知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】上手い演技とは何か、映画に於ける演出/寝ても覚めても(2018)

15 (Fri). July. 2022

演技の上手な俳優と言えば誰が真っ先に思い浮かぶだろうか?

ロバート・デ・ニーロメリル・ストリープ吹越満ジュリエット・ビノシュ樹木希林デンゼル・ワシントンダイアン・キートン....

人によって挙がる名前はまちまちだろうし、コンセンサスなど存在しないだろう。西野七瀬トム・クルーズという選択肢もあるかも知れない。しかし、技巧という側面から考えると、上手い演技というのはある程度定まっている様に思われる。それは必ずしもリアリスティックということではなく、そして実際の映画の撮影方法を知らなければ見えてこない事実でもあるのだ。

濱口竜介監督の寝ても覚めても、特に主演を務めた唐田えりか東出昌大の演技に注目しつつ、演技と演出の関係について考えていきたい。

唐田えりか and 東出昌大 in Asako I & II

演出は演技に優先する

演出は演技に優先する。映画には内容(プロット)同様監督が思い描くヴィジョンが存在し、概ねこの2つによって映画の様式は決定され、その様式が演技の志向を決定する。一般的には普段我々が話す様に話し、歩く様に歩く演技が良しとされる傾向にあるが、それは必ずしも正しいとは言えず、実際にはその映画が現実性を要求する時にのみ完全に「良い」演技となるのだ。

実例を元に考えてみたい。マーティン・スコセッシグッドフェローズに於いて彼が生を受けた瞬間から彼を刺激し、その後の作品群にも影響を与えたイタリアン・マフィアの生活を描こうとした。彼らの服装から食事、キャリアの全てを徹底的にリアルに見せることにこだわったこの映画に於いて様式化された演技はきっと似合わなかっただろう。俳優陣は実際に街頭でマフィアが送る暮らしを模倣することを目指し、演技に取り組んだ。

対してティム・バートンスリーピー・ホロウは幻想的な世界観こそが命の作品だ。よくよく映画を見ると首を斬り落とす、という血生臭い行為が何度も繰り返され、また首無し騎士が封印された大木は不気味な造形となっている。冒頭の拷問シーンも痛々しく、ジョニー・デップによる解剖シーンでは出血すること夥しい。しかしこうしたホラー要素をホラーとして見せることをティム・バートンは好まず、彼は安易なミステリーにすることも拒否した。その代わりにクリスティーナ・リッチとのロマンスを取り入れ、演出もコミカルなものとした。彼が選択したその様式に合うよう、俳優陣は漫画的で大袈裟な演技、かつてのハリウッド映画に見られた演技法を取り入れている。

例えばクリストフ・ガンズは日本発の人気ゲーム、サイレント・ヒルをゴア要素を充分に盛り込んだホラー映画として制作したが(原作がホラー映画であるからその演出は真っ当である)、その世界観はよく観察するとスリーピー・ホロウに近しい。霧が立ち込める舞台で殺人犯は人々を襲い(首無し騎士、或いはレッドピラミッド)、ミステリー仕立てで物語が展開する(騎士の正体、消えた娘の行方)。そして最後にはオカルティックな要因が提出され、凄惨な場面を経て決着する。このよく似た2つの映画が全くかけ離れた印象を観客に与えるのは、正に監督の選択した様式の違いによるものであり、俳優陣はそれに即した全く異なる演技を見せているのである。

*これは余談だが、スリーピー・ホロウの様なゴア要素ありホラー要素ありの作品で笑いを取る演技をすることは非常に難しいと思う。ただ叫んで逃げて、というアクションでは不十分な訳で、サイレント・ヒルと比べて遥かに高いレベルの演技力が求められているし、その点ジョニー・デップの演技は実際とても上手いのだと思う。

さて3つの映画を提示したが、互いに比べて見ることで演技の方向性の違いが明らかになったことだろう。演技の仕方は映画の様式に即したものであるべきであり、監督の演出に対応するべきなのである。所でこの演技の方向性は台詞だけによって決定されるのではない。そこにはカメラムーブメントなど映画の全ての要素が影響しており、演技はその一つとして全体と協調することによって始めて様式化される。

このことから次なる視点、ミザンセン中の演技という考え方が生まれる。

演技をミザンセンの中に位置付ける

ミザンセンとは一言でいえば、映画そのもの、観客が受け取る全ての要素のことである。その詳しい意味と機能は以下の記事に詳しいが、ミザンセンがフレームの全てを含んで構成されるのであれば、当然演技もミザンセンの一部となる。

sailcinephile.hatenablog.com

そしてミザンセンが包括的に機能することで作品を形作っているのであれば、その一要素である演技も作品全体、詰まり台詞だけでなくカメラや音楽、照明の全てに有機的に関わらなければならない。従って上手い演技とは、ミザンセンを適切に機能させる演技だということも出来るだろう。

読者の皆も気づかれた様に、確かにこの説明は論理的に不適切である。「ミザンセンが包括的に機能することで作品を形作っているのであれば、その一要素である演技も作品全体、詰まり台詞だけでなくカメラや音楽、照明の全てに有機的に関わらなければならない」とは同一の内容を反転させているだけであり(A→B | B→A)、有効な証明とはなっていない。しかしミザンセンそのものが事後的に成立する批評家が考え出した装置の様なものであるから、こうした説明となってしまうのも致し方ない。読者に於かれては論理の不明確さにご寛恕頂きたい。

そのミザンセンであるが、演技がミザンセンの一部となるとはどういった意味だろうか?西野七瀬は狐狼の血 Level 2 に於いて素晴らしい演技をしていたと思うのだが、それが顕著になったシーンが弟役、村上虹郎の葬式の場面である。棺桶に並行して座る西野七瀬をカメラが至近距離から捉えるのだが、涙を流す彼女は顔を伏せてしまう。この時彼女はフレームから外れてしまうのだが、そうすることでカメラ奥側に座っている松坂桃李の痛切な表情が映るようになっているのだ。カメラがやや右方向に移動しカットが入ると、2人が肩を抱き合う様子を立体的に捉える画となっており、顔を伏せって演技することで構図にメリハリは生まれている。カメラの位置とセットとなった部屋の作りを把握した上で涙を流す彼女の芝居は大変上手だったと思うし、ミザンセンの中でよく機能していたシーンだった。

この様に演技はただリアルに、或いは適切なスタイルで行うだけでは不十分である。演者はセットの作り、カメラの配置、カットのタイミング、相手の役者の動き、台詞の間、マイクとの距離感、ラジオやテレビといった他の音源、こうした全ての要素を加味して演技する必要があり、それら全てを効果的に調和させることが出来てこそ本当に上手な演技だと言える。

その他にはミザンセンの中で忘れられがちな要素が編集である。大抵の映画ではワンシーンにつき複数のテイクがある。当然俳優はロボットではないからテイクごとに微妙な違いが生まれるし、監督の意向や本人のアドリブ、予想外の出来事などでも演技に変化が生じる。そうした変化を自覚し、そして編集の上で矛盾が生じない様にすること。これも大切な演技上のテクニックだ。

例を取って考えてみよう。机の上の書類を取って立ち上がり、その書類は如何に出鱈目なものかを相手に主張する、というシーンを撮影しているとする。この時貴方は左側に立ち上がって右手で相手を指差しながら怒鳴るかも知れないし、真っ直ぐ立ち上がって机に手をつくかも知れない。この時立ち上がる前と後でカットを挟むと椅子の前に真っ直ぐ立ちながら右手を振りかざす、という奇妙な編集になってしまうことが考えられる。

そうした事態を防ぐ為に大抵の現場ではスクリプト・アドバイザーがついているのだが、それでも脚本の流れを完璧に理解し、どこでカットされるのか分かっているならば防げる間違いだ。この様に編集された際にカットがいつ、どの角度で入るのかを理解しているかどうかという点も演技の大事な要素だ。

寝ても覚めても

これまでの所で演技とはただリアリスティックを追求するだけではないこと、感情を表現するだけではないことが分かって頂けただろう。監督が目指すヴィジョン、採用する様式を的確に理解し、それに即して演技すること(ミザンセンを構成すること)が本当に上手な演技なのである。これは監督の視点から考えると演者にしっかりとヴィジョンを伝える必要があるということなのだが、現代の日本映画で最もユニークなヴィジョンを有する監督の1人が濱口竜介監督だ。

ドライブ・マイ・カーで映画ファン以外の間でも昨年から今年に掛け一躍知名度を上げたが、その独特の演出方法は彼の商業映画第一作、寝ても覚めてもに十分に確認出来るだろう。ジャン・ルノワールジョン・カサヴェテスの影響だとか、何度も言及されるチェーホフだとかそうした側面から考えることも可能だが、ここではシンプルに演技という一点に注目し、事後的に考えてみたい。

映画序盤で東京に出てきた唐田えりか山下リオ牛腸茂雄の写真展に訪れる場面を取り上げよう。先に会場に着いていた唐田えりかがポスターを見ていると東出昌大ー大阪で恋に落ちた青年とそっくりな男ーが背後から近寄ってくる(因みにこの写真展の名前は「みるもの、みられるもの」だ)。

カメラは彼女を真ん中に収め、東出昌大を背後から捉える格好だ。驚いて目を伏せた彼女だが暫くして徐に顔を上げると、彼の顔に手を添える。後ずさる東出昌大と再び下を向く唐田えりかをここまでワンカットで収めている。異様な瞬きの少なさでじっと彼を見つめる彼女を東出昌大は訝しがるが、観客は彼が突然いなくなった彼にそっくりだということを知っている。

その後の展覧会会場では写真を見つめる唐田えりかー恐らく写真とその向こうに麦を見ているーに東出昌大が背後から接近するのだが、彼女はサッと離れてしまう。直角に2人を収めるカメラは彼にフォーカスが合ったままだが、彼が別の写真へ歩いていくとフォーカスは手前の唐田えりかに移り、そして彼の後ろ姿を見つめる様子が捉えられる。

それぞれロング・テイクとフォーカスの切り替えという異なる技法を用いているものの、その主眼は一つ、詰まり消えた彼を思う唐田えりかを収めることだと分かるだろう。それぞれの登場人物は何やら話すものの、その内容は全く些細なもので殆ど耳障りとも言える。極端なまでの一本調子で台詞を読み上げる登場人物は単に芝居が下手なのではなく、台詞を聞かせまいとしているのではないだろうか。

カメラがじっくり構えている地点ではじっくりと視線を交わし、カメラがパンする所では視線をカメラと同じ軌道に送る。単純だがミザンセンを成立させる効果的なテクニックであると言えるし、その狙い(今はいない男を思う女の感情)を表現する上でも相応しい。そして事実全編この調子で台詞には抑揚がなく、カメラは執拗に唐田えりかを追い掛ける(演技との対応)。職場にコーヒーポッドを取りに来た彼女を東出昌大が階段まで追う場面。最初はワイドに2人を収めているのだが、途中から肩を震わす彼女のショットへ切り替わり、彼は画面外で何やら喋るだけになる。彼が彼女に手を差し伸べればカメラは不自然にカットしアップに合わせてまで、東出昌大を画面外に追いやってしまう。彼がカメラに戻ることを許されるのは、彼女が手を差し伸べたその瞬間からなのである。

俳優陣(主に2人)の演技はカメラの動きに完璧に対応し、決してカメラを超えることがない様に動作する。例えば急に怒鳴り声を出したり涙を見せる様な演技はせず(する時も棒読みで感情を隠し)、カメラが写す分だけの演技に留めるその演技は結果的に元の家に戻った2人の関係が如何に壊れきっているのか、それを極端な喧嘩や暴力に頼ることなく伝えることに貢献しているし、観客を共感させないという意味で素晴らしいと言える。これは監督の方針という目線から考えるならば台詞を一つの装置として使い、動作=演技やセットといった全ての要素を大切にしていると理解出来るだろうし、俳優目線で考えるならばミザンセンを想定した演技をしているのだと言える。

筆者は原作小説は未読であるからこのアプローチが正しいのかどうか、知る由もないが映画だけで考えるならば非常に興味深いと思う。筆者の好みとしては映画の中心には人がいるべきだと思っているし、その人を見せる為に全ての要素を活用して欲しいと思う。だから一歩引いたアプローチというのは愛しきれない点ではあるけれども、この映画が素晴らしい作りになっていることは否定すべくもない。

インターネット上ではその後のスキャンダルと、登場人物が親み難いことも相まって否定的なコメントが多い様に見えるし、宮台真司はじめ映画評論家は難解に語り過ぎている節があると考えるが、筆者の見方ではポイントはたった1つ、カメラと演技の対応だ。その一例は既に上で示した通りだけれども、この点に注目するだけで俳優の演技がどれだけ緻密に計算されているか分かって頂けるのではないだろうか。未見方は勿論、一度見て嫌いと思った方もカメラと演技の対応にフォーカスし、再度鑑賞してみて欲しい。