知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【メモ】映画に於ける手持ちカメラ=リアリティ、は本当か

2 (Thu). March. 2023

グラグラふらつく、上下に揺れる、手持ちのカメラはリアリティの表現だと何故だか、無条件に了解していた。しかし手持ちカメラ=リアリティという等式は成立しない様だ。Twitterでそうした意見を見たのである。確かに考えてみれば我々の視界がユラユラすることはないし、大抵まっすぐ焦点を定めて歩いていける。しかし「手持ち撮影のリアリティが云々」という文句は目に付く様だ。この慣習、表現方法、共通理解、そうした気分はどこから生まれているのだろう。少し調べてみたくなった。

真面目な分析は、たいへん。メモは気楽。ずっと簡単。気張って、一生懸命に調べていると、0と1の間に沢山の数があって、それではと思って0.1、0.2、と数えていると0.01や0.001が顔を出してくるというふうな、そんな難しさがある。そうして必死に数えていると果てがなく、とおまで数えたかっただけなのに、一つと呟く前に日が暮れてしまう様な、そんな風に思われる。かんたんが一番。

Adam Sandler in Uncut Gems (2019)
  • 基本的に映画研究の多くはデイヴィッド・ボードウェルとクリステン・トンプソンの研究を下敷きにしている事が多い。特にボードウェルが示した映画理解の体系はある種のスタンダード、王道を築いており、それに対する批判や補足といった形で議論する研究者は非常に多く、その意味で彼の研究を読むことは映画研究に於ける一般理解を知ることに繋がると言って良いと思われる。
  • 従って彼の単著 "The Way Hollywood Tells It: Story and Style in Modern Movies"に詳しい手持ちショットの記述が見られたから、その内容を基本的な共通理解として信頼して良いだろう。
  • 中身を読むと彼は1980年代以降の映画に見られる手持ちショットを問題にしている。これはジョーズ(1975)、スター・ウォーズ(1977)以降の、所謂ブロックバスター映画が与えた影響が大きいと彼が考えている為である。
  • そもそも手持ちショット自体は真新しい撮影方法ではなく、セルゲイ・エイゼンシュタイン戦艦ポチョムキン(1925)やアベル・ガンスのナポレオン(1927)など後期のサイレント映画にその最も早い使用が確認されている。
  • しかしサイレントの台頭以後しばらく手持ちショットは用いられなくなる。これは主に技術的な問題で、巨大なカメラを動かす事が難しかったり、録音機材の調整が困難だった為である。バビロン(2022)中の、マーゴット・ロビーサウンド映画に挑戦するシーンなど参照されたい。
  • 技術革新が進み、カメラ等の機材が発展してからは再び手持ちカメラによる撮影が確認される様になる。戦後早い段階の使用例としては硫黄島の砂(1949)などが挙げられる様だ。
  • しかし手持ち撮影がこれ程普及した要因は次の3つだろう。先ず第一にドキュメンタリー映画の発展。1960年発表のプライマリーが与えた影響が特に大きい。そしてフランスからヌーヴェル・バーグが与えた影響。最後にブリティッシュ・ソーシャル・リアリズム映画からの影響。これらの作品群が評価を得ると共にハリウッド内でも手持ち撮影を肯定的に捉える向きに変わっていった。

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  • それまでは戦艦ポチョムキンにしても、硫黄島の砂にしてもどちらも戦争映画であり、その他の映画でも手持ちカメラ=暴力演出の強化、という風に理解され使用されていた。敢えて言えば手持ちカメラ=リアルな暴力描写、という等式が成立していたが、これら3つのシネマ・ヴェリテ的な運動が「本物」として称賛されて以来、手持ちカメラ=リアリティの表現という考え方も生まれてくる。
  • 但し飽くまでもヌーヴェル・ヴァーグがリアルな映画である故に、ブリティッシュ・ソーシャル・リアリズムがリアルな映画である故に、そうした映画が用いていた手持ち撮影がリアルと呼ばれたのであり、本物らしさは手持ち撮影そのものとは直接関係がない様に思われる。
  • そして1970年代以降、ブロックバスター映画がゲーム・チェンジャー的な働きを果たし、映画業界の制作形態やマーケティング方針も変更されることになった。その他の様々の要因も含めて1980年代半ばには規模の大きい作品が次々と作られる様になったのであり、製作される映画もスペクタクル重視の、テンポの早い、カメラのよく動くものに変わっていった。
  • この際手持ち撮影もスペクタクルを生み出す目的で取り入れられ、これがブロックバスター映画で取り入れられた事で人々の目にも馴染みのある撮影方法に変化してきた。ここで用いられる手持ち撮影はポチョムキン的な暴力描写の強調に貢献するものであった(ブロックバスター映画のスペクタクルは暴力的なモノも多かった為)。

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  • 緊迫感や不安感というのはこの暴力描写と密接に関係している。インディ・ジョーンズでも心臓が飛び出したり、スープから目玉が出てきたりと相当バイオレントな映画だが、こうした側面をクロース・アップやファスト・カット、手持ち撮影で強化する事が当時の目的だった。
  • ボードウェル自身は "Intensified Continuity" という表現を用いて説明しており、要はハリウッドが歴史的に製作してきた「まとまりのある物語としての映画」をより激しい仕方で表現する様になったブロックバスター映画の傾向を指しているのだが、この際のテクニックとして彼は手持ち撮影を挙げている。だからボードウェル的な理解では手持ち撮影は伝統的なハリウッドの映画テクニックの一つなのである。
  • だから彼はインディーズ映画で手持ち撮影をする事をユニークではないと語っている。手持ち撮影やファスト・カットは独特なスタイルを形作っている様に思われがちだが、ハリウッドでは昔から使用されていたのだ、と。
  • ここから考えるにインディーズ映画での安易な手持ち撮影は、予算不足や撮影時間の不足から来ていると受け止められても仕方ないのかも知れない。本来の手持ち撮影の機能とは暴力描写の強調、或いはドキュメンタリー的な表現(Primaryなど)なのだからである。ブレア・ウィッチ・プロジェクトなどが分かり易い後者の例として挙げられるのではないだろうか。
  • 整理すると手持ちカメラ=リアリティ、は間違い。手持ち撮影=暴力描写の強調=暴力描写のリアリティ、であれば間違いではないという所だろうか。或いは手持ち撮影=ドキュメンタリーであることの示唆=リアリティ(ドキュメンタリーがリアルな為)、と言う事も出来る。
  • 間接的にしか関係しない筈の手持ち撮影とリアリティが結び付けられたのは、恐らくヌーヴェル・ヴァーグなどが「本物の映画」だと謳われていたから。