知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】ミザンセン(mise-en-scene)の意味と機能/ドリーマーズ(2003)

13 (Mon). June. 2022

カメラムーブメントについて学び、カットとは何か学習した所で、次の様な疑問が浮かんだのではないだろうか。

確かにカメラの動かし方、シーンの切り方は分かった。しかし映画は総合芸術で様々な要素が組み合わされて出来上がっていると述べていたではないか。映画は何を撮るものなのか?

その疑問に答える為に便利な単語がある。それがミザンセン(mise-en-scene)である。日本ではミザンセーヌという呼び方で親しまれている様だが、英語でも元となったフランス語でも”ヌ”という音は聞こえてこない。故にここでは正確にミザンセンという名前で取り扱う。

併せて解説する映画はドリーマーズである。後述するがセット、具体的には登場人物が暮らす部屋が物語上大きな意味を果たしている。ベルナルド・ベルトルッチ作品の内では恐らく最も分かり易い映画になるだろうから読者の方々も是非挑戦してみて欲しい。

Eva Green, Michael Pitt and Louis Garrel in The Dreamers (2003)

Mise-en-scene即ちMise-en-scène

ミザンセンとは何かという話から始めよう。この単語はフランス語が元になっており、mise-en-scèneで直接的には演出を意味する舞台用語だ。

scèneは英語のsceneと同じく場面、光景を意味するほか舞台や演劇という意味も持つ名詞、enはinに近い働きをする前置詞である。

miseはputting, 詰まり置くことを意味し、何かをある特定の状態にすることを示す名詞である。資産を置くことにすればmise de fonds(投資), 整えた状態に置くことにすればmise en ordre(整頓), 自由な状態に置くことにすればmise en liberté(釈放)という風だ。船を水の中に置くということでmise à l'eau d'un navire(進水)という表現もする。

これらを組み合わせるとmise-en-scène, 舞台に置くこと、となり演出一般を表現する単語として働く。ここで一般という点に注意して欲しい。ミザンセンとはカメラに映っている全ての要素、と認識されがちだが、語源的にはそれは誤りだ。実際には演出された要素一般を「包括的に」考えることを指す。従って、

De qui est la mise en scène de cette beau film?(この美しい映画の演出は誰ですか?)

という様な使われ方をする。Réalisateur(実現する人、監督)は誰かを直接には聞いている訳だが、作品全体の演出を特に指導している故にこの文意でqui(誰)とは監督を指すと理解されることになる。若し単純にカメラに写っているものを指すとすれば、我々は撮影監督の名前を答えなければならなくなるだろう。

概念を理解した所で、次は実際的な説明に移ろう。映画はセット、小道着、俳優、衣装、メイク、音、ライトなど様々な要素が関係しているが、基本的にそれらは全てカメラの動きと連動する。

sailcinephile.hatenablog.com

よって映画を分析する際に、各ショットに於いてそれぞれの要素がどの様に機能するかを議論する為にミザンセンという全てを包括した一般概念を想定し、それを諸要素に分析することになる。大きく分けてもう一つに要素は編集にある。ショットを如何に分析して映画を作るか、ということも大事なポイントだ。しかしそれぞれのショットの作り込み、という点に於いてはミザンセンの構築ということになる。

ミザンセンの機能

筆者が繰り返し述べている様にスタイルの分析、形式の分析が何よりも肝要である。それでは形式はどの様な点から見出すことが出来るのか。例えば色調(デイヴィッド・フィンチャーの暗い緑)、カメラムーブメント(エドガー・ライトのウィップパン)、構成(スタンリー・キューブリックのシンメトリー)などから見出されることになるだろう。

しかし個々の要素は全体に奉仕するのではなかったか。全体の作品としてどの様に機能するのかを分析することが映画研究の基礎であり、原則ではないのか。その通りである。

この問題を解決する為の装置がミザンセンなのだ。詰まり作品を分析する上で個々の要素に目を向けざるを得ないが、それを全体から分離させてはならない。従って演出一般という概念を持ち出し、個々の要素がミザンセンを如何に形作っているのかを見ることで全体との関係を保とうと考えている。だから必ずしもミザンセンという呼称を使用する必要はないとも言える。何故ならミザンセンとはカメラムーブメントの様に明確な型がある訳ではない為、その解釈や分析の仕方は個人に委ねられている。ただ世界的にミザンセンという名前で以て考えましょうというルールが定められているだけなのだ。

また制作者にとってミザンセンという概念は意味が無いということも言える。制作者(特に監督)は作品を第一に考え、そのイメージを具体化するためにシーンごとの撮影方法を考えていく。そして必要なセットやコスチュームが生み出されるのであり、ミザンセンを考えて撮影を始めるのでは「ない」。ミザンセンは完成した作品を見て分析する時に便利な考え方なのであって、後からやって来る概念なのである。

ドリーマーズ

明らかにジャン・コクトー恐るべき子供たち』を意識した作品と言える。一つの部屋で男女が奇妙な共同生活を送り、密接な結びつきの中で性と死が彼らを統御する。ベルトルッチは『恐るべき子供たち』に見られた死を共産主義運動という要素で置き換えているに過ぎない。

従ってセット、彼らが暮らす部屋が重要な意味を持っていることは容易に想像がつくだろう。コクトーの小説の中では彼らは風変わりなガラクタを収集し、死の香りで溢れさせる。これはデカダンス的な意味ではなくもっと精神的な意味、自然に立ち現れる死という意味で用いられている。

従って映画の中でも部屋の中には死の香りが漂っている。例えばどこからともなく現れる白いモップや部屋の中に立てられたテント、テーブルクロスの柄などから彼ら3人の如何しようも無い死のイメージが刻みこまれている。このイメージはラスト・タンゴ・イン・パリに於いて強化されていたものだろう。

そして『恐るべき子供たち』の中で恋愛と毒薬が最後の決定的な役割を果たしたのに比べ、本作では共産主義運動がピリオドを打つ働きをする。彼らは根本的に理想主義者で映画の世界に溺れ、マオイズムの闘争にのめり込んでいくがそれは決して政治的な共鳴に負っているのではない。ベルトルッチはこれまでも政治運動を積極的に描き革命前夜や暗殺の森、1900年などを製作したが、特に革命前夜でイデオロギーを打ち立てるのではなくイデオロギーに接近する姿を描写している。イデオロギーが彼のアイデンティティとなるのだ。ドリーマーズでも同様理想主義が要求する思想の具体化としてマオイズムに接近しているに過ぎず、最後彼らが闘争に向かうのは死が彼らを呼んでいるからにほかならない。究極的な死が闘争によってもたらされるという意味だ。

以上の通り『恐るべき子供たち』からの影響が見られる訳だが、それをミザンセンとの連関で考えてみよう。テーブルクロスやエヴァ・グリーンの肉体、ベルトルッチのコンポジッション等各要素が如何にして総合されるのか、総合された者がミザンセンだと思って頂ければ良い。

そして一度ミザンセンが意識されたら、作品の上でどの様な効果をミザンセンが与えているかを考えてみる。若しそれが上記で解説した通り、死の香りと一致したならばベルトルッチは優れた仕事をしたことになるだろう。特に小説を読まれた方であればコクトーの詩情を経験している筈だ。ミザンセンからコクトーの影響が伝わって来るのかどうか、是非自分の目で確かめて欲しい。