知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】編集の基本、視線の一致と誘導(eye-trace)/聖なる鹿殺し(2017)

24 (Fri). June. 2022

映画の本質は編集にある、というテーゼが一応映画学上では認められている。芸術の本質など時代ごとに変わる曖昧なものでしかなく、特にそれが映画の様な総合芸術では一際曖昧にもなるのだが、それでも映画に対する編集の大切さは十分強調されるべきだろう。

優れた表現方法の多くが編集の過程で生み出されており、カメラムーブメントや音響効果も編集なくしては成立しない。僅かの例外を除いて実験映画は新たな編集効果を追求してきたし、映画の発展は編集技術の発展と歩みを共にしてきたと言える。

しかしその編集技法は筆者は基本的に2つのポイントに代表されると思っている。様々な編集技法はそれぞれ独特な効果を持っているが、最も重要な点は視線を一致させること、そして視線を誘導することであり、これら無くして説得力のある映画を製作することは難しい。換言すれば視線の一致と誘導が出来てさえいれば、一応見るに耐える作品が出来るということだ。

取り上げる映画は聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアである。一見すると過去の名作を繋ぎ合わせた凡庸なサイコ・ホラーに見えるのだが、ある非常に素晴らしい視覚効果を用いており、それ故無視出来ない作品になっていると思う。撮影技法的には堅実という印象を受けたが、幾つか併せて取り上げてみたい(下のショットは特に印象的だろう)。

Nicole Kidman and Sunny Sujljic in Killing of a Sacred Deer (2017)

視線の一致

エスタブリッシュメント・ショット(舞台情景を説明するショット)などを除いて殆どのショットはカメラの中心に対象が存在する。平たく言ってカメラを真ん中に持ってきているということだ。試みに当ブログの記事を眺めてみて欲しい。必ず記事の冒頭で取り上げる映画から印象的なショットを選んで貼り付けているのだが、殆ど全てのショットで真ん中に対象が置かれていると思う。この様にカメラは観客の視点が画面の中心に来る様な撮影をすることが多いのだ。

これは必ずしもスタンリー・キューブリックが病的に愛したシンメトリーの構図を意味している訳ではない。例えば右斜めを向いている役者を視線の先から捉えたとすれば、役者はカメラの中心で真っ直ぐを見据えて写るが、後景はカメラと交差する様に写るだろう。兎も角映画で殆どのショットはカメラの中心に何らかの対象が置かれている。これが撮影上の基本的な了解事項だ。

従って譬えカメラが動いていたとしても、カットの後のショットも同様に観客の視点は真ん中に置かれていなければならない。以下のシーンを思い浮かべて欲しい。一人の女性がカメラ中央に据えられた階段を降りて右側に歩いていき、カメラはゆっくりと左方向にパンして彼女を追う。次のショットでは廊下を歩く彼女を正面から捉えるのだが、この時彼女はカメラに対して正対することになるだろう。何故ならばパンをする時点で彼女はカメラの中心に居たのであり、カットを自然に行う為にも彼女は中心を正面に向かって歩く筈だからだ。

この様にカットの前後のショットで視点が一致する様に編集する技術を、視線の一致と呼ぶ(専門的にはeye-trace, アイトレースと呼ぶ)。繰り返し述べている様にカメラは対象を真ん中で捉えることが多く、或いはシンメトリーの構図で中心線を挟んで相対する様に撮影することが多いから、視点は真ん中に置かれることが多い。よってeye-traceも真ん中で視点が一致する様に編集することが一般的だが、場合によっては画面の端で一致させることもある。

sailcinephile.hatenablog.com

この視点の一致は極めて基本的な編集方法だが、カット数の比較的多い現代の映画では重要度が高まってきている。ショットの平均的な長さが長さが2〜3秒という映画もザラで、アクション映画などでは0.5秒程度でカットが入ることも多い。この様に頻繁にショットが切り替えられる映画では、観客を画面に集中させる為に視点を真ん中で固定するこ編集がよく行われている。

その他にはホラー映画で用いられるjump scare, ジャンプ=スケアでは観客の視点を一点で集めた上で直後に驚かすことが必要な為、視点を一致させる様編集することも行われている。

視線の誘導

先程と同じ女性が中央から階段を降りてくる場面を想像する。しかし今度はカメラのすぐ左側に男が座っている。女はそのまま右手に歩いていき、カメラは左方向にパンをするが、この時女の後ろ姿を男が見遣っている様子が写る。

さて次のショットをドリーを用いて、横方向のトラッキングショットで収めることにしよう。貴方は女性を奥側から撮影するだろうか?それとも手前側から捉えるだろうか?

正解だが、普通はカメラを女性の手前に置く。これはカメラ正面向かって左に女性を追いかける男性が写っているからであり、手前側にカメラを置くとドリーは左側に動いていくことになる。この方がショット間の繋がりが分かりやすく、女性の移動を捉えやすくなるからだ。対してカメラを女性の奥側に置いてしまうと、カメラは右方向にトラッキングすることになり、男性が前のショットで見遣っていた方向と逆になってしまう。

この様に登場人物が意識している方向(視線が向けられている方向)にカメラを動かしたり、そちらの端にオブジェクトを設置する編集を視線の誘導と呼んでいる。先程の例で言えば左方向を見る男と、左方向にトラッキングするカメラを一致させることで、観客の視点は男のそれと一致する事になる。男の視線が観客の意識を誘導しているという訳だ。

キルビル:vol1中の戦闘場面で、ユマ・サーマンの両目がクロース・アップで写り、彼女の目が動いた方向から刺客が飛び出す有名なシーンがあるが、あのシーンは素晴らしい視線の誘導の例だと思う。仮に彼女の視線と反対に刺客が動く様に編集してしまっていたら、観客は空間の方向性が全く分からなくなってしまう。特に縦・横・斜めと広く使って撮影するシーンなどでは、この視線の誘導を意識した編集を行うことが極めて有効だ。

そして殆どの編集はこの2つのルールに則って行われている。勿論編集効果の中には敢えて視線をずらしたり、全然関係ないシーンを挿入したりすることもあるのだが、それでも基本的にこれらのルールに従っている。1つ目のルール、視点の一致はどうやら人間の感覚上強烈な違和感を与える様で、多くの映像で守られている。アマチュアの撮影し、編集した簡単なビデオでも視点は一致することが多い。しかしながら2つ目のルール、視線の誘導に関しては等閑にされることが多い様に感じる。こちらを意識するだけでも、貴方の編集した映像のクオリティは格段に上がることと思う。

例えば2人の人物が対話している場面で、画面右側の人間が左側に立ち上がったとしよう。この時話の聞き手(正面に座る人物)は、彼を左側に見る筈だ。従って編集も左側に視線を誘導する様にして行うと良いだろう。この様に視線を誘導することで映像効果は理解のしやすいものとなる。

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア

先に述べた通り、eye-traceと視線の誘導は普遍的な技法だが、特にこの映画で面白い使われ方がされるシーンがあり取り上げることとした。

そのシーンは映画の2/3程が過ぎ、ニコール・キッドマンが夫コリン・ファレルの業務上のミスを知る場面。既に彼らの2人の息子と娘は、バリー・コーガンの残した何やら不思議な予言によって歩行不可、食事拒否の状態に陥っており、死期が近いと言われている。

そんな状態で医者らしく医学を信じるコリン・ファレルだが、ニコール・キッドマンは予言を信じ、そして夫が飲酒によってバリー・コーガンの父親を死なせていた(可能性がある)ことを知る。夫婦間はすっかり冷え切り、彼ら2人は食事中に喧嘩をしてしまうのだが、予言に怯えるニコール・キッドマンに対してコリン・ファレルは「ワニの歯やら何やらで儀式すれば息子達は治るのか?」と言って、妻に当たり散らす。

このシーンでカメラ中央でキッチンに座るニコール・キッドマンにじっくりカメラがズームインし、カット。次のショットは考え込むコリン・ファレルの横顔だ。彼は立ち上がりキッチンの引き出しや棚から食器等を床にぶち撒ける。そして妻に彼は詰め寄るが、その様子を引きでカメラは収めている。ここでカットが入り、その夜ベッドの端と端で眠る準備をする2人のショットへ繋げられる。

この時ニコール・キッドマンに怒鳴るコリン・ファレルが画面中央にいるのだが、次のショットで寝台の柱が画面の中央に来るのだ。そしてその右側にニコール・キッドマンが、左側にコリン・ファレルが写り込む。

筆者はこの編集の凄まじさに完璧に痺れてしまった。この場面を以て夫婦の断絶は決定的になり、コリン・ファレルは復讐を決意する訳だが、その転換を寝台の柱一本でヨルゴス・ランティモスは表現してみせたのである。ベッドという最もパーソナルな場所で柱により隔てられる、彼ら夫婦の距離は長大だ。喧嘩のシーンからeye-traceで寝台の柱に繋ぎ、その両端にコリン・ファレルニコール・キッドマンを対置させ断絶を表現する。何気なく見ていると見逃してしまうが、監督の天才的な才能が現れた印象的なシーンだ。

映画自体はとにかく引きの画で、上から眺める様なショットが多い。それを以て「映画がギリシア悲劇から題を取っていることも踏まえ、神の視点を表現している!」と述べる安易な考察がネット上では散見されるが、筆者的にはどれだけ都合良く解釈してもそれは誤りだと考える。短絡的に過ぎるのだ。筆者の解釈では、監督ヨルゴス・ランティモスは新たな形で、映画的にギリシア悲劇の再現を試みたのだと思っている。

元となったギリシア悲劇は色々なソースが取り上げているから、興味のある方はそれぞれ検索して頂きたい。ただしそれは本作とは殆ど無関係で、登場人物の関係性もギリシア悲劇とは対応していない。コリン・ファレル演じる主人公が犠牲を選ぶ受難を経験するという側面は一致しているものの、逆に言えばそれ以外の共通点は無い。従って神の視点云々は問題にならない。

映画内で印象的な俯瞰のショットは寧ろ観客の視点の表現であり、我々に芝居を見ているのだと意識させる為に敢えて通常よりも倍程度遠い距離から撮影したのだと思う。そうすることで、コリン・ファレルが自身の内から生じた避け難い要因により追い詰められ苦しむという典型的な悲劇の側面を強調しているのだろう。そしてタイトルにも見られる様にギリシア悲劇を想像させることで、映画の悲劇性を打ち出しているのだ。額面通りに元の悲劇と対応するなどと考えてはいけない。

しかしながら悲劇として本作はお粗末だと言える。確かに俯瞰ショットは美しく、我々鑑賞者自身の存在を意識させるが、最も肝要なカタルシスが我々にもたらされない。冒頭からバリー・コーガンの行動は異様に不気味で、我々はコリン・ファレルの立場で彼を恐れるしかない。そうして彼に共感していくのだが、ニコール・キッドマンは「私たちならまた子供を産める。撃ち殺すなら子供のどちらかよ。」などと言ったりする。

これでは彼を真の受難者として捉えるには無理というものだ。観客はその様なキャラクターには共感出来ない。更に飲酒によって患者の死に関わっていたかも知れないというのは、バリー・コーガンとの必然の結びつきを生み出すには必要でも到底共感出来る要因ではない。

従って最後まで見終わってもカタルシスアリストテレスが『詩学』で述べる所の魂の浄化はもたらされない。ただひたすらにバリー・コーガンを恐怖して終わるのだ。これでは悲劇としてはお粗末と言われても仕方ない。

悲劇の1つの大切な要素は観客が登場人物を自分のこととは「思わずに」、彼らの苦悩を感じ、そしてそこから自身の魂を震わせるカタルシスを得ることだ。劇中の登場人物は神話上の人物など、観客よりも遥かに偉大な人物であることが多い。その彼らが避け難い恐怖の中に巻き込まれ、苦悩する様を見て恐怖を感じ、自分の魂によって彼らのそれを追体験することが大切とされている。

引きの画や不自然なズームインは観客に自分が登場人物その人(例えばコリン・ファレル自身)であると錯覚させることを防ぎ、主観化を阻止しつつ彼らに共感させることを意図した演出だったのではないか。安易なPOVショットでは観客が登場人物の人格に入り込み過ぎる。まるで劇場で悲劇を見ているかの様な距離感で観客には悲劇を体験して貰うことを狙って、カメラムーブメントはこの様になったのだろう。

只繰り返しになるが、その目論見は失敗だった。肝心のカタルシスが無い以上「不気味な演出」という以上の域をでない。その点が残念だったとは思う。

しかし矢張り全体として興味深い作品であることには間違いない。悲劇としては失敗しているし、作品としても失敗作だろう。それでも直線を意識した空間に富んだセットは美しく、撮影も独特で的確に監督の意図(芝居を見せること)を表現している。また先述の視点の一致による表現は必見(must see)の編集だ。

ホラー映画としても上出来で、単なるファニー・ゲームとアイズ・ワイド・シャットのリミックスに止まらない魅力と怖さを持っている。是非一度は見るべき作品だろう。