知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【業界研究】1920年代までのアメリカ映画館事情とスタジオ・システムから見えてくるもの

17(Mon). Oct. 2022

元々の映画離れにコロナ禍も相まって、映画館のオーナーは何処も頭を悩ませているのではないだろうか。寧ろ頭を悩ませる段は終わって、閉業に追い込まれてしまった映画館も(数字を見ている訳では無いから正確には言えないけれど)多いかも知れない。

有名どころでは神保町の岩波ホール、大阪・テアトル梅田が今年で営業を終了。筆者の地元で嘗て足繁く通った映画館も今年いっぱいで閉館の見込みらしく、となると県内で映画館は数館だけ、その内TOHOシネマズを除くとほぼ絶滅状態になってしまう。

と書くと中々大変なことに思えるが、案外何処でも同じ様な状況だったりするのでは、という気もしてくる。満足に見たい映画が見れる環境なんて東京、京都などの大都市圏だけ。呪術廻戦だったりアバターはちょっと足を伸ばせば見れても、女神の継承、わたしは最悪、この辺りの映画は配信待ちするしかないという方が普通かも知れない。

昔はレンタル落ち、旧作落ちと言って首を長くしたものだけれども、時代は配信落ちを待つのである。それはともかくとして窮地にある映画館産業は一体なぜ苦しむことになったのか。それは新型コロナウイルスのせいなのか。Netflix等の配信サービスの為なのか。はたまた映画産業自体が良作を生産できなくなってしまい体力が落ちているのか。色々議論されているが、その背景には少し別な理由がある様にも思えるし、そもそも時期的な理由だけでここまで急激に、そして恒久的に映画館が追い込まれるとも考えにくい。

今回は映画誕生間もない1910年代から1920年代のアメリカを除いて見ることで、映画館とは何か考えてみようという記事である。当時の時代背景とスタジオ側の都合が当時の映画館を大きく揺り動かしていた訳なのだが、その辺りの事情を知ると現代の映画館が苦労する理由が見えてくるのではないだろうか。

当時の映画を知っている必要は殆ど無い(正直筆者も鑑賞済みの作品は多くない)。なるべく平易な解説を心掛け、一般的な内容となる様努めたつもりでもある。是非最後まで目を通して頂けたら嬉しいし、実際に映画館で働く方々の目に留まる様なことがあればこの上ない喜びである。

The image of "Who Killed Cock Robin?" from Sabotage (1936)

ニコロデオン時代の映画館

活動写真”Moving Image”の歴史は1893年に有名なトーマス・エジソンが開発したキネトスコープから始まる。フィルムを手で回しながら動く映像を楽しむ装置で、極めて簡単なアニメーションといった形だ。

より本質的な映画の原型が開発されるのは1895年、今度はアメリカではなくフランスでリュミエール兄弟がシネマトグラフを発明した時だ。シネマトグラフはより今のカメラに近い存在で、彼らが撮影した一連の映像”Actualités”(工場の出口を含む)を以て映画の起源とすることも多い。黒沢清監督などは講演で工場の出口を最初の映画として紹介していたと思うのだが、筆者の教授は「ただの動画に過ぎない」と言っていたから統一認識という訳では無いのだろう。

さてシネマトグラフが普及し始めると、一連の映画?が凄まじい勢いで生産されることになる。その鑑賞形態は様々で、初期には見世物小屋に似た仮設の映画館で上映されることも少なくなかった。郊外のショッピングセンターの駐車場で偶に見かけるサーカスの様なものをイメージして頂きたいのだが、人々はそこでショート・リールを楽しんでいたとされる。この時期の映画の魅力は専ら「動く」という事実そのもので、新規な見世物として映画を楽しんでおり、それ故か題材も闘鶏や女学生の部屋、異様な体など見世物じみたものが多かった。

しかし段々と見世物として目新しさが薄れ、「動く」ことに人々が慣れてくると映画は娯楽としての特徴を備える様になった。コメディ映画製作の始まりであり、これは大凡ショート・リールからシングル・リールでの上映(1リールの長さは15分程度)が主流になる時期と重なる。1910年頃の話だ。

この頃になると映画鑑賞は雑多で無統制な見世物小屋から発展し、産業としての形態を帯びる様になる。ニコロデオンNickelodeon)映画館の誕生である。ニコロデオンとは米国で5セント硬貨に使用されていた金属ニッケルと劇場を示すギリシャ語オデオンを併せたもので、企業やフランチャイズといった纏まりは有していなかったものの、同じ名前で全米各地に展開された。日本で言うワンコイン弁当くらいのニュアンスだったのかも知れない。

小さな劇場(vaudeville)でも映画は上映されていたし、1910年代後期からは宮廷(Movie Palace)と呼ばれる奢侈な施設も建てられるなどその上映方法は単一では無かったが、最も重要な場所、詰まり多くの非上流階級市民が見る場所として主流だったのがニコロデオン劇場と言える。その殆どは1スクリーンか2スクリーンの600席以下、その内半分は300席にも満たない小さな劇場で、地元住民がショート・フィルムを見る為に気軽に訪れる一時滞在場所といった趣きだった。規模としてはアップリンク吉祥寺が5スクリーンで300席だから殆ど同じかそれより小さい程度で極めて狭く、しかし立川シネマシティの最大規模のスクリーンで303席となっており、スクリーン単位では大きいことが分かる。

後に詳しく述べるが映画館は1920年代を過ぎて大作映画が主流となる頃でも安価に入場出来る場所であり、待ち合わせ場所や冷房に当たる為だけの場所として人々は映画館を訪れていた。現代の料金設定では考えられない様な贅沢である。

ともかく1910年代の上映形式の中心はニコロデオン映画館であり、その観客は基本的に気晴らしを求めて映画館を訪れていた。当初は「動く」ことの目新しさが魅力だった映画館は、気晴らしの場所として集客力を持つ様になったのだ。となると当然シリアスなドラマよりは明るいコメディが好まれることとなり、且つ上映作品が定期的に変更されることが重要となる。

この役割を果たしたのが通称MPPC(The MPPC)、The Motion Picture Patents Companyである。patentとは特許を意味し、トラスト或いはエジソン・トラストと呼ばれることからも分かる様にエジソンが当時頭を悩ませていた映画制作の特許問題を解決する為に作られた組織である。アメリカ内の8つの最大製作会社(に加えてその提携会社1社)と、アメリカ外では最大規模の製作会社1社を併せた10企業による巨大なトラストで、無数に存在していた独立系製作会社・配給会社の力を弱め、業界をコントロールすることを目指していた。

そして1910年代初頭、このトラストは実際に圧倒的な力を有しており、映画を産業化する上で欠かせない存在だった。既に述べた通り、この時ニコロデオン映画館を中心とした上映者に求められていたのはいつ訪れても楽しめる、気軽でバリエーションの豊富な短編コメディだった。MPPCはこの需要に応えるべく必ずしも後世に残るとは言えない「そこそこ」の映画を大量に生産し、まとめて配給することに尽力したのである。質よりも量を、ロングランよりも短距離リレーを、という訳だ。

それは必ずしも悪いことではなく、特に観客の需要が特定の映画”films"ではなく漠然と映像"movies"だった時代には賢い経営戦略だった。近年のMCUやDC、その他フランチャイズ作品の様に大量の資金を投下して大きな利益を得ることは目的ではなく、観客を映画館に呼び込み続けることが目的だったのだ。必然的に特定の作品の広告を打つこともなく、より一本当たりの予算は削減されることになる。そしてその小さい予算規模で固定客が訪れ続けることにより、利潤が生まれ、その利益を元に新たな低予算作品を製作し.....という好循環が生まれていた。

フィーチャー・フィルムへの移行

しかしMPPAの寡占もフィーチャー・フィルムへの移行と共に終わりを迎えることになる。これが大体1915年頃からの出来事であり、現在の我々がイメージする「ハリウッドらしいハリウッド」へ変貌を遂げていくのがこの時代だ。

現在でもNew Feature Filmなどと広告を見かけることもある、フィーチャーという単語。これが具体的に何を意味しているかを知っている人は案外少ないのではないだろうか。元々は演劇の世界で使われていた用語で、最大の見せ場である幕のことを"feature act"と呼んでいたらしいのだが、これが映画界でも採用され、プログラム中で最大の見せ場となる映画のことをフィーチャー・フィルムと呼んで特別視する様になったと言われている。

従来のシングル・リール、ツー・リールといった短い映画とは異なり、フィーチャー・フィルムは通常70分から90分程度の長さを持っていた。現在では120分前後が標準だろうか。この時代は90分くらいの作品が多かった様である。そして1910年代と言えばまだまだサイレントの時代、1927年が最初のトーキー映画公開の年だから、完全な無音である。となるとその上映には音楽隊が伴うことが多かった。

さてここで一つの疑問が生まれる。当時主流のニコロデオン映画館は小さい映画館であったと書いた。また観客も気軽な映画を求めていたと書いた。それではフィーチャー・フィルムは誰に向けて製作されていたのか?その需要はどこにあったのか?

端的に答えるとよりハイ=クラスな人々である。製作費がシングル・リールと比べて高額になることもあり、フィーチャー・フィルムは都会の然るべき映画館、劇場、宮廷(Movie Palace)などに優先的に配給されていた。そしてフィルムをレンタルする為の料金も高く、場所代も相まって鑑賞料金高くなっていた。従ってその需要はより質の高い作品を求める人々によって支えられており、安価な気晴らし映画とは初めから一線を画する存在であった。ここで強調しておかなければならないのは、フィーチャー・フィルムが特別な映画だからと言って一般庶民に鑑賞の機会が無かった訳ではないということだ。現在でも多くの日本人が演劇に通うのは難しくても、映画になら行けないこともない、と考えている様に、毎日通うことは出来なくとも一般庶民がそうした劇場に足を運ぶことは少なくなかった。

さて最大顧客であるニコロデオン映画館の多くが音楽隊を入れ、ツー・リール以上のフィルムを上映する能力が無かったことから、MPPCはフィーチャー・フィルムの製作に反対の立場を取っていた。MPPCが1910年に設立した配給会社(MPPCは基本的に製作会社の連合)、The GFC、The General Film Companyはゆっくりとフィーチャー・フィルムの必要性を認め、ショート・リールと抱き合わせで配給を始める様になる。しかし彼らのビジネスの軸足はショート・リールにあり、人々の関心が次第にフィーチャー・フィルムに移り始めた時必然的に映画のクオリティで違いを生み出そうとする独立系製作会社の後塵を杯することになってしまう。

整理しよう。1920年頃までにフィーチャー・フィルムが劇場の中心となり、映画館の魅力は目新しい映像から娯楽へ、そして「特別な」娯楽へと変化した。

そうしてGFCも1915年には解散してしまい、時代はフィーチャー・フィルムの製作に移っていく。ここで登場するのがビッグ5/リトル3と呼ばれる8社であり、MPPC時代には独立系映画製作会社として位置付けられていた彼らが業界の中心となるのである。ただしここにはアメリカならではの事情もあって、広すぎる国土故に東海岸を拠点としていたMPPCはハリウッドで起こっていたフィーチャー・フィルム製作を抑え込めなかったという理由もあった。ともかく映画業界はより利幅の大きい、大規模な映画づくりを始めることとなる。

スタジオ・システムの誕生

スタジオ・システムに於いてもその中心には製作会社が居た。フィーチャー・フィルムの製作では大規模なスタジオと機材、膨大な長さのフィルムを全国各地に届ける配給網、そしてスターを起用した宣伝を打つだけの資金が不可欠となる。そうした大掛かりなプロセスに責任を持った製作会社は大きな権力を得る、と同時に莫大な利益を生む様になった。このメカニズムはマクドナルドでも衣類でも全国規模でチェーン展開する大企業が小売店を駆逐していくそれと同じと言える。

具体的にはビッグ5と呼ばれた5社、ワーナー・ブラザーズメトロ・ゴールドウィン・メイヤーパラマウントRKO20世紀フォックスが業界のトップに立ち、その下をリトル3、ユニバーサル、コロンビア、ユナイテッド・アーティストが追随する形となった。その他にはセルズニック・インターナショナル・ピクチャー(スタア誕生風と共に去りぬなど)やウォルト・ディズニーなどといった独立系映画製作会社も存在していたが、彼らにせよ自身の映画を配給する際にはビッグ5/リトル3と契約する必要があった。

例えば世界初の長編アニメーション映画、白雪姫は紛れもなくディズニー製作の映画であり、現在でも彼らのコンテンツとしてディズニー・ランド等に登場する。けれどもオリジナルのフィルムを見ると配給はRKO(ビッグ5、現在はワーナー・ブラザーズが権利を保有)となっているのだ。これにはある特殊なカラクリがあって、その仕組みこそがスタジオの権力を高めていた理由でもあった。

所で読者の中にはここまでの文章に潜む矛盾に気がつかれた方もいる知れない。ビッグ5/リトル3は製作会社、スタジオであると書かれているのに、RKOが白雪姫を「配給した」とはどういうことか?製作会社と配給会社は別物ではないのか?

その通りである。そしてこの点こそがスタジオ・システムの最大のカラクリでもある。詰まり彼ら製作会社はスターを起用し、比較的高額なフィーチャー・フィルムを製作することで大きな利益を得た。そして彼らがフィーチャー・フィルムで成功する程に観客の期待は高められていき、また資産も増えることで規模も拡大する。こうした背景から他の製作会社が参入しにくい状況となっていた中で、その資金力を活用し製作会社は配給会社・映画館を保有し公開のプロセス全てをコントロールする様になったのだ。

このコントロールは一般に縦の系列化、vertical integrationと呼ばれている。製作会社は自らフィーチャー・フィルムを製作し、それを宣伝する。完成したフィルムは自らが保有する配給会社を通じて配給され、その値段や権利は完全に作り手によってコントロールされる。更に上映する映画館までも製作会社のコントロール下にあることから、観客からもたらされる直接の利益も製作会社の管理下となる。よってディズニーが白雪姫の配給をRKOと契約して行った理由も、末端の映画館で確実に作品を公開する為にはRKO傘下の映画館で上映機会を担保する契約を結ぶ必要があったからであり、彼らと利益を折半した方が単独で配給するよりも売上が大きかったからなのである。

その様な市場の寡占は違法ではなかったのか?当然違法であった。正確には合法的に容認はされていなかった。戦後の時代とは異なり戦艦期のアメリカは飽くまで強国の1つという立場であり、業界のトップランナーとして莫大な利益を生み出すスタジオを司法部も黙認していたが、小さな独立系配給会社からの訴訟が増えるにつれ違法と断じざるを得なくなった、というのが背景である。だから違法と分かっていながら運営されていた訳ではないものの、正式に認められていた系列化ではなかったし、明文化された寡占形態でもなかった。

だからその手法もグレーゾーンを付く様なものだったと言える。具体的には2つの方法、ブロック・ブッキング(Block Booking)とブラインド・ビディング(Blind Bidding)、でありスタジオはこれらにより実質配給会社と映画館を系列化することが出来た。順に見ていこう。

初めにブロック・ブッキングである。映画館は製作会社の目玉映画、例えばMGMのベン・ハー(1925)を上映する為には、通常は一年単位だったが一定期間MGM製作の映画全てを借りる必要があった。映画が企画段階の内からそのスタジオのフィルム全てを借り受ける契約をしてしまうことで、制作会社側は一定の利益を担保することが出来、また映画館も確実に売れる映画(ベン・ハーなど)を確保出来るという契約だ。少し分かりにくいから具体的に名前をお借りして解説しよう。勿論現実とは一切関係は無い。

さて新宿であればTOHOシネマズ、バルト9新宿ピカデリーなど映画館が多数存在しているが、それぞれのスタジオは映画を上映する為にスタジオと契約を結ばなければならない。今年だと目玉作品のバットマンを上映する為にTOHOシネマズはワーナーと、バルト9ドクター・ストレンジ/MoMを上映する為にディズニーと、新宿ピカデリートップガン:マーヴェリックを上映する為にパラマウントと契約しなければならないが、ブロック・ブッキングの場合は確実に目当ての映画を契約する為一年単位でそれぞれ映画館は全てのスタジオの映画を契約してしまう。だからTOHOシネマズはワーナーの今年分の上映作を全て公開する契約を年始に結んでしまうのであり、バルト9はディズニーの作品を完成前に上映すると確約してしまう。これがブロック・ブッキングだ。

スタジオ目線で見れば(譬えの上で)実質バルト9はディズニーの子会社と言って差し支えないことになってしまうし、新宿ピカデリーパラマウントの子会社ということになってしまう。力関係は当然スタジオ上位であり、それ故スタジオを中心とする縦の系列化と呼ばれていた。これは映画が売れている内は問題が無かったかも知れないが、例えばチップとデールの大作戦/レスキュー・レンジャーズ(2022)は劇場公開としては全く予算を回収出来ていない。サブスク用映画だったからディズニー側には関係ないかも知れないが、この売れない映画をブロック・ブッキングにより上映し続けなければならないバルト9としては堪ったものではない。

こうした映画館が被る損失の多さが注目される様になり、後には廃止される。現在は各映画館が公正にプログラムを選定できるが(TOHOシネマズでもバルト9でも新宿ピカデリーでも多様な映画を楽しむことが出来る)、当時のハリウッドではこうした寡占に繋がる仕組みが一般的だった。

次にブラインド・ビディングである。これはブラインド・バイイング(Blind Buying)とも呼ばれるが、後者が分かり易く示す通り、Bidding=入札に関わる仕組みだ。この慣例は上述のブロック・ブッキングを支えるもので、上映館が企画段階から映画の権利の入札してしまうことを指している。映画館はブロック・ブッキング、一年単位の契約をするのであるが競合相手と同じ映画を上映しても利益は薄い。従って予めそのフィルムの権利を入札しておくことでブロック・ブッキングを意味のあるものにしようということだ。

この問題点であるが、企画段階で、詰まり映画が製作される以前から契約をしてしまう為不公平なのは勿論企画倒れになってしまった時に映画館側が被る損害が多いことがある。又ブロック・ブッキングを成立させる目的で過剰に入札した結果スケジュールの都合などで映画館側が上映出来るよりも遥かに多くのフィルムを抱えてしまい、結局上映しないまま契約不履行に終わるというトラブルもあったそうだ。

当然契約という形であるから不履行となればそれなりのペナルティがある。そして何より契約を結んでいる以上その他のスタジオからの映画を上映することも出来ない。実質映画館はスタジオによって上映作品を制限されていた。

以上がスタジオ・システムにより系列化が進んだ当時のハリウッドの概観だが、必ずしも負の歴史というだけではない。少なくとも当時寡占が進まず、スタジオが巨大に発展しなければフィーチャー・フィルムが満足に製作されることもなく、映画業界が産業として成長することもなかった。簡単に言ってしまえば一連の不都合がありながらもそれこそが大戦前のアメリカに於いて映画産業が巨大化する最大の要因とも言えたのである。従って現在の映画産業の礎は不公平なパワー・バランスの上に作られたものであるという現実が見えてくるのだ。

2020年代の映画館

ここまで説明すると現在映画館が苦境に追いやられている理由が見えてくる。

昔と今。映画館に人が入っていた時代と、苦戦している時代。今から考えれば不公平でしかないブロック・ブッキングやブラインド・ビディング。これが表面上許されていたのはスタジオが供給する映画に観客が集まったからに他ならない。そしてそれは観客の映画に対する関心が高いレベルで保たれていたからに他ならない。

当時の一般的な上映形態はニュースリール、アニメ、短編ミュージカル、短編コメディ、フィーチャー・フィルム、短編コメディ(別)、予告の一連の作品群で構成されていた。そして観客は映画館に対して入場料という形で料金を支払い、延々と再生され続けるプログラムを途中から鑑賞していたのである。

アニメや短編ミュージカル、短編コメディは現在は全く見なくなったが、20~30代以上の方なら分かるだろうか。昔はディズニーなどのDVDを借りると本編の前に短いアニメが挿入されていたものである。あの様な特にフィーチャーとは関係がない作品が別個にフィルムとして映画館に供給され、前座として上映されていた。ブルーレイやリマスター版では恐らくカットされているだろうから、2000年代に販売されていた古いDVDをレンタルしてみると鑑賞出来るかも知れない。

その他色々なフィルムが上映されたがやはり目当ての中心はフィーチャー・フィルムであった。とは言え観客がそれを途中から見ることも珍しくなかったし、観客は映画を「映画館という身近な場所で鑑賞するモノ」として親近感を持って見ていた。先に書いたエアコン目当てに〜、というのはこの文脈と絡んでくる。

整理しよう。観客は現在よりも気軽に映画館に来ることが出来た。物価の影響もあるから正確には言えないけれども、喫茶店に入るのと同じくらいの感覚だったのだろうか。そしてそこで上映されているフィーチャー・フィルムに対して一定レベルの関心があった。暇つぶしに見に行っても良いか、と。それ故に映画館側も相当不利な契約を結んでいても経営していくことが可能だった。この関心はニコロデオン劇場の頃から高いままだったが、2020年までに徐々に低くなってきたのだといえる。

であれば人々が映画に同レベルの関心を持っていない今映画館の経営が苦しくなるのも当然ではないだろうか。ブロック・ブッキングはなくともスタジオ優位の構図は今でも変わっていない。スタジオが映画を製作するアプローチは規模が大きくなればなる程時代を遡って、詰まり新規なフィーチャー・フィルムに人々は惹きつけられるという前提に頼る様になる。配信メインの現代・未来になってもスタジオは大衆に見られなくても良い映画を作ることはないだろうし、しかし大衆が映画を見たいと思っていないのだから需要と供給のミスマッチは大きくなり続けるばかりである。スタジオはもっと規模を大きく、もっと新しい映像を、と意識するのに対し、観客側には「見に行っても良いか」の前提が無い訳でそうした顧客層に対して「この映画は面白いですよ」とアプローチしても何も響かないのだ。

そしてその影響は直接映画を上映する映画館から受けるのであり、スタジオ・製作者が観客に響かない映画を作り続けるばかりに顧客が減っていく。これは映画が面白くないから客が減る、というロジックとは少し異なっていて、面白い映画でも大衆が観たがっていないなら売れないよね、という前提との区別が必要かなと思う。1920年代の様に観客の意識が映画に向いているのであれば面白い映画を作れば客は増える。逆に映画を見たがっていないのに映画を見せてもただの押し売りなのであって、映画館が儲からないのも当たり前だ。

だから正直筆者としてはサウンドやスクリーンに力を掛ける映画館のアプローチには懐疑的でもある。それを望むのは結局映画に関心がある層で、映画に無関心な人口が振り向くとは思えない。何故映画か?という部分が解消されていないからだ。

何故映画か?これに答える方法は2つしかない。1つは映画館に行くから映画だ、と感じさせること。エアコンに当たる為でもリクライニングのソファで寝る為でも良い。映画館に行くこと自体を気軽な行為、生活の一部にしてしまえば映画館に行くから映画を見る、という逆転の関係が生じる。しかしこれを実現する為にはチケット料金をワンコイン程度まで下げなければならないし、或いは飲食・雑談可にしたり、アルコールをメインで提供したりという工夫が必要で、映画の上映権が高い現状難しいと言わざるを得ない。それでなくても鑑賞マナーに以上に厳しい日本人には無理だろう。筆者はスマホが付いても余りノイズを感じないタイプだが、映画ファンには激怒する人も少なくないから20年代の様な身近な存在として機能するとは思えない。

もう一つは見なければならない映画を上映することだ。これは実際に日本の多くの映画館で挑戦していることでもあって、コアなファンにターゲットを絞った作品(今年であればWANDAなど)やカルト映画など(新文芸坐で行われたDJタイムを含むゼイリブ上映)を扱っている。ただこれも映画ファンにターゲットを絞って合理的な上映をしているのであって、全社会的な広がりは無いだろう。東京の映画館ならアリでも街で1つの映画館、長年やってきた映画館が取る方針としては難しい。

他には君の名は。が大ヒットした背景には映画としての面白さもさながら若者に特化した社会現象としての一面もあった。当時筆者はまだ中学生だったが、一年経って高校生に上がった頃でも上映されていた筈だしデートスポットとして人気だったとも思う。カップルでそれぞれ三葉と瀧の画像をホーム画面にし、二つ併せて一つに完成させる遊びが有名になったりもしていた。

こう考えると特に君の名は。の様に社会現象となる映画は強いのかなと思う。日本の映画界が強みを活かせるというのも良いポイントだ。海外で流行するコンテンツは日本の流行語の様に皆で真似をして、関連グッズが出て、といった盛り上がりに欠ける印象があるから、一般のライトな映画層を取り込む上でも効果的という気はする。

ビジターQや閉じる日、ざわざわ下北沢の様な企画も面白いだろう。何にせよ長々解説した通りハリウッド的なモノは概ね1920年代までにスタジオ・システムを通じて作られたのであり、映画館の形態も多少の変化はあれその頃までに固まった。それは現在でも継承されている部分が多く、個人的には映画館で映画が見られない理由の一つではないかと感じている。仮説として配信で人が映画を見るなら(コンテンツとして魅力があるなら)映画館に足を運ばない理由もないのだ。というよりはサブスク会員と映画館人口の間に巨大な開きが生じるとは思えないのである。

Netflixでなら映画も見るけど映画館には行きたくありません、となる思考の方が不自然ではなかろうか?早送りできるからとか色々理由はあるかも知れないが、それにしても映画館やTSUTAYA、ゲオと相次いで潰れる理由には弱いと思う。寧ろスタジオが作る映画が映画館の現状と合わなくなっているという方がしっくり説明される気もしているし、その意味で映画館は難しい経営を迫られるのだろう。

何人が最後まで読み通したのか分からないが、ここまで読んで下さった貴方。是非一度映画館という「場」について考えてみて欲しい。そして多くの人に記事が読んで貰える様助けて頂きたい。直接映画館を助けることは現状難しいが(構造的な問題だとしたら)、考えることは無駄にはならないだろう。