知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】主題が持つ二重性、反自覚的なテーマ/ざわざわ下北沢(2000)

8 (Fri). July. 2022

以前現代的な脚本では理性によって導かれた主題を前面に打ち出している点に特徴がある、と述べた記事を書いた。その内容自体は実際に公開された映画に対して適応出来る考え方であって、著しい誤謬は無いと考えているのだが、ある見方からは大変紛らわしい表現となってしまっている事実を認識した。

sailcinephile.hatenablog.com

というのも全ての映画に主題は存在しているのである。主題を持たない脚本というのは存在せず、我々観客は脚本の中に必ず何らかの中心点を見出しているのである。先の記事で主題と述べた所の意味はこうした自然と立ち現れるものではなく、作者が自覚的に設定し、且つそれが脚本を書く際の出発点となっている様なものを指していたのだが、この点に関して一層明確にする必要があると感じた。ということで本日は主題の二重性、反自覚的或いは二次的な主題について解説しようと思う。

取り上げる映画は市川準監督のざわざわ下北沢。2000年にフィルムで撮影された映画で、誤解を恐れずに言えばミニシアターに通い詰めるサブカルオタクが愛する映画である。ゆったりとした時間が流れる下北沢の街を群像劇風に映し出し、95分の上映時間が過ぎた頃には多幸感でいっぱいになる様な、そんな作品だ。TITANE/チタンとはまるで違うその映画の作りを感じながら、主題の意味と機能について考えて頂きたい。

北川智子、りりィ and 原田芳雄 in The Whispered City (2000)

主題が持つ二重の機能

先日の記事では「脚本執筆の際には主題の設定は極めて大事な項目なのだが、それは事項、具体的には登場人物や生物などを生き生きと動かす為に必要とされる」と書いた。これは脚本家が事前に主題を設定し、それを登場人物に反映させることで(ヴィジョンを持たせる)劇中の対立を表現し易くなるからである。

明快な例はオリバー・ストーンプラトーンに求められるのだが、戦争、具体的にはベトナム戦争下で自国と何より自身の勝利の為に機械的に任務を遂行するトム・ベレンジャーは戦地でも人道を忘れないウィレム・デフォーに対置される。両者の対立は主題、即ちベトナム戦争とそこで問題提起されたヒューマニズムから出発し、その両面を2人の人物に割り当てたと考えることが出来るのではないだろうか?観客はチャーリー・シーンの目から戦争を目撃し、その功罪を見ることで主題について認識を深めるのである。

この様に登場人物を設定し、彼らの関係を規定する主題がTITANE/チタンで言う所の怒りであり、BIRDS OF PREY で言う所のフェミニズムなのだが、必ずしも全ての映画がこうした深刻なテーマを孕んでいる訳ではないだろう。ストレンジャー・ザン・パラダイス博士と彼女のセオリーメリーに首ったけ....こうした映画は先程述べた意味での「主題」とは無縁である。

ガイ・リッチースナッチは円環構造でダイヤが行き来する様を通じて人間の欲望をシニカルに描写し、その詮の無さを描き出している。」

こんな解説はとてもまともに受け止められたものではないし、単に肥大した知識を持て余して知った風を装っているだけのことだ。スナッチは単なるコメディで、観客を楽しませ笑わせる映画なのである。

それではこれが主題を持たないのかと言うと矢張りそれは間違いだ。博士と彼女のセオリーでは愛と献身、メリーに首ったけでは積年の片思いという主題がある。これは登場人物を対立させることも、観客の思考を喚起することもなく、ただ物語を成立させることにのみ機能しているに過ぎない。仮にフェリシティ・ジョーンズが早々にエディ・レッドメインに見切りをつけ結婚もしない様な女であればこの物語は成立しないし、ベン・スティーラーが有能で容姿端麗、キャメロン・ディアスもさっさと忘れてしまえば、矢張りこの物語も成立し得ない。

従って主題には2つの機能があると言える。1つは物語の核となり、それを成立せしめる働き。この働きをする主題がなければ脚本は成立しないし、仮にこの主題が存在しない場合には前衛的だとか難解、或いは単に退屈と言われることになるだろう。もう1つの機能は先に見た通り深層で観客に訴えかけ、登場人物を支配する所の働きであり、名作と絶賛される作品にはこの意味での主題が盛り込まれていることが多い。それは普遍的な共感力を作品が獲得する為であるが、一方で主題の扱い方を間違えたり極端な解釈が行われている場合には議論を呼んだり、酷評される原因にもなる。

以上が二重の機能に対する簡単な解説であるが、既に了解されている様に実際の所両者ははっきり区別されるものでもなく、又複雑に影響し合っている。

4分33秒

これら2つの主題が混同され、取り違えられる原因は1952年に発表された4分33秒という楽曲に求められると思う。言わずと知れたジョン・ケージの楽曲である。

現代アートの研究を読めば「デュシャン....ベケット.....ケージ.....」と繰り返している。彼らが生まれて1世紀近くの時間が経過しているのにも関わらず、である。芸術家の名前よりも多く登場する位頻発して見られる名前であり、これにウォーホールを加えれば殆どの論考は読む所がなくなると言っても良い(それは流石に誇張であるけれども)。ポップ・アートを経て登場した現代アートレディメイド(既製品)で以て自己を破壊し、よりコンセプチュアルで簡素・思弁的に発展した経過を解説する上で欠かせない三人がマルセル・デュシャン、サミュエル・ベケット、そしてジョン・ケージなのだ。

中でもジョン・ケージは単にアートの区別をなくしたというだけではなく、観客の意識を直接観念にぶつけさせたという意味で重要だと筆者は考える。泉は一応実体としての作品があり、観客はその性格について議論することが出来た。ゴドーも勝負の終わりも演劇として見せるものがあった。どちらも観念なしには作品を議論することは出来ないけれども作品自体は存在していた。

ジョン・ケージは先達の思想を更に追求し、4分33秒に於いて演奏することを止めた。これが「楽曲」として存在することを考えれば作品そのものが完全に破壊されてしまったという事実が分かるだろう。作品自体の性格を変化させるのではなく、作品そのものを無にしてしまうことで観客が思惟なしで鑑賞することを不可能にしてしまったのだ。この点で筆者はジョン・ケージデュシャンベケットとは異なると考えている。

ともかくこの4分33秒を境に現代アートは完全に自由になった。自由になったと言えば聞こえが良いが、それは詰まり何を作ってもアートになったと言うことだ。最早作品を規定する上で美学や形態、技術などを用いることは不可能になり、全てを、例え作品としての形が何もなくともアートとして扱うことになった。この辺りの事情はアーサー・ダントの著作に詳しい。

さて映画の話である。4分33秒は確実に映画界にも影響を及ぼしており(正確には映画を鑑賞する観客と批評家に影響を与えている)、我々は観念を準備した上で映画を見る様になった。我々は車とセックスする女性を見て「機械文明」というキーワードを持ち出さずにはいられないし、比喩としての透明人間に対して「他者化」とか「セグリゲーション」について考えない訳にはいかない。要は観念の介入を受けず、純粋に作品からのみ考察を深めるという見方が難しくなっているのである。

勿論観念は思考の過程で絶対に必要なものだ。しかし絵画の伝統ではアトリビュートや構成について分析することから出発していたのに対し、現代アートは初めから観念に依る分析を試みる。映画でも同様に作品内の対象を直接考察することは難しくなっており、言わば自動的に抽象化の作業が行われてしまっている。それ故に主題というものの機能が曖昧になっているのではないか?これが筆者の推論である。

ざわざわ下北沢

本映画は明らかにそうした観念に依る抽象化とは無縁の作品である。どれだけ必死に作品を読み込んだ所で如何なる難解な主題を発見することは出来ず、あるのはただ街と人が紡ぐ人間模様だけである。そしてそこには「汗臭さ」、詰まり生活感や生命力の類を感じることも出来ない。恐らく家の中でも最も個人的で人間模様の浮き出る台所に注目しているにも関わらず、吉本ばななの文章には醜悪さが全くない。こう言ったのは村上龍だったが、丁度その『キッチン』の様な清潔感が漂っているのである。

恋人の証をフリーマーケットで売る広末涼子からは涙とか鬱屈した感情を感じることは出来ないし、何となく仕事を辞め突如現れた元彼を殴りに行く(「話あった」らしいが)小澤征悦も不思議と「汗臭さ」はない。どこか割り切ってさっぱりしている様な風もあり、彼に限らず登場人物全員が浮遊感のある、どこか現実離れした空気を漂わせている。

こうした脚本に於いて観念としての主題を発見することは困難だろうし、監督もそれを望んでいないだろう。我々が知覚することの出来るのは下北沢という街の喧騒と、その中で展開する人間模様だけである。だから物語の核として「下北沢」という主題は存在するが、TITANE/チタンが提示する様な主題はここには見られない。その意味で映画脚本の中で主題の機能が如何なるものかを明らかにする際の貴重な比較例となると思う。

筆者自身が2000年頃の下北沢を訪れたこともなく(抑も生まれてすらいなかった)、実際に街の雰囲気を知らない身分であるから何かこれ以上の解説をすることも難しいのだが、1つだけ付言するとナレーションには気を使った方が良いだろうと思う。ナレーションがなければ正直成立しない様な物語なのだが、監督の市川準はそのバランスを上手に取っているだけでなく陳腐になることも防いでいる。

特に直近の日本映画界には是枝裕和という御仁がいるだけに澄んだ画作りで、サラサラとした物語を展開する作品が多いのだが、これは一歩間違えると陳腐で「イタイ」映画になってしまう。劇中で出てくる詩など危険な綱渡りをしている様にも見えるのだが、作品全体を見終わった時に不思議と綺麗な映画だったと思うのは素晴らしいナレーションによる所が大きいと思う。

近年の理論で固められた映画も面白いのだが(そして筆者はそうした映画に親和性を覚えるが)、こうした主題なき映画、情動のみを抽出する様な映画も見どころが多いと思う。これまで取り上げた映画の中では20センチュリー・ウーマンが最も近しいかとは思うが、あの映画も社会情勢を踏まえた複雑な引用に満ち満ちていた。その辺りの比較も踏まえて見て頂ければ面白い映画だと思うし、映画館で上映される折には是非足を運んで欲しいと思う。