知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【雑談】イギリスですずめの戸締りを見てビフォア・サンライズが大嫌いだったことを思い出した話

15 (Sat). April. 2023

新海誠監督最新作、『すずめの戸締り』が先日イギリスでも公開されました。早速見に行ってきた訳なんですが、鑑賞後映画とは全く関係のない所で中々複雑な気持ちにさせられた映画でもありました。

イギリスの映画館では予告が終わって本編が始まるまでの間に、レーティングの説明と含まれる危険な要素が紹介されるんですね(不適切な言葉使い、ゴア描写など)。そのレーティング・システムで『すずめ』、PG指定になっていたんです。

理由は幾つかあって、例えばティーンエイジャーが世界の運命を背負って脅威に晒される、という設定が与えるストレス。それから緊急地震速報が矢継ぎ早になることの恐怖。更に不適切な言葉使いも指摘されていました。それらと並んで5段階中星2つで危険が指摘されていたのが、"sex"のカテゴリー。

キャバクラが登場すること。ホスト崩れと指摘されるキャラクターが登場すること(芹澤くんの事ですね)。そして「淫らなジョークや、仄めかし」が見られることが指摘されているんですが、この3つ目に筆者は大いに不満だった訳です。

「淫らなジョークや、仄めかし」って主人公が人気者の草太に嫉妬する場面とか、後は精々で鈴芽と千果が恋バナする場面とかしか思いつかないんですよね。一応字幕も追って見てたんですが。っていうことは鈴芽の恋心を直接性欲と結び付けてるってことになって。映画見た方なら分かると思うんですが、そんな筈はないんですよ。

と、考えた所で筆者の大嫌いな映画、『ビフォア・サンライズ』の存在を思い出しました。そう言えばあの映画を見た後も似たようなことを考えたぞ、と。今日の記事は何かの勉強になる、というものではないですが、ちょっとした雑談程度に楽しんで頂ければと思います。最初に簡単な『すずめ』の感想、それから『ビフォア・サンライズ』の話をした後で映画の中の恋愛について少しだけ話す予定です。

The image from Suzume (2022)

すずめの戸締り

筆者は新海誠監督の映画、大好き何ですが彼の映画はファンタジーとしてではなく恋愛映画として楽しんでいます。その手前『すずめ』には乗り切れない部分もあって、というのも映画の初動は恋愛から始まるんですが、基本的にはより大きな人と人の繋がりがテーマになっているからですね。とは言っても脚本は綺麗に作られていて、十分に楽しむことが出来ました。

ネタバレは避けますが、「ある事」を見ない様に、見ない様に生きてきた主人公が世界の裏側(=常世)巡りを通じて自分に答えを与えてあげる。その過程で出会う人・出会った人との縁も解きほぐされていく物語が、過去を乗り越えて別な未来を作る物語と重なる構図は非常に素敵だと思います。異界を巡りをする日本昔ばなしに、ファンタジー要素が乗っかった物語と言えば良いでしょうか。

新海作品は基本的に「世界の誰から相手にされなくとも、譬え世界が滅んだとしても、私は君が好き」というテーゼでまとめることが出来ると思っていて、その1つの到達点が『天気の子』だったのかなと感じています。現実世界で考えると相当気持ち悪い考え方ですが、映画なんだから。リアルの殺し屋なんて多分月に1人殺すかどうかだと思うんですけど、ジョン・ウィックなんて50人、100人と殺してるんだから。映画の中では多少極端なことしてても良いでしょう、と思っている人間としては『天気の子』で見せた究極の恋愛というのは心動かされるものがありました。

しかし、ファンタジーとして眺めると『天気の子』には見過ごせない欠点が存在することにも気が付きます。そもそも特殊な世界の上に成り立つファンタジーで「世界が滅んでも」という前提は成り立たないからです。従って映画は基本的に一人称の物語として進行しますが、彼の「世界が滅んでも良い」理論に共感できなかった場合、利己的な少年が意地悪な街・東京に復習するだけの物語に見える事でしょう。

『天気の子』は究極の愛の物語を求めた結果、利他という側面が欠けてしまっていたと言えるかも知れません。愛の為に世界を犠牲にする事と、利他の精神を書く事は必ずしもイコールではないからです。『すずめ』はその点を踏まえて、草太を助ける為に非常に利己的な行動に走る主人公ですが、彼女の「お返しする」という行為によってバランスを取っている様にも思えました。その一方で小さく草太の側にも世界を救う為に◯◯に欠席してしまう、という利己の物語が存在します。

扉という此方(こちら)と彼方(あちら)を隔てる」装置を使い、利己と利他が緩やかに相転移する様な物語は、主題が重いという理由もあったでしょうが、『天気の子』からのアップデートにも思え、好みは別として間違いなく面白い作品ではありました。

『ビフォア・サンライズ』の話

わざわざ解説するまでも無いとは思うのですが、そんな新海作品、基本的に性とは無縁の物語です。当然『すずめ』の作中でも性に関する描写は一切登場しません。ただ恋愛という物語が存在するだけなのです(冒頭参照)。

この恋愛という物語を安直にsexと結び付ける欧米人の発想に腹が立った、という事なんですが、ここで思い出されるのが『ビフォア・サンライズ』という映画です。リチャード・リンクレイター監督、イーサン・ホークジュリー・デルピーが主演を務める映画ですね。

ヨーロッパを旅する電車の上である日偶然出会った男女が、夜明けまでの一晩を最高に楽しい時間にする為に全力を尽くす、という物語。時の巡り合わせで出会った2人が、一晩限り、夜明けまでの短い魔法の時間をダラダラと消費する中で恋心とは何か、思い出とは何か、繊細に汲み取っていく姿が非常に魅力的な作品でもあります。特に夜遅くなって、終わりが近づいた頃、彼らがふらりと入ったカフェのシーン。お互いが地元の友達の振りをして、今どこで誰と何をしているのか打ち明ける場面があります。この場面でお互い偶々出会った魅力的な彼・彼女と離れがたくなって、でも今夜限りの関係だから楽しいんだろうね、と理解する迄の一連の会話は間違いなくこの映画一番の見どころです。

しかし、リチャード・リンクレイター何を思ったのか、映画の最後にこれまでの全てを無に返す演出を施します。それがセックスという行為。それまで「出会い」について、「関係性の美しさ」について1時間半近く掛けて丁寧に描いてきたにも関わらず、最後の最後で「男女の物語」にすり替えてしまったのです。恋愛についての映画で性が登場するのは分かる。当然のことです。しかし恋愛とは何か、という物語で2人が出会うまでを描いてきた映画が事実関係としての恋愛を描いてしまってはテーマが崩壊してしまう。

それは例えば全国優勝を目指して努力するスポーツ映画で、最後の決勝戦前に試合結果(優勝したこと)をネタバレしてしまう様なもの。勝っても負けても構わない、その過程こそが面白い物語で「彼らこの先優勝するから、これまでの努力は意味があったよね」と言って締める様なものです。それまで優勝する為の過程の物語を描いていたにも関わらず、優勝する、という事実関係の物語にすり替えて主題を破壊してしまったのです。

それまで楽しんで見ていた映画が奪い去られて苛立ったことを筆者は今でも覚えています。思うに欧米人は「恋愛すること」は描けても「恋愛とは何か」について描くことは出来ないのだ、と。関係性という2人の間を見つめることが出来ず、それを個人の物語に、詰まり行為という事実の連なりに還元してしまう為にセックスが何の違和感もなく登場するのでしょう。だから『すずめの戸締り』で表現されている恋心(=関係性)が行為事実(=性描写)に取り違えられてPG指定になってしまったのではないでしょうか。

関係性について

欧米人vs日本人、という過度な一般化は誤りの元です。しかし大半のヨーロッパの映画が行為を重視しているのに対し、邦画はより過程に敏感である、と言っても間違いはないのではないでしょうか。特に青春映画に関してはこの傾向が顕著に見られると思います。

例えば細田守版『時をかける少女』。筆者が高校時代なんども見た映画で、個人的な青春映画の代名詞的存在です。その中で主人公の少女にとって大切なものは幾つかある訳ですが、当初彼女はそれを「今の時間がずっと続くこと」だと語ります。だから功介が告白されたことに内心面白くないし、千昭に告白された時には無かったことにしてしまいます。

そんな彼女が心変わりするきっかけの一つは叔母から折角勇気を出して伝えた言葉を無かったことにするのは可哀想だ、と教えられたこと。自分のタイムリープの巻き添えで傷つく同級生を見たこと。それから功介に自分が彼女を作らない理由は、彼女を1人にしない為だ、と伝えられたことです。時間を行き来する能力を得たことで一足早く「今」が続かないことを理解した彼女は「今」に支えられた関係から脱却し、時間に関係なく続く関係を大切にする様に成長する。それがこの映画の物語でしょう。

ここで彼女が見つめているのは何度も述べている通り「関係性」です。千昭の事を思っている彼女ですが、その気持ちは決して事実関係によって成り立っているのではなく、いつも過程に向けられています。従って最後のタイムリープ、彼女は3人で過ごした日々を回想する訳ですがその1つ1つの思い出が大切なのではなく、その何気ない時間が大切だった、ということは明らかです。

これを『ビフォア・サンライズ』式に変換するとどうなるか。カフェに行って、遊園地に行って、路面電車に乗って、という安易なフラッシュバックに置き換わる筈です。時間は行為によってしか実感されないからです。というより時間=行為となっているからです。

従ってエンディングも千昭がキスをする、という行為に置き換えられてしまうでしょう。全くときめかない展開ですね。そういえば「ときめく」とは古語の「時めく」から、栄える/寵愛を受けるという意味の単語から発生していると思われますが、「時期に見合って栄える/寵愛を受ける」という時間の移り変わりが前提となって、「時期に見合って、その場限りの喜びに胸が高鳴る」という意味に変化したのでしょう。通りで英語に訳せない筈です。英語にこの単語に相当する様な単語は存在していません。

そう考えると日本の恋愛映画/青春映画の特徴は「時めき」=「今しかない状況で生まれる関係性の喜び」にあると言えるのかも知れません。鈴芽だって偶然すれ違った男性に「胸が時めいた」所から全ての物語が始まっている訳です。その過程が面白いと思う人間にとっては『ビフォア・サンライズ』の様な過程と行為を取り違える物語を面白いと思えない訳ですね。筆者がリチャード・リンクレイターだったら、例えばジュリー・デルピーがハンカチで口元を拭う描写とか、イーサン・ホークが靴紐を結び直す場面とかにフォーカスするでしょう。その方が主題(出会について)が明確になるのでは?

欧米vs日本の二項対立には元より無理がありますから、置いておくとしても『すずめの戸締り』PG指定にはどうしても納得がいかない、と思った週末でした。