知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】映画批評に関する幾つかの覚書/ドゥ・ザ・ライト・シング(1989)

11 (Mon). July. 2022

一応物を書いて世に出す身分であるから(と言う程大した立場でもないが)、常々主張の根拠とする所は明らかにしておかねばならないだろうと考えている。ここでは映画を論じることが専らであるが、それに対しても「良い映画」と「悪い映画」は何を以て区別されるのかを明確に読者に示す必要があるだろうとも思う。

感情論で話すならば、筆者は基本的に全ての映画が好きだ。どんな映画でも裏には心血を注いで制作するスタッフが、百人単位でいるのであり、譬え面白いと思えなくても、嫌いな作風であっても褒めたいと思う。それこそ淀川長治氏が述べていたけれども、どんな映画であっても必ず優れた点があるのである。

その上で名作と駄作の違いが生まれるのは、批評家本人が内に持つ批評軸と合致するかどうかに依っている。優れた点を沢山持った映画であっても、彼本人の判断基準と重なる所が無ければ駄作(或いは凡作)として処理されてしまうのではなかろうか。

これは自身を振り返っても屢々見られる事件であって、例えばスパイク・リー監督のドゥ・ザ・ライト・シングは筆者は酷い映画だと(少なくとも現状では)判断している。疑う所なく映画史上に君臨する名作映画であり、戦後最も重要な映画の1つであるが、それでも筆者は高い評価を下さない。それは何故ならばドゥ・ザ・ライト・シングが筆者の映画観とは合致しないからなのである。

記事を書きはじめてから或る程度の期間が経ったが、失敗作や傑作などはっきり記事の中では書いてきた。ここでは今後の議論の土台とする為筆者個人が持つ批評軸を提示し、読者の誤解の無い様にしたいと思う。その手掛かりとしてドゥ・ザ・ライト・シングに触れ、批評の仕方に就て筆者なりに示すことが出来たならば、この記事は有意義なものとなるだろう。

Spike Lee and Danny Aiello in Do The Right Thing (1989)

アカデミズムの嘘と批評の絶対性

昨今のアカデミズムには断定的な主張をせず、多文化主義的なアプローチを取る学者が多いだろうと思う。少なくとも筆者の在籍していた大学ではその傾向が顕著で、或る文化人類学の教授は今では理事に就任した人物なのだが、絶対的な判断の不可能性をレヴィ=ストロースを引きながら語っておられた。

曰く未開部族の文化は我々のそれと比較して劣っているのではなく。単に低開発であるに過ぎなく、また同時代の種々の文化間でさえも優劣は存在しない。従って人の作りし文芸作品や映画の類に於いても作品に優劣は存在しないし、抑も個人の判断自体が多分に文化的な性格を持った揺らぎのあるものだから、絶対的な真を提出することは出来ない。

確かに種々の文化に対しては優劣は存在しないし、ギュスターヴ・クールベの絶望とバルザックのウジェニー・グランデを比較して優劣を論じても無意味である。クールべとマティスを比較することも無意味かも知れないし、バルザックオクタビオ・パスを比較することも無意味かも知れない。

しかしワシリー・スリコフの絵画とクールベのそれを比べることは有意味だし、ポール・ボードリーの真珠と波をクールベの寝床の女性と比較することも有意味な筈だ。映画を批評することが容易だと述べるつもりはないが、表現形式が比較的一様な映画に於いてはまして判断もシンプルなものとなる。以上のことより、先の文章中の「従って」の使用は誤謬だと考える。事実として絶対的な批評というものが存在するのだ。

これは厳密な議論によってもそれは証明され得るし、感覚としてもそれは理解されることだろう。詰まりゴッドファーザーアマデウスプライベート・ライアンを人生ベストに評価する彼はきっとラブ&ポップという映画を愛さないであろう。彼個人の批評軸が最新のテクノロジーを駆使し、豪勢に作られた大規模な作品を評価するというものであれば、ラブ&ポップの様な時代性を備え叙情に満ちた、さりげない作品は彼の趣向と逆行する。

確かに別の評価軸ではラブ&ポップを高く評価することも可能であって、それを常に念頭に置いておくことは可能かも知れないが、これが例えばドクター・スリープ(シャイニングの続編映画)であればどうか。お世辞にも名作とは言い難い作品を、シャイニングと同等の評価だと胸を張って主張する勇気のある人物がどれ位いるだろうか?

結局どれだけ謙虚な姿勢を持ち続けていたとしてもアカデミックに真摯な検討を加えようと思ったならば、低い評価を下す作品を選ばなければ筋が通らないのである。これは決して不寛容でも独りよがりでもなく、一つの判断軸を立てた結果生まれる必然に過ぎない。ウィリアム・オブ・オッカムとアンセルムスは嘗て唯名論実在論を掲げ、普遍論争を闘ったが、彼らの主張の差異は独善的な判断によるものではなく彼らの信じる所、依拠する論理が違った為に乗じたものだ。同様に信頼に足る批評をしようとするならば絶対的なー恒久的ではないにせよー判断を下す必要があると言える。

従って多文化主義的共生論は敢えて言うのならば、自分の判断に自信を持てない結果譲歩の余地を残す日和見主義と同義なのである。間違った判断を下した際に撤回し修正する寛容さは必要でも、判断を下さない「寛容さ」は必要でない。何故ならそれは単に批評することを放棄しているからで、進歩派風を気取っているだけだからだ。

批評軸の参考例

当然批評をする上でその依拠する基準は各様異なっている。一例として、そして筆者の文章を明快にする為、ここで採用している批評軸を提示してみよう。批評について専門的に取り上げた記事はこれまでに2つある。

1つは批評をする為には先ず映画を見なければならない、ということを書いた記事だ。

sailcinephile.hatenablog.com

詰まりは映画を批評するに当たって映画外の要素を主張の根拠としてはいけない、という内容なのだがこれは少し補足される必要があるかも知れない。文学でも、映画学でも確かに作品外の事象を取り上げるアプローチは存在する(とは言え作品外の要素を結局は文学なり映画に返す必要があるから、作品を取り上げなくとも良いということにはならないが)。

これは例えば作者の生い立ちや、時代背景を考慮することで作品内のモチーフやシンボルの意味を明らかにし、作品に同時代性を持たせようとする研究である。筆者はこのアプローチには反対で、文学研究に従事していた際には寧ろ言語論に近い研究を行っていた。これは筆者が時代性でしか読者に訴えない作品など面白くないし、時代性を超えて普遍的な人間精神に訴え掛ける故にその文学が名作と評価されていると考えている為で、これは個人の指向や思想に負う所が多いだろう。ともかく筆者としては作品を見ずに批評など出来ないと思っているし(だから全ての言及される映画は鑑賞済みの作品だ)、作品外の事項を重視する批評スタイルも好んではいない。

もう一つ批評に集中的に言及した記事は、映画の形式というものに注目したものだ。

sailcinephile.hatenablog.com

映画に限ったことではないが、作品が作品として別個に認知される大きな要因は形式の違いにある。デヴィッド・ボウイイギー・ポップシェイクスピアとサミュエル・ベケット。ジェフ・クーンズとアイ・ウェイウェイ杉本博司蜷川実花。誰でも、どんなジャンルでも良いが肝心なのは、何を撮るかではなくどう示すか、だと考える。

その上で内容(プロット)が肝要なのは中身が示され方と一致しているか、順序を正せばプロットを適切な形で表現する形式が採用されているか、これが映画を批評する上で最も大切な要件だと思う。少なくとも筆者が一番大切にしている考え方であり、だからこそ作品の中身をより注意深く眺めなければならないだろう。

心理学的批評や対作品反応的批評、共産主義的批評など多様なアプローチが存在し、その分だけ作品の評価も変わってくるが、その全てを網羅することは筆者の意図する所ではない。元より全てを1人の人間がカバーすることは、科学的には理想的でも、不可能だろう。筆者は上記の様な見方で映画を見ているし、その上で「良い映画」だとか「悪い映画」だとか書いているわけである。

それでは最後に作品に対する評価方法の違いが如何に鮮明に現れるのか、という具体例を見ることにしよう。

ドゥ・ザ・ライト・シング

私も尊敬する高名な批評家、A.O. Scott氏は次の様に書いている。

How does that happen? How does it keep happening? "Do the Right Thing" looks for the answer in the details of everyday life, which is full of accidents, potential flash points and micro (and not so micro) aggressions. It's also full of tenderness, silliness, and small moments of sorrow and grace. 

Lee's genius resides in the way he orchestrates all of that. This is one if the funniest movie I know - I'll just mention Sweet Dick Willie and leave it at that - and also one of the saddest. It's noisy and quiet, brazenley theatrical and breathtakingly subtle. Not all at once, but in just the right order.

確かに映画としての完成度はこの上なく高い。舞台設定、登場人物の描き方、脚本の妙、肉体性と精神性の顕然、サウンドトラック、どの点を取っても非常に高い水準にある映画で、批評するまでもなく文句の付けようが無い。

特に素晴らしいのは熱波の襲うブルックリンのコミュニティのさり気なく、それでいて濃密な描き方で、殆ど物語は1ブロックで展開されるにも関わらず適切な仕方でそこに暮らす人々が描写される。特に市長が飛び出した子供を救った所、母親に乱暴にどやしつけられてしまう場面。かねてから思いを寄せるマザー・シスターに慰められる場面など映画全体に於いて重要なアクセントを与えていると思う。その他気弱な弟が不思議とスパイク・リーと心を通わせる描写なども素晴らしい。

しかし筆者がこの映画を見て不満に感じたのは、事実こうした人々の描き方なのである。監督スパイク・リーの眼差しは親密で、どのキャラクターにも寄り添い、愛情を見せている。それ故に終盤の「事件」が胸に刺さるのだが、その原因は単なる社会問題ではなく些細なミス・コミュニケーションや日頃のすれ違いの積み重ねにある。結果社会問題化するのは、駆けつけた警官の横暴さにあるのだ。しかしスパイク・リーはエンド・クレジットでマルコムXキング牧師を対比させ、彼のアイデンティティーとメッセージを隠そうとしない。そして極め付けはタイトル、「正しいことをせよ」である。

映画として、大衆が鑑賞する作品として、最後の最後に人々を裏切り社会問題に着地させてしまうスパイク・リーの演出が筆者には評価出来なかった。彼が告発した問題を軽視するつもりはないのだが、これでは作中の登場人物があまりに報われないではないか。基本的に筆者は作品内の世界を外に優先させて考えているから、映画の中くらいはあるべき姿、理想とするべき姿を提示するべきだと思うし、少なくともそれが見える様に問題提起するべきである。現代の人間の見方なのかも知れないが、単なる問題提起ならニュースや書籍、延いてはSNSで十分なのだ。

例えばデトロイトはドキュメンタリー調に始まった物語は凄惨な「ゲーム」の場面へと移行する。両者がシームレスに繋がれると共に、その後トラウマに苦しむ人々を映すのだが、三部を音楽、具体的にはモー・タウンが繋いでいる。これによって感情的な連続性が生まれると共に、音楽を通じて観客の心を揺さぶり主題に対して取るべきアクションを示唆している。これは映画にしか出来ない表現方法だし、素晴らしい演出だと思う。

対してドゥ・ザ・ライト・シングは徹底的にリアルに描写した劇中人物とコミュニティを破壊し、観客を感情的に零の状態に落とした所で終結する。最後に観客が目にするのはエンド・クレジット中の政治的メッセージであり、それは内容と形式が矛盾しているのではないだろうか。筆者であれば、3時間の映画になってでも「事件」の後スパイク・リーダニー・アイエロの対話を描いたと思う。それでなければ登場人物の誰も救われないし、事件前の展開が等閑になってしまうと感じるからだ。逆に言えば社会問題に着地させたいのであれば、こうしたコミュニティの描き方は不適切だろう。もっと不気味に、例えばスリー・ビルボード未来世紀ブラジルの様な描写が出来た筈だ。

まとめるとドゥ・ザ・ライト・シングは素晴らしい表現がなされた映画である。けれどもその主題=日常の中に潜む「事件」の予兆、を描く為の形式としてコミュニティとその中の人物に密着する方法は不適切だと筆者は考えるし、この形式で描くのであればタイトルやメッセージは変更するべきだっただろう。この間の矛盾が超え難いものに感ぜられ、筆者としては高い評価は下せないと考えた。

しかしこれは飽くまで一個人の見方であるし、世界中で広く重要な映画、masterpiece として認められている作品であることも事実だ、筆者にしてもスパイク・リーの高度な表現方法を疑うものではないし、未鑑賞の読者には是非見て貰いたいと思う。その上で自分が映画を批評する際に、どの様な点を重視しているのか振り返って頂ければ実りが多いだろう。