知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【イギリス映画史】ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ/フリー・シネマ運動とは何か

17 (Fri). Feburary. 2023.

筆者がイギリスへ留学する、映画の勉強をする、と語った際に飽きるほど聞かれた質問がある。何故アメリカじゃないの?イギリス映画って例えばどんな映画があるの?007、トレインスポッティングノッティングヒルの恋人は分かるけどそれ以外には?

確かにフランス映画を10本答える方がイギリス映画を10本答えるよりも簡単かも知れない。だから実はイギリスにもBritish New Waveという画期的な映画群が存在したのだ、という事はマニアックになり過ぎるので遠慮して(というよりも面倒で)答えていなかった。

フリー・シネマ、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ、キッチンシンク・リアリズム、イギリス・ニュー・ウェイヴ.....

呼び方は多種多様にある様だが、それらは後ろで整理することとして、この記事では現代まで根強く影響を与えるイギリスの映画群について紹介することを目的としたい。ケン・ローチ(日本では是枝監督が敬愛していることで有名)は勿論、かのトレインスポッティングBritish New Waveの延長線上にあり、近年でもフィッシュ・タンクといった傑作映画にその影響を見ることが出来る。

少々長い記事になるかも知れないが、休み休みにでも読んで貰えれば、そしてイギリス映画を見る際には度々思い出して頂ければ幸いである。どうやら本格的な情報源はネット上には存在しない様であるから、尚更だ。

それでは早速フリー・シネマが生まれた当時の社会背景から見ることにしよう。

Albert Finney in Saturday Night and Sunday Morning (1960)

30年代~50年代半ば:苦難の時代

イギリス映画史上、1930年から50年代半ばまでは暗い時代だったと言って良いだろう。決して優れた作品が作られなかった訳ではなく、又才能ある監督らが生まれなかった訳でもなかった。1930年代からキャリアをスタートさせた監督としてはアルフレッド・ヒッチコックデヴィッド・リーンキャロル・リードマイケル・パウエルなどがいるが、これらの名前を並べただけでも充実した顔ぶれであったことが分かるだろう。

ただ何にせよ競争相手が悪過ぎた。天下のハリウッドである。サイレントからトーキーに移行する中でアメリカは徐々にフィルムメーカーの頂点と見做される様になり、サウンド到来以降その地位は揺るぎないものとなった。「天国よりも多くのスターを」の合言葉で、或いは「ハリウッドの夢工場」というキャッチフレーズが象徴する通り、その後の栄華は皆が知る通りである。

だから勿論イギリス映画もハリウッドとの競争に敗れていく訳だが、その敗れ方というのが酷いものだった。ハリウッドへの引き抜きである。コミカルな大衆娯楽ではハリウッド映画に圧倒され、せっかく発掘した才能もアメリカに渡ってしまう。先に述べた監督で言えば最後までイギリスに留まったのはマイケル・パウエルのみ。他はキャリアの頂点をハリウッドで迎える事となった。

俳優らに関してもオードリー・ヘップバーンジョーン・コリンズはイギリスでキャリアをスタートさせており、名優ローレンス・オリヴィエにジョン・ギールグッドも英国で舞台俳優として活躍していたが、彼らも皆ハリウッドにスカウトされ渡米している。

こうした引き抜きを経験し、イギリス映画は次第に競争力を失い、当時世界一の帝国として持っていた先進国としての矜持は映画産業に於いて失われることとなった。

確かに1936年には歴代最多本数の映画が製作されていたりと30年代をイギリス映画の黄金期と呼ぶ向きもある。またコメディからホラー、戦争映画など多種多様な映画を生産し、後に合併されてBBCの成長を後押ししたイーリング・スタジオの存在も見逃せない。この期間を必ずしも苦難の時代だったとばかり呼ぶのは一面的に過ぎるだろう。

しかし、である。第一に英国人からの評価が芳しくない。既に述べた通り、当時の英国映画界はクリエイターの引き抜きに苦しんでいた。苦しみながらもハリウッドに対抗しようとしていた。結果彼らが作り出す映画は中流階級向けの、お洒落ぶった、一般に受け入れられない様な作品になってしまった。これは当然受けが悪く、「そんな映画を見るならハリウッド映画で良いんだよ」というリアクションに終始してしまった。

そして第二に、このハリウッドの二番煎じという結果がイギリス人にとっては受け入れ難いものだった。WWII終戦前まではイギリス人は自国を世界一の強国と、少なくとも一番手の国の中の一つだと捉えていた。軍事、文化、経済、領土、あらゆる面でイギリスはアメリカと対抗できるだけの力を持っていたのである。勿論のこと映画でもアメリカを出し抜いて1番になろうと彼らは考える。しかし、どうやらハリウッド映画にクオリティでは及ばない様だ。そして終戦後の50年代にはアメリカが圧倒的な覇権を手にした事が明らかになってしまった。これは戦勝国でありながら、幾許かの敗北感を与えることになったという。

結果イギリス人は30年代から50年代半ばまでの自国の映画を評価しないことが多い。そして多分どれだけ贔屓目に見たとしてもこの時代の映画を「一級品」と見做すことは難しいだろう。寧ろ当時のイギリス文化は映画以外の領域に強みを持っていた。

文化的土壌:リアリズム文学とドキュメンタリー

ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴに直接関係する文化的土壌として先ずは文学を挙げることが可能だろう。戦間期のイギリスはジェームス・ジョイスバージニア・ウルフに代表されるモダニズム文学の流行があった。そしてそれに対するカウンターとしてのアンチ・モダニズム - これはC.P.スノウらが率いた運動だが - の勃興が第二次対戦後に見られる。

今回取り上げるのはアンチ・モダニズムの方で、直接的な表現、リアリズム的な描写、反都市社会的性格などの要素は当時の大衆にとって大きな魅力があった様だ。アンチ・モダニズムと言えば伝統的、宗教的な文学への回帰といった特徴も持ち合わせる筈で、必ずしもリアリズムとの符号を指す訳では無いだろうが、戦争=重工業の暴力を目の当たりにした民衆にとってそんな食い違いは些細なものだったのかも知れない。或いは戦時の名残、共産主義への嫌悪が国民の保守化を促したのかも知れない。いずれにせよアンチ・モダニズム文学は中々の人気と影響力を有しており、後に説明する様にブリティッシュ・ニュー・ウェイヴに属する映画はこれらの文学作品を脚色することが多かった。

もう一つ重要な文化要件にはテレビとドキュメンタリーの存在が指摘される。Documentaryという単語を生み出したのは批評家であり映画監督でもあった。John Grierson(ジョン・グリアソン)だと言われているが、彼は1929年にDriftersというドキュメンタリー映画を監督する。その中身は北海のニシン漁師の生活を研究するというもので、本物の(authentic)民衆の暮らしを左翼的観点から映し出すことを目的に製作された本作はドキュメンタリー映画の理論的発展に大きく貢献した(この流れちょっと『蟹工船』に似ていなくもない)。後続の作品はこれに倣い漁師や工場労働者、従軍兵士などをリアルに描くことを目指し、ブリティッシュ・リアリズムの原型が形作られていくのである。

1950年代に入ってもドキュメンタリーの勢いは衰えない。例えばThe Cruel Sea(1953)は対Uボート戦に挑む水夫を、Every Day Except Chrismas(1957)は青果店で働く労働者を取り上げており、いずれもGriesonの構築した理論に基づく作品となっている。特に後者はリンゼイ・アンダーソンによって監督された作品であり、彼の初期のドキュメンタリーやカレル・ライスのそれは"free cinema"(フリー・シネマ)とも名付けられた。

アンチ・モダニズム文学にしても、ドキュメンタリー映画にしても共通するキーワードはリアリズム、民衆生活、そして反都市社会的性格(≒反ブルジョワ的性格)だ。これらの理念を保持し、2つの全く異なる運動をその母としてイギリス映画は1960年代に進化を遂げることになるだろう。大陸から吹いた新しい風の影響を受けて。

新しい風:ヌーヴェル・ヴァーグ

そう、新しい風とは勿論フランスで起こったヌーヴェル・ヴァーグのことだ。王手飛車取り(1956)、大人は分かってくれない(1959)、勝手にしやがれ(1960)、60年代を目前にフランスから(恐らく歴史上最も)革新的な映画運動が誕生したのである。ヌーヴェル・ヴァーグ自体はそこかしこで語られているから今回は割愛するとして、注目すべきはその広がり、世界中この運動に共鳴する映画運動が誕生したことだ。

他にもジョン・カサヴェテスなど様々な監督が、様々な国で独自の映画運動を展開していく。いずれもがハリウッド的メロドラマに反旗を翻し、ロケーション撮影、即興演出、メタ的構造、ブルジョワ的価値観や政治的権力への反発などを特徴として持っていると言って一先ず差し支えはないだろう。

国際的な広がりの中で、イギリスも当然これに応える形で独自の映画運動を展開していくのだが、そのユニークな点はフリー・シネマとヌーヴェル・ヴァーグ的撮影の親和性だ。一般的には本家ヌーヴェル・ヴァーグにしても、追随する運動にしても既存の映画的慣習への反抗という側面を持っている。だからロケーション撮影はフリー・シネマの文脈上珍しいものではなかったし、精神的にも共通するものがあった。左翼的な言い方をすれば英国で吹いた新しい風は世界的なヌーヴェル・ヴァーグの展開上、唯一第二の闘争段階にいた(第一の闘争段階をハリウッドへの反逆だとすれば)のである。

このイギリス版ヌーヴェル・ヴァーグを指してブリティッシュ・ニュー・ウェイヴという単語が使われるのだが、その中身を確認する前に用語の整理をしよう。

既に述べた通り、リンゼイ・アンダーソンやカレル・ライスらの手がけた50年代のドキュメンタリーはフリー・シネマと呼ばれるが、実はこの名称はSeuqenceという映画雑誌で提唱されたものだ。そしてSequenceの主な寄稿者はリンゼイ・アンダーソンにカレル・ライス、ギャヴィン・ランバートとなっている。明らかなカイエ・デュ・シネマとの類似性が見られると分かるだろう。彼らもまたゴダールトリュフォーの様に理論的発展を最初に志したのである。そんな彼らが映画、物語的映画に挑戦し、撮影された作品群をBritish New Waveと呼ぶのだ。

しかし、である。ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴに属する映画をフリー・シネマと呼ぶこともある。これは恐らく前者を明確に定義した人物がいないことによる。Sequence自体は僅か14号で廃刊してしまい、長続きすることはなかったから、その意味でフリー・シネマに終わりが宣言されることはなかった。そして同じ運動の担い手がブリティッシュ・ニュー・ウェイヴを展開するのだから、両者が混同されるのも無理はないと言えるだろう。一応ここではドキュメンタリー映画をフリー・シネマと、物語映画をブリティッシュ・ニュー・ウェイヴと呼んで区別したい。

”キッチン・シンク”リアリズム:詩的リアリズムとは何か

ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの中身について見ていこう。これらの映画は"Kitchen Sink Realism"であるとか、"British Social Realism"の特徴を持っていると表現される。ここでも使い分けが煩雑になっているから先に用語を整理してしまう。

                                           

  • キッチン・シンク・リアリズム

ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴに分類される映画は劇や小説を原作にしていることが多いが、それら原作作品をも含めた芸術作品が有している特徴を総称した用語。絵画などにも適用される。これらの作品は労働者階級の非富裕層を描き、時に社会問題(人種・性・非行など)をも隠すことなく描写するだろう。方法論としてはドキュメンタリー的リアリズムと反年社会的アンチ・モダニズムの融合を目指しており、簡素なリアリズムでありながら空想を否定することはない。優雅なハイ・カルチャーと対比して「見たくない」現実を描いているという意味で、侮蔑的にキッチン・シンクと呼ばれた。

映画史で使用された用語で、60年代以降に登場したBritish New Waveの精神を持つ作品を指す。従ってキッチン・シンク・リアリズム作品の内の映画群だけを指し、かつ精神性を一にする後世の作品(ケン・ローチマイク・リード)も含む。実質キッチン・シンク・リアリズムとブリティッシュ・ソーシャル・リアリズムと言った時に指し示す映画的特徴は等しいが、前者が侮蔑的な由来を持つのに対し、後者は寧ろ尊敬の意が込められている。但しNワードの様なネガティヴな感情はなく、どちらの呼称を用いても60年代の映画に関しては構わないだろう。

                                           

映画以外にも言及したい場合はキッチン・シンク・リアリズム、時代を限定せず広く特徴を伝えたい時はブリティッシュ・ソーシャル・リアリズム、60年代の映画を指す場合はどちらでも構わないと覚えてもらえれば一応問題ないだろう。

舞台はイギリスの地方都市・工業都市が選ばれることが多く、そこで生きる若者が主人公として選ばれることが多い。リアリズムの文脈に従って彼らは社会問題を前に苦しんでおり、例えば貧困や人種、性産業の搾取などを赤裸々に描いている。これだけであればただのリアリズム映画であるのだが、ブリティッシュ・ソーシャル・リアリズム映画の最大の魅力はその詩的情緒にある。

基本的な社会派映画はビジュアルの美しさを持たないし、登場人物が戦わないことがない。映画の方法論がリアリズムにあり、そして社会問題に対する解決を意図としているからだ。視覚効果を追求するモンタージュや不誠実な主人公のキャラクター設定は、主題を曖昧にするもの=雑音として処理されてしまうだろう。

対してキッチン・シンク・リアリズムの場合、キッチン・シンクというだけあって主人公は誰も聖人君子ではない。酒に酔って階段から転げ落ちたり、恋人に嘘をついたり、不貞を働いたり、窃盗を働いたりする。それが実世界に存在するリアルな人間像だからだ。彼らは社会問題の蔓延る都市から逃げ出して、田園暮らしを夢見るし(戦わない主人公)、いざ権力に反抗するとしても逮捕されないギリギリのおふざけでしかない。その点でカー・チェイスや銀行強盗を始めるアメリカン・ニュー・シネマとも異なる訳だ。

そして現実社会で問題が決して解決しない様に、映画の結末で何かが解決することも稀だ。この点に対して大人は分かってくれない、からの影響を指摘する声もあるが、筆者としては詩的性格から由来するものが多いのではないかと思う。闘争がなければ解決もないからだ。筆者の目にはアントワン・ドワネルは十分闘争している様に見える。例えばケン・ローチの代表作ケス考えてみよう。主人公の少年は学校でもいじめられ、家庭でもいじめられ、金もなければ夢もない。何に対して怒れば良いのか分からないから、何らかの闘争を始めることもない(精々が牛乳瓶を盗むくらい)。そんな彼はポエティックな行為に、鷹を調教することに夢中になる。恐らく鷹は空高く飛び上がることの象徴であると共に、少年自身が社会に飼い慣らされていることのメタファーでもあるのだろう。彼の生活は正しく飼い慣らされた鷹の様に社会をフラフラと飛び回ることだけだ。その浮遊性は正しく詩的で、映像にも辛辣さがない。そして案の定彼の人生は映画の結末でも好転しないのである。これはアントワン・ドワネルとは大きく異なっていて、彼の場合決して上手くいかないながらもバルザックを盗んでみたり、タイプライターを売ろうとしてみたり、家出という手段で親に対抗しようとしている。何処にも出口はない、という結末は同じでもその精神性は大きく異なる筈だ。

ドキュメンタリー的なテーマ選択をしながらも、文学的な目で、詰まり安易な解決を目指さず浮浪する人間を描く事がブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ映画の本質である、とまとめよう。40年代・50年代から続く文化的土壌を巧みに融合し、成立した映画運動がブリティッシュ・ニュー・ウェイヴなのだ。曖昧なテーマ、釈然としない結末、無駄な視覚効果、これらは欠点ではなく正にその映画を唯一の作品たらしめている美点なのである。

それでは最後に代表作品を何本か紹介して終わりにしよう。

代表作品:再評価される傑作たちとそのDNA

1. 土曜の夜と日曜の朝 [Saturday NIght and Sunday Morning](1960)

カレル・ライス監督。どれか一本だけ選んでお薦めする、という事であれば筆者は迷わずこの映画を挙げる。ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの代表作であり、恐らく最高傑作だ。ここまで付き合ってくれた読者には本作だけでも見て欲しいと強くお願いする。

何と言ってもビジュアルが最高だ。機械工場で労働者たちが何らかの部品を作っている所から映画は始まる。舐める様に動くカメラは主演のアルバート・フィンリーを捉え、彼が研磨器のボタンを押すと轟音の代わりにイカしたジャズが流れ出す!最高にクールな演出だ。そしてフィンリーは同僚の愚痴を並べ立てるのである。これ程魅力的なオープニングもそうないだろう。

筋自体も分かりやすくキッチン・シンク・リアリズムであり、これ一本見るだけで大凡の雰囲気が掴めるのではないだろうか。橋の上で不倫相手を待つショットも映画史に残る美しいショットとして有名である。

2. うそつきビリー [Billy Liar] (1963)

ジョン・シュレシンジャー監督。土曜の夜と日曜の朝が最高傑作なら、此方は私的な偏愛映画である。筆者としては此方の方が圧倒的に好みだ。オアシスの"The Importance of Being Idle"でパロディにされているから、その意味で知っている人も多いかも知れない。

www.youtube.com

主人公で葬儀屋で働くビリーは幾つになっても親元で暮らしており、口煩い父親や偏屈な上司に飽き飽きしている。ガールフレンド(達)も鬱陶しい。そんなビリーの唯一の楽しみは空想に浸ることであり、上司を撃ち殺す妄想やムッソリーニに扮して演説をぶつ妄想だけが彼に生を実感させてくれる。そのビリーはふとしたきっかけで日頃の虚言が現実になるチャンスを掴むが、その選択を前に....という筋書きで、強烈なビジュアルと中身のある物語で他のリアリズム映画とは一線を画している。

3. 蜜の味 [A Taste of Honey] (1961)

トニー・リチャードソン監督。ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴもう一つの最高傑作。一般的には土曜の夜と日曜の朝、時点で本作が挙げられる。

主題には相応しくない母親、人種問題、青少年による非行など当時の映画界ではタブーとされた問題を詰め込んでおり、その衝撃からキッチン・シンク・リアリズムの代表作とも評される。今日ではすっかりタブーでもなくなり、珍しくも無くなってしまった事で個人的には土曜の夜~に劣るものがあるかな、といった印象は受けるものの、ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ研究の上では絶対に外すことの出来ない一本である事には変わりない。

4. 怒りを込めて振り返れ [Look Back in Anger] (1959]

同じくトニー・リチャードソン監督作。ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの中でも最も初期の作品で、かつアイコニックな主題(Angry Young Man)を取り扱うことから、運動の嚆矢となった作品とも称される。

舞台演出も手掛ける監督なだけあって、今作の最大の見どころは怒れる主人公を演じるリチャード・バートンの演技だろう。映画としてはサンセット大通りの邦画優れているとしても、ファム・ファタールと言えば上海からきた女のリタ・ヘイワースの名前が挙がる様に、映画としては土曜の夜〜が上でも、怒れる若者としては本作のリチャード・バートンが想起される。

物語の起伏が分かり易いのもポイントで、ハリウッド的な爽快感を脚本に求める場合まず鑑賞してみるのも良いだろう。

5. 孤独の報酬 [This Sporting Life] (1963)

リンゼイ・アンダーソンの物語映画としては初監督作品であり、If.....もしも、に先立つパルムドールノミネート作品(因みにこの年のコンペティションには23本ノミネートされているらしい。流石に多すぎでは?)。

怒りっぽく、力強いラグビー選手であるリチャード・ハリスの生活を描く本作だが、フラッシュ・バックが使用されたり、キャラクターの多面性が描かれたり(テンプレートだけを見せたり、アイデンティティーの欠如を強調するのでなく)とキッチン・シンク・リアリズムの典型に留まらない部分も多い。後ろでも述べるが、リンゼイ・アンダーソンは運動の中心にいながらにしてブリティッシュ・ニュー・ウェイヴのスケールに収まらない才能を持っていた監督だったのかなと思う。

6. 長距離ランナーの孤独 [The Lonliness of The Long Distance Runner] (1962)

トニー・リチャードソンが蜜の味の翌年に撮った映画。怒りを込めて振り返れ、では初期衝動が映画の中心にある様な印象を受けるが、こちらは極めて詩的性格が強く、運動の円熟、乃至はマンネリ化をも感じる作品。

映画のオープニングからがして長距離走に取り組む主人公を捉えつつ、彼はなぜ走るのかを問うナレーションを被せる、というもので怒りを込めて振り返れ、とは大分異なった印象を受ける。作品全体の作りとしても上で解説した諸特徴に合致する部分が多く、一つの完成形として見ることが出来るのではないだろうか。

7. If.....もしも [If.....] (1968)

ここで紹介する映画の中では最も有名、と言うより最も後世に残る可能性が高いだろう映画ではないだろうか。リンゼイ・アンダーソン監督作品。『死ぬまでに観たい映画1001本』にも掲載されている。極め付けにカンヌでパルムドールまで獲得もしている。

確かに大傑作で間違いはない。間違いはないが、どうにも良く出来すぎている。と言うよりも作品のスケールがブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの枠を飛び越えてしまっている様な、そんな印象を筆者は持った。喩えれば2001年宇宙の旅SF映画です、と紹介するには何とも抵抗があるという感覚に近い。

ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの代表作、という位置付けになっているから紹介はするものの、その先入観は作品の価値を下げてしまう事に繋がるかも知れない。鑑賞難易度は恐らく最も低いだろうが、この作品から見始めることは筆者としては出来れば避けて頂きたいと思う。

8. 年上の女 [Room at the Top] (1959]

ジャック・クレイトンの初長編監督作。彼は後に女が愛情に渇くとき(1964)、を発表しブリティッシュ・ニュー・ウェイヴを新たな方向に向かわせた、と評価もされる非常に重要な監督である一方、作品やタイミングにも恵まれず順風満帆なキャリアを送れなかった人物でもある。

本作は階級社会の下層で生きる野心家の主人公ローレンス・ハーヴェイの不倫譚となっており、プロット的にはそこまで目新しいものではない。面白いのはX指定(日本でのR-18指定)に分類されたその強烈な官能とフィルム=ノワール的な撮影である。リアリズム映画というだけあって、階級社会の描写は正確だが、それに留まらずイギリス映画では恐らく初めて正面からセックスを描いた点でも評価が高い本作は批評家からも高く評価されており、屡々土曜の夜~、蜜の味に次ぐ傑作とも評価されている。

9. ザ・レザー・ボーイズ [The Leather Boys] (1964)

シドニー J. フューリー監督。ロッカー(走り屋?)の若者たちを描いた作品で、その中の一人にゲイの青年が登場することからクィア・シネマの先駆けとして注目されたりもする。ロード・ムービーという訳ではないものの、バイクからの疾走感あふれる映像はかなり先駆的なものだったのではないだろうか(勝手にしやがれ、冒頭の影響があったりするのだろうか)。

話の典型として工場労働者が不倫する、というのが一般的になったブリティッシュ・ニュー・ウェイヴに於いて異色の作品とも言えるかも知れない。

10. L型の部屋 [The L Shaped Room] (1962)

ブライアン・フォーブス監督作。身籠った女性が主人公で、ロンドンのL字型のアパートに引っ越してきた彼女が、これから生まれてくる子供の処遇に悩む様子が描かれている。結婚するか、堕すか決めなさい、というテーマは現代でも十分通用すると思う反面、11本紹介する中では魅力に欠ける部分もあり、L字型という空間の面白さ以外には見る所の少ない印象。

11. 寄席芸人 [The Entertainer] (1960)

同じく他のブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの映画群と比較して印象の薄い作品。売れないコメディアンが四苦八苦してキャリアを終わらせまいとする物語。主演をローレンス・オリヴィエが務めたことが最大の注目点だろうか。

コメディアンという主題の性質上スペクタクル的な部分も多く、運動の中心からは外れているという印象で、上記の作品を全て鑑賞し、非常に気に入ったので他の作品も見たい、という方にはお勧め出来るかも知れないが、やはり先ずは土曜の〜などから鑑賞されると良いと思う。

                                           

ここから先はブリティッシュ・ニュー・ウェイヴには属さないもののブリティッシュ・ソーシャル・リアリズムに属するだろうと思われる作品を紹介する。

12. ケス [Kes] (1969)

ケン・ローチの映画は正直どれを取り上げても良い気がするのだが、一応最も高く評価されているだろう本作を。粗筋は先に書いた通りである。年代的にはブリティッシュ・ニュー・ウェイヴに分類しても良さそうだが、敢えて区別したくなるのは演出の恣意性の為だろうか。

例えば怒りを込めて振り返れ、では軽妙なジャズが聞こえてきたり、高らかな鐘の音がなったりと主題の重さに比例して明るさが、詩的性格が見られるのに対し、ケスに於いてはそうした明るさは意識的に隠されている様にも見える。ポエティックな側面は残しながらも視線が恣意的になり、社会派映画に近寄ったとも言えるだろう。11番までの映画が好みでなかった人は気にいるかも知れないし、逆もあり得るかも知れない。

因みにケン・ローチはイギリス国内では非常に知名度が高く、イギリス出身の監督というと真っ先に名前が出る。かと言ってよく見られている訳でもなさそうなのだが、その辺り日本での黒沢清監督の立ち位置に近いだろうか。「名前は皆知っていて、凄いらしいと聞いたことはあるが作品を見たことのある非映画ファンは少ない」という立ち位置の監督である。

13. バビロン [Babylon] (1980)

フランコ・ロッソが監督を務めたカルト映画で、画から溢れる熱量が凄まじく、音楽も非常にエキセントリックでクールだ。レゲエのDJを務める黒人男性が主人公で、彼はフロアで活躍するのとは対照的に人種問題や貧困に悩まされている。Gritty, ブリティッシュ・ソーシャル・リアリズム特有のざらついた質感が他の映画群との共通点であり、特に警官から暴行を受けるシーンなどに顕著に見られるだろう。

フランコ・ロッソという監督を筆者はこの作品でしか知らないが、ドキュメンタリーなどを手掛ける人物の様で、その辺りが画作りの質感と関わっているのかも知れない。例えばハーモニー・コリンラリー・クラークの映画と似た印象を受ける部分もあるが、彼らの映画ほど洒落た作りとはなっておらず、その点ラジ・リ監督が作り出す映画に精神的には似ていると言えるだろう。

14. ビバ!ロンドン!ハイ・ホープス〜キングス・クロスの気楽な人々〜 [HIgh Hopes] (1988)

Filmarksを見ると量産型コメディ映画の様な邦題が付けられているが、列記としたソーシャル・リアリズム映画。秘密と嘘、で著名なマイク・リー監督の作品だ。

不適格な程の楽天主義に支配されたキングス・クロスに住む一組のカップル(ターミナル駅を一度離れると富裕層や中華系の住民が目立つ静かなエリアだ)に注目しつつ、様々な階級に属する彼らの家族が絡み合い子供を産むべきか否か、落とした鍵はどこへ行ったのか等々議論が展開されていく。

Grittyなヴィジュアルと階級描写の巧みさは正しくブリティッシュ・ソーシャル・リアリズムに属するもので、且つコメディとしても成立しているというのがこの作品の評価を高めているポイントだ。反面脚本なし即興演出という手法の所為か推進力にやや欠ける部分もあり、特にイギリス社会に対して関心のないオーディエンスに如何に訴えかけるか、という部分に答えられている様には思えなかった。無条件に見て面白いと思えるかどうか。これに関しては少々の疑問もあり、良い映画ではあるものの無条件で勧められないだろうというのも事実である。

15. ロンドン [London] (1994)

パトリック・キーラー監督作で、この映画を以てBFI上で「ピーター・グリーナウェイに次ぐ才能」とまで言わしめた作品。

映画はナレーターによるコメントと、ロビンソンという決してカメラの前には現れないキャラクターの姿を追いかける形で進んでいく。カメラは基本的にスタティックで、サッチャリズム下のロンドンの表皮を捉えていく。ナレーターの台詞は常に辛辣で、彼の批判的精神が都市の下に隠された問題を炙り出す様に、掬い上げる様に観客に語りかけてくる。

イギリス国内では非常に評価が高く、後には続編も2本製作されトリロジーとなった。psychogeography(心理地理学)の映画的応用であるという風にも捉えられており、確かにピーター・グリーナウェイも初期にwindowという短編を撮っているあたり似ていなくもないのかも知れない。

16. ディス・イズ・イングランド [This is England] (2006)

スキンヘッド(レイシストの典型)の集団で翻弄される少年を描いた本作は、シェーン・メドウスが監督で、彼の半自伝的な物語となっている。筆者も正直よく分かっていないのだがイギリスに於ける人種差別というとこの白人スキンヘッドの集団によるものが真っ先に想起されるらしく、というのも80年代に社会問題化した若者のサブ・カルチャー的な流行があったそうだ(エンパイア・オブ・ライトにも似た様な集団は登場していた)。

音楽やファッションとも綿密に関係したこのレイシストたちを内側から観察しつつ、個人の物語とリンクさせていく(社会派作品に留まらずに人が存在している)点は優れている反面詩的情緒に欠ける様に見えるのは先行作品との相違か。当初の文学的・ドキュメンタリー的リアリズムが影を潜め、映画的リアリズムに接近した印象をも受ける。

17. フィッシュ・タンク [Fish Tank] (2009)

批評家を中心に大絶賛だったアンドレア・アーノルド監督の出世作にして代表作。一応あらすじとしてはダンスを生きがいにする少女が母親の友人と出会ってダンスコンテストに挑戦し...という形だが、正直そんな物語は映画の一部でしかない。筆者は終始ケイティ・ジャーヴィスの歩き方に目を奪われていた。彼女のそれは筆者が普段目にしているイギリスの若者の歩き方と全く一緒なのだ。早足で、肩で風を切るように歩いていくその姿は常に苛立っている様で、そして何か不満そうな、一目で「イギリス人の歩き方だな」と分かるものなのだが、それがスクリーンにそのまま映し出されている。

歩き方一つで国籍が分かり、彼女の感情も手にとる様に分かる。これは早々あることではないし、的確に捉えるのは簡単そうに見えて非常に難しいことだ。邦画で喩えると蛇にピアス吉高由里子の立ち居振る舞いなどが当たるだろうか。最初、彼女が立っている姿だけでこれから何が起こるか分かる様な、そして日本の女の子だと分かる様な、そうした情報量がある。正にリアリズムの極地であり、素晴らしい映画だったと思う。

                                           

さて全部で17本だ。ブリティッシュ・ニュー・ウェイヴという映画史的側面から大切な作品であることは勿論、イギリス文化を知る上でも重要な作品たちである。今回Billy Liarという傑作映画に出会ったことで筆者か記事を書くことを決めたが、他の映画もどれも見所があったし、もっと広く知られて欲しいと改めて強く感じた次第である。

直ぐには入手できず已む無くクリップとレビューだけを読んで書いた解説もある(レザー・ボーイズ他)。ジェームス・ボンド制覇と併せて筆者の留学中の目標にしようと思うが、読者の方々にも是非コンプリートを目指されては如何だろうか。

 

【映画解説】意外と知らない撮影方法トリビア4選(鏡、血糊、濡れ場、一人二役)

15 (Sun). January. 2023

皆様、あけましておめでとうございます。と言っても大分時間が経ちましたが。新年1発目の記事ということで年始の挨拶から始めようかなと。

今日の記事はすぐに読めるものを、映画の中でよく見るショットでありながら意外と撮影方法が不思議な4つのショットについての簡単な説明を準備しました。タイトルにもある通り、鏡(ミラー・ショット)、血糊、濡れ場、一人二役の4種です。

早速本編に移りたいところではあるのですが、その前に冒頭少しだけお付き合い頂いて2023年の抱負を少しだけ記しておこうかなと思います。

  1. 脚本向けオープンコースに参加
  2. 脚本を3本(以上)仕上げる
  3. 脚本コンペに挑戦する
  4. 一回以上製作現場に参加する
  5. 交流を広げる

最後だけ何だか曖昧ですが、要は色んな場所に顔を出していこう、という事です。イギリスにはBFI(British Film Institute)という機関がありますが、その公式ホームページから1つ目、脚本家向けのオープンコースに参加することが出来ます。また3つ目、彼らが取りまとめるコンペに応募することも出来、有名どころではBBCNetflixtiffトロントの方)などが主催するコンペに応募が可能な様子。当然倍率も高いと予想はされますが。

なので今年の目標は自分で脚本を書いて、しっかり書き終えること。その間にプロの指導を受けつつ、本格的なものがを作れる様に勉強すること。そしてコンペに出しても満足だと思える様な脚本に仕上げる、推敲し完成度を高める、という経験をしてみること。

これらを軸に頑張りたいな、というのが今年の抱負になります。その過程で製作現場でのボランティアなんかに挑戦出来ればより学びも深いでしょう。1番、3番、4番に関してはブログでも取りまとめて発信していけたらなと思います。

また1~4番に取り組む中で5番、色々な方とお会いして一緒にお仕事をしていきたいな、という希望もあります。此方での活動が当然メインにはなりますが、日本の方でもお声がけ頂ければ可能な限りお答えしていきますので、是非2023年も宜しくお願いします。今年最後の記事で反省会なんか出来たら素晴らしいですね。

さて、それでは前置きは終わりで本編へ、ミラー・ショットの解説に移りましょう。

Vincent Cassel in La Haine (1995)

因みに今回の記事ではCGIメインの撮影には触れません。ビジュアル・エフェクト込みで話をするとややこしくなる、というより如何なる表現も出来てしまうので。それだと企画として面白味が無いですよね。飽くまでグリーンバックではなく実際に撮影する方法だけを取り上げます。

鏡(ミラー・ショット)- 憎しみ(1995)

映画の中で5本に1本は鏡を使ったショットがあることでしょう。そしてその内4本に1本は正面から鏡に向かい合うショットがあるのではないでしょうか。数字は適当ですが、それでも鏡が登場する映画は少なくない筈。そして鏡が登場するということはカメラも映っている筈ですが、当然そんなことはありません。例えば次のショット。

www.youtube.com

カメラが背後から迫ってきているので、当然鏡に映るヴァンサン・カッセルの後ろにはカメラが映る筈ですよね。どの様に撮影したらカメラが消えることが出来るのか。

実は物凄くシンプルなテクニックで作られていて、この正面に映る青年。彼はスタント・ダブルです。そして鏡に見える部分には本当のところ何もありません。虚像に見せかけたヴァンサン・カッセルは本物のヴァンサン・カッセルで、偽物の彼とテンポを合わせて演技することで反射の様に見せ、その間カメラは何もない空間を通り抜ける、という訳ですね。

当然セットで左右対称の空間を、俳優を挟んで作る必要がありますからこのシーンはセットで作られているということも分かります(鏡があるべき場所を中心に全く同じセットを反転させて作るイメージ)。バンリュー映画でありながら、しっかりセットで撮っているというのがリアルな舞台裏です。

因みに最近の映画ではこうしたスタント・ダブルを使ったミラー・ショットにCGIを加えて鏡の四つ端の歪みを強くする様な編集を施すことが多いです。仕事が細かいですよね。勿論グリーン・バックのみで撮影することも多いですが、こうした部分部分でのCGI使用ということもあります。

血糊 - ゴッドファーザー(1972)

大量出血であれば特殊メイクだな、と分かり易いものですが、少量の出血となると却って撮影方法が不思議に見えるものです。例えば次のシーン。

www.youtube.com

特殊メイクにしてはシャツの上にくっきり流血の跡が残り過ぎだと思いませんか?仮に特殊メイクを人体の上に施し、裏から血糊を流しているとするとシャツの染みはもっと大きく広がってもおかしくない筈。この綺麗なラインはシャツの上から血糊を流しているとしか思えない。となると答えは一つですね。

そう、ナイフに細工を施している場合です。これは特に古い映画にありがちなテクニックなのですが、現代の様に皮膚に密着した傷痕をメイクで作り出血させることは当時は難しかった様です。そこでナイフの裏側、今回であれば恐らくスーツの袖口からロバート・デ・ニーロの掌に細いパイプを通し、そこから流血させる、という手法が一般的でした。

特にクロース・アップで撮影している場合、役者のナイフと反対側の手は隠されているのでそちらにシリンダーを設置するなど工夫が出来ました。このシーンはミディアム・ワイド・ショット気味に撮られているので、実はちょっと難しかったのでは無いかと推測されますね。フレーム全体の色味もオレンジで統一されているので、血糊も普通の赤-オレンジではなく、青を足した様な色に変更している筈ですし、となればスクリーン・テストも一定数こなしているでしょう。こうした細かな技術力が名作と呼ばれ語り継がれる一つの要因でもあります。

濡れ場 - 氷の微笑(1992)

中々正面切って考えるには気まずいトピックですが、それでも「どうやったらこんなシーンが撮れるんだ?」と疑問に思ったことは、一度や二度ある筈。『氷の微笑』の冒頭など良い例ではないでしょうか。

www.youtube.com

流石に当該シーンを貼ることは出来ないので、予告編を。見ている観客としても気まずい瞬間ですが、実際に演じる役者にとっても相当に気まずい撮影であることは事実で、そしてそれは撮影の為、というよりも準備の大変さによるものでもある様です。

事前に俳優は体のどの部分を撮影しても良いか、撮影時間はどの程度か、撮影方法はどの様なものか、といったことを確認し契約を結びます。又リハーサルに当たる以前に監督・俳優などで打ち合わせ(コレオグラフィーと表現する)を行うことも多いでしょう。

さてプロダクションに入ると、The modesty patch(日本語で言う所の前貼りに当たるのでしょうか?)という小道具が活躍します。ストラップ・レスのブラジャーの様な簡単なものから、特殊メイクでカバーをする様な高度なもの(マリリン・マンソンのアルバム、メカニカル・アニマルズのジャケ写を参照)まで多種多様、目的に応じて使い分けられます。特に男性器に対するthe modesty patchは必要不可欠で、俳優のプライバシーを考慮するという意味での必要性は男女同列ですが、カメラに対する写りやすさ、という観点で男性側の撮影はより難しさを伴います。

氷の微笑に関しては、恐らくマイケル・ダグラスバンド・エイドの様な素材で出来たベルトに似た器具を装着しての撮影、シャロン・ストーンは特殊メイク寄りの器具を使用しているのかな、と思われます。下腹部や太腿までカメラに収められていることを考えると、そしてsex doubleのクレジットも無いということで、本人による演技だったと考えても良いでしょう。

余り表立って語られる仕事・撮影法ではありませんが、実は奥が深い、非常に大変な仕事だろうと思います。

一人二役 - 戦慄の絆(1988)

Us、複製された男、アダプテーション、レジェンド 狂気の美学、一人二役で且つ同時に出演する映画は一定数存在します。博士の異常な愛情サスペリア・リメイクはシーンが被らないので理解出来ますが、2人同時にスクリーンに映る場合どの様に撮影するのでしょう?答えを言ってしまうとCGIなのですが、今回はCGIは除く、ということで戦慄の絆、という映画を取り上げてみます。

www.youtube.com

良いクリップが載っていないな、と思い探していた所、撮影監督Peter Suschiztyによるコメント付きビデオを発見。丁度双子が同時にスクリーンに映るシーンも確認出来ます。

彼が語っている通り、使われているテクニックはスプリット・スクリーンというもので、要は同じシーンを2回撮影し、例えば1回目はジェレミー・アイアンは右側に、2回目は左側に、といった風に撮影した上でその2枚のフィルムを切り取って、真ん中でくっつけてしまう、という手法です。背景をピッタリ揃えて撮影する必要があったり、1度目と2度目で俳優の動線が被ってしまわない様に調整する必要があったりと難しい撮影が要求されるテクニックですが、実は昔から存在する技法であり、メリエスが"Four Troublesome Heads"という映画で披露していたりもします。1898年の映画ですね。

www.youtube.com

想像される通り非常に編集の手間もかかり、撮影も難しい、という事で近年はCGIを使うことが一般的になっています。撮影中はDouble(代役の俳優)が演じる間、彼の顔の動きをセンサーで感知し、ポスプロで本物の俳優の顔をCG再現したものをトレースする、というやり方になります。これは例えばアバターのNa'vi(青い皮膚のほう)の撮影であったり、パイレーツ・オブ・カリビアンデイビー・ジョーンズの撮影にも応用されているものですね。

 

という事で今回は以上の4種類になります。CGIを嫌って何でも実写で撮ろうとするノーランは流石に異常だと思いますが、それでもこうして工夫を凝らして撮影している舞台裏を知るのは面白いものです。特に古い映画を見てみる際には、CG無しでどうやって撮影しているんだろう、と考えてみることも一つ興味深い見方になるかも知れません。

 

【ランキング】2022年ベスト/ワースト映画

31 (Sat). December. 2022

2022年も間もなく終わり。歳を重ねるにつれ一年が早く過ぎて行く様な気がしてならない。

ついこの間までは高校生で、息切らせる様に生きていたけれど、学校に部活に、課題にと全身で楽しんで疲れることはもう無くなった様に思う。その代わりと言っては何だが、進んで無茶を重ね、今年は単身で留学、住む場所も環境も大きく変わってと記憶に残る一年だったと思う。

正直に言ってどれだけ英語が上達しようが彼らの事を全く理解できる訳ではない。時には話に入れなかったり、上手く相手に言葉を届けられなかったりするが、それでも映画の話をしている時は彼らと全く同じ立場で話せていると感じる数少ない瞬間。一層映画を好きになった一年でもあった。

来年は本格的に現場に出たり、短編を撮ったり、コンペに出てみたりしたいな、と思いつつ浴びるように映画を見ることも少なくなるのかなとも考えると、やっぱり今年は凄く意味のある一年だったのだろう。ということで今年のベスト&ワースト映画だ。ありがたい事に先日の記事が好評だったが、彼らと比べて私の映画評にも是非お付き合い頂きたい。

sailcinephile.hatenablog.com

Guilliaume Depardieu in Pola X (1999)

以下は全て筆者が今年見た映画。新旧混同。数字に特に意味はない。

ベスト映画トップ10

1. トップガン:マーヴェリック

先ずは今年の主役、トップガン:マーヴェリックから。これは間違いなくベスト映画の一本である。というよりこれをベストに入れなければ映画について物を書く資格は無いだろうと思う。

「今の時代に映画を撮る上で最も難しい事は何ですか?」

昔のインタビューでクエンティン・タランティーノは、観客を2時間映画館に拘束することを如何に正当化するかだ、と答えていた。彼曰く家に居ながらにして好きに映画を見ることが出来る様になった。映画のチケット代も高くなった。今では他のコンテンツもある。そんな時代に観客に映画館に足を運んで貰い、2時間をそこで過ごすことに納得してもらうことが一番難しいと語っていた。

トップガン:マーヴェリックは近年、というより配信時代で一番上手に観客を説得した映画だと思う。この数年、暗い時代に一番映画の力を見せつけた映画だと思う。だからこの映画が大好きだし、間違いなく今年最も評価するべき映画だと思う。

2. Crimes of the Future

同じく今年公開された映画の中で、最も優れていた映画は何か、と聞かれたら筆者はCrimes of the Futureだと答える。日本では未だに公開日すら決まっていない様だから、若しかしたら公開されることも無いのかも知れない。だとしたら本当に残念なことだ。この映画が傑作であるからこそ、尚更に。

デヴィッド・クローネンバーグは本作に於いて西洋哲学の根本命題の一つに全く新しい解答を与えてみせた。その命題とはつまり人間の肉体と精神は二つながらにあるか、それとも一体として存在するか、というものだ。

映画の中でもこれまで性の解放を以て肉体と精神を対置してみせたり、或いはその逆を唱えたりする試みが見られた。しかしクローネンバーグは今の時代に両者どちらも意味はないと喝破してみせた。少なくとも私にはそう見えた。

肉体の全てが医療技術によって再生、移植可能になり、そして精神も高度なレベルで電子的に再現できる様になった。将来的には精神移植も可能になるかも知れない。そんな時代に肉体だの精神にこだわってみせたって何の意味があるというのか。セックスすることは他人と関係を持つことを意味しないし、セックスしないことが精神的な紐帯を意味する訳でもない。そんな時代に人間性とはどこに顕現するのか。こうした問題を具に考えた映画が、Crimes of the Futureではないかと思う。

「手術は新たなるセックスだ」というキャッチフレーズが空回りしているが、その本質は臓器移植手術が侵入する/されるという関係性を持っている所にあって、単なるボディホラーを超えた難解な、けれども興味深い、今年最も印象に残る作品だった。

3. わたしたちのハァハァ

Crimes of the Futureが最も印象に残った映画だとしたら、こちらは最も好きな映画、個人的に気に入った映画かも知れない。優れた映画でもない、皆にとって特別な映画でもない、それは分かっているけれども個人的に大好きな映画。

この手の映画には本当に弱くて、毎年必ずこうした青春映画に出会い、何度も見返している。松居大悟監督が手がけた本作はクリープハイプが大好きな女子高生が家出して福岡から九州まで彼らのライブを目指して旅する模様を描いた映画。

クリープの音楽も本当に格好良いし、何より登場人物全員がとてもよく描けていたと思う。例えば池松壮亮演じるドライバーが「世間は危ないんだぞ」と教える場面。相手は彼氏持ちの「八方美人」タイプの女の子なのだが、その子がサラッとキスしてみせたりする。そしてこの場面は二度と直接的に触れられない。

サラッと見てしまいがちだが、下手な映画だと一番ビッチな女の子、可愛い女の子にキスをさせたりする。そうして後々あの時キスしてたでしょ、みたいな火種を作りがちなのだが、世の中そんな風には回ってないし、そんな人間ばかりではない。演じた女優たちのことを松居大悟監督は本当によく見ていたんだろうなと思う。

そしてエンディング。LOVE&POPの明らかなオマージュなのだが、これが決定的に良かった。LOVE&POPと言えば村上龍原作の援交JKの物語だけれど、綺麗な指輪でも、彼氏でも、おしゃれなカフェでも、SNSでもなく、クリープで輝く女子高生がいるんだ、という意気込みが感じられた気がして、何だか嬉しくなった。概念を弄ってセックスさせたり手を繋がせるのは良いけど、実際の青春映画はこうあるべきだろうという意味でベスト映画に選出。恋空とかと比べて欲しい。あちらも嫌いではないけれど。

4. クリスチーネ・F

わたしたちのハァハァと同じ様な理由で好きなのが、こちらの西ドイツ映画。センセーショナルなドラッグ描写が注目されがちだが、その本質は若さ、クリスチーネという女性にあると思っている。考えてみれば当然のことだが、ドラッグ映画であっても主役はドラッグではなく飽くまでそれを摂取する人間にある。ドラッグというテーマでありながらもクリスチーネという女性を丁寧に見つめているんだろうな、と感ぜられる部分が良かったポイント。

クリスチーネに対して印象的なミッド・クロースアップが多く、しかもそこそこの長回しで彼女をカメラが見つめる。ドラッグに溺れる惨めな女の子でもなく、若気の至りで過ちを犯す女の子でもない、自然で近くに寄り添った撮り方に個人的には心動かされる部分があった。青春映画として十分に通用するものがあると思う。

5. Dolls

こちらは年の瀬ギリギリに見た一本。北野武監督、西島秀俊菅野美穂深田恭子らを迎えた豪華な映画である。どうやら余り評判は良くない様だが、個人的には非常に優れていると感じた。

何と言っても撮り方、繋ぎ方が良い。ヤクザの親分が歩いて来て、後ろから殺し屋が。銃を構えて撃たれた、と思えば川を流れる一枚の紅葉の葉につながり、と言う様なショットの繋がりは口で言うほど簡単なものではない。斬新で今見ても新しい、というよりは真似するのが難しいユニークな映画だと思うし、何よりそれだけ乱暴なカットでありながら、登場人物にしっかり寄り添っている点が素晴らしいのだ。

どうやら狂った愛だ、現実離れしている、等の感想があるみたいだけれども本当に狂った愛であればカメラが、音楽が、演出がここまで寄り添える筈がない。たとえ現実世界ではあり得ない愛の形であったとしても映画内ではこんなに丁寧に描かれているのであって、その手腕を誉めるべきではないだろうか。映画でいう狂った愛というのは撮っている側も理解していない様な、訳がわからないものである。そして大なり小なり映画内の恋愛は現実離れしている。仮にリアルに体感できない恋愛を受け入れられないというならば街へ出て自分で恋愛してはどうか、と言いたい。

6. 胸騒ぎの恋人

ドランの監督作、こちらも恋愛映画だがDollsとは随分毛並みが違う様に見える。見える、が実際そうは違わないのではなかろうか。

胸騒ぎの恋人で描かれる恋もハナから成功の見込みはない。何かが成就する見込みはなくて、そしてどちらの登場人物もその事を理解していながら分からないふりをしている。ドラン自身が演じるキャラクターが思い人の部屋でアレをする時も、モニア・ショクリ演じる女性がタバコを吸う時も何処か痛々しいのはお互い自分が何をしているか分かっているからだろうな、と感じた。

相変わらずドランの感受性は凄まじいし、表現できない微妙な感情を写す能力はただただ脱帽するばかりだ。たかが世界の終わり、の中でその才は最も発揮されていたと思う。その後どうにもパッとしない作品が続いているのは天才ゆえの悩み、名付け様のない感情にな目を付けたいという葛藤なのかなとも考えてみたり。

7. 鏡

教科書的な名作からも一本。アンドレイ・タルコフスキーの鏡だ。これは夏頃、新文芸坐のオールナイト上映で見た一本で満杯の観客に不思議と嬉しくなった思い出がある。特に筆者の6列くらい前に座っていた三人組で、同い年ぐらいの若い女性2人と男性1人で物凄く熱心に見ていた彼ら。二十歳かそこらでタルコフスキーのオールナイトニ付き合ってくれる友達が2人も居るというのが羨ましいし、その後あれだけ熱心に語り合える情熱があるというのも素敵な事だと思う。

それは別としてこの映画、カットが革新的である。AからA'、BからB’、B'からCという風に少しずつ位相をずらしながら物語を紡いでいくのだが、それら全てがごくパーソナルな領域に留まっている。留まっているのだけれど、そこにはロシアがあり、歴史がある(敢えてソ連とは書いていない)。この思いだし装置の様な、カラクリ箱の様な、何かが圧縮された装置があって物語がそこを通ることで縦横無尽に歴史が広がりつつ主軸はパーソナルな物語に留めるという語りに感心した。

能だったか狂言だったかにも似たような語り口があると聞いたことがあるが、果たしてどちらだったか。勉強不足である。ともかくその凄みを存分に感じられるという意味で鏡は今年見た中でもベストの映像体験に入るだろう。

8. アンダー・ザ・スキン 種の捕食

映画の冒頭、恐らくはスカーレット・ヨハンソン演じるエイリアンの誕生だろうと思われる映像詩が流れる。言葉を学び、服を着ることを学び、そしてデパートの中を彷徨う人間を観察する。初めての捕食のシーン、彼女は犠牲者の女性の涙を見る。しかし、彼女の関心はその横、犠牲者に付着していた虫にある。

この映画もまた広義では愛についての物語なのだと思う。「ルッキズムが〜」、「資本主義社会が〜」と語ることも出来るようだけれど、筆者はそんなディテールよりもスカーレット・ヨハンソンが人を愛することを、人間とは何かを学ぶ過程に心動かされた。

だから締めくくりのシーン、彼女は自分の頭部を大事そうに抱え込んでいる。そしてその涙を共有している様に思える。正しく成長だ。シン・エヴァンゲリオン綾波レイ(そっくりさん)の物語に似ているかもしれない。

何故、どの様にしてスカーレット・ヨハンソンが自分の頭を抱えるのか、自分の涙をどの様にして見るのか、ここでは説明は出来ないが気になった方には是非鑑賞して貰いたい。綾波ファンにもオススメ出来る映画だと思う。

9. 失楽園

この映画には大好きなシークエンスが幾つかあって、その1つは例えば映画序盤、左遷された役所広司が同僚と茶を飲みながら如何に暇を潰すか語り合う場面。キャスト1人1人にしっかりとカメラを当て、下手に切り返しなどをしない。画面の全体から冗長さが伝わってくる。

他には葬式終わりの黒木瞳役所広司の待つホテルに向かう場面。街並みを駆ける黒木瞳とホテルで忙しなく待つ役所広司が交互に移されるのだが、そのテンポ感が良い。そして最も大切なのは情事の後、役所広司が心ここにあらずといった表情でタバコを吸うショットがあることだ。このワンショットで話が一つ落ち着いて、グッと物語に親近感を持たせている。こうした些細なショットを挿入できるかどうか、傑作と凡作の違いであるのではないだろうか。

2人の新しい住処で手料理を食べる場面、クレソンと鴨の鍋を食べる所も良い。同じ役所広司でもCUREでは、日本映画然としながらも西洋映画のエッセンスを感じる部分があって、長回しにも何処か緊張感が漂っている。言ってみれば間(ま)がないのである。しかし失楽園では間を楽しむかの様な暇があって、それと同時に細かくカットされた濡れ場もある。最後の場面のモンタージュは非常に複雑に作られていると思ったし、その緩急が非常に自分に合っていたのだろう。昔に流行った映画、というだけの評価をされている様に思うが紛れもなく素晴らしい映画で、今では過小評価されてしまっている映画だと感じた。

10. ポーラX

最後、レオス・カラックス監督の第4作目のポーラXを挙げたい。筆者にとって今年最も出会えて良かったと感じる映画である。そういう意味でこの10本の中では一番高く評価しているかも知れない。

ハーマン・メルヴィルの小説に緩く基づいた映画で、遺産で何不自由なく暮らしていた青年が1人の女性と出会い、それまでの全てを投げ出して彼女との暮らしを初める、そんな物語だ。そして物語の肝は全編を通して漂う死の香り、特にカテリーナ・ゴルベワが纏うそれであると言って良いだろう。この死の香りというのは何も筆者が考え出した厨二病じみた概念というのではなくて、ジャン・コクトーの名作、『恐るべき子供たち』で表明されているものだ。

小説の中で主人公たる少年たちの部屋には常に死の香りが漂っている。その香りは避け難い呪縛の様なもので、母親を殺し彼らは孤児となってしまう。奔放な暮らしが極まるにつれ、その香りは濃くなっていき、エリザベート(主人公の姉)の結婚相手、ミカエルもまた死の香りに捉えられてしまう。そして最後にはその香りが彼ら自身をも滅ぼしてしまうのだ。

ポーラXでも『恐るべき子供たち』同等の避けられない運命、悲劇の予感が全体を支配している。それは確かにポンヌフや汚れた血にも共通してた要素かも知れないが、ポーラXでは死の香りが単なる雰囲気ではなく物語として、映画の肝として作用している。この点に感動したし、筆者には刺さるものがあった。

*これは余談だが、筆者は太宰治が大好きだ。彼ほど人間臭い作家もいないと思うし、その一語一語から書く苦しみが滲み出ている。一挙手一投足の全てが嘘でありながら、それが嘘である故に真実が見える。何故彼が嫌われているかも分かるし、一流の作家とみなされないのかも理解できる。しかしそれでも筆者は太宰が好きだ。

同じくポーラXは一般的に駄作と考えられている。そしてその理由もよく分かる。ただ非常にパーソナルな映画で、太宰を好きになるのと同様の理由で筆者はこの映画が大好きだ。両者に全くの関係は無いが、太宰を愛せる読者はこの映画も愛せるのではあるまいか。

(特別枠)呪詛

トップ10に入れる程ではないが好きな映画が、呪詛、日本の夏を席巻した映画である。所々脚本に不備もあるし、ノイズも多いが、それでもPOVホラーを超えて観客に直接繋がる構造は面白いと思ったし、広く大衆にアピールする力は評価するべきだろう。

例えばラース・フォン・トリアードッグヴィルリューベン・オストルンドの逆転のトライアングル。観客と映画の地平を揃え直接語りかける手法は見られるが、こうした映画はどうしても理屈っぽくなりがちだ。その問題点を乗り越えてシンプルに「怖がらせる」ことだけに特化した映画はこれまで余り無かった形の表現ではなかろうか。

ワースト映画5

1. ハウス・ジャック・ビルト

ワースト一位はぶっちぎりでこの映画、ラース・フォン・トリアーのハウス・ジャック・ビルトである。これは考える間もなく真っ先に思い浮かんだワースト映画だ。

この映画何は酷いかといって、マット・ディロン演じるキャラクターの理屈然り監督の演出然り全てがダサいのだ。冒頭からウェルギリウス神曲を反転構造にしていることは見え見えだし、歪な建築論や街灯と影の話にしても逆説の面白さがない。人類の遺産の稚拙な引用、見えすいた逆説になっていて子供の言い訳を見ている様な気分にしかならないのだ。

これが普通の監督の映画ならまだ許容できる。しかしラース・フォン・トリアーといえばニンフォマニアックで同等の手法を用いてバッハとセックスを繋げて見せた過去がある。あの時は引用される対象と赤裸々な性生活との間に確かなアイロニーがあった。しかし今作ではその全てが明らかで、考える楽しみというものがない。

おまけに残虐性の自然さを強調する為か画の作りも簡素で、余計に見るべきものがない。だから最初の瞬間から結末が分かっていて、その全てがこちらの想定通りに進んでしまうのである。そんな映画でヴィジュアルにも力がないとなれば何を見ろというのか。脳内ニューロンの発火何万分の一秒を3時間に拡大しただけの、見るべき所が何もない映像体験だった。

2. エルヴィス

カットが多過ぎる。折角魅力的なテーマで、資金も潤沢にあって、役者も皆魅力的なのに編集で全てを台無しにしてしまった。バズ・ラーマンがマキシマリストであるのは理解しているつもりだが、それにしても演出に芸がなく彼の過去作と比べても度を越してカットが多く、一辺倒だ。

これはどう考えても売れたいという欲が、つまり若者って集中力がないんだろ?だったら細かくカットしてしまえ、という横槍が編集段階で入ったのだとしか思えない。或いはバズ・ラーマン自身がそう考えたのか。真相は分からないが、カットが多過ぎるのは明らかで、そしてそれは間違った選択だった様に思われる。

例えばハリー・スタイルズが着るグッチはゴージャスで素敵だが、同じグッチでもそこらの成金やホストが着れば途端に品の無い服に変わってしまう。それと同じでロミオ+ジュリエットではゴージャスだった演出も、エルヴィスでは下品な代物に堕してしまった様だ。

3. ミッドサマー

フローレンス・ピューに寄り添っている様で全く彼女のことを見ていない。そして異端の捉え方がステレオタイプ過ぎて嫌悪感を覚える。どう考えても終盤、ジャック・レイナーがセックスする必要はなかった。

序盤でレイナー諸々男友達が、フローレンス・ピューに対して「あのウザい女も来るの?」というリアクションをして煙たがる描写がある。精神が疲れ切ってしまった彼女はそれでも何処か彼氏に依存していたのだ。ただそんな彼女も儀式に参加し、新しい、回復した女性に生まれ変わる。それは良い。問題はジャック・レイナーとの関係性だ。

彼が内心彼女をウザい女だと思っていて、彼女はそれに気づいていないとしたらその時点で関係は冷え切っていたのだと分かる。肉体関係が続いていたかどうかは分からないが、重要事項では無くなっていたのだろうと想像は出来る。

だとしたらフローレンス・ピューにとっての最後のショック、号泣のきっかけは彼氏が他の女とセックスすることではないだろう。彼女にとって辛いことであるには違いない。だが明らかに映画のテーマと合っていない。彼女にとって最悪の事態は、ジャック・レイナーが彼女を道具にしてしまうこと、トラウマを負った彼女にとって唯一の支え、人間たる繋がりだった彼に人間よりも道具として使われていたのだと理解すること。それによって自分が何も回復していないと知ることではないのだろうか。もしセックスが浮気程度の意味合いならば、寧ろ彼女は人間として見られていたと考えることも出来るし、それは冒頭のシーンとマッチしない。

異端の宗教、不気味なものなんだから性の儀式がある筈だ、というステレオタイプに基づいてシーンを作った様にしか思えず、彼女の最後の笑顔も嘘くさく感じられてしまったし、何よりフローレンス・ピュー演じる女性に不誠実だろうと思った。この部分に感じた嫌悪感は見逃すことは出来なかったし、その意味でワースト映画である。

4. ANNA/アナ

リュック・ベッソンのアクション映画。これはとっても面白かった。主演の女優さんも格好良く、魅力的だったと思う。ただ脚本の作りは問題ありで、その語り方は禁じ手だろうと感じた。

この映画サスペンス調になっているのだが、一つのシークエンスで語れる所まで語り、主人公が追い詰められた段階で時間を戻す。そして「実はこういう仕掛けがありました」と明らかにして救済し、次の展開へ持ち込むという構造になっている。種をバラさずに終盤まで引き継いでこそのサスペンスだろうし、この「実はね」という語りは後出しジャンケンの様な反則の手法だと思う。

何より監督はリュック・ベッソンである。彼ならシンプルなサスペンスとしても描けただろうに、という点も相まって残念だった。

5. CASSHERN

こちらも面白い映画ではあった。が、脚本に問題ありだと思う。よくヒーロー映画は必ずハッピーエンドで終わるから面白くない、という意見を聞くがヒーロー映画の本質は寧ろその決まったオチにあると言える。如何に終幕を幸福そうに見せることが出来るか、問題が解決した様に見せるか、このベールの役割を果たすのがスーパーヒーローなのである。

従ってこの映画のオチは至極正論なのだが、その正論をどう捻じ曲げて幸福感を演出するか、その点にこそスーパーヒーローの存在意義があるとすれば、何の為にキャッシャーんが生きているのか分からなくなってしまった。辛いことを覆い隠して見ないフリをさせてくれるからこそスーパーヒーローはありがたいのである。

それから宇多田ヒカルの主題歌にも疑問を感じた。歌のメッセージが映画と全く同じなのである。だったら歪なハッピーエンドに持ち込んで、最後に流れる主題歌がそれを皮肉る、みたいなオチの方が面白かったのではないだろうか。

撮影もセットも素敵だったが、結局脚本が考えることを放棄している様に思え、だとしたら何の為にこの映画を見ているのだろう、という疑問に答えが見つからない部分が問題だと感じた。

 

【ランキング】イギリスの映画学部生に聞いた2022年ベスト/ワースト映画

28 (Wed). December. 2022

年末企画第二弾、大学の友達にお願いしてアンケートを取ってみました。質問はたった4つ。

今年一番良かった映画は?その理由は何?今年一番ヒドイと思った映画は?その理由も教えてくれる?

選ぶ作品は貴方が今年見た作品なら何でも良し。新作映画、旧作映画、TVドラマ、短編、長編、実写にアニメ、どんな映像コンテンツでも構わない。今年見た作品の中からシンプルにベスト/ワーストを選んで答えてもらう。

質問内容も回答形式も緩いアンケート企画。実施した目的は大きく分けて2つで、先ず第一には学生はこういう映画を見ているんだということを知って貰いたかったから。特に筆者がイギリスにいるということもあって、彼の地の学生(若者)はどんな映画を見ているのかを知って欲しかったというのが一つ。そして第二に今の学生のトレンドを知りたかったから。概ねの学生が製作者・批評家になることを希望している、即ち彼らの嗜好が例えば10年後の映画界に大きな影響を与えている可能性もある。今の彼らの好みを知ることは将来の映画を考える上で有益な筈。

という目的でアンケートを取ってみましたが、何といっても筆者が1人で運営する小さなブログな訳で、本来なら学部全員の声を聞くのが望ましくも、それだと収集がつかなくなってしまう。やむなく10人程に絞って声を掛け、回答して貰いました。

下では先に全員の回答を見た上で、雑感という形で軽いコメントを付けようかなと思う。日本の学生に聞いた答えがどうなるかは分からないけれど、中々バリエーションに富んだ面白い内容になったと思うし、TwitterやFilmarksのコメントを見ている限りの評価とは異なっていたりもするので比較としても十分興味深いものになったのではないでしょうか。

Jenna Ortega in X (2022)

Aさんの場合

ベスト映画は何だった?

  • ドント・ウォーリー・ダーリン(2022)
  • Bodies Bodies Bodies(2022)
  • X(2022)

良かった理由は?

  • 全く新しい考え方で、それを完璧に表現してた。演技も素晴らしくて、どんでん返し諸々込みで完全に引き付けられた。ただただ愛してる!
  • スラッシャー映画でありながら、時代に合わせてすっかりアップデートされていることが凄いと思ったし、最後まで楽しめた。これも演技が良くて、ホラーとコメディのバランス感覚がブレなかったのも良い。
  • これも完璧。変わった映画なんだけど、ホラー映画ファンとしてどこか引き付けられるものがあった。A24の映画だったら何でも見ちゃうよね。

ワースト映画の方はどう?

  • Smile(2022)
  • Prey for the Devil (2022)

それはどうして?

  • タイプじゃなかったかな。良い所もあったし、サントラも悪くなかったけど、繰り替えされる物語に集中しきれなかった
  • シリーズとしてもう飽きた。つまらない。

Bさんの場合

ベスト映画は何だった?

良かった理由は?

  • 講義で見た映画だけど、ウェス・アンダーソンのスタイルが好みだった
  • まとめてロード・オブ・ザ・リングは最高の三部作だと思うし、その後のシリーズや新作など全ての基盤となって魅力を与え続けているから
  • 単純に面白かったし、シドニーが...(シドニーって誰だ?ってなってよく分からなかったので割愛。タイプミスかな?)
  • これも講義で見た映画だけど、キャラクターと物語が連動してオチまで繋がる作りが面白かった
  • 画が格好良かったと思ってて、ヴィジュアルを暗くして雰囲気を出しつつホラー映画みたいな緊張感もあったのが良かった
  • 昔のトム・ハンクス映画の1つで、キャスト・アウェイとかフォレスト・ガンプみたいに見なきゃいけないと思って見たら凄く良かった。若しかしたら人生でもベストな映画の一つかも。
  • ニコラス・ケイジ演じるキャラクターが段々残酷で冷酷に変化していく様子に魅せられた。部分的にでも実話に由来してるってのも信じられないポイント。
  • 単純明快。カウボーイは好きだし、決闘とかリベンジ譚っていうのも良いよね。
  • セット、小道具・大道具、衣装。全部大好き。

ワースト映画の方はどう?

  • Bait(2019)

それはどうして?

  • 単純に人生で見た映画の中で一番面白くない映画だったから。この映画を見てた毎秒が私の人生に於いて無駄な一秒だったと思う、マジで。映画が高尚なアートぶってる事に満足しちゃってたし、これは私の意見だけど、モノクロ撮影ってホントに上手にやらないと失敗すると思ってて、それでこの映画は正に失敗したって感じ。誰かこの醜い映画を作った罰を受けるべきだよね。ハチミツの中を歩いてるみたいな遅い展開にもイライラしたし、テンポ良く撮った映画だったらこの映画の全てをオープニングで終わらせてたんじゃないかな。
  • それで以て、やっぱりこの映画を見てた時間は無駄だったと思うのね。もし映画館で見てたとしたら、速攻で退席してたと思う。だってこれはアートハウスのゴミ屑で、メッセージのある深い映画だと思って作ったのかも知れないけど結局何も言えてないし、深さなんて便器に溜まった小便くらいのモンだよ。この映画が全部の時間を費やして語った事なんかよりも、youtubeとかの30秒広告の方が語るべき事に溢れてる。これが講義で見た映画で、そんで隣に座ってるヤツがいなかったならオープニングより先を見ることも無かったね。

Cさんの場合

ベスト映画は何だった?

  • 聖なる鹿殺し(2017)
  • レクイエム・フォー・ア・ドリーム(2000)
  • 成功の甘き香り(1957)
  • 秘密の森の、その向こう(2021)
  • 大地のうた(1955)
  • CLIMAX クライマックス(2018)
  • Went the Day Well? (1942)
  • グリフターズ/詐欺師たち(1990)
  • トリコロール/白の愛(1994)
  • サウルの息子(2015)

良かった理由は?

  • (回答無し)

ワースト映画の方はどう?

それはどうして?

  • (回答無し)

Dさんの場合

ベスト映画は何だった?

良かった理由は?

ワースト映画の方はどう?

  • ソー:ラブ&サンダー(2022)

それはどうして?

  • ゴミ箱の中で火事が起きたみたいな、屑のカオスだったから。

Eさんの場合

ベスト映画は何だった?

  • 新感染 ファイナル・エクスプレス(2016)
  • ブラック・フォン(2021)
  • ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語(2019)

良かった理由は?

  • どれも脚本がよく書かれていて、楽しめる。キャラクターが成長し、彼らの中に深みがある。

ワースト映画の方はどう?

それはどうして?

  • 酷い映像効果。キャラクターに見るべき所も無い。虚無。

Fさんの場合

ベスト映画は何だった?

  • X(2022)
  • Pearl (2022)
  • Bodies Bodies Bodies (2022)
  • ナイブズ・アウト(2019)
  • エターナル・サンシャイン(2004)
  • ジャンゴ 繋がれざる者(2013)
  • プレデター:ザ・プレイ(2022)
  • パラサイト 半地下の家族(2019)
  • フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊(2020)

良かった理由は?

  • ウェス・アンダーソンの映画スタイルが大好き(皆も好きだよね?)
  • プレデター:ザ・プレイなんだけど、これはプレデターっていう既存の素晴らしいものを上手に再創造したと思う。原始的な過去の話を扱って、全然違うイメージを与えてくれた。
  • XとPearlはミア・ゴスが出演してるホラー映画の傑作コンボだね。彼女は今年僕が見た中でも特に素晴らしくて、お気に入りだったよ。

ワースト映画の方はどう?

  • 今年見た映画はどれも良かったんじゃないかな。

それはどうして?

  • 元々時間が無限にある訳じゃないから、取捨選択をしながら見る作品を決めるんだけど、今年の作品はどれも良かったんだ。ワーストって言う程悪い作品は思いつかなかったってだけ。

Gさんの場合

ベスト映画は何だった?

  • Crimes of the Future (2022)

良かった理由は?

  • ボディ・ホラー最高

ワースト映画の方はどう?

  • Burning Guilt(これは多分彼が主演した自主制作映画のことだと思います、誰が回答したか分からないけど下の理由を見る感じで何となく)

それはどうして?

  • 俺の名前がクレジットされなかったから

Hさんの場合

ベスト映画は何だった?

良かった理由は?

  • ここに選んだ映画はどれも興味深いなと思った作品で、バラエティに富んだものになってると思うんだけど、それはジャンルという枠組みで見て際立ってる作品が素晴らしいよねっていう基準で選んだから。後は文化的に重要な映画も選んだつもり

ワースト映画の方はどう?

それはどうして?

  • エル・ドラドアメリカの西部劇が退屈になって、でもスタジオが大規模で製作してる、その歪みを見せてる映画(つまらないのに金が掛かってる矛盾)で、似たような現象がワイルド・スピード/ジェット・ブレイクにも見られると思う。死に体のフランチャイズなのに誰もトドメを刺さずに存続させてるという意味で。

Iさんの場合

ベスト映画は何だった?

  • シャッターアイランド(2010)
  • ジュディーを探して(2017)
  • オー!マイ・ゴースト(2008)
  • カオス・ウォーキング(2021)
  • ブレックファスト・クラブ(1985)
  • レッド・ノーティス(2021)
  • セッション(2014)
  • ホビット三部作
  • Barbie: A Fairy Secret (2011)
  • ズートピア(2016)

良かった理由は?

  • 他の人が凄く高く評価してる映画で見てみようかなと思ったら良かった、とか好きな俳優が出てるから見てみようと思ってみたら面白かった、っていうケースが多かった

ワースト映画の方はどう?

それはどうして?

  • 私はホラー映画のファンじゃないんだけど、何故ならそれは単純に気持ち悪すぎたり、怖がらせようと思い過ぎてプロットが馬鹿馬鹿しくなっちゃってたりするから。ホラー映画以外で挙げた映画は取り敢えずつまらなかった。

 

雑感

ちょっとサンプル少ないかなと思ったんですが、この人数にしておいて正解ですね。十分長い記事になってしまった。簡単に全体の傾向を考えて、コメントしてみましょう。

①ワースト映画は傾向が偏っている

選出される作品、その理由ともにワースト映画はある程度一様だと思いましたね。ワールド・ウォーZにPrey for the Devil、ワイルド・スピード/ジェット・ブレイク。どれもジャンル映画というか、その道の人が好きな映画っていうイメージがあります。

ゾンビ映画が大好きで、ゾンビの描き方の微妙な違いを楽しんだり、アクション映画の動線を楽しんだり。そういうジャンルにどっぷり浸かった人にとってはこうした作品って堪らないんだと思うんですが、普通に見る分には余り面白くない。

だからコテコテのジャンル映画というか、既存の領域に留まっている様な作品は嫌われているのかなという印象を持ちましたし、今後そうした作品は減っていくのかなとも思いますね。

②型に嵌まった作品は嫌い。でもジャンルの安心感は欲しい。

ワースト映画をその様に見ると、ベストに来ている映画は風変わりなジャンル映画が多いのかな、という印象を受けます。

ストレートなロマンスでありながら、奇妙な演出のエターナル・サンシャイン。ミステリー映画でありながら早々に種明かしをしてしまうナイブズ・アウト。格好良くないヒーロー映画、バットマン

Hさんのコメント、ジャンルとして際立っているというのも秀逸だなと思いましたよ。ジャンルの枠組みで映画は見たいけど、プラスαで変わった何かが欲しい。今年の映画で言えばXなんかが正にそうした映画で、ジャンルの脱構築とまでは行かないけれど、ホラー映画の教科書からは外れている。

そうしたジャンルの枠組みに留まった上で、一捻り加えた映画。そうした作品が好まれるのではないかと思いますね。ハイクラスな映画でもサウルの息子は伝統的な二項対立からは外れた戦争映画だし、サムライだって殺し屋映画にしてはアクションが鈍重ですよね。

あくまで緩い繋がりというだけですが、そうしたまとめ方も出来るのではないでしょうか。

Netflix最強

そして最後に、Netflixの力は凄いですね。先日の記事でも同じ事を書きましたが。

sailcinephile.hatenablog.com

 

旧作からランクインした映画たち、

グリーンマイル(1999)、ロード・オブ・ウォー(2005)、クイック&デッド(1995)、ギャング・オブ・ニューヨーク(2002)、CLIMAX クライマックス(2018)、ブレードランナー2049(2017)、ナイブズ・アウト(2019)、エターナル・サンシャイン(2004)、ジャンゴ 繋がれざる者(2013)、シャッターアイランド(2010)、ジュディーを探して(2017)、オー!マイ・ゴースト(2008)、カオス・ウォーキング(2021)、ブレックファスト・クラブ(1985)、レッド・ノーティス(2021)、セッション(2014)、Barbie: A Fairy Secret (2011)

これら全部イギリスのNetflixで見られる作品です。他の媒体でも勿論見れるとは思うんですが、例えばブレックファスト・クラブって一般の映画ファンはNetflixでプッシュされてなかったら見ないのかも知れないですよね(現在Netflixのトップページで大きく取り扱われてます)。

映画の勉強してる人だったら、ジョン・ヒューズが80年代のコメディの中心人物だったことは習うと思うので、そういう路線で見る機会があると思います。でも古い作品って若い人には特に届きにくくなってる訳で、Netflixで見れるか見れないかは今後作品が生き残るか否かを決める大きなファクターになるのかも知れません。

例えば同じ80年代でも、卒業白書みたいな映画。こうした昔のよくあるジャンル映画って再評価も中々されにくく、研究対象になることも多くはない。そういう意味でアートハウス作品(ズラウスキーのポゼッションとか)の方が将来的には安泰で、ジャンル映画の方が生き残れない可能性もあるのかなと思いますね。

ジャンルの周縁にあたる映画が作られて、その中心にいるべき作品は忘れられる。こうした現象が起こることも十分考えられます。

 

【時事】2022年、ネット空間でバズった映画・ドラマ総まとめ

23 (Fri). December. 2022

今回は年末企画3本立ての内の第一弾、バズった映画・ドラマの総まとめだ。この時期になるとベスト映画企画、ランキングものが各種媒体から発表されるが、それらは皆「良かった」映画のランキングである。従って知らなかった映画を発見したり、良い映画とは何か考えたりするには都合が良いかも知れないが、「じゃあ2022年ってどんな年だったんだ?」という疑問には答えてくれない。

そしてこの疑問に応えてくれる便利な記事は中々見当たらないものである。ということで需要の間隙を満たす、ニッチな記事として思いつく限りで今年流行ったコンテンツをまとめてみた。

一年を振り返るにも役立つだろうし、そこから何かを考察してみることも出来るだろう。何かの役に立てば嬉しい。興行収入ランキングなどはネットで簡単に見つかるから敢えて載せていない。基準は「バズった」何かがあるかどうかだ。今年を代表する「良い」コンテンツのまとめ、というのでもないからその点もご理解頂きたい。

Sadie Sink in Stranger Things Season 4 (2022)

Stranger Things (Season 4)

先ずはNetlixの看板シリーズ、ストレンジャー・シングスから始めよう。シーズン4から先行7話分が今年の3月に、その後7月に追加2話が配信された。最終話は150分という長さの力の入れようである。そしてStranger Thingsはこれまでだって大人気のシリーズではあった。しかし今年はかつてない、全世界的な社会現象としてのヒットを収めたと言って良い。それは具体的にはTikTokという追い風が吹いていたからだろう。

Kate Bushの"Running Up That Hill"は15秒動画で頻繁に使用されチャートを急上昇したし、"Chrissy Wake Up!"はミームとして拡散された。その他にもMetallicaの"Master of Puppets"も再ヒット、多くの80sポップミュージックが脚光を浴びた。"Pass The Dutchie"も忘れてはならない。タイトルスコア自体も弾いてみた動画などで人気になったことも付け加えておこう。

音楽面での影響に劣らずグッズ・セールスも爆発的だった。HMV等々のカルチャー・ショップでは必ずフィーチャーされていたし、日本でも例えば大手コンビニ、ファミリー・マートとのコラボやプロントでの限定ショップ営業などメジャーな成功を収めていたと思う。因みについ先日私用でロンドンまで出向いたのだが、2日と少しの滞在の間Hellfire ClubのTシャツを着た子供に少なくとも10人は出会ったと思う。

完結編に当たるシーズン5が製作中らしいが、そちらは本作を超えるヒットとなり得るのだろうか。疑ってしまうほど爆発的なヒットだったし、今年は間違いなくストレンジャー・シングスの年だったと言って良いだろう。恐らくは全ての映画・テレビ・アニメ作品を含めて。

Will Smith slap Chris Rock at the Academy

すっかりアカデミーの栄光にも影が差してしまって、何だか注目もされなくなってきているが、今年のオスカーは記憶に残るものだったと言って良い。それも偏にウィル・スミスのお陰で。今更政治的・社会的スタンスも何もないと思うからその点に関しては触れないが、Twitter/TikTok/Instagram諸々のソーシャルメディアでは散々この件をいじったミームが見られた。

サムライミ版スパイダーマン3と組み合わせて、ウィル・スミスが平手の後ヴェノムダンスを踊ったり、大乱闘スマッシュブラザーズのエフェクトを組み合わせたり。それからChris Rock=Sunday, Will Smith=Mondayみたいなミームもよく見た気がする。どれも記憶に残るほど面白かった訳ではないが、流行った映画ネタというテーマで外すことも出来ないだろう。

Johnny Depp vs Amber Heard

同じく特別面白かった訳ではないが、流行ったネタとしてはジョニー・デップの泥沼裁判だろうか。こちらもショート動画やミーム画像でViral, バズったネタだったのかなと思う。

個人的に面白かったのは友達と話していた時の会話で、演技コース所属の友達と、映画科の筆者、そして同級の友達三人で話していたのだが、丁度そのActing Courseの友達の理想の俳優がジョニー・デップだった。が、今回の一連のトラブルで彼はJohnnyが好きだと公言しにくくなってしまったそうで、「役者としては素晴らしいと思うんだけどね」とボヤいていた。対して同級の友達(女性)曰く「ジョニデみたいになるのはリスクがあるから、やめといた方が良いわよ。だってアンバーみたいなビッチが寄ってきたら迷惑でしょ」と。

最初は#MeTooの流れに乗って勝訴を確信したのであろうアンバー・ハードもただのBitchだと切り捨てられるあたり(しかも女性から)、中々世知辛い話である。

The whistle blowing at the beach - Top Gun: Marverick

さて詰まらないネタもこれで終わり。ここからは本当に面白い映画・ドラマについて取り上げる。先ずはやっぱりトップガン:マーヴェリックから。

映画としての質も高く、興行収入も絶好調だったが、その上でネット上で訴えかける魅力も持っていたという側面は強調しておく必要があると思う。具体的には砂浜でチームワークを高めるアメフトに皆で興じる場面。One Republic の"I Ain't Worried"が流れるのだが、この曲が大ヒット。特に印象的な口笛の部分である。曲自体もヒットした他Slowed Versionや、口笛だけを切り取ったバージョン、色々な形の曲が作られ、ショート動画の音源として使われていた。

映画として面白いことは何よりも大事。しかし時代を通じてアイコニックな存在になれるかどうかというのは単純な面白さや質の高さ以上に、観客に訴えかける特質があるかどうかが重要になる。嘗ては、例えばブレックファスト・クラブでモリー・リングウォルドが見せたダンスや、パルプ・フィクションでのダンス、E.T.の人差し指にタイタニックのFlyingポーズ。直ぐに真似できる様な印象的な動きがあるシーンがそのまま現実にコピーされていたが、今はネット上で受けるか否かがコピーの基準となっている様に思う。詰まり実際に映画を見て面白く、且つショート動画として切り取っても面白いこと。

マーヴェリックはこの点をも十分に満たしていたと思う。コロナ禍を乗り越えた人々を再び映画館に向かわせ、爆発的なセールスを叩き出し、質も十分に高く、そしてネット上でのアピール力も持っている。時代を象徴するに相応しい作品だと思うし、今年最高の映画と言わない理由が無いだろう。

Wednesday's Dance

同じく音源を含めてネット上でバズったドラマが、Netflix制作のウェンズデイ。公開が11月25日ということで一年の総括に含めるには遅過ぎるきらいもあるが、世界的なヒットであることには変わりないので一応。

ウェンズデイからは何と言ってもジェナ・オルテガ演じる少女が見せるダンスだろう。レディ・ガガの楽曲に合わせて(後付けらしいが)踊る訳なのだが、ジェナの独特な雰囲気とも相まって何とも言えない魅力を醸し出している。ダンス・フロアで実践するには少々難しいかもしれないが、それでもクラブ等でフィーチャーされる様な、そんな存在になれるのではないだろうか。難しいと言っても少し練習すれば誰でも真似できる程度の踊りだろうから。

Bo Cruz - Hustle

こちらも同じくNetflix製作から。こうやって振り返ってみると、Netflixのインターネット上への影響力は凄まじいと思う。ドラマとしての面白さでは他媒体(HBO MaxやHuluなど)も負けていないのかも知れないが、どうしても知名度という点で劣ってしまう。Viralなコンテンツを作り続けている限り、たとえ賞レースで負けていたとしてもNetflixがストリーミング界の王者であり続けるのだろう。

さてHustleである。こちらはアダム・サンドラ主演の映画で、彼は中々成功しないスカウトマンという役どころ。そんな彼が海外で見つけた才能がBo Cruz、フアンチョ・ヘルナンゴメスというNBAプレイヤーが演じるキャラクターだ。彼ら二人が共に協力しながらNBAを目指すというストーリーで、その道中に登場するキャラクターもアンソニー・エドワーズなど実際のNBAプレイヤーが演じている。カイリー・アービングが主演したアンクル・ドリューに近い企画とも言えるだろう。

この映画、特にバスケットボール界隈でネタにされることが多く、それは何故なら主演のフアンチョ・ヘルナンゴメスという選手が絶妙なキャラクターであったからである。NBAでの彼はベンチに居れば頼もしく使い所もある選手だが、個人としての能力は低く、ハイライトプレーもない、という至って地味なプレイヤーで、昨シーズンは4度トレードされた後に解雇、今シーズンは最低補償額での契約と、NBAに残れるかどうかもギリギリだ。

そんな彼が映画で主演し、数々のスタープレイヤーを打ち破る映画ということでネタにされない訳がないのである。彼の数少ないハイライトを集めてGOAT(Greatest Of All Time) Bo Cruzという動画が作られたり、現役最強選手レブロン・ジェームズのターンオーバーを、フアンチョ・ヘルナンゴメスの普通のプレート並べてBo Cruz>>>>Lebron Jamesと言ってみたり。

NBAという人気コンテンツにNetflixというコンテンツの王者が上手くあやかって作られたヒットだったのかなという印象だ。日本でも最近増えてきたけれど、海外でもNBAの人気は凄まじい。そのファンベースを上手に取り込んでヒットに繋げたという事で、他業種とのクロス・オーバーの成功例と言えるのかも知れない。

それにしてもフアンチョ・ヘルナンゴメスは来年も契約を貰えているのだろうか。

Austin Butler turned into Elvis 

今年はオースティン・バトラーにとって一躍出世の年だったと言えるだろう。参考までにIMDbの今年のスター・トップ10では第7位に選ばれている。

DUNE砂の惑星: part 2への出演も内定しているそうだが、今年は何といってもElvisエルヴィスの主演だろう。正直に言って筆者は全く好きな映画ではなかった。一本記事を書いて批判もした。ただエルヴィス・プレスリー役としてのオースティン・バトラーが素晴らしかったことは疑いようのない事実だろう。

そして彼のパフォーマンスの素晴らしさ、これ自体がviralになった。言ってみればアイドルの様な人気である。メディアでの露出度もグッと増え、ファンベースも強固になった。特にTroubleのシーンは素晴らしく、頻繁にカットされては使用されていたと思う。If I Can Dream も良かった。

更にDoja Catが歌う主題歌"Vegas"も人気を後押しした。耳に残るビート?と、歌い出しはショート動画でも使い勝手が良く、単なる音楽映画の枠を超えて存在感を示していたと言えるだろう。

CEO, Entrepreneur

これはBo Burnhamがジェフ・ベゾスをネタに作った曲である。元々は「ボー・バーナムの明けても暮れても巣ごもり」というNetflix映画の為に作られたが、これがAmerican Psychoと合体して爆発的なヒットになった。

具体的にはこのミームである。初めてみたのは2022年に入ってからだと思うのだが、正直正確な出所は分からない。実はPatrick Bateman Editというのは結構人気のタグで、色々なミームが作られているのだが、同じく人気のボー・バーナムとコラボしたこの動画は2022年ヒットした印象だ。

ハロウィンの仮装大会でもパトリック・ベイトマンを選択する人は身近にかなり多く、そういった意味でも人気は裏付けられているのかなと思う。

New Series of the Lord of the Ring/Game of the Thrones: House of the Dragon

この2つに関しては筆者は全く見ていないので何とも言うことが出来ないのだが、記録上は大きなヒットだったらしい。ロード・オブ・ザ・リング新作、力の指輪はアマゾン製作。ゲーム・オブ・スローンズ新作、ハウス・オブ・ザ・ドラゴンはHBO製作である。

どちらも元々非常に人気の高いコンテンツで、ファンベースも熱狂的だった。特に前者はイギリスでの人気はハリー・ポッターにも引けを取らず、広告キャンペーンも大掛かりなものだったことは確かだ。バスや電光掲示板での宣伝の他、イギリスで最も若者からの支持の熱い蒸留所、Brew Dogとコラボした限定ビールを発売したりと、力の入っていた様に思う。

GoTに関してもモバイル・ゲームの人気が盤石だったりと副収入が多く、話題に上ることは少なくとも収入という意味では安定していたのではないだろうか。

(おまけ)禍福倚伏死生有命

最後に日本でバズった作品を。台湾ホラー呪詛である。今夏のホラー映画は中々豊作で、そしてネット空間の盛り上げ方/盛り上がり具合は記憶に留めておくべきものだったのではないだろうか。そしてその中心は、哭悲/The Saddnessも話題になったとは言え、やはり呪詛を置いて他にない。こちらも又Netflix作品だ。

筆者もそこまで映画に詳しくない友達から「呪詛って映画見た?どうだった?」と何度も聞かれたから、身を持って実感している。今年の呪詛の勢いは相当なものだった。イギリスでは全く注目もされていないし、知っている人も、見た人も殆どいない。オススメにも上がってこない様な映画なのだが、それと比べて日本ではどうか。

具体的に何故、どういった要因でここまでヒットしたのかは定かではないのだが、日本であれだけ売れたということは何らかの必然性があったのだろう。2022年を振り返る上で、呪詛・哭悲・ホラー映画という並びは一つの大事なキーワードなのかなと思う。映画系Youtuber何かもこぞって取り上げていたのでね。

 

 

【脚本再現】脚本の基本フォーマット/ジョーカー(2019)

9 (Fri). Dec. 2022

Google検索エンジン、「映画 脚本 書き方」と打ち込んでみる。検索結果は570,000件。上から順番に開いてみる。柱、ト書き、台詞というものがある様だ。ト書きは数マス下げて書くらしい。

脚本を書く際には三幕構成というものを意識する。シーンからシーンの移り変わりはアクションを中心にする。1ページ当たり1分になるよう調整する。時と場所は明確に、各シーンの冒頭に書いて置く。何だかそれらしい。

所で一枚当たりの行数はいくつだろう?文字のフォントは何でも良いのだろうか?そもそも文字サイズは?何をどれだけ書いたら1分になるのだろう?1分の中にたくさん情報を詰め込みたい場合とゆったり余韻を持たせたい場合の書き分け方は?是枝裕和監督の1分と園子温監督の1分は異なるのでは?普通のシーンとフラッシュバックの書き分けは?サウンド・ブリッジを使いたい時にはシーン・チェンジを先に書くべきか、台詞を先に書くべきか?モンタージュの書き方は?ジャンプスケアの挿入の仕方は?オフスクリーンの会話・アクションの書き方は?所で脚本の中でオフスクリーンかオンスクリーンか書く必要はあるのか?音楽や文字を入れたい時は?

どの記事を読んでも分かった気にはさせてくれるが、実際に脚本を書き始めてみると、書き始めることすら出来ない役立たずな情報ばかりだと分かる。それでは本当に必要な情報とは何か。それは極く基本的なルールである。自主制作か超一流の監督になった場合を除いて、脚本は厳格な規則に則っている必要がある。ルールを守れない場合、貴方の脚本は読んですら貰えないことだろう。

ではその基本的なルールとは何か?実のところ筆者も分からない。ネットの検索結果はどれも役に立たないし、信用出来るとも思えない。書店に出向いても各々適当な事が書いてあって今ひとつ分かる様で分からない。誰も正しい書き方は教えてくれないけれど、自分なりに頑張って書いた脚本は「フォーマットが...」とか何とか言って突き返される。理不尽な話だ。

但しそれもこれも日本語での話。英語で脚本を書く場合、こうした問題に悩まされることはない。インターネット上で無数に、コンセンサスとして、信頼出来る情報を無料で手に入れることが出来るし、イギリスの場合は国立の映画機関や大手制作会社から情報が開示されていたり、ワークショップに参加することも出来る。お金を払えば撮影で実際に使用された脚本のPDFコピーを購入することも可能だ。無料で公開されているスクリプトだってある。

余談になるが、筆者が身を置いている大学は同じ学科に同学年で40人ほどの生徒が在籍している。彼らも筆者と同じでワークショップ等に参加し特別な教育を受けた訳でも、家族が映画業界に居る訳でもない、普通の学生だが、一年目の1学期から平気で短編の脚本を仕上げて持ち寄って映画を作る。勿論筆者も含めてだ。

これは十分な量の信頼出来る情報が公開されているからこそ可能になる話。という事で実際に映画のクリップから書き起こした何パターンかの脚本をベースに本当の脚本とは如何なるものか考えてみようというのが本記事の趣旨である。取り上げる映画は何でも良かったのだが、見栄えがよく広く見られているであろうジョーカー(2019)を扱うことにした。

先に述べた都合により日本語で紹介することは出来なかったが、なるべく簡単な英語で書く様努力したつもりである。適宜辞書など引いて貰えれば役に立つだろうと思う。恨むべきは日本の映画業界であって、筆者にその責任はないことを強調しておこう。

Joaquin Phoenix in Joker (2019)

さて実際に脚本にして検討するのは以下の場面である。

www.youtube.com

どうやら年齢制限が掛けられている様だが(そう言えばジョーカーもR15だった)、暴力描写もFワードも一切含まれていない。公に例示する場面としても不適切でないと思われる。

アーサー(ホアキン・フェニックス)が州立病院からカルテを奪い去り、母親とその本性、そして自分の過去を初めて知った場面。雨の中ずぶ濡れになりながら恋人ソフィー(ザジー・ビーツ)のアパートへ足を向ける。クリップの最後に見られる狂気じみた笑いを境にアーサーはジョーカーへ、不遇な道化師は空っぽの偶像に姿を変えることになる。

事例一・失敗した脚本

仕様の問題でこちらにスクリプトは挿入出来なかった為Twitterの添付画像を拡大するなどして見てほしい。一例目はUnreadable、読んですら貰えない様な代物であり、フォーマット上の重大な欠陥を主に3つ備えている。クリップと照らし合わせながら一つずつ議論していこう。果たして素晴らしい脚本を書くためには、否、先ずはReadableな脚本を書くためには何が肝要なのだろうか。

  • 脚本とショット・リストは別物

真っ先に指摘するべきは脚本とショット・リストを混同してはならないということだ。一枚目の一文目を読むと "We see the close up of Sophie's face"、「ソフィーの顔がクロースアップで写される」と書かれている。これはショット・リストで整理するべき事項であって、物語を示す脚本で提示する情報ではない(一応付け加えておくとショット・リストとは脚本をカットごとに分割し、それぞれのショットをどの様に撮影するか示したリストのこと。脚本、絵コンテの制作後監督や撮影監督などが話し合って決定する)。

確かに "Hard cut reveals..."、「ハード・カットで....が映し出される」といった書き方をすることはある。例えばイット・フォローズの冒頭、アニーが海岸まで車を走らせ父親に愛してると伝える場面。夜の海岸で一人座り込むアニー、尋常ならざる不穏な空気感。その直後ハード・カットで時間は翌朝まで飛び、ハード・カットが砂浜で足を折れ曲らせ死亡しているアニーを写す。急激な場面転換で驚きをもたらす、そんな場面だ。こうした描写を意図して、hard cut, jump cut, close-up等に言及することは可能だ。

しかし脚本の中でショットや編集に言及することは普通あり得ない。だから "We see the close up of Sophie's face" という脚本の書き方は間違っている。他にも "The camera tracks Arthur"(1枚目シーン2)、"hand held tracking shot from low-angle intensifies this feeling"(3枚目シーン8)などの書き方は全て不適切、削除するべき部分だ。

  • 場面設定がなされていない、或いは雑

1枚目シーン1、"We see the close up of Sophie's face. She imitates to shoot her head. In the mean time, Arthur watches her coldly with hatred, quickly turning his face away from her."、「ソフィーの顔がクロースアップで写される。彼女は銃で自分の頭を撃ち抜く仕草をする。その間アーサーは不機嫌そうに、冷たく彼女を見ているが、直ぐに顔を背けてしまう。」

これはいわゆるAction Lineと呼ばれるもので、人物の動作や物事の変化(ex. シシ神から流れ出た血液が森を枯らす)を描写する部分だ。脚本の殆どを占める部分になるが、実はAction Lineで書くべき事項はActionだけではない。初めて登場する人物には外見や年齢、性別といった基本事項を設定する必要があるが、それはAction Lineの中で行われるのだ。だから初めて登場する(厳密には映画の後半に当たるが)Sophieとは誰で、どの様な人物なのか、Arthurとは誰か説明する必要がある。初めて登場する人物はフルネームを大文字で書くことにも注意しよう。

またSlug Line(各シーンの最初に太文字で挿入される空間・場所・時間を設定する行のこと。INTはInternalで建物の内部、EXTは外部、INT/EXTはその両方を指す)の直後、新たなロケーションに移動した際には場所の様子を伝える必要もある。これもAction Lineで記すべき大切な情報の一つだ。

だからSlug Lineを見ると空間はINT、即ち内部。場所はThe Liftとなっているからエレベーターを、そして時間はNightで夜と書かれているが、具体的にはどんなエレベーターなのか。広さはどの程度でキャラクターはどういった位置関係で対峙しているのか。こうした事実を示す必要があるだろう。1枚目シーン3を見て欲しい。場所はSophie's Apatmentとなっており、初めて登場するロケーションだ。しかしアクション・ラインは "Arthur enters Sophie's room quickly and silently"、「アーサーは素早く、音も立てずにソフィーの部屋に入る」となっており、文字通り「アクション」から始まっている。これは既に述べた理由で間違った書き方と言えるだろう。鉄則:新しいロケーションを登場させる時は必ず場所に対する描写からアクション・ラインを始めること。

  • 時系列を整える

2枚目シーン3、最初のアクション・ラインを見て欲しい。"Silence. The only sound we hear is the rain falling outside"、「静寂。雨が降る音だけが聞こえる」と書かれている。これではシーンの途中から雨が降り出したかの様に読まれてしまうだろうが、実際にクリップを確認してみるとシーン1、エレベーターの中でアーサーは既に濡れ鼠になっており、雨の音はずっと聞こえている。更に映画を確認すると、病院から雨の中をアーサーが歩いてソフィーのアパートまで向かうショットがあり、時系列としてここで雨に言及することは間違っていると分かる。

今回は実際にクリップを見て脚本を書き起こしている為、時系列は明確で天候はずっと雨だったと分かるし、些細な問題に過ぎない様にも思われる。しかし本来は脚本から映像が作られるのであって、素直に読めば2枚目シーン3、ソフィーの台詞 "Your name's Arthur, right? You live down tha hall"、「名前はアーサーでしたよね?廊下の端に住んでいる?」が終わった所で雨が降り始めたと解釈してしまうだろう。

その場合エレベーターでアーサーがずぶ濡れになっていること(否、そもそもこの脚本では書かれていなかったが書かれていると仮定して)と矛盾するし、時系列が破綻してしまう。その意味で脚本の執筆には数学的精密さが求められるという事が出来るのかも知れない。Slug Lineで大まかな空間・場所・時間を設定する。アクション・ラインで場所・人物の設定を忘れず、その上で物語を作っていく。規則に従って進行する方程式や、プログラム言語の様だとも言える。

整理しよう。

脚本の書き始めは必ずSlug Lineから、空間・場所・時間を設定する。ロケーションが初めて登場する場合、Action Lineは場所の描写から始める。続けて人物の描写だが、これも場所と同様初めて登場するキャラクターは描写から始める。行動、或いは会話からアクション・ラインをスタートさせてはならない。アクション・ラインでは撮影方法、編集方法に極力言及しない。感情描写や隠喩を用いることは絶対悪ではないが、それも極力避ける。アクションに拘り、なるべく簡潔な表現を心がける。

事例二・凡庸な例

先ほどの失敗例から執筆に於ける基本方針を学んだ所で、次はより具体的にフォーマット上のルールを見ていこう。

  • 自体はCourier、フォントサイズは12
  • Slug Lineでも字体は同じ、但し全て大文字で書くこと、太字にすることが多い
  • 余白は左側に1.5 inch (3.81cm)、右側に1 inch (2.54 cm)、上下に1 inch
  • ダイアログの際のキャラクターの名前は全て大文字、左端から3.7 inch (9.398 inch) 空ける(余白を含める、文字列からは2.2 inch)
  • ダイアログはキャラクターの名前から1行下げる、左端から2.5 inch (6.35 cm) 空ける(余白を含める、文字列からは1 inch)
  • アクション・ライン中で初めて登場するキャラクターの名前は全て大文字、フルネームで示す
  • キャラクターの動作はカッコで囲み、キャラクター・ネームとダイアログの間に独自の行を設けて書く
  • 動作のカッコは左端から3.1 inch (7.874 cm) 空ける(余白を含める、文字列からは1.6 inch)
  • ページ・ナンバーはページの右上に上から0.5 inch (1.27 cm) 下げて記す、左端をアクション・ラインの右端(余白からi inch)に合わせる
  • ページ・ナンバーにはピリオドを打ち、数え始めは2ページ目から、1ページ目にはFade In: (トランジッション)と書く
  • タイトル・ページはページ数には含めない
  • ページ一枚辺りの行数は55行程度に収める(上記のフォーマットが整っている場合、自然と58行程度に収束する。ページの終わりがキャラクター・ネームになったり、始めがトランジッションになる場合、1行下げて整えると良い)

ザッとこんな所だろうか。モンタージュや歌詞の挿入、文字クリップの挿入方法、フラッシュ・バック、諸々細かいテクニックや例外はあるが、取り敢えずは以上のルールを守っている限り脚本として破綻することはない。そもそもモンタージュなどは表現方法であって本質ではないから表現の幅くらいに考えておくのが良いように思う。

さて、それでは基本的なルールを確認した上で実際のスクリプトを見てみよう。

  • 基本的なルールを守る

最初の例と比べて格段に進歩したと言えるだろう。

1枚目シーン1、"A man and woman stands side by side in the rusted lift, which is very large as a lift to maintain a certain distance between them"、「男と女が錆びついたエレベーターで向かい合っている。随分と広いエレベーターで、二人の間には幾らかの距離がある。」

しっかりと場所の描写を盛り込んでおり、具体的にショットがイメージ出来る様な表現がなされている。続けてソフィー、アーサーが登場するが彼らに関しても「20代後半の美しいアフリカン・アメリカンの女性で、ヴォリュームのあるアフロヘアをしている」、「34歳、顔色は青く痩せ形で、ベタついた髪は手入れがされていない様だ」という描写が書き込まれている。

アクション・ラインには必要な動作だけが書き込まれており、且つ時系列にも無駄がない。Slug Lineを見ても1枚目シーン1、最初の設定でのみNIGHT、夜と記されていてそれ以降はLATERやMOMENT LATERという時間が用いられている。これによって一連のシーンが連続する時間の中に置かれていることが明白となり、シーン・チェンジ前後の時間関係も明瞭となっている。

またトランジッションの一環として、2枚目シーン4から3枚目シーン5ではBEGIN FLASHBACK、END FLASHBACKという表現が用いられている。フラッシュバックに関しては細かい慣例があるから別に解説するとして、兎も角2つのトランジッションで挟むことでシーンの意図が分かり易くなっている。これも非常に重要なポイントだろう。

  • とはいえ...

2例目のスクリプトは基本的なルールは守られており、脚本として十分に機能するものだと思われる。しかし、様々な映画の脚本を読み比べて貰えれば分かると思うのだが、このスクリプトにはどことない違和感がある。

具体的には言い回しが大業で簡潔さに欠けている。描写が丁寧なのは結構だが、必要以上の文言が多く、直感的な理解を妨げる。最初に述べた通り日本語の脚本を読んだことがない都合うまく説明し難い部分があるが(そもそもどういった書き方が評価されるのかさえ知らない)、少なくとも英語の感覚からすると読み辛い。ということで最後に最も自然な、恐らく筆者がscreen writerであればこの様に書くだろうという例を観察する。

事例三・優れた例

優れた例と銘打ったが筆者の力が及ぶ範囲で、という意味だからその点ご了承頂きたい。この場合のポイントは如何にシンプルで分かり易い英語を使うか、という点だ。

因みにジョーカーに関しては無料で脚本が公開されているので、気になった方は各自調べて頂きたいのだが、そちらでは当該シーンは1ページ半にも満たない長さとなっている。キャラクターや場所の説明など本来入らない要素も含めて書いているから、長さ的には2枚半という所で悪くないのではないだろうか。オリジナルにはフラッシュバックも含まれていない訳で。

今回の記事を纏めると次の様になるだろうか。

  • 脚本の書き始めは必ずSlug Lineから、空間・場所・時間を設定する。
  • ロケーションが初めて登場する場合、Action Lineは場所の描写から始める。
  • 人物の描写でも場所と同様初めて登場するキャラクターは描写から始める。
  • 行動、或いは会話からアクション・ラインをスタートさせてはならない。
  • アクション・ラインでは撮影方法、編集方法に極力言及しない。
  • 感情描写や隠喩を用いることは極力避ける。
  • アクションに拘り、なるべく簡潔な表現を心がける。
  • 自体はCourier、フォントサイズは12
  • Slug Lineでも字体は同じ、但し全て大文字で書くこと、太字にすることが多い
  • 余白は左側に1.5 inch (3.81cm)、右側に1 inch (2.54 cm)、上下に1 inch
  • ダイアログの際のキャラクターの名前は全て大文字、左端から3.7 inch (9.398 inch) 空ける(余白を含める、文字列からは2.2 inch)
  • ダイアログはキャラクターの名前から1行下げる、左端から2.5 inch (6.35 cm) 空ける(余白を含める、文字列からは1 inch)
  • アクション・ライン中で初めて登場するキャラクターの名前は全て大文字、フルネームで示す
  • キャラクターの動作はカッコで囲み、キャラクター・ネームとダイアログの間に独自の行を設けて書く
  • 動作のカッコは左端から3.1 inch (7.874 cm) 空ける(余白を含める、文字列からは1.6 inch)
  • ページ・ナンバーはページの右上に上から0.5 inch (1.27 cm) 下げて記す、左端をアクション・ラインの右端(余白からi inch)に合わせる
  • ページ・ナンバーにはピリオドを打ち、数え始めは2ページ目から、1ページ目にはFade In: (トランジッション)と書く
  • タイトル・ページはページ数には含めない
  • ページ一枚辺りの行数は55行程度に収める(上記のフォーマットが整っている場合、自然と58行程度に収束する。ページの終わりがキャラクター・ネームになったり、始めがトランジッションになる場合、1行下げて整えると良い)

このルールさえ守っていれば一応脚本として形にはなるので(もちろん話が面白いことも大切だが)、適宜振り返って活用して欲しい。少なくともフォーマットの欠陥から没になることはない筈だ。

ハリウッド級三幕構成をまとめた画像は有料級だと思います!と威張り倒したTweetを見掛けた事があるが、英語圏ではここまで無料でアクセス出来る訳で、高々三幕構成程度で威張ることは何もないのだ。本物の脚本だって無料で閲覧して勉強出来る訳で。意趣返しというのではないけれども、折角英語圏で勉強している身として何かの役に立てれば幸いである。

 

【留学情報】イギリスで永住権を獲得するまでの道のり

21 (Mon). November. 2022

先日Twitterで投稿した内容の簡単な纏めなのだが、自分用のメモとして、それからブログの方でクリックが付きそうな中身だったので上げ直し。

駐在職員や国際結婚、それから語学留学に交換留学で海外に行く人が全体の優に半分以上は占めているのではなかろうか。単身留学、或いは就職の為の渡航は割合としては多くないと聞くが、ではそうした単身で渡航した日本人が現地で働いて、生活する為にはどうしたら良いのか?

具体的には3つの方法があって、それが1)就労ビザ、2)永住権の獲得、3)国籍変更。その中でも特に就労ビザの獲得と永住権の獲得に就いて簡単に整理して置こうと思う。

The Immigration Scene from The Godfather: Part II (1974)

就労ビザの獲得が必須

  • そもそも留学(海外で生活)した状態で日本に戻って就職する難易度が高い。インターンも就活セミナーも物理的に行くことが不可能な中で、就活=情報戦などと言われる戦いを勝ち抜くのは困難。
  • 寧ろ留学先で出来るコネクションや経験を考えると現地で就職した方が簡単。本人も当初はそれを望んで留学した筈。
  • その場合必要なのは学生ビザから就労ビザへの変更。ビザの種類は長期ビザと短期ビザの2種類で職種によって区別されている。
  • 長期ビザの方が当然審査は厳しい。短期ビザは芸術的職務、宗教上の職務、奉仕事業、季節労働など細かく分類されておりその分ハードルも低い。映画産業での仕事は先ずはCreative Worker Visa (Temporary)からのスタート。
  • そのCreative Worker Visaで滞在が認められるのは、12ヶ月或いは保証された契約期間+28日のいずれか短い方。ショートフィルムの撮影だとプロダクションは1週間から2週間で行われるのでこの場合滞在期間は1ヶ月半ほど。
  • ビザの申請に必要な期間は8ヶ月以内。最悪の場合仕事を終えて、申請をしてギャップの数ヶ月の間日本に戻ってまた渡英して、というプロセスになるかも。
  • 正直仕事をしながら4週間の猶予で次の仕事を探して、申請手続きをして、というのは相当厳しい。アパートも長期での契約が前提で、イギリスは他人とシェアすることが多いから、一年契約がほとんど。短期ビザだと住居探しも一苦労。
  • 就労ビザではなくて直接永住権は獲得できないのか?これは不可能になっています。永住権申請の為の最低条件は5年以上英国に住んでいること、及び金銭的な保証がされていること(職に就いていること)。
  • 大学は3年生なので、最低2年はマトモに仕事してますよ、という証明が必要だということ。映画業界の様な短期の仕事をいくつも、というのだと要件も厳しくなるかも知れない。
  • とは言え普通の企業に入って長期ビザを貰うのも簡単ではない。そこそこの職であればわざわざ外国人を雇う必要がなく、求められるスキル・レベルは高い筈。そして日本人は途上国などからの移民よりも審査要件が厳しくなりがちということで、就職は一流企業を狙っていく必要性あり。いわゆる外資ベンチャーに当たるので、解雇の可能性も考えておくべき。

以上が簡単な就労ビザ獲得までの道のりである。難易度は当然高く、軽々しく「海外で働きたい」など言えたものではないな、という感じだ。

冒頭書いた通り、これらはTwitterの投稿の要約になる。プロフィール欄または如何のリンクから飛べると思うので、そちらの方も確認して頂けると幸いである。

 

Sail (@Sailcinephile) / Twitter