知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【ランキング】2022年ベスト/ワースト映画

31 (Sat). December. 2022

2022年も間もなく終わり。歳を重ねるにつれ一年が早く過ぎて行く様な気がしてならない。

ついこの間までは高校生で、息切らせる様に生きていたけれど、学校に部活に、課題にと全身で楽しんで疲れることはもう無くなった様に思う。その代わりと言っては何だが、進んで無茶を重ね、今年は単身で留学、住む場所も環境も大きく変わってと記憶に残る一年だったと思う。

正直に言ってどれだけ英語が上達しようが彼らの事を全く理解できる訳ではない。時には話に入れなかったり、上手く相手に言葉を届けられなかったりするが、それでも映画の話をしている時は彼らと全く同じ立場で話せていると感じる数少ない瞬間。一層映画を好きになった一年でもあった。

来年は本格的に現場に出たり、短編を撮ったり、コンペに出てみたりしたいな、と思いつつ浴びるように映画を見ることも少なくなるのかなとも考えると、やっぱり今年は凄く意味のある一年だったのだろう。ということで今年のベスト&ワースト映画だ。ありがたい事に先日の記事が好評だったが、彼らと比べて私の映画評にも是非お付き合い頂きたい。

sailcinephile.hatenablog.com

Guilliaume Depardieu in Pola X (1999)

以下は全て筆者が今年見た映画。新旧混同。数字に特に意味はない。

ベスト映画トップ10

1. トップガン:マーヴェリック

先ずは今年の主役、トップガン:マーヴェリックから。これは間違いなくベスト映画の一本である。というよりこれをベストに入れなければ映画について物を書く資格は無いだろうと思う。

「今の時代に映画を撮る上で最も難しい事は何ですか?」

昔のインタビューでクエンティン・タランティーノは、観客を2時間映画館に拘束することを如何に正当化するかだ、と答えていた。彼曰く家に居ながらにして好きに映画を見ることが出来る様になった。映画のチケット代も高くなった。今では他のコンテンツもある。そんな時代に観客に映画館に足を運んで貰い、2時間をそこで過ごすことに納得してもらうことが一番難しいと語っていた。

トップガン:マーヴェリックは近年、というより配信時代で一番上手に観客を説得した映画だと思う。この数年、暗い時代に一番映画の力を見せつけた映画だと思う。だからこの映画が大好きだし、間違いなく今年最も評価するべき映画だと思う。

2. Crimes of the Future

同じく今年公開された映画の中で、最も優れていた映画は何か、と聞かれたら筆者はCrimes of the Futureだと答える。日本では未だに公開日すら決まっていない様だから、若しかしたら公開されることも無いのかも知れない。だとしたら本当に残念なことだ。この映画が傑作であるからこそ、尚更に。

デヴィッド・クローネンバーグは本作に於いて西洋哲学の根本命題の一つに全く新しい解答を与えてみせた。その命題とはつまり人間の肉体と精神は二つながらにあるか、それとも一体として存在するか、というものだ。

映画の中でもこれまで性の解放を以て肉体と精神を対置してみせたり、或いはその逆を唱えたりする試みが見られた。しかしクローネンバーグは今の時代に両者どちらも意味はないと喝破してみせた。少なくとも私にはそう見えた。

肉体の全てが医療技術によって再生、移植可能になり、そして精神も高度なレベルで電子的に再現できる様になった。将来的には精神移植も可能になるかも知れない。そんな時代に肉体だの精神にこだわってみせたって何の意味があるというのか。セックスすることは他人と関係を持つことを意味しないし、セックスしないことが精神的な紐帯を意味する訳でもない。そんな時代に人間性とはどこに顕現するのか。こうした問題を具に考えた映画が、Crimes of the Futureではないかと思う。

「手術は新たなるセックスだ」というキャッチフレーズが空回りしているが、その本質は臓器移植手術が侵入する/されるという関係性を持っている所にあって、単なるボディホラーを超えた難解な、けれども興味深い、今年最も印象に残る作品だった。

3. わたしたちのハァハァ

Crimes of the Futureが最も印象に残った映画だとしたら、こちらは最も好きな映画、個人的に気に入った映画かも知れない。優れた映画でもない、皆にとって特別な映画でもない、それは分かっているけれども個人的に大好きな映画。

この手の映画には本当に弱くて、毎年必ずこうした青春映画に出会い、何度も見返している。松居大悟監督が手がけた本作はクリープハイプが大好きな女子高生が家出して福岡から九州まで彼らのライブを目指して旅する模様を描いた映画。

クリープの音楽も本当に格好良いし、何より登場人物全員がとてもよく描けていたと思う。例えば池松壮亮演じるドライバーが「世間は危ないんだぞ」と教える場面。相手は彼氏持ちの「八方美人」タイプの女の子なのだが、その子がサラッとキスしてみせたりする。そしてこの場面は二度と直接的に触れられない。

サラッと見てしまいがちだが、下手な映画だと一番ビッチな女の子、可愛い女の子にキスをさせたりする。そうして後々あの時キスしてたでしょ、みたいな火種を作りがちなのだが、世の中そんな風には回ってないし、そんな人間ばかりではない。演じた女優たちのことを松居大悟監督は本当によく見ていたんだろうなと思う。

そしてエンディング。LOVE&POPの明らかなオマージュなのだが、これが決定的に良かった。LOVE&POPと言えば村上龍原作の援交JKの物語だけれど、綺麗な指輪でも、彼氏でも、おしゃれなカフェでも、SNSでもなく、クリープで輝く女子高生がいるんだ、という意気込みが感じられた気がして、何だか嬉しくなった。概念を弄ってセックスさせたり手を繋がせるのは良いけど、実際の青春映画はこうあるべきだろうという意味でベスト映画に選出。恋空とかと比べて欲しい。あちらも嫌いではないけれど。

4. クリスチーネ・F

わたしたちのハァハァと同じ様な理由で好きなのが、こちらの西ドイツ映画。センセーショナルなドラッグ描写が注目されがちだが、その本質は若さ、クリスチーネという女性にあると思っている。考えてみれば当然のことだが、ドラッグ映画であっても主役はドラッグではなく飽くまでそれを摂取する人間にある。ドラッグというテーマでありながらもクリスチーネという女性を丁寧に見つめているんだろうな、と感ぜられる部分が良かったポイント。

クリスチーネに対して印象的なミッド・クロースアップが多く、しかもそこそこの長回しで彼女をカメラが見つめる。ドラッグに溺れる惨めな女の子でもなく、若気の至りで過ちを犯す女の子でもない、自然で近くに寄り添った撮り方に個人的には心動かされる部分があった。青春映画として十分に通用するものがあると思う。

5. Dolls

こちらは年の瀬ギリギリに見た一本。北野武監督、西島秀俊菅野美穂深田恭子らを迎えた豪華な映画である。どうやら余り評判は良くない様だが、個人的には非常に優れていると感じた。

何と言っても撮り方、繋ぎ方が良い。ヤクザの親分が歩いて来て、後ろから殺し屋が。銃を構えて撃たれた、と思えば川を流れる一枚の紅葉の葉につながり、と言う様なショットの繋がりは口で言うほど簡単なものではない。斬新で今見ても新しい、というよりは真似するのが難しいユニークな映画だと思うし、何よりそれだけ乱暴なカットでありながら、登場人物にしっかり寄り添っている点が素晴らしいのだ。

どうやら狂った愛だ、現実離れしている、等の感想があるみたいだけれども本当に狂った愛であればカメラが、音楽が、演出がここまで寄り添える筈がない。たとえ現実世界ではあり得ない愛の形であったとしても映画内ではこんなに丁寧に描かれているのであって、その手腕を誉めるべきではないだろうか。映画でいう狂った愛というのは撮っている側も理解していない様な、訳がわからないものである。そして大なり小なり映画内の恋愛は現実離れしている。仮にリアルに体感できない恋愛を受け入れられないというならば街へ出て自分で恋愛してはどうか、と言いたい。

6. 胸騒ぎの恋人

ドランの監督作、こちらも恋愛映画だがDollsとは随分毛並みが違う様に見える。見える、が実際そうは違わないのではなかろうか。

胸騒ぎの恋人で描かれる恋もハナから成功の見込みはない。何かが成就する見込みはなくて、そしてどちらの登場人物もその事を理解していながら分からないふりをしている。ドラン自身が演じるキャラクターが思い人の部屋でアレをする時も、モニア・ショクリ演じる女性がタバコを吸う時も何処か痛々しいのはお互い自分が何をしているか分かっているからだろうな、と感じた。

相変わらずドランの感受性は凄まじいし、表現できない微妙な感情を写す能力はただただ脱帽するばかりだ。たかが世界の終わり、の中でその才は最も発揮されていたと思う。その後どうにもパッとしない作品が続いているのは天才ゆえの悩み、名付け様のない感情にな目を付けたいという葛藤なのかなとも考えてみたり。

7. 鏡

教科書的な名作からも一本。アンドレイ・タルコフスキーの鏡だ。これは夏頃、新文芸坐のオールナイト上映で見た一本で満杯の観客に不思議と嬉しくなった思い出がある。特に筆者の6列くらい前に座っていた三人組で、同い年ぐらいの若い女性2人と男性1人で物凄く熱心に見ていた彼ら。二十歳かそこらでタルコフスキーのオールナイトニ付き合ってくれる友達が2人も居るというのが羨ましいし、その後あれだけ熱心に語り合える情熱があるというのも素敵な事だと思う。

それは別としてこの映画、カットが革新的である。AからA'、BからB’、B'からCという風に少しずつ位相をずらしながら物語を紡いでいくのだが、それら全てがごくパーソナルな領域に留まっている。留まっているのだけれど、そこにはロシアがあり、歴史がある(敢えてソ連とは書いていない)。この思いだし装置の様な、カラクリ箱の様な、何かが圧縮された装置があって物語がそこを通ることで縦横無尽に歴史が広がりつつ主軸はパーソナルな物語に留めるという語りに感心した。

能だったか狂言だったかにも似たような語り口があると聞いたことがあるが、果たしてどちらだったか。勉強不足である。ともかくその凄みを存分に感じられるという意味で鏡は今年見た中でもベストの映像体験に入るだろう。

8. アンダー・ザ・スキン 種の捕食

映画の冒頭、恐らくはスカーレット・ヨハンソン演じるエイリアンの誕生だろうと思われる映像詩が流れる。言葉を学び、服を着ることを学び、そしてデパートの中を彷徨う人間を観察する。初めての捕食のシーン、彼女は犠牲者の女性の涙を見る。しかし、彼女の関心はその横、犠牲者に付着していた虫にある。

この映画もまた広義では愛についての物語なのだと思う。「ルッキズムが〜」、「資本主義社会が〜」と語ることも出来るようだけれど、筆者はそんなディテールよりもスカーレット・ヨハンソンが人を愛することを、人間とは何かを学ぶ過程に心動かされた。

だから締めくくりのシーン、彼女は自分の頭部を大事そうに抱え込んでいる。そしてその涙を共有している様に思える。正しく成長だ。シン・エヴァンゲリオン綾波レイ(そっくりさん)の物語に似ているかもしれない。

何故、どの様にしてスカーレット・ヨハンソンが自分の頭を抱えるのか、自分の涙をどの様にして見るのか、ここでは説明は出来ないが気になった方には是非鑑賞して貰いたい。綾波ファンにもオススメ出来る映画だと思う。

9. 失楽園

この映画には大好きなシークエンスが幾つかあって、その1つは例えば映画序盤、左遷された役所広司が同僚と茶を飲みながら如何に暇を潰すか語り合う場面。キャスト1人1人にしっかりとカメラを当て、下手に切り返しなどをしない。画面の全体から冗長さが伝わってくる。

他には葬式終わりの黒木瞳役所広司の待つホテルに向かう場面。街並みを駆ける黒木瞳とホテルで忙しなく待つ役所広司が交互に移されるのだが、そのテンポ感が良い。そして最も大切なのは情事の後、役所広司が心ここにあらずといった表情でタバコを吸うショットがあることだ。このワンショットで話が一つ落ち着いて、グッと物語に親近感を持たせている。こうした些細なショットを挿入できるかどうか、傑作と凡作の違いであるのではないだろうか。

2人の新しい住処で手料理を食べる場面、クレソンと鴨の鍋を食べる所も良い。同じ役所広司でもCUREでは、日本映画然としながらも西洋映画のエッセンスを感じる部分があって、長回しにも何処か緊張感が漂っている。言ってみれば間(ま)がないのである。しかし失楽園では間を楽しむかの様な暇があって、それと同時に細かくカットされた濡れ場もある。最後の場面のモンタージュは非常に複雑に作られていると思ったし、その緩急が非常に自分に合っていたのだろう。昔に流行った映画、というだけの評価をされている様に思うが紛れもなく素晴らしい映画で、今では過小評価されてしまっている映画だと感じた。

10. ポーラX

最後、レオス・カラックス監督の第4作目のポーラXを挙げたい。筆者にとって今年最も出会えて良かったと感じる映画である。そういう意味でこの10本の中では一番高く評価しているかも知れない。

ハーマン・メルヴィルの小説に緩く基づいた映画で、遺産で何不自由なく暮らしていた青年が1人の女性と出会い、それまでの全てを投げ出して彼女との暮らしを初める、そんな物語だ。そして物語の肝は全編を通して漂う死の香り、特にカテリーナ・ゴルベワが纏うそれであると言って良いだろう。この死の香りというのは何も筆者が考え出した厨二病じみた概念というのではなくて、ジャン・コクトーの名作、『恐るべき子供たち』で表明されているものだ。

小説の中で主人公たる少年たちの部屋には常に死の香りが漂っている。その香りは避け難い呪縛の様なもので、母親を殺し彼らは孤児となってしまう。奔放な暮らしが極まるにつれ、その香りは濃くなっていき、エリザベート(主人公の姉)の結婚相手、ミカエルもまた死の香りに捉えられてしまう。そして最後にはその香りが彼ら自身をも滅ぼしてしまうのだ。

ポーラXでも『恐るべき子供たち』同等の避けられない運命、悲劇の予感が全体を支配している。それは確かにポンヌフや汚れた血にも共通してた要素かも知れないが、ポーラXでは死の香りが単なる雰囲気ではなく物語として、映画の肝として作用している。この点に感動したし、筆者には刺さるものがあった。

*これは余談だが、筆者は太宰治が大好きだ。彼ほど人間臭い作家もいないと思うし、その一語一語から書く苦しみが滲み出ている。一挙手一投足の全てが嘘でありながら、それが嘘である故に真実が見える。何故彼が嫌われているかも分かるし、一流の作家とみなされないのかも理解できる。しかしそれでも筆者は太宰が好きだ。

同じくポーラXは一般的に駄作と考えられている。そしてその理由もよく分かる。ただ非常にパーソナルな映画で、太宰を好きになるのと同様の理由で筆者はこの映画が大好きだ。両者に全くの関係は無いが、太宰を愛せる読者はこの映画も愛せるのではあるまいか。

(特別枠)呪詛

トップ10に入れる程ではないが好きな映画が、呪詛、日本の夏を席巻した映画である。所々脚本に不備もあるし、ノイズも多いが、それでもPOVホラーを超えて観客に直接繋がる構造は面白いと思ったし、広く大衆にアピールする力は評価するべきだろう。

例えばラース・フォン・トリアードッグヴィルリューベン・オストルンドの逆転のトライアングル。観客と映画の地平を揃え直接語りかける手法は見られるが、こうした映画はどうしても理屈っぽくなりがちだ。その問題点を乗り越えてシンプルに「怖がらせる」ことだけに特化した映画はこれまで余り無かった形の表現ではなかろうか。

ワースト映画5

1. ハウス・ジャック・ビルト

ワースト一位はぶっちぎりでこの映画、ラース・フォン・トリアーのハウス・ジャック・ビルトである。これは考える間もなく真っ先に思い浮かんだワースト映画だ。

この映画何は酷いかといって、マット・ディロン演じるキャラクターの理屈然り監督の演出然り全てがダサいのだ。冒頭からウェルギリウス神曲を反転構造にしていることは見え見えだし、歪な建築論や街灯と影の話にしても逆説の面白さがない。人類の遺産の稚拙な引用、見えすいた逆説になっていて子供の言い訳を見ている様な気分にしかならないのだ。

これが普通の監督の映画ならまだ許容できる。しかしラース・フォン・トリアーといえばニンフォマニアックで同等の手法を用いてバッハとセックスを繋げて見せた過去がある。あの時は引用される対象と赤裸々な性生活との間に確かなアイロニーがあった。しかし今作ではその全てが明らかで、考える楽しみというものがない。

おまけに残虐性の自然さを強調する為か画の作りも簡素で、余計に見るべきものがない。だから最初の瞬間から結末が分かっていて、その全てがこちらの想定通りに進んでしまうのである。そんな映画でヴィジュアルにも力がないとなれば何を見ろというのか。脳内ニューロンの発火何万分の一秒を3時間に拡大しただけの、見るべき所が何もない映像体験だった。

2. エルヴィス

カットが多過ぎる。折角魅力的なテーマで、資金も潤沢にあって、役者も皆魅力的なのに編集で全てを台無しにしてしまった。バズ・ラーマンがマキシマリストであるのは理解しているつもりだが、それにしても演出に芸がなく彼の過去作と比べても度を越してカットが多く、一辺倒だ。

これはどう考えても売れたいという欲が、つまり若者って集中力がないんだろ?だったら細かくカットしてしまえ、という横槍が編集段階で入ったのだとしか思えない。或いはバズ・ラーマン自身がそう考えたのか。真相は分からないが、カットが多過ぎるのは明らかで、そしてそれは間違った選択だった様に思われる。

例えばハリー・スタイルズが着るグッチはゴージャスで素敵だが、同じグッチでもそこらの成金やホストが着れば途端に品の無い服に変わってしまう。それと同じでロミオ+ジュリエットではゴージャスだった演出も、エルヴィスでは下品な代物に堕してしまった様だ。

3. ミッドサマー

フローレンス・ピューに寄り添っている様で全く彼女のことを見ていない。そして異端の捉え方がステレオタイプ過ぎて嫌悪感を覚える。どう考えても終盤、ジャック・レイナーがセックスする必要はなかった。

序盤でレイナー諸々男友達が、フローレンス・ピューに対して「あのウザい女も来るの?」というリアクションをして煙たがる描写がある。精神が疲れ切ってしまった彼女はそれでも何処か彼氏に依存していたのだ。ただそんな彼女も儀式に参加し、新しい、回復した女性に生まれ変わる。それは良い。問題はジャック・レイナーとの関係性だ。

彼が内心彼女をウザい女だと思っていて、彼女はそれに気づいていないとしたらその時点で関係は冷え切っていたのだと分かる。肉体関係が続いていたかどうかは分からないが、重要事項では無くなっていたのだろうと想像は出来る。

だとしたらフローレンス・ピューにとっての最後のショック、号泣のきっかけは彼氏が他の女とセックスすることではないだろう。彼女にとって辛いことであるには違いない。だが明らかに映画のテーマと合っていない。彼女にとって最悪の事態は、ジャック・レイナーが彼女を道具にしてしまうこと、トラウマを負った彼女にとって唯一の支え、人間たる繋がりだった彼に人間よりも道具として使われていたのだと理解すること。それによって自分が何も回復していないと知ることではないのだろうか。もしセックスが浮気程度の意味合いならば、寧ろ彼女は人間として見られていたと考えることも出来るし、それは冒頭のシーンとマッチしない。

異端の宗教、不気味なものなんだから性の儀式がある筈だ、というステレオタイプに基づいてシーンを作った様にしか思えず、彼女の最後の笑顔も嘘くさく感じられてしまったし、何よりフローレンス・ピュー演じる女性に不誠実だろうと思った。この部分に感じた嫌悪感は見逃すことは出来なかったし、その意味でワースト映画である。

4. ANNA/アナ

リュック・ベッソンのアクション映画。これはとっても面白かった。主演の女優さんも格好良く、魅力的だったと思う。ただ脚本の作りは問題ありで、その語り方は禁じ手だろうと感じた。

この映画サスペンス調になっているのだが、一つのシークエンスで語れる所まで語り、主人公が追い詰められた段階で時間を戻す。そして「実はこういう仕掛けがありました」と明らかにして救済し、次の展開へ持ち込むという構造になっている。種をバラさずに終盤まで引き継いでこそのサスペンスだろうし、この「実はね」という語りは後出しジャンケンの様な反則の手法だと思う。

何より監督はリュック・ベッソンである。彼ならシンプルなサスペンスとしても描けただろうに、という点も相まって残念だった。

5. CASSHERN

こちらも面白い映画ではあった。が、脚本に問題ありだと思う。よくヒーロー映画は必ずハッピーエンドで終わるから面白くない、という意見を聞くがヒーロー映画の本質は寧ろその決まったオチにあると言える。如何に終幕を幸福そうに見せることが出来るか、問題が解決した様に見せるか、このベールの役割を果たすのがスーパーヒーローなのである。

従ってこの映画のオチは至極正論なのだが、その正論をどう捻じ曲げて幸福感を演出するか、その点にこそスーパーヒーローの存在意義があるとすれば、何の為にキャッシャーんが生きているのか分からなくなってしまった。辛いことを覆い隠して見ないフリをさせてくれるからこそスーパーヒーローはありがたいのである。

それから宇多田ヒカルの主題歌にも疑問を感じた。歌のメッセージが映画と全く同じなのである。だったら歪なハッピーエンドに持ち込んで、最後に流れる主題歌がそれを皮肉る、みたいなオチの方が面白かったのではないだろうか。

撮影もセットも素敵だったが、結局脚本が考えることを放棄している様に思え、だとしたら何の為にこの映画を見ているのだろう、という疑問に答えが見つからない部分が問題だと感じた。