知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】ポストプロダクション実態編、ファイナルカットの意味/エルヴィス(2022)

4 (Mon). June. 2022.

7月1日公開されたばかりのバズ・ラーマン新作映画、エルヴィスだがこれまでのバズ・ラーマン映画とは違うーそして従来の映画とも異なるーある問題を孕んだ、物議を醸す映画であった。端的に言ってカットを切りすぎており、信頼された俳優、トム・ハンクスのナレーションも非常に陳腐なのである。

その背景にあるのは、ファイナルカットの問題ではないのか?筆者は単なる一般人であるから真相は知る由もないが、エルヴィスがそう邪推させるだけの奇異な映画であったことは事実だ。現在一般に公開されている情報も踏まえながら、ポストプロダクションの過程を解説して行きたい。

今回の主題は時事問題としても十分取り上げることが出来る問題だが、ここでは映画解説として議論してみよう。初めにファイナルカット・プリヴィレッジ(final-cut privilege)とは何かを明らかにし、実際のポストプロダクション現場では何が行われているのかを解説する。続けてエルヴィスの解説を編集という観点から明らかにしたい。

筆者が書く記事はどれも映画の技術的な側面に注目しており、プロットに対する意識は希薄であるが、エルヴィスが公開中の映画であることも踏まえ、未鑑賞で事前情報を得たくない、という方に関しては鑑賞後に読まれることをお勧めしたい。映画のプロットを明らかにすることに筆者は興味がないが、一定数嫌悪感を覚える方も居るだろうからである。

Austin Butler in Elvis (2022)

Final-Cut Privilege

ファイナルカット・プリヴィレッジ(Final-Cut Privilege)とは字の如く、映画の最終版を決定する権利のことを指す。ポストプロダクションに於いてはラッシュからラフ・カット、アンサー・カットへと編集され、音響効果や視覚効果が足されていくが、その全ての工程を経た完成形をファイナル・カットと呼ぶ。

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このファイナル・カットを決定し、映画館で公開するフィルムとして決定する権利がファイナルカット・プリヴィレッジなのだ。読者の方は当然映画監督がその権利を有していると思うかも知れない(事実ある年代には映画監督が権利を持っていた)。しかし実際には配給会社が口を出すケースも多いのである。

有名な例ではデイヴィッド・リンチデューン 砂の惑星はラフ・カットで4時間、リンチ自身の編集で3時間になっていたが、配給のユニバーサルがファイナルカット・プリヴィレッジを持っていた為に2時間に短縮したものを劇場公開した(そして結果失敗した)。他にはセルジオ・レオーネ監督のワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカではアメリカ配給を手がけたラッド・カンパニー(ワーナー・ブラザーズ系の配給会社)が時系列順に編集し、且つ269分の映画を139分にまで短縮してしまった(これも米国では失敗した)。

この様に映画館の回転数を上げ、観客の足が向き易くする様に映画の長さを短くしたり、カットを切ったり、省略したりする等の編集を配給会社、プロデューサー(時には俳優が権利を持つこともある)らが行うことがある。これは一重にファイナルカット・プリヴィレッジをスタジオ等が保有してしまっているからであり、大抵の監督はこの権利を有する為に闘うのだ。

例えばウディ・アレンデイヴィッド・クローネンバーグなどの監督は自分の収入を減らす代わりにファイナルカット・プリヴィレッジを保証した契約を結んでいる。このおかげで彼らは自身のヴィジョンに沿った映画を自由に制作・公開することが出来る。特にウディ・アレンに関しては予算規模が小さいということも関係しているが、この様に収入を減額することでファイナルカット・プリヴィレッジを守る監督もいる。

他にはスタジオ側が高名な監督、スティーヴン・スピルバーグピーター・ジャクソンなど、に対し無条件でファイナルカット・プリヴィレッジを保証することもある。これは監督の名前が一つのブランドとなっているからであり、そのブランドを汚さない為にスタジオ側が余計な手を出さないという判断の結果と言えるだろう。逆に監督らは自身の名前でブランドを作り上げ、ファイナル・カットが保証される様売り込みを掛ける。

ポストプロダクションの実態

しかし実際にはこの限りではなく、高名な監督であってもファイナルカット・プリヴィレッジを持たないこともある。その例がサム・ライミだ。

彼はソニー配給の下オリジナル版スパイダーマン三部作(トビー・マグワイアが主演した)を監督したが、この時彼はファイナルカット・プリヴィレッジを認められたいなかった。結果として幾つかのシーンが削除され、彼とソニーの関係は悪化、スパイダーマン4は制作されず、アメイジングスパイダーマンが企画されることになった。因みにTwitter上には#ReleaseTheRaimiCut というハッシュタグが存在しており、ジャスティスリーグの様な抗議活動が展開されていた。

さてこのサム・ライミスパイダーマンであるが、報じられている所によれば第一作のポストプロダクション過程で背景のデジタル処理が行われた。無論世界貿易センターを削除する為である。こうした変更は軽微且つ致し方のないものだが、第三作では多くの、クリエイティブな側面で変更が加えられていた。

クリステン・ダンストの深刻な台詞は短縮され、トビー・マグワイアとジェームス・フランコの戦闘シーンも一部削除されてしまった。伝えられている所によればスパイダーマン3は倫理的な問題提起を図る作品となる筈だったそうだが、公開当時歴代最高額の予算を投じて作られた作品(直後パイレーツ・オブ・カリビアンに更新され、現在は15位の2億5800万ドル)はより一般向けに編集されてしまった。

莫大な予算はより多くの集客が見込める反面リスクの増加にも繋がる。過去にはマイケル・チミノ監督が巨額を掛けて制作した天国の門が記録的な失敗となり、結果配給のユナイテッド・アーティスツがMGMに買収された事例もある。スタジオとしてはリスク回避の為やむなくの判断だったのかも知れないが、一映画ファンとしてはサム・ライミが監督した、完全なスパイダーマン3を見てみたい、というのが本音ではないだろうか?

このファイナルカット・プリヴィレッジの問題はサム・ライミだけに関係する問題ではなく、特に現代で予算規模が拡大している映画業界では多くの監督がファイナルカット・プリヴィレッジを剥奪されている。直近ではロバート・エガース監督がノースマンに於いて権利を得られなかったと語っていた。ウィッチ、ライトハウスと良作を続けて発表したロバート・エガース監督が、である。

90年代頃から独立系の監督が活躍する様になり(ケヴィン・スミス他)、このファイナルカット・プリヴィレッジも監督に譲渡されるケースが増えていたが、最近では既に述べた通り予算規模拡大に伴って監督が割を食う場合が増えている様だ。ハーヴェイ・”シザーハンズ”・ワインスタインとボブ・ワインスタインの編集も遠慮がなかったが、エルヴィスにもそのシザーハンズ味が感じられた所に現代の映画界の本性が垣間見えるのではないだろうか。

エルヴィス

冒頭で述べた通り、本作は明らかにカットを切り過ぎている。確かにバズ・ラーマン監督はマキシマリスト、ミニマリストの対極に居る監督だ。華麗なるギャツビームーラン・ルージュなど煌びやかな映画を監督してきたことで知られるが、それでも見せるべき場面はじっくり見せる監督であった。

ロミオ+ジュリエットの中で、パーティーの後ロミオがジュリエット宅に侵入する場面。カメラはレオナルド・ディカプリオクレア・デインズを交互に捉えるが、10秒から15秒程度のカットもその中には含まれ、シェイクスピアの文章を活かした心情描写を見せている。バズ・ラーマンと言えばその派手な演出のみが注目されるが、しっかりと心情も捉えることが出来る監督なのである。

翻って本作。添付の画像にもしているエルヴィスが1人サーカス会場で佇み、思い悩む場面。トム・ハンクスの陳腐なナレーションに邪魔されながらカメラは彼を追うのだが、このシーンは明らかに彼の孤独や不安を写す上で鍵となる大切なシーンだ。じっくりと彼を収め、感情に起伏をつける場面だろう。にも関わらずカットは2秒もしない内に割られてしまうのだ。これでは感情移入などしている余裕もない。海外の批評家でスピード・レーサーと比較する批評があったが、それも納得の異様な編集なのである(因みにスピード・レーサーファイナルカット・プリヴィレッジを認められていた)。

さて映画冒頭からノンストップで展開した物語はこの段に及んでもスローダウンせず、ハイテンポのまま終わりまで突き進む。その狂気じみたカット数の多さ(体感で平均1秒から2秒だったから、全体で8000カット程だろうか)と、一本調子な編集にはバズ・ラーマンの監督としての資質など微塵も感じる所がなく、食あたりにも近い感覚を覚える。どれだけ美味しい食材でも食べ続ければ飽きてしまう様に、美しい高速編集も150分続くのでは飽きてしまうのだ。

加えてトム・ハンクスの独白だ。殆どの場面でナレーションを挿入する必要性を感じず、ただ物語を分かりやすくするだけの働きしかしていない。若しナレーションを省いてじっくりと登場人物の顔に迫っていたならば、豪華な演出との対比もなされていたことだろう。

ここで筆者が見たのはファイナルカット・プリヴィレッジの問題である。バズ・ラーマンファイナルカット・プリヴィレッジを保持する監督として知られており、オーストラリアでは配給会社の要望に応えずエンディングを一般向けに変更しなかったと言う。従って彼が権利を持っていなかったとは考えにくいが、この編集は明らかに彼の才能を考えれば異様だ。

推察するに、若者向けにカットを割り、ナレーションを増やす様に要求されたのではないだろうか。若者は集中力が低下し長いカットに耐えられず、また説明的な台詞を好むと一般に言われているから、彼らの好みに合わせ「売れる」編集をしたのではないか。これが筆者の推測である。

実際彼がファイナルカット・プリヴィレッジを持っていたかどうかは筆者には分からないが配給会社とプロデューサーの意向にバズ・ラーマンが同意したのだろう。結果として従来の映画とは方法論的に全く異なる奇異な作品が完成した。

筆者はそれ故に途中で飽きてしまい、肯定的な評価を下すことは出来なかったが、編集以外でもう一点書くとすれば黒人と彼らの文化の描き方である。そこに見られるのは嘗てのオリエンタリズム的視点で、虐げられてきた黒人文化に接近すれば良いだろう、といった安易な他者化が見られた点が気になった。

エルヴィスが発展させたロックンロールにしても黒人音楽を取り入れたのではなく、元々二つながらに存在していた音楽が彼の中で融合したからこそ、素晴らしい楽曲を発表出来たのだ。別個の存在としてあったブラック・ミュージックをエルヴィスは意識的に採用したのではないと思うし、その点で全くの他者として黒人を描くその姿勢には問題があると思う。だから doja cat の楽曲をはじめとして安易にラップをサウンドトラックに取り入れている所にも、疑問を感じてしまった。これではパリ万博の日本館で披露され、人気を博した芸者・川上貞奴さながらではないか。それは真の文化的な融和とは言い難い。

以上様々な問題を孕んだ映画であり、筆者個人はとても高く評価することは出来なかったが、市場では中々の成績を収めている。現代の映画としてはこれ以上ない典型例であり、且つポストプロダクション過程を学習する上でも大いに参考になる。言うまでもなく華麗な演出は相変わらずであり、一度は見るべき映画であることは間違いない。是非映画館で公開されている間に間に鑑賞してみて欲しい。