知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】映画におけるメソッド・アクティングとは何か/ディア・ハンター(1978)

20 (Wed). July. 2022

ジャック・ニコルソンに始まりヒース・レジャーホアキン・フェニックスバリー・コーガン、アニメ版ではマーク・ハミルと数々の名優が挑戦してきた難役、ジョーカーだが、その中で一際酷評されたのがスーサイド・スクワッドでその役を演じたジャレッド・レトだ。演技自体の質もさることながら特に批判されたのはそのアプローチで、凶悪犯罪のビデオを見るというのは理解出来ない所でもないが、使用済みのコンドームや死んだ豚、生きたネズミを共演者に送りつける行為は厳しく非難されている。

彼のこの「凶行」は役作りの為のアプローチ、メソッド・アクティングの実践なのであるが、そもそもメソッド・アクティングとは何であろうか?

既に述べた通りジャレッド・レトのジョーカーを発端に近年では否定的な見方が多いメソッド・アクティングであるが、一時期は優れた役者による優れた演技を提供する方法として広く使われてきたものでもある。これがなければ数々の名作が誕生しなかったことも事実であり、ここではその優れた特徴を紹介したい(尚次回は何故メソッド・アクティングが問題なのか、如何に役者を破壊するかという負の側面を集中的に取り上げる)。

解説する映画はマイケル・チミノ監督のディア・ハンター。言わずと知れた名作だが、筆者本人も非常に高く評価する大好きな一本だ。実際に脚本、音楽、演技、撮影どの側面を取っても素晴らしく、その上でベトナム戦争という暗い主題に真剣に向き合っている点も評価される。                         レイジング・ブルやタクシー・ドライバーと比較するとデ・ニーロの役作りはあまり語られることはないが、そちらも踏まえて解説したい。

Robert De Niro, Meryl Streep, John Cazale and others in The Deer Hunter (1978)

メソッド・アクティングの発祥

メソッド・アクティングは元来ロシア人の演出家、Konstantin Stanislavski(コンスタンチン・スタニスラフスキー)が考案したスタニスラフスキー・システムに由来している。これは俳優自身と役柄(キャラクター)との間の境界線を無くすことを目的としており、彼はこれによって俳優がキャラクターの人生を生きる様に演じること、即ちより深い感情を表現することが可能になると考えた。この時"method"、メソッドとは彼にとって肉体を感情に接近させる為の運動であり、多分に弁証法的な発想に基づいた概念であったと言える。

さてスタニスラフスキーはキャリアの中でメソッド・アクティングに対する理論を発展させ続けたが(即ち彼は今日考えられている様な確定した理論を築いた訳ではない)、その理論を完成させたのは Lee Strasberg(リー・ストラスバーグ)であった。彼は後に述べるマーロン・ブランドロバート・デ・ニーロ、そしてマリリン・モンローポール・ニューマンといった数々の名優を指導し、メソッド・アクティングをハリウッドに広めた立役者でもある。

彼は肉体と感情の関係を見つめ直し、一つの事実を発見する。即ち肉体は無自覚に動作を行い、その動作は常に何らかの印象を与えている、という事実である。スタニスラフスキーはメソッドを感情に接近させる為に用いることを提唱したと述べたが、彼にとってそれは感情を構成する為のツールであった。役者はそれまでの人生で種々の経験をしている。その経験を活用し、キャラクターの感情を再生成することが「生きる様に演じる」為には肝要だとスタニスラフスキーは考えたが、その感情の再生成をメソッドによって促進しようとした訳だ。

所で映画の中で演技とは常にカメラの前での行為である。演劇とは微妙な差異が観察されるのであり、映画の中で俳優は常に行為、アクションを起こすことを求められている。であれば俳優は如何に行為を本物らしくするのかを要求されているのであり、その行為が自ずと与える印象は感情と結びつき本物らしく見える筈だ。ここにストラスバーグの根本原理がある。

我々は椅子に座ったり、ペンを持つ時に一々考えることはない。また水とウォッカの違い、傍目には一緒に見える、を味覚で体得しており、思考を以て区別することはない。こうした動作は極めて純粋なものであり、言わば本物の行為である。

こうした日常的な行為は俳優にとっても日常的で、そして恐らくキャラクターにとっても日常的なものだろう。従って両者には感情的な結びつきが生まれるのであり、そこから観客に与える印象は相似する筈だ。問題となるのは特殊な状況に於ける特殊な行為であり、それを如何に本物らしく見せるかが俳優に課せられた使命ということになる(何故ならば観客が提示するのは飽くまで行為であるから)。

この段を以てストラスバーグは言う。俳優自身が特殊な行為を日常に引き寄せれば良いのだ、と。詰まり徹底的なリサーチや行為の追体験、レヴェナントで動物の死骸の中で眠りバイソンの肝臓を食べたレオナルド・ディカプリオの様に、を通じて役者は自然な行為を体得するのだ。そして自然な行為は自然な感情を表現し、従って「生きる様に演じる」ことが可能になる。

以上がストラスバーグが完成させたメソッド・アクティングの思想の体系である。根本にある思想は俳優は役柄を生きる様に演じるべきだ、という思想。そしてその為には感情を再生成し、役柄と同じ様に泣き、笑う必要がある。所でカメラに映るのは飽くまで行為だけであり、行為が感情を表現する。それが極めて身近な行為である故に椅子に座ることは容易で簡単に表現出来る様に、キャラクターの好意を身近なものとすれば好意を自然に表現することが可能となるだろう。その為には徹底的なリサーチと人生の追体験が必要であり、従ってメソッド・アクティングとは周到な役作りを出発点とする。

マーロン・ブランドを見よ

先日の記事で筆者は良い演技とはミザンセンを適切に機能させるもので、リアリズムの追求ではないと書いた。

sailcinephile.hatenablog.com

これは映画のスタイルがリアリズムだけに止まらないからであり、コミカルな演出にはコミカルな演技(オーバーリアクションなど)が必要である故だが、当然リアリズム映画ではリアルな演技が必要であるということになるだろう。

上で述べたメソッド・アクティングは「生きる様に演技する」と謳うだけあってリアリズムを志向している(実際リアリズムの獲得の為には有効でもある)訳だが、このリアリズムを目指す傾向はどこから始まったのだろうか。

映画史的にはその問いには結論が付けられている。欲望という名の電車(1951)でスタンリー・コワルスキーを演じたマーロン・ブランドからだ。メソッド・アクティングの体現者であり、映画界に多大な影響を及ぼした記念碑的な作品で、その前後の作品で俳優の演技は決定的に異なっている。

彼は役柄を表現する、という今では当たり前の演技に初めて取り組んだ俳優なのである。ケリー・グラントのコメディ、ハンフリー・ボガートのハードボイルド、ジュディ・ガーランドの明るさ、それまでの俳優は役柄と自身のイメージがセットで語られていた。オズの魔法使い若草の頃イースター・パレードと出演していたジュディ・ガーランドは役柄以前に彼女そのものだったのである。だから両者の間に受け止められ方の差異はなく、寧ろ役者のスターパワーでキャラクターを売る向きもあった。

確かにマーロン・ブランドに対しても波止場や蛇皮の服を着た男、乱暴者といったロマンチックで乱暴といった役所を演じ、トラブルメーカーという評判とも相まってイメージが先行している部分もある。しかしラスト・タンゴ・イン・パリや野郎どもと女たちなど幅の広い演技を見せており、やはりそのレガシーは大きい。ジェームス・ディーンやジャック・ニコルソンといったハリウッドの名優の系譜はマーロン・ブランドから始まると一般には了解されているのである。

本題に戻ろう。このマーロン・ブランドが映画史に占める特異な立ち位置は彼がメソッド・アクティングを採用したことによる。それ以降ハリウッドはブランドの様なリアリズムを高く評価する様になり(勿論その限りではないが)、アル・パチーノダスティン・ホフマンといった役者を一流として評価する様になったのである。ニコラス・ケイジという例外を除き、現代の映画界で役者が役柄に先行することを許された俳優はいない。特に多様性を売りに出すメジャー映画界では、キャラクターにどれだけ寄り添った演技をするかが問われているのである。

その意味で現代でもマーロン・ブランドの作品を見る意義は大きい。決して過去の、古臭い俳優ではなく、またゴッドファーザーで名を馳せた役者なのでもなく、彼は現代でも生き続ける名優なのだ。

ディア・ハンター

さてリー・ストラスバーグの教え子、ロバート・デ・ニーロはブランド以来の系譜を受け継ぎメソッド・アクティングを実践する俳優として知られているが、その役柄に対するアプローチは本作でも変わっていない。

彼は撮影を始める前、実際に彼が演じるキャラクター、マイケルを理解する為実際にピッツバーグで数ヶ月間暮らしたと語っている。特にピッツバーグ周辺の山岳地帯とそれに伴う自然を理解することが重要で、街を取り巻く環境が人々に与える影響を正確に把握し、演技に反映することを希望していた。その一環として製鉄所も見学し、実際にそこで働くことまで試みたそうだ。

ディア・ハンターと言えばかの有名で、そして議論を呼ぶロシアンルーレットのシーンが真っ先に思い浮かべられると思うが、筆者は最も大切なシーンは最後、デ・ニーロやメリル・ストリープらが机を囲んでゴッド・ブレス・アメリカを歌うシーンだと思っている。様々な規制がスタジオの中に残っていたとは言え本当に戦争の惨劇を描こうとしたのであればロシアンルーレットという仕掛けは余りにも現実離れしていて、文学的に過ぎる。

寧ろ監督のマイケル・チミノが描きたかったのは傷ついたアメリカの姿そのものだったのではないかと考えている。だからこそ3時間を超える長尺の殆どが戦地以外、特に出征前のピッツバーグに費やされているのであり、そこで暮らす三人の工員がベトナム戦争という(恐らく今でも)アメリカ史上最大の汚点をきっかけに変化したかを描いているのだ。

当初の結婚式の場面、どの人物も丁寧に描き分けられており、そして彼らが謳歌する「アメリカ的」幸せがどの様な要素から作り出されているのかを余すことなく盛り込んでいく。田舎町、広大な国土に広がる自然、製造業、隣人同士の結びつき、教会、鹿狩り....こうした要素が混然一体となって形成されていることが分かる。しかし一度ロバート・デ・ニーロが帰省すると、彼には全てが違って見えてしまう。彼自身が丁度揶揄っていた戦争帰りの兵隊の様に、戦地のトラウマが世界を一変させてしまっており、鹿を捉えても撃つことも出来ない。

それは今風に言えばPTSDということだが、恐らくそこにあるのは彼らアメリカ兵がベトナムで残虐行為を働いたという事実、そしてそのことによって傷つけられた彼らのプライドだ。昨今聞くことは少なくなった主張だが、当時はアメリカ万能主義、アメリカこそが世界一の強国であると考えられていた。そしてそのアメリカがベトナムという小国に対し、民間人を殺し、国土を焼き払っているという事実が兵士に与えた衝撃は計り知れないものがあったのだろう。

その点でベトナム帰りの兵士のPTSDは他のそれと異なっていたのであり、デ・ニーロは苦しんでいたのだと考えられる。最後に歌われるゴッド・ブレス・アメリカは突きつけられた事実からは目を逸らし、安易なヒロイズムと盲目的なアメリカ賛美に繋がっているという点で批判もされる。しかし筆者としてはそれこそが本作が傑作である所以だと、詰まりアメリ絶対神話が崩れていることを証明する負の遺産として優れていると思うのだ。傷ついたアメリカの姿こそが本作の最大の主題なのである。

これは決して穿った見方だとは思わない。それを証明するのが、ロバート・デ・ニーロのメソッド・アクティングだ。何故彼はPTSDに罹った帰還兵ではなく、ピッツバーグの街のあり方を学んだのだろう。何故メソッド・アクターである彼は戦争に苦しめられた帰還兵ではなく、街の空気を学ぼうとしたのだろうか?それはきっとアメリカを体得し、アメリカのそれが戦争を通して徐々に変わっていく姿をこそ写したかったからだ。そしてより直接的に言えば傷ついたアメリカを描写する様に彼が受け取った脚本が書かれていたからだろう。

以上のことから筆者はディア・ハンターの最大の見せ場はゴッド・ブレス・アメリカを歌うシーンだと考えているし、そのシーンまでの登場人物の心情の描き方の素晴らしさこそが本作の最も優れている点だと考えている。読者の方々にはこの点を踏まえて鑑賞して頂きたいのだが、最後にもう一点だけ解説して結びにしよう。

それはブロマンスという観点だ。北村紗衣の言う所の「腐女子的」な要素である。ブロマンス自体は映画や文学の世界では広く見られる且つ伝統的に見られるもので、古い所では中世フランスの騎士道物語にも登場する。男同士の精神的な紐帯をテーマとしており、時には恋人(女性)や社会的な立場を投げ打ってでも親友の男を救い出そうとする、その精神的態度のことだ。

明日に向かって撃て!やワイルド・バンチなど映画の中にも同等の関係は登場するが、このディア・ハンター内のロバート・デ・ニーロクリストファー・ウォーケンもまたブロマンスを感じていたと言えるのではないだろうか。デ・ニーロが再びベトナムに行く理由が分からない、クリストファー・ウォーケンメリル・ストリープを大事にしない理由が分からない、等々聞かれたがそれも全て女性よりも大事なもの、詰まりブロマンス故の行動ではないだろうか。

ブロマンスは決して同性愛ということではない、という点は強調しておきたいが、その男同士の結びつきという観点にも注目するとロシアンルーレットがより深い意味を持っていると分かるだろう。何度見ても素晴らしい(筆者自身は4回ほど鑑賞している)傑作であるから、デ・ニーロの演技にも注目しつつ是非鑑賞して貰いたい。

*次回はメソッド・アクティングの弊害を取り上げる予定であり、そちらも併せて読んで欲しい。またブロマンスについても今後まとまった文章を書きたいと思う。