知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【イギリス映画史】ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ/フリー・シネマ運動とは何か

17 (Fri). Feburary. 2023.

筆者がイギリスへ留学する、映画の勉強をする、と語った際に飽きるほど聞かれた質問がある。何故アメリカじゃないの?イギリス映画って例えばどんな映画があるの?007、トレインスポッティングノッティングヒルの恋人は分かるけどそれ以外には?

確かにフランス映画を10本答える方がイギリス映画を10本答えるよりも簡単かも知れない。だから実はイギリスにもBritish New Waveという画期的な映画群が存在したのだ、という事はマニアックになり過ぎるので遠慮して(というよりも面倒で)答えていなかった。

フリー・シネマ、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ、キッチンシンク・リアリズム、イギリス・ニュー・ウェイヴ.....

呼び方は多種多様にある様だが、それらは後ろで整理することとして、この記事では現代まで根強く影響を与えるイギリスの映画群について紹介することを目的としたい。ケン・ローチ(日本では是枝監督が敬愛していることで有名)は勿論、かのトレインスポッティングBritish New Waveの延長線上にあり、近年でもフィッシュ・タンクといった傑作映画にその影響を見ることが出来る。

少々長い記事になるかも知れないが、休み休みにでも読んで貰えれば、そしてイギリス映画を見る際には度々思い出して頂ければ幸いである。どうやら本格的な情報源はネット上には存在しない様であるから、尚更だ。

それでは早速フリー・シネマが生まれた当時の社会背景から見ることにしよう。

Albert Finney in Saturday Night and Sunday Morning (1960)

30年代~50年代半ば:苦難の時代

イギリス映画史上、1930年から50年代半ばまでは暗い時代だったと言って良いだろう。決して優れた作品が作られなかった訳ではなく、又才能ある監督らが生まれなかった訳でもなかった。1930年代からキャリアをスタートさせた監督としてはアルフレッド・ヒッチコックデヴィッド・リーンキャロル・リードマイケル・パウエルなどがいるが、これらの名前を並べただけでも充実した顔ぶれであったことが分かるだろう。

ただ何にせよ競争相手が悪過ぎた。天下のハリウッドである。サイレントからトーキーに移行する中でアメリカは徐々にフィルムメーカーの頂点と見做される様になり、サウンド到来以降その地位は揺るぎないものとなった。「天国よりも多くのスターを」の合言葉で、或いは「ハリウッドの夢工場」というキャッチフレーズが象徴する通り、その後の栄華は皆が知る通りである。

だから勿論イギリス映画もハリウッドとの競争に敗れていく訳だが、その敗れ方というのが酷いものだった。ハリウッドへの引き抜きである。コミカルな大衆娯楽ではハリウッド映画に圧倒され、せっかく発掘した才能もアメリカに渡ってしまう。先に述べた監督で言えば最後までイギリスに留まったのはマイケル・パウエルのみ。他はキャリアの頂点をハリウッドで迎える事となった。

俳優らに関してもオードリー・ヘップバーンジョーン・コリンズはイギリスでキャリアをスタートさせており、名優ローレンス・オリヴィエにジョン・ギールグッドも英国で舞台俳優として活躍していたが、彼らも皆ハリウッドにスカウトされ渡米している。

こうした引き抜きを経験し、イギリス映画は次第に競争力を失い、当時世界一の帝国として持っていた先進国としての矜持は映画産業に於いて失われることとなった。

確かに1936年には歴代最多本数の映画が製作されていたりと30年代をイギリス映画の黄金期と呼ぶ向きもある。またコメディからホラー、戦争映画など多種多様な映画を生産し、後に合併されてBBCの成長を後押ししたイーリング・スタジオの存在も見逃せない。この期間を必ずしも苦難の時代だったとばかり呼ぶのは一面的に過ぎるだろう。

しかし、である。第一に英国人からの評価が芳しくない。既に述べた通り、当時の英国映画界はクリエイターの引き抜きに苦しんでいた。苦しみながらもハリウッドに対抗しようとしていた。結果彼らが作り出す映画は中流階級向けの、お洒落ぶった、一般に受け入れられない様な作品になってしまった。これは当然受けが悪く、「そんな映画を見るならハリウッド映画で良いんだよ」というリアクションに終始してしまった。

そして第二に、このハリウッドの二番煎じという結果がイギリス人にとっては受け入れ難いものだった。WWII終戦前まではイギリス人は自国を世界一の強国と、少なくとも一番手の国の中の一つだと捉えていた。軍事、文化、経済、領土、あらゆる面でイギリスはアメリカと対抗できるだけの力を持っていたのである。勿論のこと映画でもアメリカを出し抜いて1番になろうと彼らは考える。しかし、どうやらハリウッド映画にクオリティでは及ばない様だ。そして終戦後の50年代にはアメリカが圧倒的な覇権を手にした事が明らかになってしまった。これは戦勝国でありながら、幾許かの敗北感を与えることになったという。

結果イギリス人は30年代から50年代半ばまでの自国の映画を評価しないことが多い。そして多分どれだけ贔屓目に見たとしてもこの時代の映画を「一級品」と見做すことは難しいだろう。寧ろ当時のイギリス文化は映画以外の領域に強みを持っていた。

文化的土壌:リアリズム文学とドキュメンタリー

ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴに直接関係する文化的土壌として先ずは文学を挙げることが可能だろう。戦間期のイギリスはジェームス・ジョイスバージニア・ウルフに代表されるモダニズム文学の流行があった。そしてそれに対するカウンターとしてのアンチ・モダニズム - これはC.P.スノウらが率いた運動だが - の勃興が第二次対戦後に見られる。

今回取り上げるのはアンチ・モダニズムの方で、直接的な表現、リアリズム的な描写、反都市社会的性格などの要素は当時の大衆にとって大きな魅力があった様だ。アンチ・モダニズムと言えば伝統的、宗教的な文学への回帰といった特徴も持ち合わせる筈で、必ずしもリアリズムとの符号を指す訳では無いだろうが、戦争=重工業の暴力を目の当たりにした民衆にとってそんな食い違いは些細なものだったのかも知れない。或いは戦時の名残、共産主義への嫌悪が国民の保守化を促したのかも知れない。いずれにせよアンチ・モダニズム文学は中々の人気と影響力を有しており、後に説明する様にブリティッシュ・ニュー・ウェイヴに属する映画はこれらの文学作品を脚色することが多かった。

もう一つ重要な文化要件にはテレビとドキュメンタリーの存在が指摘される。Documentaryという単語を生み出したのは批評家であり映画監督でもあった。John Grierson(ジョン・グリアソン)だと言われているが、彼は1929年にDriftersというドキュメンタリー映画を監督する。その中身は北海のニシン漁師の生活を研究するというもので、本物の(authentic)民衆の暮らしを左翼的観点から映し出すことを目的に製作された本作はドキュメンタリー映画の理論的発展に大きく貢献した(この流れちょっと『蟹工船』に似ていなくもない)。後続の作品はこれに倣い漁師や工場労働者、従軍兵士などをリアルに描くことを目指し、ブリティッシュ・リアリズムの原型が形作られていくのである。

1950年代に入ってもドキュメンタリーの勢いは衰えない。例えばThe Cruel Sea(1953)は対Uボート戦に挑む水夫を、Every Day Except Chrismas(1957)は青果店で働く労働者を取り上げており、いずれもGriesonの構築した理論に基づく作品となっている。特に後者はリンゼイ・アンダーソンによって監督された作品であり、彼の初期のドキュメンタリーやカレル・ライスのそれは"free cinema"(フリー・シネマ)とも名付けられた。

アンチ・モダニズム文学にしても、ドキュメンタリー映画にしても共通するキーワードはリアリズム、民衆生活、そして反都市社会的性格(≒反ブルジョワ的性格)だ。これらの理念を保持し、2つの全く異なる運動をその母としてイギリス映画は1960年代に進化を遂げることになるだろう。大陸から吹いた新しい風の影響を受けて。

新しい風:ヌーヴェル・ヴァーグ

そう、新しい風とは勿論フランスで起こったヌーヴェル・ヴァーグのことだ。王手飛車取り(1956)、大人は分かってくれない(1959)、勝手にしやがれ(1960)、60年代を目前にフランスから(恐らく歴史上最も)革新的な映画運動が誕生したのである。ヌーヴェル・ヴァーグ自体はそこかしこで語られているから今回は割愛するとして、注目すべきはその広がり、世界中この運動に共鳴する映画運動が誕生したことだ。

他にもジョン・カサヴェテスなど様々な監督が、様々な国で独自の映画運動を展開していく。いずれもがハリウッド的メロドラマに反旗を翻し、ロケーション撮影、即興演出、メタ的構造、ブルジョワ的価値観や政治的権力への反発などを特徴として持っていると言って一先ず差し支えはないだろう。

国際的な広がりの中で、イギリスも当然これに応える形で独自の映画運動を展開していくのだが、そのユニークな点はフリー・シネマとヌーヴェル・ヴァーグ的撮影の親和性だ。一般的には本家ヌーヴェル・ヴァーグにしても、追随する運動にしても既存の映画的慣習への反抗という側面を持っている。だからロケーション撮影はフリー・シネマの文脈上珍しいものではなかったし、精神的にも共通するものがあった。左翼的な言い方をすれば英国で吹いた新しい風は世界的なヌーヴェル・ヴァーグの展開上、唯一第二の闘争段階にいた(第一の闘争段階をハリウッドへの反逆だとすれば)のである。

このイギリス版ヌーヴェル・ヴァーグを指してブリティッシュ・ニュー・ウェイヴという単語が使われるのだが、その中身を確認する前に用語の整理をしよう。

既に述べた通り、リンゼイ・アンダーソンやカレル・ライスらの手がけた50年代のドキュメンタリーはフリー・シネマと呼ばれるが、実はこの名称はSeuqenceという映画雑誌で提唱されたものだ。そしてSequenceの主な寄稿者はリンゼイ・アンダーソンにカレル・ライス、ギャヴィン・ランバートとなっている。明らかなカイエ・デュ・シネマとの類似性が見られると分かるだろう。彼らもまたゴダールトリュフォーの様に理論的発展を最初に志したのである。そんな彼らが映画、物語的映画に挑戦し、撮影された作品群をBritish New Waveと呼ぶのだ。

しかし、である。ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴに属する映画をフリー・シネマと呼ぶこともある。これは恐らく前者を明確に定義した人物がいないことによる。Sequence自体は僅か14号で廃刊してしまい、長続きすることはなかったから、その意味でフリー・シネマに終わりが宣言されることはなかった。そして同じ運動の担い手がブリティッシュ・ニュー・ウェイヴを展開するのだから、両者が混同されるのも無理はないと言えるだろう。一応ここではドキュメンタリー映画をフリー・シネマと、物語映画をブリティッシュ・ニュー・ウェイヴと呼んで区別したい。

”キッチン・シンク”リアリズム:詩的リアリズムとは何か

ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの中身について見ていこう。これらの映画は"Kitchen Sink Realism"であるとか、"British Social Realism"の特徴を持っていると表現される。ここでも使い分けが煩雑になっているから先に用語を整理してしまう。

                                           

  • キッチン・シンク・リアリズム

ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴに分類される映画は劇や小説を原作にしていることが多いが、それら原作作品をも含めた芸術作品が有している特徴を総称した用語。絵画などにも適用される。これらの作品は労働者階級の非富裕層を描き、時に社会問題(人種・性・非行など)をも隠すことなく描写するだろう。方法論としてはドキュメンタリー的リアリズムと反年社会的アンチ・モダニズムの融合を目指しており、簡素なリアリズムでありながら空想を否定することはない。優雅なハイ・カルチャーと対比して「見たくない」現実を描いているという意味で、侮蔑的にキッチン・シンクと呼ばれた。

映画史で使用された用語で、60年代以降に登場したBritish New Waveの精神を持つ作品を指す。従ってキッチン・シンク・リアリズム作品の内の映画群だけを指し、かつ精神性を一にする後世の作品(ケン・ローチマイク・リード)も含む。実質キッチン・シンク・リアリズムとブリティッシュ・ソーシャル・リアリズムと言った時に指し示す映画的特徴は等しいが、前者が侮蔑的な由来を持つのに対し、後者は寧ろ尊敬の意が込められている。但しNワードの様なネガティヴな感情はなく、どちらの呼称を用いても60年代の映画に関しては構わないだろう。

                                           

映画以外にも言及したい場合はキッチン・シンク・リアリズム、時代を限定せず広く特徴を伝えたい時はブリティッシュ・ソーシャル・リアリズム、60年代の映画を指す場合はどちらでも構わないと覚えてもらえれば一応問題ないだろう。

舞台はイギリスの地方都市・工業都市が選ばれることが多く、そこで生きる若者が主人公として選ばれることが多い。リアリズムの文脈に従って彼らは社会問題を前に苦しんでおり、例えば貧困や人種、性産業の搾取などを赤裸々に描いている。これだけであればただのリアリズム映画であるのだが、ブリティッシュ・ソーシャル・リアリズム映画の最大の魅力はその詩的情緒にある。

基本的な社会派映画はビジュアルの美しさを持たないし、登場人物が戦わないことがない。映画の方法論がリアリズムにあり、そして社会問題に対する解決を意図としているからだ。視覚効果を追求するモンタージュや不誠実な主人公のキャラクター設定は、主題を曖昧にするもの=雑音として処理されてしまうだろう。

対してキッチン・シンク・リアリズムの場合、キッチン・シンクというだけあって主人公は誰も聖人君子ではない。酒に酔って階段から転げ落ちたり、恋人に嘘をついたり、不貞を働いたり、窃盗を働いたりする。それが実世界に存在するリアルな人間像だからだ。彼らは社会問題の蔓延る都市から逃げ出して、田園暮らしを夢見るし(戦わない主人公)、いざ権力に反抗するとしても逮捕されないギリギリのおふざけでしかない。その点でカー・チェイスや銀行強盗を始めるアメリカン・ニュー・シネマとも異なる訳だ。

そして現実社会で問題が決して解決しない様に、映画の結末で何かが解決することも稀だ。この点に対して大人は分かってくれない、からの影響を指摘する声もあるが、筆者としては詩的性格から由来するものが多いのではないかと思う。闘争がなければ解決もないからだ。筆者の目にはアントワン・ドワネルは十分闘争している様に見える。例えばケン・ローチの代表作ケス考えてみよう。主人公の少年は学校でもいじめられ、家庭でもいじめられ、金もなければ夢もない。何に対して怒れば良いのか分からないから、何らかの闘争を始めることもない(精々が牛乳瓶を盗むくらい)。そんな彼はポエティックな行為に、鷹を調教することに夢中になる。恐らく鷹は空高く飛び上がることの象徴であると共に、少年自身が社会に飼い慣らされていることのメタファーでもあるのだろう。彼の生活は正しく飼い慣らされた鷹の様に社会をフラフラと飛び回ることだけだ。その浮遊性は正しく詩的で、映像にも辛辣さがない。そして案の定彼の人生は映画の結末でも好転しないのである。これはアントワン・ドワネルとは大きく異なっていて、彼の場合決して上手くいかないながらもバルザックを盗んでみたり、タイプライターを売ろうとしてみたり、家出という手段で親に対抗しようとしている。何処にも出口はない、という結末は同じでもその精神性は大きく異なる筈だ。

ドキュメンタリー的なテーマ選択をしながらも、文学的な目で、詰まり安易な解決を目指さず浮浪する人間を描く事がブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ映画の本質である、とまとめよう。40年代・50年代から続く文化的土壌を巧みに融合し、成立した映画運動がブリティッシュ・ニュー・ウェイヴなのだ。曖昧なテーマ、釈然としない結末、無駄な視覚効果、これらは欠点ではなく正にその映画を唯一の作品たらしめている美点なのである。

それでは最後に代表作品を何本か紹介して終わりにしよう。

代表作品:再評価される傑作たちとそのDNA

1. 土曜の夜と日曜の朝 [Saturday NIght and Sunday Morning](1960)

カレル・ライス監督。どれか一本だけ選んでお薦めする、という事であれば筆者は迷わずこの映画を挙げる。ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの代表作であり、恐らく最高傑作だ。ここまで付き合ってくれた読者には本作だけでも見て欲しいと強くお願いする。

何と言ってもビジュアルが最高だ。機械工場で労働者たちが何らかの部品を作っている所から映画は始まる。舐める様に動くカメラは主演のアルバート・フィンリーを捉え、彼が研磨器のボタンを押すと轟音の代わりにイカしたジャズが流れ出す!最高にクールな演出だ。そしてフィンリーは同僚の愚痴を並べ立てるのである。これ程魅力的なオープニングもそうないだろう。

筋自体も分かりやすくキッチン・シンク・リアリズムであり、これ一本見るだけで大凡の雰囲気が掴めるのではないだろうか。橋の上で不倫相手を待つショットも映画史に残る美しいショットとして有名である。

2. うそつきビリー [Billy Liar] (1963)

ジョン・シュレシンジャー監督。土曜の夜と日曜の朝が最高傑作なら、此方は私的な偏愛映画である。筆者としては此方の方が圧倒的に好みだ。オアシスの"The Importance of Being Idle"でパロディにされているから、その意味で知っている人も多いかも知れない。

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主人公で葬儀屋で働くビリーは幾つになっても親元で暮らしており、口煩い父親や偏屈な上司に飽き飽きしている。ガールフレンド(達)も鬱陶しい。そんなビリーの唯一の楽しみは空想に浸ることであり、上司を撃ち殺す妄想やムッソリーニに扮して演説をぶつ妄想だけが彼に生を実感させてくれる。そのビリーはふとしたきっかけで日頃の虚言が現実になるチャンスを掴むが、その選択を前に....という筋書きで、強烈なビジュアルと中身のある物語で他のリアリズム映画とは一線を画している。

3. 蜜の味 [A Taste of Honey] (1961)

トニー・リチャードソン監督。ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴもう一つの最高傑作。一般的には土曜の夜と日曜の朝、時点で本作が挙げられる。

主題には相応しくない母親、人種問題、青少年による非行など当時の映画界ではタブーとされた問題を詰め込んでおり、その衝撃からキッチン・シンク・リアリズムの代表作とも評される。今日ではすっかりタブーでもなくなり、珍しくも無くなってしまった事で個人的には土曜の夜~に劣るものがあるかな、といった印象は受けるものの、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ研究の上では絶対に外すことの出来ない一本である事には変わりない。

4. 怒りを込めて振り返れ [Look Back in Anger] (1959]

同じくトニー・リチャードソン監督作。ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの中でも最も初期の作品で、かつアイコニックな主題(Angry Young Man)を取り扱うことから、運動の嚆矢となった作品とも称される。

舞台演出も手掛ける監督なだけあって、今作の最大の見どころは怒れる主人公を演じるリチャード・バートンの演技だろう。映画としてはサンセット大通りの邦画優れているとしても、ファム・ファタールと言えば上海からきた女のリタ・ヘイワースの名前が挙がる様に、映画としては土曜の夜〜が上でも、怒れる若者としては本作のリチャード・バートンが想起される。

物語の起伏が分かり易いのもポイントで、ハリウッド的な爽快感を脚本に求める場合まず鑑賞してみるのも良いだろう。

5. 孤独の報酬 [This Sporting Life] (1963)

リンゼイ・アンダーソンの物語映画としては初監督作品であり、If.....もしも、に先立つパルムドールノミネート作品(因みにこの年のコンペティションには23本ノミネートされているらしい。流石に多すぎでは?)。

怒りっぽく、力強いラグビー選手であるリチャード・ハリスの生活を描く本作だが、フラッシュ・バックが使用されたり、キャラクターの多面性が描かれたり(テンプレートだけを見せたり、アイデンティティーの欠如を強調するのでなく)とキッチン・シンク・リアリズムの典型に留まらない部分も多い。後ろでも述べるが、リンゼイ・アンダーソンは運動の中心にいながらにしてブリティッシュ・ニュー・ウェイヴのスケールに収まらない才能を持っていた監督だったのかなと思う。

6. 長距離ランナーの孤独 [The Lonliness of The Long Distance Runner] (1962)

トニー・リチャードソンが蜜の味の翌年に撮った映画。怒りを込めて振り返れ、では初期衝動が映画の中心にある様な印象を受けるが、こちらは極めて詩的性格が強く、運動の円熟、乃至はマンネリ化をも感じる作品。

映画のオープニングからがして長距離走に取り組む主人公を捉えつつ、彼はなぜ走るのかを問うナレーションを被せる、というもので怒りを込めて振り返れ、とは大分異なった印象を受ける。作品全体の作りとしても上で解説した諸特徴に合致する部分が多く、一つの完成形として見ることが出来るのではないだろうか。

7. If.....もしも [If.....] (1968)

ここで紹介する映画の中では最も有名、と言うより最も後世に残る可能性が高いだろう映画ではないだろうか。リンゼイ・アンダーソン監督作品。『死ぬまでに観たい映画1001本』にも掲載されている。極め付けにカンヌでパルムドールまで獲得もしている。

確かに大傑作で間違いはない。間違いはないが、どうにも良く出来すぎている。と言うよりも作品のスケールがブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの枠を飛び越えてしまっている様な、そんな印象を筆者は持った。喩えれば2001年宇宙の旅SF映画です、と紹介するには何とも抵抗があるという感覚に近い。

ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの代表作、という位置付けになっているから紹介はするものの、その先入観は作品の価値を下げてしまう事に繋がるかも知れない。鑑賞難易度は恐らく最も低いだろうが、この作品から見始めることは筆者としては出来れば避けて頂きたいと思う。

8. 年上の女 [Room at the Top] (1959]

ジャック・クレイトンの初長編監督作。彼は後に女が愛情に渇くとき(1964)、を発表しブリティッシュ・ニュー・ウェイヴを新たな方向に向かわせた、と評価もされる非常に重要な監督である一方、作品やタイミングにも恵まれず順風満帆なキャリアを送れなかった人物でもある。

本作は階級社会の下層で生きる野心家の主人公ローレンス・ハーヴェイの不倫譚となっており、プロット的にはそこまで目新しいものではない。面白いのはX指定(日本でのR-18指定)に分類されたその強烈な官能とフィルム=ノワール的な撮影である。リアリズム映画というだけあって、階級社会の描写は正確だが、それに留まらずイギリス映画では恐らく初めて正面からセックスを描いた点でも評価が高い本作は批評家からも高く評価されており、屡々土曜の夜~、蜜の味に次ぐ傑作とも評価されている。

9. ザ・レザー・ボーイズ [The Leather Boys] (1964)

シドニー J. フューリー監督。ロッカー(走り屋?)の若者たちを描いた作品で、その中の一人にゲイの青年が登場することからクィア・シネマの先駆けとして注目されたりもする。ロード・ムービーという訳ではないものの、バイクからの疾走感あふれる映像はかなり先駆的なものだったのではないだろうか(勝手にしやがれ、冒頭の影響があったりするのだろうか)。

話の典型として工場労働者が不倫する、というのが一般的になったブリティッシュ・ニュー・ウェイヴに於いて異色の作品とも言えるかも知れない。

10. L型の部屋 [The L Shaped Room] (1962)

ブライアン・フォーブス監督作。身籠った女性が主人公で、ロンドンのL字型のアパートに引っ越してきた彼女が、これから生まれてくる子供の処遇に悩む様子が描かれている。結婚するか、堕すか決めなさい、というテーマは現代でも十分通用すると思う反面、11本紹介する中では魅力に欠ける部分もあり、L字型という空間の面白さ以外には見る所の少ない印象。

11. 寄席芸人 [The Entertainer] (1960)

同じく他のブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの映画群と比較して印象の薄い作品。売れないコメディアンが四苦八苦してキャリアを終わらせまいとする物語。主演をローレンス・オリヴィエが務めたことが最大の注目点だろうか。

コメディアンという主題の性質上スペクタクル的な部分も多く、運動の中心からは外れているという印象で、上記の作品を全て鑑賞し、非常に気に入ったので他の作品も見たい、という方にはお勧め出来るかも知れないが、やはり先ずは土曜の〜などから鑑賞されると良いと思う。

                                           

ここから先はブリティッシュ・ニュー・ウェイヴには属さないもののブリティッシュ・ソーシャル・リアリズムに属するだろうと思われる作品を紹介する。

12. ケス [Kes] (1969)

ケン・ローチの映画は正直どれを取り上げても良い気がするのだが、一応最も高く評価されているだろう本作を。粗筋は先に書いた通りである。年代的にはブリティッシュ・ニュー・ウェイヴに分類しても良さそうだが、敢えて区別したくなるのは演出の恣意性の為だろうか。

例えば怒りを込めて振り返れ、では軽妙なジャズが聞こえてきたり、高らかな鐘の音がなったりと主題の重さに比例して明るさが、詩的性格が見られるのに対し、ケスに於いてはそうした明るさは意識的に隠されている様にも見える。ポエティックな側面は残しながらも視線が恣意的になり、社会派映画に近寄ったとも言えるだろう。11番までの映画が好みでなかった人は気にいるかも知れないし、逆もあり得るかも知れない。

因みにケン・ローチはイギリス国内では非常に知名度が高く、イギリス出身の監督というと真っ先に名前が出る。かと言ってよく見られている訳でもなさそうなのだが、その辺り日本での黒沢清監督の立ち位置に近いだろうか。「名前は皆知っていて、凄いらしいと聞いたことはあるが作品を見たことのある非映画ファンは少ない」という立ち位置の監督である。

13. バビロン [Babylon] (1980)

フランコ・ロッソが監督を務めたカルト映画で、画から溢れる熱量が凄まじく、音楽も非常にエキセントリックでクールだ。レゲエのDJを務める黒人男性が主人公で、彼はフロアで活躍するのとは対照的に人種問題や貧困に悩まされている。Gritty, ブリティッシュ・ソーシャル・リアリズム特有のざらついた質感が他の映画群との共通点であり、特に警官から暴行を受けるシーンなどに顕著に見られるだろう。

フランコ・ロッソという監督を筆者はこの作品でしか知らないが、ドキュメンタリーなどを手掛ける人物の様で、その辺りが画作りの質感と関わっているのかも知れない。例えばハーモニー・コリンラリー・クラークの映画と似た印象を受ける部分もあるが、彼らの映画ほど洒落た作りとはなっておらず、その点ラジ・リ監督が作り出す映画に精神的には似ていると言えるだろう。

14. ビバ!ロンドン!ハイ・ホープス〜キングス・クロスの気楽な人々〜 [HIgh Hopes] (1988)

Filmarksを見ると量産型コメディ映画の様な邦題が付けられているが、列記としたソーシャル・リアリズム映画。秘密と嘘、で著名なマイク・リー監督の作品だ。

不適格な程の楽天主義に支配されたキングス・クロスに住む一組のカップル(ターミナル駅を一度離れると富裕層や中華系の住民が目立つ静かなエリアだ)に注目しつつ、様々な階級に属する彼らの家族が絡み合い子供を産むべきか否か、落とした鍵はどこへ行ったのか等々議論が展開されていく。

Grittyなヴィジュアルと階級描写の巧みさは正しくブリティッシュ・ソーシャル・リアリズムに属するもので、且つコメディとしても成立しているというのがこの作品の評価を高めているポイントだ。反面脚本なし即興演出という手法の所為か推進力にやや欠ける部分もあり、特にイギリス社会に対して関心のないオーディエンスに如何に訴えかけるか、という部分に答えられている様には思えなかった。無条件に見て面白いと思えるかどうか。これに関しては少々の疑問もあり、良い映画ではあるものの無条件で勧められないだろうというのも事実である。

15. ロンドン [London] (1994)

パトリック・キーラー監督作で、この映画を以てBFI上で「ピーター・グリーナウェイに次ぐ才能」とまで言わしめた作品。

映画はナレーターによるコメントと、ロビンソンという決してカメラの前には現れないキャラクターの姿を追いかける形で進んでいく。カメラは基本的にスタティックで、サッチャリズム下のロンドンの表皮を捉えていく。ナレーターの台詞は常に辛辣で、彼の批判的精神が都市の下に隠された問題を炙り出す様に、掬い上げる様に観客に語りかけてくる。

イギリス国内では非常に評価が高く、後には続編も2本製作されトリロジーとなった。psychogeography(心理地理学)の映画的応用であるという風にも捉えられており、確かにピーター・グリーナウェイも初期にwindowという短編を撮っているあたり似ていなくもないのかも知れない。

16. ディス・イズ・イングランド [This is England] (2006)

スキンヘッド(レイシストの典型)の集団で翻弄される少年を描いた本作は、シェーン・メドウスが監督で、彼の半自伝的な物語となっている。筆者も正直よく分かっていないのだがイギリスに於ける人種差別というとこの白人スキンヘッドの集団によるものが真っ先に想起されるらしく、というのも80年代に社会問題化した若者のサブ・カルチャー的な流行があったそうだ(エンパイア・オブ・ライトにも似た様な集団は登場していた)。

音楽やファッションとも綿密に関係したこのレイシストたちを内側から観察しつつ、個人の物語とリンクさせていく(社会派作品に留まらずに人が存在している)点は優れている反面詩的情緒に欠ける様に見えるのは先行作品との相違か。当初の文学的・ドキュメンタリー的リアリズムが影を潜め、映画的リアリズムに接近した印象をも受ける。

17. フィッシュ・タンク [Fish Tank] (2009)

批評家を中心に大絶賛だったアンドレア・アーノルド監督の出世作にして代表作。一応あらすじとしてはダンスを生きがいにする少女が母親の友人と出会ってダンスコンテストに挑戦し...という形だが、正直そんな物語は映画の一部でしかない。筆者は終始ケイティ・ジャーヴィスの歩き方に目を奪われていた。彼女のそれは筆者が普段目にしているイギリスの若者の歩き方と全く一緒なのだ。早足で、肩で風を切るように歩いていくその姿は常に苛立っている様で、そして何か不満そうな、一目で「イギリス人の歩き方だな」と分かるものなのだが、それがスクリーンにそのまま映し出されている。

歩き方一つで国籍が分かり、彼女の感情も手にとる様に分かる。これは早々あることではないし、的確に捉えるのは簡単そうに見えて非常に難しいことだ。邦画で喩えると蛇にピアス吉高由里子の立ち居振る舞いなどが当たるだろうか。最初、彼女が立っている姿だけでこれから何が起こるか分かる様な、そして日本の女の子だと分かる様な、そうした情報量がある。正にリアリズムの極地であり、素晴らしい映画だったと思う。

                                           

さて全部で17本だ。ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴという映画史的側面から大切な作品であることは勿論、イギリス文化を知る上でも重要な作品たちである。今回Billy Liarという傑作映画に出会ったことで筆者か記事を書くことを決めたが、他の映画もどれも見所があったし、もっと広く知られて欲しいと改めて強く感じた次第である。

直ぐには入手できず已む無くクリップとレビューだけを読んで書いた解説もある(レザー・ボーイズ他)。ジェームス・ボンド制覇と併せて筆者の留学中の目標にしようと思うが、読者の方々にも是非コンプリートを目指されては如何だろうか。