知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】自己破壊的な脚本術、或いは不条理映画/欲望(1966)

17 (Fri). June. 2022

先日の記事に引き続き、本日も脚本について検討する。最も基本的で王道と思われるハリウッド流古典的脚本術から始めて、本日は脚本(物語)を破壊する試みについて見ていこう。

予め断っておかなければならないが、今回は脚本を持たない映画については取り上げない。従って例えばウォン・カーウァイらの様な厳格な脚本を用意せず撮影する監督や、ロバート・アルトマンの様に即興での演技を認める監督の映画は取り上げない。

筆者がここで取り上げる映画はミケランジェロ・アントニオーニが1966年に発表した欲望である。この映画は単に脚本に重きを置かない前述の監督らのアプローチとは異なって、しっかりとした脚本を持っていながらその脚本自体が自己の物語構造を破壊する様に作用している点に特色があると考えている。よって即興演出・現場主義的な脚本の放棄と、脚本そのものが自己破壊的なアプローチを明確に区別することを先に宣言したい。

それから先日の記事で脚本を4種類に分類してそれぞれ検討すると述べた訳だが、必ずしも全ての脚本がこの4種類に分けられるという意味では無いということも断って起きたい。その上で特にユニークな脚本にはどの様なものがあるのか、着目して欲しい。

David Hemmings and Veruschka von Lehndorff in Blow Up (1966)

欲望

普段とは少しフォーマットを変更して、映画の解説から始めたい。

デイヴィッド・ヘミングウェイ演じるキャラクターは破壊的な人物である。仕事場で写真を撮り(彼は有名な写真家らしい)、そのまま車に乗って街角のアンティークショップに立ち寄ると、衝動的にプロペラを購入する。

その彼がふと立ち寄った公園で撮影した写真を現像した所、サイレンサーを付けた銃を持った男と死体が写っており、好奇心を唆られたデイヴィッド・ヘミングウェイは死体の正体を突き止めるべく再び公園に向かう。そこで死体を発見するも、スタジオに戻るとフィルムは消えており、翌朝には死体も無くなっている。公園で彼は現実を見失い、抽象性のゲームに身を任せる。

これが物語の全容だが、導入部での設定が結末では見事に破壊されているということが分かるのではないだろうか。彼はカメラで空間を捉える人物で、事実を知る人間だ。彼は女性を撮影する人物で、女性を征服する人間だ。彼は裕福なブルジョワジーで、プロレタリアートとは異なる。彼は追われる人間で、追う人物ではない。

しかし公園で決定的な瞬間を撮影した所から彼のそうした性格は少しずつ否定されていく。先ずヴァネッサ・レッドグレイヴがスタジオへ写真を返して欲しいと頼みに来るのだが、彼はまだ高圧的で「多くの女が俺に撮って貰う為にやって来るんだ」などと言い放つ。

ヴァネッサ・レッドグレイヴを首尾よく追い払った所で写真の現像を始める彼だが、何やら奇妙なものが写り込んでいることに気が付く。デイヴィッド・ヘミングウェイが編集者に見せる写真はどれも街頭の労働者を写した写真でモデルを撮影する際の様式主義的な面影はないが、その時の彼は非常に熱心だ。このことを踏まえると、不明瞭な死体「の様なもの」という抽象は彼に取って我慢がならない。彼の第一の興味は労働者という対象であり、その具体を切り取ることであるからだ。

だがそんな彼が発見した死体は編集者も妻も誰も信じてくれる気配はない。彼は実際に公園まで迎いその存在を確かめる訳だが、この時点で最早彼が元々保有していた優越は奪い取られてしまっている。フィルムも死体も(どちらも事物であることに注意)次のシーンでは無くなってしまっている訳だが、それを奪い取った対象は明らかにされない。

最後の場面で冒頭も登場した白塗りの若者に混じってエア・テニスをするが、これは言わば抽象性のゲームだ。カメラという機材を持ち現実を切り取る男は、目に見えないボールの存在を最後には信じる様になってしまう。フィルムや死体を消し去ったのは誰か?観客もデイヴィッド・ヘミングウェイもそんなことには興味がないだろう。この映画は抽象が具体を破壊する物語を伝えている。

自己破壊的な脚本

ジェレミー・ソルニエの自主制作映画ブルー・リベンジも復習者が最後には殺害の理由を見失う様子を追いかける物語だったが、この欲望もまた脚本が打ち立てた設定を脚本自身が打ち壊している。

twist=ドンデン返しは設定された条件から意外な結末を導くことを言うが、こうした自己破壊的な脚本は導入部の設定そのものと矛盾する帰結を導く。ハリウッドが完成した究極の物語と比べてみよう。

sailcinephile.hatenablog.com

登場人物は簡潔なヴィジョンを持っている。そのヴィジョンに従って彼らは行動するが、その行動が物語を前に進め、明白な対立を産む。彼らは自分が持つヴィジョンが訴える通り対立を解決する為に行動し、ハッピーエンドで決着する。

これがハリウッド映画の基本だが、ここから次の様な言説を引き出すことが出来る。詰まりハリウッド流の古典的映画では登場人物は、観客が期待する通りに行動する。彼らは観客の期待通りに行動するから、結末もまた期待に沿ったものとなる。twistとは単に期待を意外な形で実現するというだけの形であり、本質的には同様である。

そうした観客が求める一貫性を否定する為にはどの様にしたら良いか?その究極の形は脚本自身が設定した物語条件を、脚本自身が否定してしまうことである。

所でそうした自己破壊について(そして欲望についても)不条理という合言葉が持ち出される様だ。しかし不条理とは人間精神が理解し得ない世界の姿に対して、彼が抱く感情に他ならない。合理性と明晰な因果関係を求める人間精神が時として納得出来ない様な世界のあり方を不条理と呼んでいるのである。

従って自己破壊的な脚本を不条理劇的と呼ぶことは出来るかも知れない。それは何故なら確かに観客の精神が映画世界に期待する展開を裏切ったまま終わるからだ。しかし欲望においてデイヴィッド・ヘミングウェイは最後にエア・テニスに興じる。即ち自己を否定する抽象を受け入れている。その意味で彼は不条理を克服しており、必ずしも不条理劇とは言えないのではないだろうか。

アラン・ロブ=グリエアルベール・カミュの『異邦人』に対して最後ムルソーが物との絶縁を保ち得なかった故に失敗作と評したことを思い出そう。寧ろ完璧な不条理劇は自己破壊に止まらず観客をも破壊してしまうのだ。そうした視点からロブ=グリエの書いた去年マリエンバードでを見ることも面白いかも知れない。

再び欲望、そして不条理

アルベール・カミュは自身で作品にテーマを設定したことで知られている。不条理から反抗へ、そして愛へと繋がる作品の系譜である。結局カミュの不条理は先に述べた通り、徹底されることは無かったし、彼自身のヒューマニズムがそれを許さなかった。寧ろ彼はトリュフォーと同じ愛の作家なのだと筆者は思っている。

ミケランジェロ・アントニオーニもまた完璧な不条理を追求することはなかった。本日の記事の写真にも設定している有名なショットは文句なしに美しい。御託を並べるまでも無い程に。そしてヤードバーズが出演したり、疾走感溢れるジャズを選曲する彼の決断は、観客への歩み寄りだったのではないだろうか。

脚本上は確かに難解な部分も多いが、映画全体として見ると不思議と最後に満足感が得られる、優れた作品だと思う。前回のお熱いのがお好きとの対比で今回は欲望を選んだ訳だが、どちらも同じ位に優れた映画であって、是非一度は見て欲しい作品である。