や共同社会参画、社会的平等といった価値観を表立って批判することは難しい。

これに対する行動、考え方は人それぞれだと思うが、1つ分かることとしてまるで宗教の様にWokenessという概念は浸透しているのだということだ。

人々はキリスト教を問題にする様に、Wokenessを議論している。

それでは日本の現状はどうだろうか?

日本の現状

管理人の無知であるならば本当に申し訳ない。しかしながら、日本のメディアでWokenessやCancel Culture について本格的に取り上げ、発信している媒体は少ないと思う。私は特に#Black LIves Matter 運動の際にそのことを感じた。

Wokenessに賛成か、それとも反対かが問題でないことはこれまでの文章で分かって頂けたと思う。定義が曖昧で問題も多い考え方であるから、それに対する姿勢はどちらが正しいというものでもない。しかしながら西欧の英語圏を中心に世界中で議論されている議題に対して無知であるという日本社会の現状は危機感を抱くべきだと思う。

そしてそうした議題に対して議論を深めることないままに制作される映画やドラマ、テレビ番組が今後繁栄していくことは可能だろうか?世界的に注目され、受け入れられるだろうか?あるいはWokenessが問題視している種々の問題に答えを提示することは可能だろうか?

管理人個人の意見としては難しいと思う。

だからこそ、遅まきではあっても幅広く議論され何らかの意見を持つこと、その為に適切な訳語を見つけていくことが必要ではないだろうか。

管理人としてはWokeに対し「気づき」または「直視」という訳語を当てたい。そしてWokeness とは「気づきの問題」、「直視の問題」であり、Cancel Culture とは気づきを持ち、問題を直視した若者が起こした「文化的批判の文化」だと思う。

映画を見る上で、あるいは広く一般にニュースを見る際にも、当記事を思い出して広く問題意識を共有して頂ければ幸いである。

どうして映画を見るのか?

13(Fri). May. 2022

金曜日は留学情報などの雑記を砕けた仕方で残したい。

今日の内容は、どうして映画を見るのか?である。

Anna Karina in Vivre sa vie (1962)

映画の見方

貴方はどれ位の頻度で映画を見るだろうか?

平均的な日本人は(統計がある訳ではないが)月に2本か3本という所だろう。またその映画体験も一通りではない筈だ。

映画館に行く代わりにNetflixなどの配信サービスで映画を見る体験をする人は大変多いと予想されるし、事実映画業界も映画館での興行に重きをおかなくなってきている。

映画館は映画を見る場所ではなく、体験する場所へと変わっているのだ。これは音楽業界がCDの売り上げを重視しなくなり、ラジオでのオンエアが指標として意味を持たなくなった過程と似ているかも知れない。

またあらすじを読むだけで映画を「見る」という行為をやめてしまう人や、早送りとスキップを駆使して「見る」行為を圧縮する試みをする人も多いだろう。

「セリフが無いシーンは意味がないから飛ばしちゃう。セリフがあるシーンも基本的には早送りで見て、面白そうな部分だけ戻って再生。話と結果が分かって、それで面白かったら満足じゃない?」

管理人が友人から聞いた言葉である。

普段から映画をよく見る、詰まり映画館になるべく足を運んで、ビデオで見る際も1倍速で見る、管理人はこれを聞いて唖然とすると共に考え込んでしまった。

エンターテイメントの消費財

陳腐な議論である。これまでだって映画はずっと作られては消費され、賞味期限が切れれば別の作品にとって変わられてきた。

映画だけの話ではない。小説も、音楽も、絵画や彫刻にしたって同様である。

それにも関わらずエンターテイメントの消費財化と題をつけたのは、映画がまるでティッシュやビニール袋の様に生産されては捨てられていくからだ。

これまで映画はアートハウス系・インディー・カルト・ブロックバスターいずれにしても鑑賞され、観客を楽しませてきた。それは例えば美味な食べ物の様に、咀嚼され化学的に分解された後我々の栄養となると共に、記憶に刻まれ思い出として残るというプロセスを持っていた。映画は観客が理解し、楽しむと共に何らかの形で我々に訴えかけるメディアだった。

ブロックバスター映画マトリックスボードリヤールの"Simulacra et Simulation"をインスピレーションとしていることは大変有名だが、資本主義と記号的消費の問題の他にも、キリスト教的なモチーフや、日本のサイバーパンク的なヴィジュアル、ジェンダー問題をも含んで巨大な世界観を提示している。最新作マトリックス レザレクションでそのマトリックス世界のコンセプトを議論するオタクを皮肉ったシーンが挿入されたことは、大変興味深い。

ともかく我々はマトリックスを見て近未来的ヴィジュアルと壮大なストーリーに圧倒されると共に、この映画の主題は何か考察を巡らせる。この過程を全てひっくるめて映画はエンターテイメントなのではないか?

私は一面的な娯楽性だけではなく、それに付随する経験も含めて議論するべきだと思う。異論は勿論あるだろう。ただ1つの考え方として私はその様に思っている。

この考え方に基づけば映画は、昔からずっと消費財であった。但し意味のある消費をされていた。観客が何かを得る為の消費財であった。

それでは現在はどうか。まとめサイトやこうしたブログで取り上げられる感想、ザッピングで骨と皮だけになるまで削ぎ落とされた映像から、我々は果たして何かを得ることが出来るだろうか?

それこそティッシュの様に乱雑に取っては捨てられる低級な消費財となっているのではないだろうか?象徴的な意味も、内奥に込められたメッセージも何もない、面白いか面白くないかだけのメディアである。

これではニコラス・ワインディング・レフンのドライブや、北野武のその男凶暴につきはただの「よくある映画」になってしまう。

反抗としての知性

管理人は映画とは、趣味の1つであり娯楽の対象であるべきだと主張したい。

しかし現状の映画を取り巻く劣悪な環境下(これは日本でも海外でも変わりはしないだろう)で、映画を見る理由はどこにあるのだろうか?

映画館に足を運ぶ人は減る一方で、ザッピング人口は増えるばかりである。その中で純粋な楽しみで映画を最初から最後まで見る魅力は失われつつあるのではないだろうか?

管理人が子供の頃には絶滅寸前ではあったがVHSテープも家にあったし、映画を見るとなればレンタルビデオ店に行くか、DVDを購入するかのどちらかだった。その時代に埋めれたからこそ私は映画を見ているのだと思う。若し私が今の時代に生まれた子供であったとしたなら、映画好きになどならなかった。

その様な今日のエンターテイメント業界で映画を見る理由はどこに求めるべきか?

1つの答えとして、知性があっても良いと思うのである。

もののけ姫に於ける神道のモチーフ。ラスト・タンゴ・イン・パリフランシス・ベーコンの関係性。アメリカン・ビューティーセックスと嘘とビデオテープの間に見られる、ビデオカメラの役割の違い。

映画の中で語られる物語や、その文化的な表象には知的好奇心を刺激する要素で溢れている。そしてそれらは高度な技術によって、時に複雑に、時には下手なやり方で表現されているのだ。

管理人はは元々研究職を考えていたこともあるが、自分の大好きな映画を守る為の、いわば世界に対する反抗として知性を持ち出したのである。知性が映画に対する好奇心を高め続けてくれると期待した訳だ。

大学に行って、それも日本の大学ではなく海外に目を向けて映画を勉強したいと思った理由も一重にこの知性という側面を重視していたからでもあり、その知性を他人にも共有して欲しいという気持ちが当ブログの1つのコンセプトとなっている。

 

 

自己紹介

始めまして、当ブログの管理人です。

ブログの開設に当たって、簡単な経歴、当ブログの趣旨、それからオールタイム・ベスト(2022年5月12日時点)の映画を紹介したい。

本ブログも長く続けていければと思っているし、その都度この自己紹介も更新していければと思う。

    1.これまでの経歴

現在私、管理人はイギリスの大学の映画学部に在籍中である。

イギリスに縁があった訳では全くなく、「純ジャパ」として日本の片田舎に生まれ、育ち、映画好きが高じて留学を志し、今に至る。

地元の高校を卒業した後は、語学に強い東京の大学に通い、そこでフランス文学を専攻していた。

この時点で海外の大学に進学出来る程の英語力もなければ度胸もなく、一方で映画に対する情熱も捨てきれないことから、文学部という学部で映画に接近する機会を模索していた。

その間も趣味の映画鑑賞は絶えることなく、吉祥寺アップリンクや渋谷ユーロスペース高田馬場早稲田松竹等々地元にはない単館系の映画館や名画座に足繁く通っていた。

1つの転機となったのは東京国際映画祭である。

進路決定の時期が近づき、就活の足音が日増しに高くなる頃、今一度自分のやりたいことは何なのだろう?と考えた結果、矢張り映画の道しかないと決めた。

作り手なのか、研究者なのか、キュレーターなのか。何れにしても映画祭の様な場に1人の映画関係者として携わりたいと感じた場だったと思う。

そのままイギリスの大学を受験し、幸いにも合格することが出来た(この経緯は別に1つの記事にしたいと思う)。

20代も始まったばかりの管理人だが、映画だけはよく見てきたと言える。

地方の進学校に通った高校時代、授業を受け、運動部で7時まで汗を流し、その足で近所のTSUTAYAへと向い、夜ご飯を食べながら映画を見る。翌朝4時から課題を終わらせ、また学校へ向かう。

振り返って我ながら恐ろしい体力である。その様にして時間を捻出してでも、映画を見る習慣だけは絶やすことがなかった。

映画が好きという気持ちだけで今まで進んできたが、この場を学んだ知識のアウトプットの場とし、社会に還元して行きたい。

      2. 当ブログの趣旨

このブログは単なる映画紹介、解説をする場ではなく、映画の技術的な側面を紹介することを目的としている。

欧米の一定程度規模の大きい大学では映画学部を有している大学が多く、メジャーとして映画学を選択出来る大学は数えきれない。

勿論日本でも映画学部のある大学は存在するし、映画をテーマに卒業論文修士論文を書くことは可能だろう。しかし映画学部の看板を掲げている大学は非常に少ないと言えるのではないか。

そしてその様な映画を集中的に学ぶ機関が高名でない一方で、映画とその制作に就て発信するメディアも非常に少ない。

詰まり映画を作ってみたいと思う日本の若者が学びを得られる場に欠けているのである。

自分でカメラを持って動き始めるのが一番だ。その様な知識は大学行ってまで学ぶことではない。

その他様々な意見があるだろう。しかし1つの選択肢として映画の技術的な側面をアカデミックに学ぶ場は提供されているべきだと感じるし、私自身その場を求めて留学を考えたのである。

YouTubeやブログ、Podcastなど今海外では映画学校に通う代わりに、制作技術について選択的に学び、交流することが可能なプラットフォームが多数誕生している。

このブログもそうした潮流と歩調を合わせ、日本語で映画の制作サイドに関わる情報を発信して行きたいと考えている。

これから実際に映画制作を考えている人々だけではなく、映画鑑賞を趣味としている人々にもそうした専門的な知識は役に立つ筈だ。

月曜と水曜を映画解説、金曜を留学記などの雑記、日曜を映画関連のニュースに当てて更新していく予定である。

      3. オールタイム・ベスト(随時更新)

下手な自己紹介よりもよっぽど役に立つかも知れない。ファッションや髪型、言葉遣いがその人の性格をよく表す様に、影響を受けた本や、好きな映画は個人の趣向を反映するものだ。

  1. グラン・ブルー(1988)- リュック・ベッソン
  2. トゥルー・ロマンス(1993)- トニー・スコット
  3. クラッシュ(1996) - デイヴィッド・クローネンバーグ
  4. Hana-Bi(1997)- 北野武
  5. レクイエム・フォー・ドリーム(2000)- ダレン・アロノフスキー
  6. リリィ・シュシュのすべて(2001)- 岩井俊二
  7. 21グラム(2003)- アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
  8. ブラウン・バニー(2003)- ヴィンセント・ギャロ
  9. エレファント(2003)- ガス・ヴァン・サント
  10. 誰も知らない(2004)- 是枝裕和
  11. ソウIII(2006)- ダーレン・リン・バウズマン
  12. Somewhere(2010)- ソフィア・コッポラ
  13. アンダー・ザ・スキン(2013)- ジョナサン・グレイザー
  14. ニンフォマニアック(2013)- ラース・フォン・トリアー
  15. Mommy(2014)- グザヴィエ・ドラン
  16. 私の男(2014)- 熊切和嘉
  17. RAW-少女の目覚め-(2016)- ジュリア・デュクルノー
  18. Us(2019)- ジョーダン・ピール

リストを作るに当たって、よく見るホラー映画は入ってこなかったなという印象。最新の映画は感情的になっていたり、時流に流されてしまっている可能性があるため敢えて選ばなかった。評価基準は管理人の好みである。映画史上の重要さや、商業的成功等は全く考慮しておらず、年代や国籍、ジャンルに特別な配慮はしていないので悪しからず。