知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】映画形式の機能と批評の原則、随伴現象説の意味

3 (Fri). June. 2022

先日の記事を読んで聡明な読者諸氏は1つの疑問を持たれたことだろう。

彼は映画形式としてのスタイルと作家性としての岩井俊二のスタイルを同列に語っているが、両者は別個の存在であるのではないだろうか?詰まり映画が映画であるためのスタイルは等しく全ての映画作家が有するスタイルであり、その中で岩井俊二塚本晋也のスタイルの違いが生じるのではないか?

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今日の内容は先日の記事の付論である。ここでは映画形式が如何様に機能するかという点を以て質問に対する答えとしたいと思う。映画形式の機能の説明に成功したならば議論は批評家が価値判断を下す際の原則という内容にまで及ぶだろうし、解説の中で随伴現象説(付帯現象説)についても触れることになるだろう。

先の記事で曖昧だった点が明瞭になれば幸いだ。

端的に言って映画形式とは作品を映画であると認知させる手掛かりの様なものだ。そして批評家は映画内の表現が映画形式に優れて則っているかどうか、この点を問題とする。以下で詳しく見ていこう。

中山美穂 in Love Letter (1995)

解釈の不確かさ、内容の非信頼性

何故2稿に渡って形式というものにこだわるのかと言えば、それは映画を議論する上で内容とは余り重要にならないからであり、我々の解釈とは極めて不確かなものであるからである。

以前の記事では文学を引き合いに出したが、今回は絵画を例にしてこのことを示すところから始めたい。

カラヴァッジョと言えばその力強い陰影の表現と宗教画との関係でよく知られているが、彼の遺したナルキッソスという絵画を思い浮かべて欲しい。ナルキッソス神話自体が極めて興味深いものなのだが、今回は一切を割愛させて頂く。

さてこのナルキッソスという作品は上部に泉を見つめるナルキッソスが描かれており、やや暗めの色調で反射増としてのナルキッソスが確認出来る。背景は真っ暗で僅かに地面の様なものが確認出来るばかりだ。

それでは続けてルーベンスの羊飼いの礼拝を見て頂こう。同じバロック期に分類される両者の作品で、光の表現には近しいものが感じられるだろう。こちらも背景は暗く、洞穴かどこかの様だが画面上から正確に知ることは出来ない。

さて両者を比較してどちらの絵画がより「リアル」だと感じただろうか?恐らく殆どの方が前者、ナルキッソスと答えたのではないだろうか。何故なら後者には赤子を祝福する天使が描かれており、即ち物質的な意味で非現実的なモチーフが登場するからだ。

それでは今度はウィリアム・ターナーの海の漁師たちとルーベンスの羊飼いを比べて欲しい。どちらがより「リアル」であろうか?

この問いは人によって答えが分かれるかも知れない。管理人はルーベンスの表現の方が現実的だと感じた。何故なら海の漁師たちもまた暗い画面に明るい月が映える作品だが、その表現は幻想的で、魅惑的である反面、ルーベンスは天使というモチーフは登場していても、力強く描かれた人々はリアリスティックだと感じたからだ。

ここから作品に描かれた内容と、鑑賞者が作品から受ける印象は必ずしも一致しないということが分かるだろう。現実に存在するモチーフだけが登場する絵画が常に現実的に見えるというわけではないし、描かれている内容から作品の優劣をつけることもまた出来ない。

逆説として若し内容に絶対的な価値があり、鑑賞者の解釈が信頼出来るものだとするならば神話や宗教に主題を取っていないターナーの絵画は最も現実的な筈で、そして事実我々はその様に解釈する筈だ。何故なら解釈は内容を読み取って理解することに他ならず、従って内容が現実的であるならば我々は絵画を現実的だと解釈する筈だからである。

しかし実際必ずしもターナーの絵画が現実的に映らないのは、彼の表現のスタイルが幻想的だからであり、作品の認知(これは我々に特定の感情を惹起する)と内容の解釈は一致しないからだ。これはターナーの描く奴隷船などを見て頂ければ納得することと思われる。重厚な主題にも関わらずその画風は軽やかで、赤い夕日は不釣り合いな程に美しい。

まとめると我々が何かを解釈する時その判断基準を内容そのものだけに置くとすると、結果として納得し難い様な結論が導き出されてしまうことがある。これは何故ならば作品から受ける印象というものにはスタイル、表現形式が与える影響が大きいからであり、そもそも我々は作品そのものを認知しているからである。作品即内容となる訳ではないのだ。

既に以前の記事で説明した通り、映画形式は認知に関わっている。だから映画という存在があって、内容が作品を決めるという考え方は真っ先に改められねばならない。作品があってその形式が映画を形づくり、映画が内容を伝えるのである。スタイルと内容は寧ろ同等に重要なのであり、このことを念頭において映画を鑑賞する必要があるだろう。

以上の理解に基づいて冒頭の疑問に答えると、映画形式としてのスタイルと作家性としてのスタイルは必ずしも矛盾しないと考えている。絵画であれば画布か何かに絵の具で描いた作品が基本的に絵画であると認識されるが、映画の場合そもそも定義が不明確だ。NHKで放送されている72時間の様な番組と、映画館で上映される映画の明確な違いは何か?映画には自身を規定する定義が欠けているのである。

そこで映画としての認知=映画形式という図式を持ち出した訳だが、Love Letterを例に取って考えると鑑賞者は岩井俊二の作家性を以てこれは映画だと認知している筈だ。そもそもの定義が曖昧な以上あらかじめこれは映画であると決めて掛かることは出来ないし、それであれば両者を同列に扱っても問題はないと考える。

岩井俊二のスタイルと塚本晋也のスタイルということが議論されるのは両者が共に優れた「映画」を作っていると議論されているからに他ならない。詰まり冒頭の問題では取り扱う議論のレベルにずれがあるのだと思う。とは言え両者を混同させる様な言葉の使い方をしたことは管理人の誤りであった。これで疑問が解消されていれば幸いである。

最後に補足として、岩井俊二作品と塚本晋也作品を異なる映画だと認知させるものは両者のスタイルの違いに他ならないということにも注意しておくべきだ。

批評の原則

既に我々は映画を鑑賞する時の価値判断は、形式と内容を公平に取り扱ってなされるべきだと確認した。これは映画を批評する際の指針にもなることが分かるだろう。

但しここで言う批評とは真摯に作品を鑑賞した上で一定の見方に沿って価値判断する試みのことだ。単なる個人的な趣味に由来する好き嫌いを表明するだけの文句は問題にならない。

さて批評の原則は形式と内容の一致に求められる。より正確に言えば語られている内容が映画として(形式の意)表現され、さらにその表現方法が優れているかということだ。批評家は物語形式として優れてcinematic(映画的)であるかどうかを最も重視する。原則として例え表現される内容が自分の趣味と合致しなくとも、その内容が優れた形式で表現されていればその作品は優れていると判断される。

例えば2013年にアデル、ブルーは熱い色カンヌ国際映画祭パルムドール賞を勝ち取ったのはー10分近くに及ぶセックスシーンがあるにも関わらずー2人の登場人物の愛を語る形式が優れており、そしてその内容が琴線に触れるものがあったからだ。

管理人自身もあまりのシーンの長さ、そして回数の多さに面食らってしまったことを覚えている。それでも3時間近い上映時間の中で決して無駄な描写であったとは思わないし、何よりも登場人物同時の会話を通してじっくりと炙り出される内面が刹那的に映し出される瞬間は美しいと感じた。通常の映画なら明かに無駄なセックスシーンであろうが本映画の形式にはきちんと合致しており、優れた表現として内容(アデルの恋心と成長)を伝えていたのである。よってこの作品は「良い映画」である訳だ。

勿論何度も述べている様に形式と内容は切り離せない要素であるから、内容に関わる論争とそれに伴う賛否、例えば政治的イデオロギー、宗教的信条、人種、性別、歴史観などに対する反応を引き起こすことは自然なことだ。そしてそれに対する賛否が熱烈な感情となって立ち現れるのも自然なことだ。厳格なカトリック教徒はミリオン・ダラー・ベイビーの結末部に於ける主人公の決断に抗議し、デモ等で反対を表明した。

しかし良識ある批評家、そして批評家たらんとする文化人においてはこうした個人的な感情を映画そのものの価値と結び付けてはいけないだろう。これは嫌悪の感情だけでなく、愛好の感情からもそうである。例えば熱心なフェミニストフェミニズム的視点からのみ燃ゆる女の肖像を肯定するとしたら、その意見は却って作品の価値を貶めてしまうだろう。

随伴現象説(付帯現象説)とは何か

随伴現象説(付帯現象説)とは心理学・哲学上の学説であり、心理的な働きの全てに物質的働きが優先するというものだ。

この学説は誤りであると考えているのだが、映画批評について知る上で随伴現象説は興味深い類比を示してくれることだろう。

この考え方は元々心的現象と物理的現象を別個に捉える地点に立っている。従って懐疑論的な地平からの議論が展開される訳ではないことを初めに断っておく。

さて物理的現象が単体として存在するならば、そこに人間が存在する時、その現象は彼に何らかの刺激を与える筈である。視覚を通じて色や明るさを伝えるかも知れないし、嗅覚を通じて快や不快の感情を与えるかも知れない。皮膚の上から熱を伝え、痛みとなって脊髄に手を引っ込めさせるかも知れない。

そうした全ての物理現象に由来する刺激が人間の心的現象を生み出しているとする考え方が随伴現象説である。詰まり人間の意識は感覚に如かない。心理的な現象に物理的な現象が優先するということだ。

この考え方に対しては様々な批判が加えられてきた。最も強力な批判の内の1つは物理現象が等しく心理現象を喚起することはなく、またその適応の仕方は選択的だということだ。

例えば貴方がスピーチか何かを前に激しく緊張しているとしよう。貴方は汗をかくかも知れないし、顔が青白くなるかも知れない。この時の反応は人によって異なり、且つ同一人物が全く同じ条件下でも別々の反応を示すこともあり得る。そもそも緊張しているという状態自体が心理的であり、仮に緊張が物理的な条件によって引き起こされるとしてもその後の物理的な反応が異なることは、随伴現象説の誤りを示しているのではないだろうか。

思うに映画の批評においても同様の現象が見られる。鑑賞者は映画(の内容)が彼らの反応を決定すると考えているし、良い映画は即ち等しく好意的な反応を引き出すものだと考えがちだ。

しかし現実に見て分かる様に人によって好きな映画はまちまちだし、その一方で傑作と呼ばれる映画にはある程度のコンセンサスがある。形式が内容を語る上で優れていれば、内容に対する個人のリアクションは問題にならないのであって、飽くまで批評は形式と内容の一致に注目するべきなのだ。

そこで映画に対して全く受け身になり、自分の恣意的な見方(自分の持つ政治的な信条)などを無視してしまうことは、心理的状態の変わりやすさに目を瞑り物質的刺激の力を過信する様な見方だと思われる。映画(絵画)の評価は中身によってのみ決定されるのではないこと、批評と解釈が別々の営為であることが納得されたのであれば、批評の原則に対しても理解して頂けたのではないだろうか。

付論として映画形式とは何か解説したが、この地点で改めて先日の記事を振り返って頂けると更に理解が深まるものと思う。特にLove Letterの解説に関してはここで再び触れることはしないが、如何に形式が内容を支えているのか確認して欲しい。

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