知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】グレタ・ガーウィグの作家性と「逃避」について/ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語 (2019)

9 (Sun). April. 2023

先日Twitterでもコメントした通りグレタ・ガーウィグ、ジョー・スワンバーグ共作映画"Nights and Weekends" (2008)を観まして、それで以てこの映画が中々奇っ怪な作品で非常に驚かされました。

基本的にはビデオ・カメラを雑に構えただけ、といった撮影なんですが後半になるにつれて次第に画が能動的に変化し、それに連れて当初はカップル(監督2人が主演も務めています)を平等に移していたカメラがグレタ・ガーウィグを中心にシフトしていきます。しかしながらカメラに写っていない筈のジョー・スワンバーグ、鈍くてダメな男が彼女の頭から離れず、都合よく彼に呼び出されてはテンションが上がってしまい...

ジョー・スワンバーグが嫌味な男を演じていることもあって非常に気味の悪い作品に仕上がっています。所でメジャーに進出してからのグレタ・ガーウィグの作品を見ると「逃避」が大きなテーマになっていることが分かります。

レディ・バードは母親から逃げ出そうとするティーンエイジャーを、フランシス・ハでは現実から逃げ出してフラッとパリへ旅行しています。役者としてだけ出演した映画でも20センチュリー・ウーマンでも家出した少年・少女が登場し、ホワイト・ノイズはガス爆発から逃げる人々の物語となっています。そして本作。ストーリー・オブ・マイ・ライフ(以降Little Womenと呼びます。理由は後述)でも主人公はある事からひたすらに逃げている様に見えます。

この彼女の作家性とも言える「逃避」には"Nights and Weekends"他マンブル・コア時代の影響があるのではないか、と考えてみたりもする訳ですね。実際のところは分かりませんが、此処ではLittle Womenの開いた物語構造を解説し、彼女が作品に込めたメッセージというものを探ってみたいと思います。

(尚この文章は筆者が大学に提出したレポートの日本語訳に加筆・修正したものです。レポートの参考としても役立つのではないでしょうか)

Saroise Ronan in Little Women (2019)

導入:曖昧な結末について

Little Women(2019)のエンディングは非常に曖昧です。物語の舞台はまだ女性が結婚によってのみしか自らの立場を確確立し得なかった時代、作家として身を立てることを目指すジョー・マーチが本作の主人公な訳ですが、彼女はクライマックスの場面、編集者の提案に同意し、自身が書いた物語の結末を変更します。それを受けてフレデリック・ベアー、彼はジョーの作家としての成長を手助けしようとする大学教授ですが、が彼女を探すシーンが繰り返され、そして2度目のシーンではジョーがフレデリックに留まって欲しいとお願いする結末に変更されます。そして意味あり気に彼らがキスする場面が反復されます。

それまでの流れを考えれば彼らが結婚する未来が暗示されている、と捉えることが出来ます。そして実際その後に続くシーンではジョーが男女共学の学校を開き、そこで家族と一緒に暮らしている様子が、フレデリックも含めて描かれ、先の印象はより強固なものとなります。然しながら製本作業のモンタージュがシーンの間に挟まれ、ジョーが物憂気な顔で、出来上がった彼女の本を抱きしめながら、その様子を眺めるショットで映画は終了します。

この時オーディエンスは1つの疑問を胸に抱くでしょう。果たしてフレデリックと一緒に家族と過ごすジョーは現実の彼女なのか、それとも自身が書いた物語の結末に過ぎないのか、と。この文章は、仮に目的があると想定して、このエンディングの曖昧性の目的を明らかにし、且つその目的がどの程度効果的に達成されているのかを明らかにすることです。

所で詳しくは後述しますが、この映画の表現はルイザ・メイ・オルコットの手による原作からも、そして他の映画化作品とも大きく異なっています。従ってその変更は意図的なものであろうと推定することが出来ますし、別の言い方をすれば脚本兼監督のグレタ・ガーウィグは何らかの目的を以て小説を独自のやり方で映画化したのだろうと考えることが出来るでしょう。普通は、実際に他の映画化作品が行っている通り、原作をそのまま表現する方が自然だからです。

そして変更が意図的なものだと仮定した場合、エンディングは何らかの新たな意味を獲得しているに違いありません。恣意的な変更には芸術的に目指す、何らか別な意味が志向されている筈だからです。ですからLittle Women(2019)のエンディングは意味のあるエンディング(映画業界ではこれをクロージャー"Closure"と呼びます)となっていると仮定することも出来るでしょう。或いはクロージャーとしての機能を一切果たしていないかもしれません。

クロージャーとは単なるエンディングとは異なるもので、簡単に言ってしまえばエンディングらしいエンディング、それまで映画で登場した全ての要素を満足させる形で話をまとめ、観客が映画に関して何ら疑問を持たない様に、そして映画内世界の未来について心配することのない様に映画を終わらせる為のものです。

恋愛映画を例に取りましょう。仮に映画が主人公が今にも思い人に告白しようとする場面で終わったとします。この場合それまで長々展開した恋の駆け引きに意味が与えられず(Yes or No)、且つ主人公の未来が説明されていません(振られてしまうのか、それとも結婚出来るのか)。観客はこの結末に不満を覚えるでしょうし、これではクロージャーと呼ぶことは出来ません。しかし映画は実際に終わっている訳で、エンディングは存在しているのです。

さてこれがクロージャーとエンディングの区別であり、実際に映画を取り扱って検討する場合には様々な要素を見ていく必要があります。脚本構造、ジャンル上の慣習、映画のスタイル、テーマとの関連.....実に沢山の要素を検討し、エンディングでそれら全てを満足に応えられた場合にのみそのエンディングはクロージャーとなるのです。

従って当然クロージャーは映画のエンディングだけを見ていてもその有無を判断することは出来ないでしょう。逆の視点から捉えれば、監督がクロージャーの成し遂げる為には、製作の過程で常に全体の統合を意識し、意味のあるエンディングを作ろうと心掛けている必要があります。ですから、Little Women(2019)の様に、映画全体の構造が変更されエンディングも特異なものとなっている場合、当然監督は意識的に行っている訳ですから、そのエンディングはクロージャーとなっているのではないか?という仮定がなされる訳です。或いはエンディングが映画全体を破壊する様に、否定する様に、設定されているかも知れません。何にせよそのエンディングには意味がある筈なのです。

整理しましょう。Little Women(2019)のエンディングは曖昧なものです。しかし映画全体が原作や他の映画化作品と異なっていることを踏まえるとその変更は意図的なものであり、何らかの意味があるのではないか、と推定されます。そして意味がある場合、エンディングはクロージャーであると判断される訳で、必然Little Women(2019)はクロージャーを持っているだろうと仮定されます。だとすれば映画のクロージャーとしての性質を分析することはエンディングの意味を明らかにし、ジョーの物憂気な表情についても理解できるのではないか。これが本文章が示す仮説であり、論証までの道筋となります。

具体的には映画全体が行った変更点を洗い出し、そしてそれらに新たに加えられた意味を検討・統合することでエンディングが持つ意味を考えていきます。比較対象としては同じメディウムである映画からマーヴィン・ルロイ版のLittle Women(1949)を採用します。1917年版、1918年版はそもそもサイレント時代の作品であり、同じメディウムとは言えない部分があり、また2018年版は5カ国のみでのリリースの為、規模感に大きな違いがあります。1933年版、1949年版、そして1994年版の3つが候補として残る訳ですが、1933年版または1949年版の方がより古典的なハリウッド映画としての構造を有しており、分析が容易だろうと思われる為1994年版は却下されます。残る2つですが、1949年版はMGM創立25周年記念映画となっており、予算も潤沢だった背景を踏まえ、より2019年版に規模感が近いだろうと思われることから本作を選出しています。

数え上げればキリがない程両者の間には違いがある訳ですが、ここでは最も重要だと思われる4つの違いを取り上げることとします(エンディングを除く)。その4つとは具体的に

  1. 物語構造
  2. ジョーの姉妹たちの物語
  3. 編集者の登場
  4. エピグラフの有無

個別に観察していきましょう。

1. 物語構造

やはり最も顕著な違いと言えば物語構造ではないでしょうか。1949年版はジョーの青春時代からベスに捧げる物語の出版までを時系列で語るのに対し、2019年版はタイムラインを行き来し、姉妹たち(ジョーだけではなく、他の3人も含めて)の青春時代とNYやパリに別れて暮らす様になった成人後を比較する様に物語を展開しています。

そしてタイムラインの移動は多くの場合で、現在のジョーの行動がトリガーとなっており、嘗てのジョーの類似する行動を重ね合わせることで物語が変化する、といった形式が見られます。例えば映画はジョーが彼女の「親友」の小説を売り込みに行く場面から始まり、下宿先でフレデリックと出会う場面へと続きます。場面は一転、叔母とパリで絵を描くエイミーへと移り同時にローリーも顔を見せます。またメグが虚しさから贅沢に布を買ってしまい、自宅で後悔する様子。更にはベスが1人でピアノを弾く様子を見せるなど、それぞれの姉妹の様子を順番に捉えていきます。再び場面は変わって、芝居を見ているジョー。彼女は偶々居合わせたフレデリックを追って酒場へ、そこでダンスをします。このダンスがトリガーとなり舞台は7年前へ、ジョーが初めてローリーと出会った舞踏会の直前まで舞台は移ります。

この時姉妹は皆一緒に暮らしており、ジョーとローリーの関係性もこれから発展する、という場面です。2019年版の物語構造は姉妹の境遇を際立たせることに貢献していると言え、特に結婚の前後で変わってしまった彼女たちの夢や希望が描写されていると捉えて良いでしょう。また時間の前後が主にジョーの行動によって引き起こされていることから、観客はこれは「ジョーの記憶と結びついているのだ」という印象を得ることになります。言わばジョーが物語を書くプロセスを正に追体験しているといった格好になる訳です。

2. ジョーの姉妹たちの物語

しかしジョーの視点から語られる物語は、姉妹たちを蔑ろにしてしまうことはありません。1949年版では姉妹1人1人にフォーカスが当たることはなく、飽くまでジョーの姉妹として、言ってしまえば従者の様なポジションにあります

。例えばメグがジョンと結婚する場面。彼女は叔母に馬鹿にされ、金の無い男と結婚する様な真似はするなと諭されたことに反抗して彼との結婚を決めます。対して2019年版では彼女の考え方や性格というものがしっかりと描写されており、メグは4人の中では比較的家庭的な性格であることが伝えられます。彼女がローリーと一緒に上流階級に出入りするシークエンス(これは1949年版にはありません)、メグは少しの間だけでもデイジーで居させて欲しいと言い、ジョーが嫌悪する上流階級の暮らしを楽しんでいます。このシークエンスがあることで観客は何故メグが結婚に対してオープンなのか、女優になる夢を諦めても良いと思えるのか、結婚したいと思う様になったのか理解することが出来るのです。彼女は結婚してデイジーの様な生き方をするのも悪くはない、と思えたからジョンと婚約したのだ、と。

このバック・ストーリーがなくてはメグが病気に罹り、ベスがヨーロッパに行き、そしてエイミーが結婚するという形であっても物語は成立したでしょう。事実1949年版では成立してしまう様に思えます。

飽くまで映画はジョーの視点から語られる物語、という形を担保しつつも姉妹を置換可能な脇役で終わらせずそれぞれに意味を持たせているのだ、と言えるのです。ですから1949年版からのグレタ・ガーウィグの素敵なアップデートをわざわざ無に返して『ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語』などと邦題をつけるのは悪趣味でしかない。笑ってしまう様なダサい邦題というのは他にも幾つかありますが、監督の意図を無視してつけているという意味では筆者が知る中では最悪・最低の邦題で間違いないでしょう。

3. 編集者の登場

さて話を戻して3つ目の違いです。1949年版では編集者というキャラクターは全く登場せず、またジョーがクライマックスで書き上げた小説はフレデリックによって出版されます。彼女が作った物語は「男性」の手によって世に出され、彼女が直接編集者と交渉する様な場面は見る事が出来ないのです。

対して2019年版では、映画の冒頭から彼女が1人で編集者に売り込みに行く様子を目撃します。また対応するかの様に映画のクライマックス、ジョーはまたしても編集者と対面し、しかも自分の取り分についても堂々と主張してみせます。

単純に編集者との対話と結末の変更がなければこのエンディングは考えられませんし、その意味でも編集者の存在は重要です。しかしそれ以上にジョーという自立した女性を表現する上で編集者は重要な役割を果たしていると言えるでしょう。

加えて彼は映画の基本テーゼを最初に提示する、という役割も持っている様に見えます。彼はジョーに”And if a main character’s a girl, make sure she’s married by the end, or dead"(主役が女なら最後にソイツが結婚するか、或いは死ぬかどちらかにしろ)と伝えます。また最後にはテーゼを再提示し”Girls want to see women married, not consistent”(女の子が見たいのは女の強さじゃない、結婚するところだ)と語ります。これはジョーの苦悩と重なる所のものであり、簡潔にこれから起こる内容を伝えているのだと理解して良いと思われます。

3つの違いとそれぞれの関係性

4つ目の違いを見る前に、ここで3つの関係性に着目し、それらが全体としてどう機能しているのか考えてみましょう。第一の違い、物語構造の特異性は姉妹たちが置かれた状況の違いを過去と今とで強調し、ジョーの作家としての苦悩をも浮き彫りにします。彼女の苦悩とは詰まり1868年当時に強い女性でいること、自立した女性でいることの孤独であり、彼女が自身の夢を追い求めてしっかり生きていこうとすればする程、周りとの溝が深まっていく所にあります。ローリーは(或る意味で当然のことですが)ジョーを想う男性として、彼女にアプローチをし、それを断ってしまった以上それまでの仲良し同士ではいられません。例え芸術の才能がエイミーより優れていたとしても結婚の意思がなければヨーロッパ周遊も無駄、叔母には疎まれてしまいます(それはエイミーが二番手としての苦悩することにもつながるでしょう)。メグには結婚の価値を説かれてしまい、目指す人生の違いを突きつけられます。そして最後の友としてのベスとは物理的に2度と話し合う事ができなくなってしまうのです。

ジョーは誰かに愛されたいと願いながらも、愛することだけが女性の生き方である、という型に収まることに全力で抵抗します。”I'm sick of it, but I"m so lonley"(そんな価値観にはウンザリする、でも私は孤独なの)と語るジョーは正に、編集者のアドバイスへの返答となっており、ジョーはローリーを拒みフレデリックとの結婚も一度断ることで孤独となったのです。人並みに愛されたいと願いながらも、編集者のステレオタイプには嵌まらない。迎合する位なら孤独を選ぶのだ、と。

この点を踏まえるとはっきりしないエンディングはジョーが選ばなかった未来(フレデリックと結婚し家族と暮らすこと)への未練と捉える事が出来るかも知れません。

しかしジョーは自身を、結婚しないことを美化しすぎてはいないでしょうか?結婚とは、例えば殺人の様な邪悪な行為ではない訳で、常に沢山ある幸せの一つの形として存在するでしょう。そしてメグがジョーに諭す通り"Just because my dreams are different than yours doesn’t mean they are unimportant”(私の夢が貴方と違うからと言って、私のそれが重要でないことはない)のであり、結婚したメグやエイミーを責めることは出来ません。譬えジョーが作家として夢を叶えたとしても、です。

そしてジョーはそもそも作家として活動出来るだけの余裕があります。ルイザ・メイ・オルコットよりも後の女性作家、ヴァージニア・ウルフは著書『自分自身の部屋』の中で"a woman must have money and a room of her own if she is to write a fiction"(小説を書きたければ女はお金と自分自身の部屋を持っていなければならない)と書いています。ごく単純化すれば女性がフィクション作家として身を立てる為には自立して暮らしているお金と、自分を守る空間が必要だ、ということです。

そしてジョーはその2つを持っていると言って良いでしょう。確かに没落貴族ではありますが、マーチ家は貴族であり結婚せずとも何とか暮らしていけるだけの資金力があります。そして家族・友人もジョーに協力的で、誰も彼女の文筆活動を咎めはしません(精々が母親が小言を言う程度)。ローレンス氏という寛大で、裕福な後ろ盾さえもあります。教育とお金が女性に行き渡らなかった男根主義の時代でジョーの境遇は非常に恵まれているのです。

客観的な視点から(彼女たちの獲得できる最大の幸せでなかったとしても)メグとエイミーが結婚してそれなりの幸せをエンディングで獲得していることは、彼女たちの選択を極めて公平に評価していると言えるのではないでしょうか。またエイミーがベスに対して「彼女は私たちの中で一番だった」と語っている通り、彼女は最も愛された存在でもあり、唯一結婚でもキャリアでもない幸せを獲得した存在でもあります(若しかしたらベスの幸せこそジョーが求めていたものだったのかも知れません)。

姉妹それぞれの人生がしっかりと語られていることで、異なる人生と幸せの形が書き分けられていると言えるのです。映画の主軸は飽くまでジョーであり、彼女の結婚観というものが全体としては支持されていますが、その彼女にも欠点があるのであり、映画は誰の幸せを否定することもしていません。単なる男性社会批判に留まらず普遍的な愛の形、そしてその顕現としての結婚を否定していないという意味で、Little Women (2019) は単なるフェミニズム映画ではないのです。

4. エピグラフの有無

3つの違いが如何なる意味を持っているのか、分かって頂けたと思います。最後に第4の違い、2019年版には原作者によるエピグラフが掲げられています。

"I’ve had lots of troubles, so I write jolly tales"(辛い事ばっかりだから、楽しい話を書きましょう)

これは非常にアイロニックだと言えます。多くのトラブルを乗り越えて、ジョーは楽しい話を書いた訳ですが、彼女の人生の問題(結婚観について)は何一つ解決されておらず、仮に現実だとしても彼女の人生は"Jolly"とは言えないからです。

従って2019年版のLittle Womenは脚本の構造を変化し、過去と今を対比させることで編集者によって提示された「女→結婚」という考え方に対する苦闘を描くと主に、姉妹の人生も同時に描くことで結婚自体を否定はしていない、という作りになっていると捉えることが出来ます。そしてエピグラフによって物語>ジョーという図式を作り上げ、現実のジョーの問題は解決されていない(未練を抱かざるを得ない)としても、物語のキャラクターをしがらみから逃避させ、Jollyな物語にしてしまうことでハッピー・エンドを形作っているのです。

映画の脚本は開いた構造となっており、ジョーが書いた小説内のキャラクターがフィクション(Little Women)内のフクションに逃げ込むことでジョーの求める幸せが二重写となって表現されているのだ、と。詰まりジョーは、一つに決めることが出来ない心の迷いをフィクションに託すことで(曖昧性の提示)複雑に絡まった問題から逃れ、観客に私も幸せだと示して見せているのではないでしょうか。

まとめ

既に述べた通りグレタ・ガーウィグは作品の中で毎度逃避を扱っている様に見えます。しかしその実、彼女の逃避は関係性を真摯に見つめることと裏返しの構図になっているのであり、且つその結末も消極的な逃避ではなく積極的な逃避(明るい未来を予感させるもの)になっています。ですから"NIghts and Weekends"で見られた様な、人と人の関係性に縛られているキャラクターを描いた経験は今の彼女に大きな影響を与えていると見て良いのではないでしょうか。当時の経験が緻密な人間描写に繋がっていると共に、逃げられなかった関係性に対するアンチとして頭皮があるのだ、と。少なくとも筆者の目にはそう写ります。

この点から言っても彼女を単なる女性映画監督、フェミニズム映画の象徴の様な持ち上げ方をするのはやはり不適切だと言えます。そもそもフェミニズム映画であれば逃避を肯定しません。政治映画は結論ありき、極端な言い方をすれば政治信条が製作のモチベーションになっているからです。ズブズブ向き合って嫌になった逃げる、というやり方は政治映画のそれではありません。

その意味でも彼女の映画作りは(政治映画嫌いの筆者としては取り分け)好感が持てるものです。政治という概念ではなく、人を描いているのだ、と。Little Women(2019)はこの5年に発表された映画の中では間違いなくトップクラスの作品であり、筆者個人としても大好きな作品です。グレタ・ガーウィグその人も要注目です。ひとまずはBarbieを楽しみに待ちたい所。

ふざけた邦題に騙されず、ジョーと、姉妹の物語をもう一度見てみては如何でしょうか。