知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】メソッド・アクティングの罪と性的暴力/ボーイズ・ドント・クライ(1999)

22 (Fri). July. 2022

演技にリアリズムを獲得する上でメソッド・アクティングが如何に強力で有効なツールか、このことは既に十分論じたつもりだ。

sailcinephile.hatenablog.com

理想的な演技が登場人物と俳優自身の境目が消失する様なものであるとする時、俳優は正に登場人物と同等の動作をする必要がある。そのことによってカメラに捉えられる演技は真の感情を表現することが出来るのであり、その為に役者は徹底的なリサーチを実行し、且つ行為そのものをキャラクターに近づけなければならない。これがメソッド・アクティングの骨子である。

所が、これも既に述べた様に、現代ではメソッド・アクティングは優れた演技法というよりも寧ろ俳優やスタッフを攻撃する有害な方法論であると捉えられる様になっている。その一つの契機となったのは間違いなくジャレット・レトがジョーカーを演じたスーサイド・スクワッドであるが、他にも俳優の演技に対するアプローチが問題となった例は枚挙に枚挙に遑がない。

具体的には1999年の映画、ボーイズ・ドント・クライを取り上げたいと思う。主人公を演じたヒラリー・スワンクは実際にメソッド・アクティングを取り入れ本作に向けて準備したと言われているが、そのアプローチは筆者としては大いに問題であったと思う。概観の後詳しく解説したい。

Hilary Swank in Boys Don't Cry (1999)

アイデンティティの侵害

メソッド・アクティングの問題点と言って真っ先に挙げられるのが肉体重視の価値観への反対である。確かに役柄の為に体重を落としたり、髭を伸ばしたりすることで演技にはそれらしさが添加される。しかしスタニスラフスキーが主張する様な深い感情の表現に必ずしも繋がるものではないという批判だ。

筆者としてはこの批判は的外れだと思っており、そもそもメソッド・アクティングはリアリズムを追求する際にしか採用されないのであって、それならば肉体を変形することは当然のことだ。ミザンセンを適切に機能させる、即ち現実的な描写を獲得する上で俳優の肉体をシーンに沿うものに変える努力はなされて然るべきだと思うし、その上で感情の表現が伴わないというのは役者の力量の問題でもある。

例えばNHKが制作した戦争ドラマ太陽の子(るろうに剣心The Final でも良い)に出演した有村架純。彼女がメソッド・アクターでないことは十分了解しているが戦争ドラマであるにも関わらず(且つ物資に欠けているという状況設定にも関わらず)肉体の変形を試みないのは如何なものか。ミザンセンからすっかりリアリズムが欠けてしまい、かと言って心情を抽出する様な演出をしている訳でもないから観客に訴える力が欠けてしまっている。俳優として肉体をキャラクターに近づける努力は多かれ少なかれ必要だろうし、メソッド・アクティングはその極端な方法だとすれば、感情の表現はあまり問題とはならない。

本当にメソッド・アクティングが問題となるのは肉体を変形することによる俳優自身の精神、延いてはアイデンティティが破壊される危険を孕んでいることだと思う。メソッド・アクティングは準備期間から、そしてプロダクション中もカメラの外でさえキャラクターに接近することを要求する。これは必然的に普段無意識に行なっていた動作を禁止し、不自然な行為をするということであり、また肥満や痩身など適正体重から程遠い体型は著しく精神に悪影響を及ぼす。

具体的に考えてみよう。レクイエム・フォー・ア・ドリームで薬物中毒の主人公を演じるにあたりジャレッド・レトは一切の性行為を断ち、その性衝動を代わりとして薬物中毒の渇望を表現していた。これはスクリーン上のみを見る我々からすれば素晴らしい演技であったが、ジャレッド・レトは当然銀幕の中に存在している訳ではない。彼自身にも我々と同様プライベートの生活があって、メソッド・アクティングにより(性行為の禁止)彼の個人的な生活が悪影響を受けたことは否定できない。

マリリン・モンロー等も役作りを通じて精神の安定が損なわれていたと報告されているが、この様にメソッド・アクティングによる肉体の変形はオンとオフのスイッチを切り替えることを難しくさせ、俳優のアイデンティティを破壊してしまう危険性がある。スクリーン上のことだけを考えるならば肉体の変形は素晴らしい影響をもたらすし、まして彼が一流の俳優であれば深い感情が伴ってくる。しかしその一方で彼の個人的な生活、撮影外の生活でもキャラクターを演じ続けなればならず、それは極めて不健康なことだと言える。

実際ジョーカーの為睡眠時間を削って撮影に臨んだヒース・レジャーは彼個人の精神を著しく傷つけ、鬱状態に苦しんだ結果命を落としており、この撮影外の精神の安定は大きな問題だと言えるだろう。

傷跡神話・性的暴力

確かに役柄と俳優の人格の切り替えは大きな問題だ。しかしそれは適切なメソッド・アクティングの実行、或いは十分なアフターケア体制の構築により乗り越えが可能であるとも言える。

だがハリウッドが長年継承してきた傷跡神話とそれに付随する性的暴力の問題は簡単に解決することは出来ない。ここで映画史全体を振り替える紙幅はないから簡単に説明するが、ハリウッドは昔から男女共に傷を見せることをキャラクターに求めてきた。

男性にとってその傷は強さの象徴となる。古くは西部劇の傷だらけのガンマンの肉体(アウトローなど)から近年ではレオナルド・ディカプリオが演じたレヴェナントなど体を傷だらけにすることで強さを表現する演出が見られてきており、寧ろ傷付いていること自体が強さであるかの様に考えられてきた。

故にハリウッド、特にオスカーでは傷付いた俳優が評価される傾向にあり、抑制した演技をする男性は好まれないという傾向にある。ウルフ・オブ・ウォール・ストリートでダラス・バイヤーズ・クラブのマシュー・マコノヒーに負けたディカプリオはレヴェナントで傷つくことで主演男優賞を手にしたし、2003年ジュード・ロウジョニー・デップビル・マーレイを制して栄誉に輝いたのは娘を亡くした男をミスティック・リバーで演じたショーン・ペンだった。アメリカン・ビューティーケヴィン・スペイシーレインマンダスティン・ホフマン。例外もあるが、大半が傷付いて強さを見せつけた俳優だ。

だからメソッド・アクティングを俳優が取り入れる際には輝く為ではなく、傷つく為に行為を変化させることが多い。詰まり弁護士や医者、完全無欠のスーパーヒーローを演じる目的でメソッド・アクティングを取り入れる俳優は少なく、大抵がトランス・ジェンダー鬱病精神障害、肉体の障害などの困難を抱えており、その傷を強調する為に睡眠時間を削ったり瞼を縫い付けたりする訳である。

これは一面では強さの賛美、傷付いて立ち上がる姿こそ素晴らしいという安易な表現に陥ってしまう危険があり(その困難の克服が素晴らしいという事実は否定し難いのだが)、アウトサイダーアウトサイダーとして生きていく、そうした人生を否定し映画を画一化してしまうことにも繋がりかねない。その意味で俳優に傷つくことを求めるメソッド・アクティングは問題だとも言えるし、或いは役者が傷つかないメソッド・アクティングを作り上げる必要があるとも言える。

そして女性の場合、傷つくことはステレオ・タイプとの合致を示す。女性は従来映画の中で傷つくことにより弱者、被保護者としての立ち位置に甘んじてきた。これは映画史上に存在しなかったという意味ではなく(その様な女性は幾らでも発見される)、女性は傷つき易いというイメージを埋め込んできた事実を意味する。

羊たちの沈黙アカデミー賞主演女優賞を獲得したジョディ・フォスター。彼女は極めて有能で、知的、行動力に溢れる強靭な人物だ。続編となるハンニバルでは強引に捜査を進め上司から疎まれてもいる。彼女に一般的な意味での「弱さ」は見当たらないものの、ハンニバルは彼女の中に羊を助けられなかったトラウマ、家庭で恵まれなかったトラウマを見つけ出す。

こうしたトラウマ自身は男女問わず見出されるものだろう。しかし仮にクラリスが男性であればそのトラウマを乗り越えて刑事として成長するだろう所を、ジョディ・フォスターは決して克服しない。その過去の苦悩を抱えたまま彼女は刑事になるのであり、単に殺人犯を捕まえるだけでは羊は救えないと明らかにしている。これは極端な見方をすれば「有能なクラリス刑事も傷(過去のトラウマ)を抱える脆い女性だったんだよね」という物語にもなっている。

強い女性でも、そして弱さを抱える女性なら尚更彼女たちが劇中で経験する(発見する)傷は弱さの象徴として使われており、その点で男性の傷の描かれ方とは逆行していると言えるだろう。メソッド・アクティングが既に述べた通り傷を強調する演技法であるとすれば、それは女性の弱さを意識させる表現方法でもある訳でこれも重ねて問題だと言えるのではないだろうか。

ボーイズ・ドント・クライ

1999年に発表された本作で主演を演じたヒラリー・スワンクアカデミー賞主演女優賞を獲得しており、それも納得の素晴らしい演技を、メソッド・アクティングを取り入れた上で見せていたのだが、筆者としてはこの映画はあまり好きではない。

事実を提示することから始めよう。劇中に見られる様にヒラリー・スワンクは実際に胸部に包帯を巻き、男性器を模した靴下を入れて生活をし、声を低くし、そして体重を落とすためにダイエットを実施した。髪を切り徹底して男性になることを目指したヒラリー・スワンクは隣人をして従兄弟が遊びに来ているのだと本気で信じさせた程だったそうだ。

当たり前の事実としてヒラリー・スワンクと彼女が演じたキャラクター、ブランドン・ティーナは全く別の人格である。

ブランドンは女性に生まれながら男性としての自認を持っており、恋に落ちたクロエ・セヴィニーとの生活を夢見て男性として生きていくことを決める。それはヒラリー・スワンクの人生ではなく、性別というアイデンティティの重大な構成要因を変え、見た目の話し方も服の着方まで変えた生活を撮影外でまでするというのは余りにも役者本人への負担が大き過ぎはしないだろうか?映画の中でそうした人生を描くことは賞賛に値する。スクリーンの中で彼女は素晴らしい演技を見せてもいる。だが既に述べた通り、俳優はスクリーンの中にだけ存在している訳ではない。

メソッド・アクティングという演技法は良くも悪くもキャラクターに完全に同化し、究極のリアリズムを手にすることを可能にする。その副作用として私生活でまでも俳優はキャラクターと同化して生活しなければならないが、筆者にはヒラリー・スワンクとブランドン・ティーナの間の差異が大き過ぎる様に、ブランドンという人格は日頃抱えるには辛過ぎるのではないかと考えてしまった。実際大きな問題は起きなかったから良いものの、メソッド・アクティングとして実行するには非常に大きな危険があったと思う。

詳しくブランドン・ティーナがどの様な人物かについては映画を見て欲しいのだが、その人格は追体験するには痛々し過ぎる。上に習った言い方をすれば傷が多過ぎる。所で監督のキンバリー・ピアースは観客がヒラリー・スワンクに共感する様な映画の作りにはしておらず、その意味で傷痕を弱さとして表現していない。佳作な監督だがその手腕は確かなものだろう。

正直映画そのものに関して筆者の口から言えることは少ないのだが(何故なら全体的に好感を持てずに鑑賞していたから)、最後に1つだけ付け足すとすればこの映画が発表された年に注目して欲しい。

1999年は映画史的には極めて大切な年でアメリカン・ビューティーマトリックス17歳のカルテファイトクラブ、バージン・スーサイドと価値観を揺さぶる作品が立て続けに発表されている。前年にはアメリカン・ヒストリーXが公開されており、この作品とボーイズ・ドント・クライアメリカン・ビューティーまでを繋げると世紀末に如何に人々の価値観が変わりかけていたかが分かるのではないだろうか。

2022年にこうした一連の映画群を振り返って感じるのは#MeTooムーブメントやその他諸々進歩派と称する人々の行動のエッセンスが如何に古くからあるものか、ということであり2001年のあの事件さえなければもっと早くに世の中が変わっていたかも知れない、という事実である。何かしらの危機、国難を前に人々は右傾化する傾向にあると言われるが、アメリカをひっくり返してしまった2001年の直前には素晴らしい映画が沢山公開されていた訳である。ボーイズ・ドント・クライは決して明るい映画ではないが、こうした事実を踏まえながら見ることもまた面白いかも知れない。