知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】映画形式、スタイルとジャンルはどう違うのか、脱構築/Love Letter(1995)

1 (Wed). June. 2022

以前「映画は総体として見られなければならない」と書いたと思う。

また「映画のジャンル分けは主に社会学的な観点と、マーケティング上の観点から行われる」とも書いた。

所で映画の総体とか形式、そしてジャンルとは具体的に何を指すのだろうか。

この質問に答えるためには映画とは何か、という問いに答えなければならない。これは非常な難問であるが、映画を研究し、或いは製作する上で一番最初に知るべき内容でもある。

解説として取り上げる映画は岩井俊二のLove Letterだ。スティーヴン・チョボスキーのウォールフラワーとも迷ったのだが、文学と映画のスタイルの比較としてより優れた映画であるLove Letterを取り上げようと思う。

中山美穂 in Love Letter (1995)

形式、映画を映画足らしめるもの

マーティン・スコセッシMCU作品に対して「あれは映画ではなくテーマパークに近い」と発言して以来監督や俳優達が様々意見を出し合い、議論になっている様だ。

私見としてこの問題の核心はMCU作品の質にあるのでもなく、巨額の製作費にあるのでもなく、映画の形式をどう捉えるかという一点にあると思っている。

殆ど全編グリーンバックを使い、物理法則も距離間隔も時間の概念も全てなくなってしまった映像を果たして映画と呼べるのか...

この問いに対する賛否が論陣を2つに分けているのだろう。

さてこの問題に見られる様に、映画の形式とは映画の認識(定義)と大きく関わっている。

音楽を聴いている途中にCDが止まってしまったら、少なからぬ不快感が生ずるだろう。小説を読んでいてページが途中で破れていたら、失われた内容が気になることだろう。それと同様に映画も上映時間の内容全てが一個の作品として重要であり、1つのシーンを切り取ったり抜き去ったりして議論することは出来ない。

これは何故ならば映画とは是々の形式を持った芸術であると了解されているからだ。これまでに製作された全ての映画は映画史の中に位置づけられ、映画とはこの様なものである、という定義づけに貢献してきた。従ってそれに反して映画を認識することは出来ない。

具体的な例を用いて考えてみよう。めまいではオープニングのクレジットが終わった後、鉄の柵か何かの様なものが映る。これは何なのだろう、観客がそう考えているとそれを掴む手が表れる。そのまま下から人が体を起こし、カメラは後ろへ引いていく。我々が目にしたものは梯子の手摺だった訳だ。続けて警察官と、何やら探偵風の男が梯子を登ってくる。ここまでがワンカットで、次のカットで我々は3人が屋上を走り抜けていく様子を見る。

この2カットで逃走する犯罪者を警察官ともう1人が追いかけている場面なのだ、という物語が伝わる。これは一見当たり前のことだが、よく考えてみれば不思議なことだ。たった2つのカットだけで我々が逃走劇だと理解するのは(殆どの人間が警察との逃走劇など見たことすらないのにも関わらず)、何故なのか?端的に言ってそれは映画が物語を、映像によって伝える形式だと了解されているからだ。

ニュースやテレビ、現代ではYouTubeなども存在するではないか。映画の形式と映像の理解は別物である、と反論されるかも知れない。しかしニュースの映像を見て、我々は事実を理解しているに過ぎないのではないだろうか。ニュースの連続する2つのカットを見て、我々は両者の事実関係を理解することはあっても、そこに物語を生み出すことはない。

またその様な物語を理解するのではなく、我々は解釈しているだけだ。解釈は人それぞれで、2つのカットから理解される物語は形式とは無関係だ、という批判もあるかも知れない。確かに解釈は人それぞれだ。しかし本質的に我々は「物語を」解釈するのであって、解釈を持ち出すことは物語が存在することを否定することにはならない。

詰まり映画を見る上で、我々がある一様の仕方で物語を理解しているのは、即ち映画に形式があり、その形式(約束事)に従ってカメラが動いているからなのである。

認識、形式との比較

哲学は実に様々な問題を扱うが、その内の1つに認識の問題がある。我々はどの様に自己や世界を認識しているのか?そもそも認識するとは何か?

この極めて哲学的な問題は一見映画学とは無関係に見えるが(事実無関係だが)、映画の形式を理解する上で大きな助けになるものと信じている。よって少し遠回りをして、形式に関する理解を深めることとしたい。

今貴方の目の前に林檎があるとする。貴方はその林檎を見て、そしてそれは林檎であると認識する。この時認識において重要なのは、林檎ではなく貴方だ。何故なら林檎は単なる存在であり、意識の上で認識される為には貴方の思惟こそが大切だからである。

ボーヴォワールが『招かれた女』の中で語っていることではあるが、貴方の周囲に誰もいないとしたらどうだろう?今その林檎を目にしているのは貴方だけだ。言語として林檎という単語と、その示す所は理解されているが、目の前の正にその林檎は貴方が認識しなければ存在すらしない。

詰まり林檎が存在する為には貴方の精神の行為の方が大切なのである。林檎それぞれが持つ光沢や、色などの特徴に沿って理解する精神こそが肝要だ。しかしそうした特徴を読み取ることによって、林檎を1つの存在として貴方が理解しているのだとすれば、林檎が貴方の精神を動かしていると見ることも出来るだろう。

逆説的な言い方だが貴方が林檎を認識する時、貴方の精神が立ち現れているのだ。精神の中には林檎という事物だけでなく、その概念(言語)に付随する様々な発想、思い出も一緒に含まれている。林檎を見ればその味やツルツルとした皮の触感までも思い出されるだろう。

もうお分かりになっただろう。この時林檎を認識する貴方は、林檎によって動かされている。初めに貴方の精神の活動が林檎に先立つと述べたのにも関わらず、である。メビウスの輪の様に認識という問題を巡って我々は堂々巡りをしている。

映画の形式とは何か?この問いに正確に答えることは難しい。それは映画という媒体が概念として如何に定義づけられるか曖昧であるからだし、映画史の中で編集の技法というのは常に進化し、改革され続けてきた訳でもあるからだ。

ゴダールのジャンプカットや、バタフライエフェクトの様な物語は、映画が誕生した当初の観客は理解出来なかっただろうと推測する。何故なら当時は動くイメージ(画像)こそが映画であり、物語性は希薄だったからだ。そこから一方進行の単純な物語が生まれ、それが複雑化し、遂にはアベンジャーズの様な従来の映画形式を逸脱する作品まで生まれてきた。

しかし人々は映画(アベンジャーズ)を見て楽しんでいるのであって、形式よりも先に観客が存在し、映画を作ってきたとも言える。平たく言えば、観客が面白いと思えばそれは映画であるということだ。

我々が認識とは何か説明できなくとも認識するとはどういうことかよく知っている様に、映画とは何か説明できなくとも映画を見てそれを理解し、批評しているのである。

一方でサスペンス映画とは何だろう?アクション映画とは何か?これらは明確に説明出来る筈だ。これらのジャンルは飽くまで映画の1つのタイプであり、スタイルではない。その点で両者の違いは明確だと思う。

脱構築

最後の脱構築に関しては手短に済ませたい。

蓮實重彦氏とその崇拝者らを中心に脱構築等の用語を以て映画を批評する方々がいる。脱構築とは元々20世紀に流行した哲学の考え方の1つだが、一般的には「旧来の型を壊して新しく想像すること」位の意味合いで使われている様に感じる。

脱構築という言語が示唆している対象、例えば言語、は不変の対象だ。言語のシステムであったり、それに付随する文化というのはある一定の意味で変わることがない。しかしある言説をそれに付随する様々な表象を内包する多次元的な存在だと見れば、その解釈は単なる意味を追うだけではなく、幅広い領域にまで広がっていくことだろう。

この時の無数に広がる解釈を開く行為こそが脱構築だとすれば、真に大切なことはその先に何を読み取るかだとすぐに分かる筈だし、形式を予め持つことの意味も分かる筈だ。

脱構築という考え方自体を否定するつもりはないが、映画の場合元々の形式が曖昧であり、それを破壊するにはもっと慎重になるべきなのかなと思う。更に言えば広義の意味でも脱構築(革新)することに躍起になるよりも、スタイルを発見することに労を費やすべきだとも思う。結局内容に触れて議論することが感想だとすれば、形式に踏み込んだ議論をすることが批評や研究だと思うからだ。

Love Letter

これまで述べてきた映画の形式に関する内容は、鑑賞の際にどの様に役立つのであろうか?

Love Letterという映画は基本的に2人の女性が手紙をやり取りすることで物語が展開している。文学で言えば書簡体小説の様な形式だ。

従って2人の世界は手紙によってしか共有されず、藤井樹なる男が死んでしまった今交わることはない。印象的なショットとして中山美穂一人二役で演じる2人の女性が向き合うシーンがある。渡辺博子が「藤井さん」と声を掛けると、自転車に乗る藤井樹が止まって振り向く。この時周囲からは人が消え失せてしまっている。そうかと思うと大量の歩行者が現れ、2人の姿は覆い隠されてしまい、藤井樹はそのまま走り去る。このショットは数少ない2人が直接交わるショットだが、一瞬間視線を交わしたものの、直ぐに非存在として単なる歩行者の中に埋もれてしまう。

その後の物語は、基本的に手紙を読む2人を軸に展開し、我々鑑賞者の視点は手紙を読む側の視点として物語を追っていく。その中で父親が風邪をこじらせて亡くなっていることや、豊川悦司の実らない恋心などが語られていく。

適時挿入されるナレーションは非常に効果的で、2人の深まりきらない関係性を写すと共に手紙のやり取りをしているのだということを思い出させてくれる。詰まり形式がきちんと守られているということだ。

岩井俊二独特の、美しく幻想的なショットと共に映像表現的にも物語的にも形式が重視され、それにしっかりとキャラクターを掘り下げていく。渡辺博子は新たな愛を見つけ、人生を仕切り直し、藤井樹は何も知らないままに過ぎた淡い恋心を発見する。周囲の登場人物もよく描きこまれており、非常に良く出来た映画だと思う。

例えばウォールフラワーでは、同様に主人公が手紙を読むナレーションが挿入されるが(監督自身の書いた書簡体小説が原作らしい)、物語の進行と手紙の関係が希薄で、手紙を読む必要性を感じない。折角トラウマの告白という装置として手紙が存在するのに殆どそれが活用されないまま話が展開するのだ。これは形式と内容の不一致であり、Love Letterの方が優れていると言えるだろう。

形式は映画の理解そのものに関わり、従って映画の認識に関わるとするのであれば、内容が理解されるかどうかは形式がしっかりと存在するかに関わる。事実有名な雪山のシーンを見て我々が映画に対して満足感を覚えるのはそれまでの内容に説得力があるからであり、適切な形式で伝えられてきたからだと思う。

死んだ恋人に手紙を出したら返信が届いた、という発想の一点を除けばその後の展開は極めてありきたりだと気付くだろう。この作品でも賛否が分かれるのはその点もあるかも知れない。単なる見掛け倒しではないか、と。

しかし個人的にはそこに岩井俊二の天才があると思っている。ジャニーズやアイドルが出演するラブコメ映画と特別大きな差は物語的には存在しない。それでも両者が異なるのは形式なのであり、その大切さを読者の方々にも理解して頂ければ幸いだ。