知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】反知性主義を考える/エクソシスト(1973)が怖いワケ

19 (Sat). November. 2022

来年で50周年を迎えるホラー映画の金字塔、エクソシストマックス・フォン・シドーが靄を掻き分けて差し込む光に照らされるあのショットは誰もが一度は目にしたことがあるだろう。リンダ・ブレアがスパイダー・ウォークする場面も何故だか有名である。スパイダー・ウォークが観たければオリジナル版は見ないことだ。

さて、そのエクソシストについて今回は考えるのだが、タイトルは「反知性主義を考える/エクソシストが怖いワケ」とした。この辺りの話題に明るい読者、或いは神学系の大学に通われていた読者などは一目でこの先の展開が読めてしまうのではないだろうか。

安心して欲しい。筆者はエクソシスト啓蒙主義への批判映画、医療万能主義の批判という様なつまらない議論をするつもりはない。寧ろこの記事ではこれまで語られてきたエクソシストに対する解釈を見直すことを目的とすると共に、世相と絡めて反知性主義とは何か本当の意味で考えて行きたいと思う。

日本でも数年前に流行した単語。「反知性主義」。記憶に新しい方も多いだろう。恐らく◯◯主義として提唱したのはリチャード・ホフスタッターの『アメリカの反知性主義』が初めてだと思うが、内田樹佐藤優、森本あんり等々優れた論客がテーマとして扱ってきた。

一介の映画ブログの解説よりも彼らの解説の方が信憑性があるだろうから、詳しい用語の意味は各々調べて頂くとして、ここでは簡便に定義を紹介するだけに止めエクソシストを議題の中心としたい。

Linda Blair in The Exorcist (1973)

第二バチカン公会議(1962-1965)

いきなりの脱線で申し訳ないのだが、ご寛恕いただきたい。エクソシストの背景を考える上でキリスト教について考えることは不可欠であり、特にアメリカ(本国)への影響を理解する為には公会議について知っている必要があるのである。

公会議とはキリスト教に於ける最も重要な審議の場で、教義の解釈や典礼の実施について正式な見解をまとめる為の議論が行われる。世界史を履修されていた方であれば、アリウス派を異端としたニケーア公会議、などと聞いたこともあるかも知れない。平たく言えばキリスト教世界の国会であり、政争の場ともなれば異端審問の場ともなり、たまには真面目に法律(キリスト教)の議論もする、そんな場所である。

この公会議キリスト教の地盤が弱い日本人にとっては尚更馴染みのないものだと思うし、どことなく古臭い感じもする。特に世界史の授業を受けていた方であれば歴史上の出来事として捉えてしまうことだろう。だから第二次世界大戦後、1962年から1965年にかけて開かれていたということは殆ど知られていない様に思われる。

しかしこの第二バチカン公会議、非キリスト教徒の生活にも影響を及ぼすある事柄について重大な決定がなされた場なのだ。それはキリスト教と科学の両立について。イタリア語で進歩を意味するAggiornamentoがテーマとなっており、カトリック教会の刷新、教会の意義と他機関との関わり方、非キリスト教徒を含む全世界的な人民に対する在り方などが議論されたのだが、その中では科学と教義をどう両立させるべきか、というテーマも含まれていた。

科学と教義の両立というとピンとこない方もいるだろうから少し補足すると(というより筆者が偏った立場にいないことを明らかにする為に説明すると)、例えばダーウィンの進化論などは聖書の教えに反する科学として著名な例で、アメリカの一部の州では進化論を教えることが禁止されていたりもした。1980年頃からは進化論を一般的に教えることが許可される様になったが、2005年になって創造論を生物の教科書に記載する様求める投票が行われたりと未だに進化論に対する嫌悪感は強かったりもする。2018年にはNBAプレイヤーのKyrie Irvingがフラット・アース(地球は平坦だとする考え方)を支持するかの様な発言をして物議を醸したが、そうしたFlat Eartherも一部には存在する。

この様に宗教理解に基づく科学の否定というのは根強い問題であって、公会議で取り上げられたのはこうした敬虔な信者と戦後の若者たちとを分断しない様にという配慮でもあった訳だ。Vatican Observatoryというサイト上(orgドメイン)で公開されている文書には次の様に公会議での採決が記録されている。

If by the autonomy of earthly affairs we mean that created things and societies themselves enjoy their own laws and values which must be gradually deciphered, put to use, and regulated by men, then it is entirely right to demand that autonomy. Such is not merely required by modern man, but harmonizes also with the will of the Creator. For by the very circumstance of their having been created, all things are endowed with their own stability, truth, goodness, proper laws and order. Man must respect these as he isolates them by the appropriate methods of the individual sciences or arts. Therefore if methodical investigation within every branch of learning is carried out in a genuinely scientific manner and in accord with moral norms, it never truly conflicts with faith, for earthly matters and the concerns of faith derive from the same God. 

(訳)仮に森羅万象の自動律と言った時にそれが我々がその法と価値を享受する様な発明品と社会を意味し、そしてそれが我々の手によって理解され、利用され、制御されなければならない様なものを意味するのであれば、その自動律を求めることは完全に正しいことである。その様な自動律は現代人だけが必要としているものではなく、創造者の意思とも合致するのだ。何故ならば被造物は創造された正にその環境によって適正・真実・善・良き法と秩序を与えられるからである。人は科学や芸術という名の下に与えられし条件を個別に扱う際には、十分にそれらを尊敬しなければならない。つまりあらゆる分野の探求が真に科学的な方法で行われ、道徳的な常識と合致する様な方法で行われるならば、それは真の信仰と対立することは決してないのであって、それも地上の事象と信仰上の事柄は同じ神の下から立ち現れているからなのである。

中々邦訳が難しい文章だが、要は神が創りし人と自然があって、その自然の法を人間が学ぶとしてもどちらも神様が作ったものだから科学も信仰の内で認められるでしょう、ということだ。

これが公会議に於いて公式見解として発表されるのだが、それはキリスト教徒、特にアメリカ人にとっては非常な問題であった。当時のアメリカでは検閲が実施されており、ヘイズ・コードに依る自己検閲が最も有名だが、実はその他にキリスト教徒による検閲というものも存在した。キリスト教の教義に反する表現が含まれていないかどうか、公序良俗を乱す描写がないかどうか、こうした事柄をチェックし教会ネットワークを通じて信者に鑑賞の可否を伝える団体が存在していたのである。彼らの影響力は絶大でアメリカ社会の大部分を占めていたキリスト教徒が総出で映画をボイコットするという事態も考えられたのである。

それが公会議での決定により科学(と芸術)が認められるということになった。猥褻に関する規制は続いたものの人が作りし映画は科学に対して表現することが認められたのであり、検閲は不要と公式に決定されたのである。

これが当時のアメリカ社会にとって大きな転換を意味していたことは容易に想像がつくだろう。奇しくもベトナム戦争ウォーターゲート事件と重なる時代、価値観が大きく揺さぶられていた時代だった。その中で登場した映画がエクソシスト(1973)なのである。

エクソシスト

公会議の終幕が1965年、同じ年にカトリック教会の検閲機関だったThe National Legion of DecencyがThe National Catholic Office for Motion Picturesに改名。それに伴ってレーティング・システムも改変される。

こうした一連の宗教サイドから映画、科学へのアプローチの変化があった中でエクソシストが発表されるのが1973年。8年というと長い様な気もするが例えばコロンバイン銃撃事件(1999)を受けてボウリング・フォー・コロンバイン(2002)が発表されるまでが3年。フィクションの世界では1964年のアメリカ軍ベトナム派兵からディア・ハンターが発表されるまでが14年。実際に行われた調査の量と当時の観客の保守部りを考慮すれば十分早いと言えるのではないだろうか。

監督のリチャード・ドーキンスは神学・科学の両面から徹底的な考証を行なっており、神学面では米国カトリック教会を通じてバチカンと連絡を欠かさず、彼らの認証を得た上で映画を製作した。その証左に彼はリアリティを増す為教会のシーンについて実際の教会を使用することを検討していたが司教・聖職者らの反対を受けセット撮影に変更している。またエクソシズムに関しても現代では殆ど絶滅した儀式であることを理解しており、ヒステリーへの対処療法として劇中に登場させていて、これは当時の聖職者によって正確な描写だと評価された。

科学面からは当時トップクラスの設備を持っていたニューヨーク大学医療センター他の医師から指導を受けており、またトップクラスの心理学者、精神科医師、神経医学者、臨床相談員、放射線技師などをコンサルタントとして招いて科学考証を行なっている。劇中の様に検査中に血が飛んだり母親が上から視察したり、ということは実際には行われず、恐怖感を煽る為の演出であったもののそれ以外の部分では極めて科学的に正確さを担保されていた。

事実1973年当時の観客はリンダ・ブレアが病院で検査されるシーンで"walk-out"、離席することが多かったらしく或るジャーナリストによれば観客が吐き出すのは最後のエクソシズムのシーンよりも採血シーンで注射器から飛び散る血を見た時だったそうだ。詰まりはそれだけリンダの反応が生々しく、デモニックだったのだろう。

少し脚本という目線から話をすれば医学検査のシーンとは終盤の儀式のシーンを強烈に印象付ける為の準備という役割を担っている。あそこで彼女に取り憑いた悪魔を正式に手に負えないものとして診断することで、「対症療法」としてのエクソシズムを正当化すると共にその異様さに根拠を与えているのだ。医学で解決出来なかったのだから、彼女の変貌は実際に悪魔によるものだったのかも知れない、という風に。従って科学考証が精密であればある程その説得力は増すことになるだろうし、その様に機能したからこそ検査シーンで吐き出す/離席する観客がいたのではあるまいか。

反知性主義

ここで興味深いのは、離席した/吐き出した観客の映画に対する感想が「冒涜的だ」というものだったことだ。配給のワーナーによる煽りもあったとはいえ、当時多くのメディアが如何に観客が嫌悪感を示したか、宗教団体や科学者が神への冒涜、ポルノ映画的性質を強調したか、こうした点を報道していた。

しかし科学では対応できない未知の病を対症療法たるエクソシズムによって例外的に対処する、という物語の何処が冒涜的なのだろう。確かにジェイソン・ミラーは演じた神父は神の存在について疑問を抱いている。しかし彼も最後には悪魔の実在から背理法的に神を信じる様になった(と思われる)し、マックス・フォン・シドーは元々敬虔な信者だ。

だから彼らの批判から筆者が感じたものこそが、医学で解明できない悪魔に対する嫌悪感=反知性主義なのである。彼らは神に挑戦するかの様な悪魔を見て冒涜的だというが、彼らが真に恐怖を感じたのはその前段階から、悪魔が得体の知れないものだとわかり始めた頃からなのだ。だから彼らは実は理解出来ないものを恐れていて、その意味で反知性主義的なのではないだろうか。

反知性主義とは元来は文字通り「知性主義(主知主義)への反抗」、つまり知性によるコントロールに対する反抗を意味する。主知主義と言えば理性による人間精神のコントロールとして倫理的なニュアンスを持つが、知性主義と言った場合には政治的な側面を、即ち知的エリートがコントロールする社会像を意味することが多いのではないだろうか。それに対するアンチ(反)なのだから、知性がエリート層にのみ帰属することへの反抗となるだろうか。

知識人がそのままエリートとなることへの反感。知識が民衆に帰属されないことへの不満。これはしばしば排他的な自己中心主義・仲間中心思想へと結びつく。

「彼ら知識人がエリートとしてのさばっていてはいけない。真の知識は民衆の側に、即ち例えばこの私の元に帰属するべきだ。自分だけが正しい知識の保有者となり得るんだ。」

こうした論理の飛躍である。本来は知識を民衆に返すことだけを意味していた筈なのにいつの間にか自分こそが正しい、という風にすり替わってしまっているのである。そしてこの飛躍は更に屈折した感情に、陰謀論的な思想に結び付きかねない。

「自分こそが正しい知識の保有者なのに、自分の思った通りに世界が動かない。自分が認められていない。これは間違った指導者が間違った事を言っている所為だ。間違った指導者が誕生する様な仕組みがある所為だ。自分が正しいことは証明されている。そうだ、これは我々を貶める陰謀なんだ!」

これは当然論理の飛躍であるから、良識的な立場からは彼らのエリート層に対する反発は間違った思想に由来する反抗に見える。この時反知性主義は知識への嫌悪へとすり替わるのだ。

以上が簡単な反知性主義の説明な訳だが、既に述べた様にその始まりは知識人に対する嫌悪にある。これはある意味で健全な思想であって、自分が賢い状態で居たい、という向上心であるとも言える。対して屈折した反知性主義では自分が分からない状態、コントロール出来ない応対、分かっている事柄と異なる状態、こうした状態を恐れ、超自然的な説明を求める様になる。例えば新型コロナウイルスワクチンは遺伝子コントロールの為に接種されている、という風に。

何となく見えてきただろうか。観客はホラー映画を見に行く。心の底で悪魔の存在を信じていないとしても、喩え無神論者であったとしても、何処かで怪奇現象が起こって映画が展開されるのだろうと期待を抱いている。ましてタイトルはThe Exorcist(悪魔祓い師)だ。映画が始まって幸せそうな家庭の一人の女の子に異変が現れる。恐ろしい状態だが、予想通りでもある。

しかしここから大掛かりな機械を用いた医療検査が始まる。一面では悪魔が現れると思って見ているから、そんな検査は意味が無いだろうと思う。だが映画が進んでも誰も悪魔の存在を認めようとはしない。悪魔は現状の医学では太刀打ち出来ない謎の症例として説明されており、聞いていた話と違うではないか、という事になる。また別の一面では観客は科学の正当性を信じてもいる。既に述べた通り、宗教と科学が矛盾しないこと、科学はこれからの未来に於いて認められることが公会議で宣言されたばかりだ。これだけ大層な検査をしても何の異常も見つからない、科学の不完全さに嫌悪感を持つ。

観客は二重の意味で先の展開が予想出来ない状態に追い込まれる訳だ。一方では科学を信じており、科学こそが民衆の知恵だと、正しい知性だと考えている。もう一方では完全な悪魔、得体が知れないことが知れている悪魔が現れると思っている。しかしそのどちらもがスクリーン上では否定される。こうして一切の見通しが立たなくなった時、悪魔は真に恐ろしい存在に、理解を超えた範疇で行為する支配者に変貌するのである。それは難しい言葉で、一般人にわからない様に行われる政治家の姿にそっくりだ。

正しく反知性主義の機能する仕方と一致していると言って良いだろう。医療で全てが解決出来るという思い込みへの批判、という従来の分析が間違っていると主張するつもりはないが、観客が恐怖を感じ始めるのは検査シーンから、という事実を踏まえると分からない状態への嫌悪という全く逆の結論を導き出したい気持ちになる。

誰も彼もが知識は自分の側にあると思っている。ロシア人は独裁者に洗脳されて戦争をしている。右翼は間違った言論を信じ込んで根本的な権利を冒涜している。アメリカ人は中国の内政に干渉し、領土の一部を奪おうとしている。これらはどれも陰謀論として根拠がないものだとされるが、何故根拠がない思想を正当だと信じるかを考える人は少ない。そして何故しっかりした根拠を持って考えている自分らが逆の立場から「陰謀論者だ」となじられるのか、考えてみる人は少ない。

エクソシストの悪魔を例えばロシア人に、例えばアメリカ人に、シーア派教徒に、或いは自分に重ねてみたらどうだろう。ほぼ50年経った今もエクソシストが怖いと思えるのは見たくないもの、知りたくないもの、拒否したいものが大手を振って襲い掛かってくるからなのかなと思った。

何だか説教くさい記事になってしまったが、久し振りに見返して感じた素直な感想である。中々一般向けの記事で、時代背景にまで本格的に言及する記事もないと思うから、公会議との関連だけでも楽しんで頂けたら嬉しいなと思う。