知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

29 (Sat). June. 2024

直近の2週間、筆者はヨーロッパのとある国へと足を伸ばしていました。普段はイギリスで学生生活を送っている私ですが、書類選考、面接を経て映画製作キャンプ(日本に存在するか存じませんが欧米では類似のプログラムは多数存在します)のメンバーとして選出されていた為で、沢山の荷物をスーツケースに詰め込んで、名前も聞いたことのない小さなヨーロッパの田舎町に向かったのです。

今回はその映画キャンプで起きた一連の出来事を報告していきたいと思っているのですが、諸々の事情により日付、具体的な地名、団体の名前など個人の特定につながる一切の情報は伏せさせて頂くことをご了承ください。その事情についても読み進めるに連れて理解して頂けることかと思っています。また以下の文章が「正確な」ルポルタージュではないということも一言断っておきたいと思います。それは何も嘘が書かれているということではありませんが、事態の裏取りを行い、正確な証拠に基づいて客観的に事実だと認められたことを書いている訳ではないということです。以下の文章は飽くまで私の主観、私がこのように感じた、という事実の殴り書きであって、認識のずれなどが含まれている可能性は否定出来ないということですね。こう記しておく必要性も次第に明らかになっていくでしょう。

Esther Garrel in Lover for a Day (2017)

さて、まずは私が参加したプログラムがどの様なものだったのか、という所から始めていきましょう。

私はこのプログラムについて、学部から送られてきたメールによって存在を知りました。既に述べた通り私はイギリスの大学で映画学部の学部生として普段は生活しているのですが、キャリア関連のニュースなど度々送られてくるメールの中の1つに今回のプログラムの紹介があったのです。メールの中にはプログラムの日程、場所、費用等の概要が応募方法と合わせて簡単に示されており、また過去のエディションの紹介などが含まれたpdf資料も添付されていました。そこで説明されていたプログラムの内容はどれも魅力的なもので、また実績欄では過去にプログラム内で製作された映画がどの様な注目を集めたか、例えば著名な映画祭での受賞結果などが紹介されており、非常にハイレベルな映画製作の経験が出来るのであろうと予感させるものでした。2週間という期間を考えると要求されている金額も非常に合理的である様に思われ、また後述しますが私のプロデューサーという立場の難しさもあり、殆ど即決で私は参加を決断、応募へと進んでいきます。

これは現地に着いてから判明したことですが、参加者の中には私と同様に大学からのアナウンスで認知、参加を決めた学生が多くおり、またその他にも国立の映画団体や映像系の会社、延いては日本でいう文科省的な機関からの公認を受けて参加している人物などもあって、そういった意味でこのプログラムを主催した団体は、一定以上の地位にある、「プロフェッショナルな」機関だとみなして結構だ、ということを一言述べておきます。何か眉唾ものの団体に私が紛れ込んでしまった、という話ではこれは決してありませんし、少なくともオン・ペーパー、書類上ではこのプログラムは非常に高いレベルにあって、直接映画祭などの実績とは結びつかなくとも将来のキャリア形成に非常に有益なものである様に見えました。私も含め、殆どの参加者は30歳以下、業界での実績が殆どない、若く、けれども意欲に溢れたfilmmaker(映画製作者)たちであり、皆が相当の期待と夢を持って参加していました。

 

この点を押さえた上で、より具体的なプログラムの中身に踏み込んでいきましょう。と言ってもフレームワークとして決まっていたのは最初の2日間だけで、この期間に設けられた幾つかのアクティヴィティを消費して交流を深めた後の時間はすべて映画製作に充てられました。私たちは非常に多様な集団で、それは職能という観点からは映画監督、撮影監督、音響技師、役者、プロデューサー、編集者、ダンサー、メイクアップ・アーティスト、更には映画学教授など種々のバックグラウンドを持つ人物が集まっており、また国籍という観点からもヨーロッパ、アフリカ、南米など(詳しく紹介することは出来ませんが)世界中の様々な地域と国から選出された集団でした。これは非常に大きな才能のプールだったと言って良いと思われ、また単に才能があっただけでなくそれぞれが極めて前向きで、かつスマートな人物でもありました。

このことは実際に製作された映画を見れば一目瞭然で、最終的に何本の映画が製作されたのは不明ではありますが(この理由は直ぐに明らかになります)、10日間という製作期間の中で大凡30本のショート・フィルムが、フィクション、ドキュメンタリー、実験、モキュメンタリー、mvなど多様なフォーマットで製作されました。私は最終的に6本のプロジェクトに参加し、監督/脚本1本、プロデューシング3本、撮影1本、音響1本といった形でしたが、この様に全員が3本〜5本程度のプロジェクトを掛け持ちしてお互いに助け合いながら製作に励み、また機材を貸し借りするなど映画に携わる1人の人間としてこれ以上ない心地の良い環境だったと言って良いと思います。

 

純粋に映画製作という観点だけにフォーカスした時に私は今回の体験を非常にポジティヴなものだったと捉えており、多くの才能ある人物に囲まれて刺激的な経験をすることが出来たと考えています。やや脱線してしまいますが、個人の話として私は監督をしたこともありますし、脚本を書くことも大好きです。撮影監督の経験もありますね。しかし私にとってそれらはどれも本職とは呼び難く、やはり自分の本分はプロデュース業にあると個人的には考えています。しかし学生映画、インディー映画の難しい部分としてプロデューサーというのは必要とされないケースが多く、というのもスタッフの大部分が口約束で監督の下に集まった友人集団という場合が殆どですから、スケジュールに関しても等閑に済ませてしまうということが多いのですね。ですから機材の手配、スケジューリング、場所の確保、タイム・キーピングなど本当の意味でプロデュースが出来る機会というのは非常に少なく(この為に多くの人がプロデューサーを雑用業だと勘違いしているのです)、自分の才能が存分に活かせる機会に恵まれたという意味で私はこのプログラムに非常に満足していました。

またプロデューシングという部分の他にも多くの有意義な経験が出来たと考えており、多くのミーティング、ロケハン、テスト・シュート、リハーサル、役者のオーディション、実際の撮影、フォーリー・レコーディングなどをこなして予定が詰まっている中でも私たちは積極的に集まって時間を過ごし、例えば一緒にご飯を食べたり、或いはバーに集まったりと濃密な時間を過ごすことが出来ました。これは such a bonding moment、絆が深まる瞬間だったなと感じています。

 

しかしながらこれらの美しい時間を台無しにしてしまう様な、そういった出来事が起こってしまったのも事実です。2週目の中頃の朝、11時頃のことだったと思います。1人の女性参加者から私は声を掛けられました。曰くその日の朝に女性参加者全員(20人以上)でミーティングを設けたのだが、そこで一致したこととして彼女たちは皆プログラムを主催する団体の代表者、仮にXとしておきますが、そのXからセクシュアル・ハラスメントを受けていること、そしてその問題が最早彼女たちの手に負えないレベルにまで達していること、そう言った話を私は聞きました。

時系列的に整理しましょう。事態が発覚したのは概ね一週目の後半近くのことだったそうで、この時点で女性参加者のうち殆どが何らかの形のメッセージをXから受け取ります(メッセージの内容について私は直接知りませんし、どの様なものだったか聞いてもいません。つまり法的手続きの観点から考えて明確な裏どりがない訳ですが、私はそれが実際に送信されたと信じていますし、その前提で話を進めます)。これに対して女性たちは全員noと答えており、またこの時点で女性陣の間でお互いに連携する様な動きが起こっていました。しかしながら2週目に入ったある夜のこと、これは時系列で私が先ほどの女性から声を掛けられる前夜のことで、この夜私たちはほぼ全員でバーに集まってお酒を飲む等楽しんでいたのですが、この場にXが現れ女性1人1人とコンタクトを持とうとします。具体的にはメッセージを送信した後女性たちの態度が変化したことにXが気付き、そのことに対して説明を要求していたとのことです。ここでXが声を掛ける姿は私も実際に目撃しており、話の内容が聞こえなかったこと、またこの時点でメッセージの存在を知らなかったこともあって、特別気に留めてはいませんでした。けれども今にして思うとグループの中に微妙な隔たりの様な、苦い、複雑な感情が流れていたことは何となく感じられ、その所為もあってか完全に楽しい夜というには程遠く、そうした空気も感じて私は比較的早く1時頃にバーを後にしました。

翌朝早く、つまり私が1人の女性からコンタクトを受けるその日の朝のことですが、彼女はXからメッセージを受け取ります。それは彼女は諸事情でプログラムを終了より1日早く後にせざるを得なかったのですが、そのことを口実にXは彼女の製作した映画を最終日のスクリーニング等で一切上映しない旨が記されたメッセージでした。彼女の個人的な事情についてはプログラムに参加する前に彼女は説明をし、特に問題がないと伝えられていた(少なくともはっきりと上映禁止の措置などは伝えられていなかった)にも関わらずです。また同様のタイミングで1人の男性が何らかの形でハラスメントを知るに至り(この詳しい経緯について私は詮索していないので知り得ませんが)、抗議をしたところ彼の映画もまた同様に上映禁止の決定が下されます。

この措置に関して、彼女もまたXから前日の夜にバーで声を掛けられていたそうなのですが、改めてはっきりとnoと答え、また詳しい説明を求める彼に対して自分がアルコールを摂取しており、安全と感じられる状況でないことを理由に断っており(当然の対応だと思います)、それを踏まえてその朝にXから送られてきたメッセージはそれに対する彼の個人的な報復であると彼女は感じたと私に伝えてくれました。実際のメッセージであったり、正確にどの様なやり取りがあったのか私は詮索しませんでしたが、基本的には私もこの点では同意をしています。つまりXは彼の代表としての立場を利用してハラスメントに及んだ挙句、彼の目的が拒否されたことに対してabusive、悪質になり、自身の立場を悪用して個人的な報復と、弾圧を試みたのだ、という風に私は彼女と理解を共有しています。

その朝に行われた女性陣でのミーティングでもこの点に関して認識の共有が図られ、またその過程で如何なるハラスメントが付随していたか、他の団体のメンバーたちの責任の有無などが議論されました。総意として女性たちの全員が何らかの形でハラスメントを受けていると感じたことが確認され、またそういった状況から彼女たちを守るシステムがないまま上映禁止の措置を受けるなど、その時点で極めて彼女たちが危険な状況にいるということについても意見が一致したということです。セクシュアル・ハラスメントという形で発生した問題はより規模の大きく、醜悪な問題へと変化しつつあり、それを受けてミーティングで男性陣にアプローチをし、協力を打診することが合意されました。

 

この合意に基づいて彼女はその日の朝に私に声を掛けてきた、ということですね。そもそもの問題としてハラスメントが発生した、という事態が許されないものですし、加えてプログラムの代表という本来であればハラスメントが発生しないことを保証し、参加者全員のcomfortability、快適さを担保するべき人物によってこの様な行為が行われたことに私は非常な憤りを覚えました。また彼の不当な私怨によって才能あるfilmmakerたちの仕事が邪魔をされ、そして美しい映画作品たちが冒涜されているという点にも非常な憤りを覚えました。と、同時に一連の説明を受けるまで一切の事態に気付かず、何らのアクション及びケアを施すことが出来なかった自分に対して苛立ちを感じたということもありました。その朝には多くの女性たちが何らかの形で責任を感じていたり、感情的になるなどして涙を流している姿を私は目撃しており、これらの全てが私たちに重くのしかかって最初に感じていた映画製作の喜び、将来へ向けた夢や期待というものはすっかり消え去っていたと言って良いでしょう。

彼女から説明を受けてすぐ私は協力を申し出ます。具体的には彼女たちが計画しているstatement、文書の発表に名前を連ねること、私が監督/脚本を担当した映画について団体に提出するのを拒否すること、その後に予定されていた団体との如何なるアクティヴィティについてもボイコットすること、このことを私は申し出ました。これはすぐに大きな動きとなって参加者の大多数が参加するに至り、結果として30本ほどの映画が製作されたことかと思いますが、その殆どが団体には提出されませんでした(これが前述の総数を把握するのが難しい理由です)。例外として幾つかの映画は団体へと手渡され、というのも全ての参加者がこの決断に同意していた訳ではないこと、そしてより大きな理由として幾つかの映画は地元の役者や(ロケーションなど)個人の協力を受けて製作されており、また地元の様子を収めたドキュメンタリーなどもあって、これらを公開しないのは筋が違うだろうと考えられた為です。飽くまで責任は団体にあるのであって、私たちはプログラムをホストしてくれたその土地の全ての人々には感謝しているのであるから、彼らが協力してくれた映画についても公開しないのは誤りである様に感じられのですね。ボイコットという決断に賛同しなかった面々もこの点を強調しており、彼らとしてもハラスメントに憤りは覚えつつも職務として公開するべきだ、という意見を持っていました。この点について私は完璧にリスペクトしています。

しかしながら私個人としてはXが犯した罪、そして団体の他のメンバーが彼を野放しにした責任は非常に大きいと感じており、多くの精神的ダメージを受けたこと、そして何よりXが下した上映禁止という決定は根本的な対話を拒み我々の権利を冒涜するものであったと感じており、その上で映画を提出することは彼のabusiveな権利の濫用に屈することであるのではないかという風に感じられていました。自分の決断が絶対に正しいものであったというつもりはありませんし、可能であれば他の道を模索するべきであっただろうということについても同意します。ただ当時の私の考えとしては上に述べた様なもので、そして当時私に出来ることとしてこれ以上はなかったのではないだろうか、というのが今の率直な気持ちですね。

 

さて、最終日私たちは全てのアクティヴィティをボイコットした訳で、時間を持て余していました。特別の予定もなく私たちは純粋にヴァケーションを楽しみ、とは言っても本来ならこのプログラムはもっと良い体験になる筈だったという気持ちも拭えず、しかしやれる事はやったんだという達成感も持って、複雑な気持ちを私含めて皆口にしていたのを覚えています。

そして夜、本来であれば地元の人たちを含めて盛大な上映会が行われる筈でしたが、(幾つかの映画の上映を除いて)それも私たちはボイコットします。上映開始時間の30分ほど前に会場に集まり、特に地元民への説明の為、そしてXをはじめとする団体の圧力に声を上げるのだ、という姿勢の表明として準備していたstatementを読み上げ、そして私たちは会場を後にしました。それで皆が納得した訳ではありませんし、やり切れない感情が溢れて涙を流す人物もいました。しかしこれでプログラムの幕引き、これ以上に私たちに出来ることはないだろう、ということでそれぞれが自分を納得させようとしていたのです。

 

 

 

(以下閲覧注意です)

 

 

 

私もこの時点でプログラムは全て終わった、明日の朝には飛行機に乗ってイギリスまで帰るんだ、とそう思っていました。

その夜上映会場を後にした私たちは、ある人物の提案でアパートに集まって提出しなかった分の映画を流す非公式の上映会を行うことにします。これに関して本当に素晴らしいアイディアだと思いましたが、ただこの時点で気持ちに整理を付けられていなかった私は少し1人になりたいと思い、公式の上映会場の方へと何気なく足を伸ばします。夜の9時半頃のことだったでしょうか。そこでは地元の子役を起用した1本の映画が上映されており、また役者として1人の女性が笑顔で演技をしていました。その女性というのが先に述べた彼女、私に事態を説明してくれた例の彼女だったのですね。

彼女は本当に才能のある、プロフェッショナルな役者です。舞台の裏で当事者としてこれだけの苦難を経験しながらスクリーンの上では何事もなかったかの様に、まるで全てが起こる前、初日に私が彼女と挨拶した時と同じ様に演技をして笑顔を見せている訳です。この彼女の姿を見て私は猛烈な自責の念に駆られました。そしてそれは彼女に対してだけではなく、この後私は苦い気持ちを引きずって自主上映会場に顔を見せるのですが、そこでも役者の女性たちが素晴らしい演技をしている様子を目撃します。役者だけではありません。女性だけでもありません。撮影、音響、監督、全てが本当に優れていて、しかもそれらの全てがこの一連の苦難の上にまるでそんなものは存在しなかったかの様に作られているのです。これらの全てを見て私は居ても立っても居られない気持ちになりました。

 

プロデューサーの役目というのは本当に色々ありますが、それらを一言でまとめるとするならば「クリエイター達が快適に仕事が出来る様に場を整える」というものです。少なくとも私が経験したことのある規模の製作ではこの様なものです。彼らが事務事項で頭を悩ませることがない様にスケジュールを立てたり、許可を取ったり、時には片付けをしてあげたり、ログを取ったりする訳ですね。

そして事実としてこのプログラムの製作環境は快適とは程遠いものになってしまった。勿論私に出来る範囲での努力はしたつもりですし、私が参加したプロジェクトには最大限の責任感で取り組んだと思っています。しかし私にはどう仕様も出来ない部分でストレス要因(X)があって、私たちはそれと闘いながら映画を作っている、私はその様に考えていました。ですから私はXに憤りを覚えていた訳ですし、彼を糾弾した訳です。しかしながら上映されている映画を見て彼らの苦労はそんな生半可なものではなかったと、彼女達の仕事はより一層険しいものだったと私は突きつけられた様な気がしたのです。何故なら観客は舞台裏のあれやこれやなど知る由もなく、スクリーンの上では彼女達は何事も起こっていないかの様に仕事をしなければならない。これがどれ程に辛く、苦しいことであるか、私は充分に理解していなかったのではないかと感じました。もし私がより彼ら、彼女たちの仕事に気を配っていれば、もう幾らかでも彼らのストレスを軽減出来たのではないか。皆がXなど存在しないかの様にして仕事をしている中、私だけは彼を批判して、それで善をなしたつもりになっていたのです。

 

こうした思考が真っ当なものであるかどうか私には判断が付きません。ただ事実として上映されている映画がトリガーとなって私はこの様に感じ、一連の出来事に対して非常な責任を感じました。

居た堪れない気持ちで私は再び会場を後にし、1人で気持ちを落ち着けようとします。30分ほど歩いた所でしょうか。道すがらのバーでビールを一瓶買って、それから私は喫煙者ですから煙草のパケットを片手に、人もおらず、灯りもない、落ち着いた場所に向かいました(公園とか、川の堤防沿いとかそういった場所を想像して下さい)。感傷に浸るというのでしょうか、そういったことがしたかったのです。その場所で私は半刻ほど1人で時間を過ごすのですが、けれどもいつまで経っても気持ちが収まらないのですね。罪悪感で自分を責める様なことばかりを考えていたと思います。気が付くと動悸が早くなっているのを感じ、それから呼吸が荒くなるのを感じました。呼吸の乱れを感じた頃には既に自分で自分をコントロールすることが不可能になっており、意識の上では普段通りに呼吸をしていたつもり、延いては深呼吸をして落ち着けようと試みているのですが、掠れた様な音が聞こえ、それから肺がいっぱいに収縮しているのがありありと感じられます。フルマラソンを走り切った後とか、バスケットボールでクウォーターをフル出場した後とか、それくらいの呼吸の乱れです。

こうした異常を感じて私は次第にパニックに陥った、のだと思います。それを感じられるほど冷静な思考を最早私は持ち合わせていませんでした。とにかく考えていたことは何かがおかしいということ、自分で呼吸をコントロール出来ていないこと、それから同時にやっぱり今回の出来事は自分に責任があるのではないかという声も自分の中で聞こえていました。手足、特にこの時点では顕著に手先が熱くなるのを感じ、それを触れようと自分の手を伸ばすのですが、上手く自分の体を感じることが出来ません。例えば右手を左手に伸ばすのですが、そのどちらもが異常なほどに震え、否、痙攣と言って良かったと思います。手足が痙攣し、そしてガチガチに固くなっていました。正確には分かりませんが、恐らく過呼吸のまま長い時間過ごしたことで体が緊張し、その緊張が末端に集中して痙攣になっていたのでしょう。手先を抑えたり、或いは胸元、首筋に手を伸ばして震えを抑えようとするのですが、一層ひどくなるばかりで、また併せて呼吸もどんどん荒くなっていきます。

この時点で携帯を確認したところ11時過ぎでした。ですから1人で過ごしていた時間は大体30分少しだったと思います。その30分の間に私は発作を起こし、そして悪化させてしまった訳ですね。この時の思考としては既に述べた通りの罪悪感、それから荷物一切を自主上映会の会場に残していましたのでそれらを回収しなければという考え、そしてその為には友達の皆の前を通らなければならないのですが、彼らの最終日を台無しにしてはいけない、1人で切り抜けなければならない、というそういった思いです。しかしながら呼吸はどれだけ待っても荒いままですし、手足の痙攣は酷くなるばかりです。足先は緊張した結果、所謂「攣った」時の様になっており、だんだんと感覚が無くなってきていました。自分の体に何が起こっているのかさっぱり分かりませんでしたが、正常ではないこと、苦しいこと、このまま過ごしていても良くならなそうだ、ということをぼんやりと感じ、従って私はなるべく静かに会場まで行って荷物を取り、自分のアパートまで戻ってベッドに横にならなければならない、と結論します。

 

そうして私は皆が集まっている自主上映会会場に戻るのですが、この時点で友人曰く「本当に死ぬんじゃないかと思う様な」見た目をしていたそうです。恐らく乱れた呼吸の音だったり、手足の震えだったりを見て何かがおかしいと気付いてくれた友人達が私を抱き締めて無理やり静止させてくれ(本当に感謝しています)、この時点で精神的にも肉体的にも限界だった私は道端に崩れ落ちた、のだと思います。正確なことは分かりません。意識はあった筈なのですが殆ど記憶はなく、次に気がついた時には道路に横たわっていて、大勢いた友人達は移動して静かな空間を作ってくれており、そして6人ほどの友人が私の手や肩をさすったり、一生懸命に声をかけて落ち着かせようとしてくれていました。きっと瞳孔が開いてしまっていた為でしょう、視界がぼやけて焦点が定まらず、引きつけの様に乱暴な呼吸を繰り返していた所為で口に力が入らず(または入りすぎて)声を出すことが出来ません。手足の痙攣も相変わらずで、この時点で気が付いた時にはすっかり感覚がありませんでした。そう言った状態で1時間超を過ごし、段々と意識がはっきりし、呼吸も落ち着いて感覚も戻ってきたところで、友人の1人が携帯していた睡眠薬/抗うつ剤を飲ませてくれます。これで大分落ち着いた私はようやく話せる様にもなり、一連の思考、罪悪感云々といった部分ですね、どうして発作に至ったのかを泣きじゃくりながら説明し、皆が慰めてくれ、すっかり電池が切れた私は、泣きながらアパートまで運ばれ、睡眠薬を飲んでその晩は眠りにつきました。これが大体深夜の2時半頃のことでしたから、結果として私は3時間以上発作で苦しんでいたことになります。

私は全く知識もなく名前を聞いたことすらもなかったのですが、介抱してくれた友人曰く私が経験したものはpanic-attack、或いはanxiety-attackというそうです。或いはその両方だったのかも知れません。彼女自身も以前に経験したことがあるそうで本当に親身になってくれ、助けになってくれたのですが、私が人生で経験した出来事の中でも最も恐ろしい、本当に死を感じる様な、そんな出来事でした(実際に死に至ることは稀だそうですが)。すっかり精神的に参ってしまった私はフライトや電車も全てキャンセル、というよりかは睡眠薬の効果で意識がはっきりとせずにやむなくキャンセル、たまたまその国に止まってヴァカンスをする予定だった友人の1人が同行することを勧めてくれます。言わば静養旅行の様なものですね。ホテルから何から探してくれ、付きっきりで弱った私の側に居てくれ、どうにか私も正気を取り戻すことが出来ました。

 

今回こうした一連の経験を通して、記事にしようと思い立った理由が2つあります。

1つはpanic-attackについて。これは本当に死を感じる様な、恐ろしい経験でした。どうやら欧米では一定程度周知されている現象な様ですが、私は自分で実際に発症するまで一切聞いたこともなく、またこれ程辛いものだと考えてみてもいませんでした。それは精神疾患の類を軽視していたということでは決してなく、逆に私が想定していた何十倍も辛く、死に近い出来事だったということです。私は2週間の濃密な経験、そして極めてストレスフルな環境の末に今回発症に至った訳ですが、きっとストレスに対するキャパシティというのは人によっても異なるでしょう。また要因というのも様々ある筈です。

もし今回私が恵まれた友人達に囲まれていなかったらどうなっていたか、というのは想像するだけでも恐ろしいものがありますし、本当に自分の身にどんな恐ろしいことが起こっていたのか分かりません。panick-attack、anxiety-attack、結局どちらだったのか今となっては分かりませんが、そういった事例があること、そして友人がそれを発症していたのであればその友人は確実に助けを求めているということ、この点はよく認知されて欲しいところだと思います。よく発作について理解している友人達に囲まれて、そしてその後のケアまでしっかりと行ってくれた友人の存在は私にとって非常に大きく、彼らの様な存在が発症者にとっては欠かせないものなのです。

 

そして2つ目は映画製作のリアルについて。今回セクシュアル・ハラスメントという問題に直面し、こうした醜悪な出来事は映画界に実際に存在する問題なのだ、ということ。この事実について伝えていきたいという思いも勿論あります。

しかしそれ以上に私が感じたのは製作のシステム上こういった問題を回避することが出来ないというやるせなさ、そしてそのやるせなさこそが映画界のリアルであるという厳しい現実、この2点となります。プロデューサーとしてどれだけ気を配っていても、集まったfilmmakerがどれほど才能のある人物であってもその上に立つ機関、今回で言えばプログラムの主催団体ですが、に問題があった時に我々に出来ることというのは非常に限られてしまっています。実際の映画製作の現場でも例えばどれだけスタッフが優れていても監督に問題があった場合、プロデューサーに問題があった場合、スタジオの役員に問題があった場合、スポンサーに問題があった場合、この様に上へ上へと辿っていくにつれて個人が出来ることというのは限られていくのですね。

そして問題が外部化するにつれ末端で働く才能のあるfilmmakerたちがどれだけ優れた人物で一生懸命に仕事をしていても、搾取、或いはハラスメントからは逃れられないというのが現実になります。私たちは今回出来る精一杯の対応を皆で団結して試みた訳ですが、それでも実際問題として製作の現場が快適なものになることはなかったのであり、これは殆どなす術がありませんでした。確かに今回の事件の責任はXにあります。しかしながら大きな問題として、映画を作ろうと思った時に私たちfilmmakerが団体の「下で」集められて働かなければならない、という構造が存在し、その構造が存在する限りこの様な問題を抹消することは殆ど不可能である様に思います。或いはハラスメントがなかったとしても予算であったり、人間関係であったり、filmmakerの側、例えばいちプロデューサーの努力では如何ともしがたい構造的なやるせなさというのが潜んでいるのです。

このことに対してどの様に対処していくべきか。このことについて今の私は答えを持っていません。究極的な解決には根本から産業構造を改革していくしかないでしょう。私個人としては今回の件を受けてプロデューサーになりたい、才能あるfilmmaker達が泣きながら作業する様なそんな現場を自分が生み出さない様にしたい、そういう思いを強く持ちました。将来のキャリアについても意思を1つ固めた様にも感じます。しかしながら私がプロデューサーであったところでやはり根本的な解決をもたらすことは不可能で、結局は常に上部組織、外部組織からの弾圧になす術がないという部分は変わっていません。このことに関して映画界が今後どの様な方向性を向いていくべきなのか、同じ映画というこの素晴らしい芸術を愛する仲間として考えを促すことが出来れば1つ私と私たちの辛い経験にも意味が生まれるのではないか、そういった気がしています。