知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【時事】アカデミー賞という年中行事の価値/蓮實重彦の思想

12 (Sun). June. 2022

筑摩書房が運営するWebサイト上に次の様な記事が載った。

アカデミー賞という田舎者たちの年中行事につき合うことは、いい加減やめようではないか。」

フランス文学者であり、小説家であり、そして映画評論家として名高い蓮實重彦氏の提言である。青山真治監督等々の映画監督を産み、多くの思想的フォロワーを持つ彼に対して、筆者如きが意見を述べた所でさしたる意義は無いのだが、少し考える所があり、今回記事にした次第だ。思うに新時代の批評家として位置付けられた当人が、その先達と全く同じ過ちを犯すという失態を呈してしまっているのではないか。

映画を主に議論を展開するつもりであるが、以下文学論が多くなってしまうことを予めお詫びしたい。蓮實氏当人が文学界の重鎮であり、その思想を読み解くにはどうしても映画以外の領域に接近することが不可欠となってしまう。楽しんで読んで頂ければ幸いだ。

水原希子 and 松山ケンイチ in Norwegian Wood (2015)

提言の趣旨とその批判

蓮實氏は以下の提言の中で、アカデミー賞国際長編映画賞を受賞した濱口竜介監督と彼のドライブ・マイ・カーを巡り、過剰に騒ぎ立てるメディアと映画界に苦言を呈している。

www.webchikuma.jp

その根拠として先ず挙げられているのが、アカデミー賞自体に大した価値がないというものだ。ハワード・ホークス等真に優れた監督が受賞を果たさず、そしてメリル・ストリープの様な「お粗末な」女優が演技を評価される様であっては価値などある筈もない。アカデミー賞は知的な精神に欠如した単なるお祭りであって、彼はは興味など持てないと言う。

そして第二に彼が述べているのが、ドライブ・マイ・カー自体が本当に素晴らしい作品ではないということだ。決して映画として優れていない訳ではないが、超一級品の映画ではない本作品に対して過剰に反応し、日本精神云々といった的外れな議論まで始めるのは如何なものか、と彼は述べている。

この提言を読んで、筆者は大きく2つの問題があると感じた。即ち知的精神を要求していながら、批判(criticism)ではなく非難(condemnation)に堕してしまっていること、そしてコンテクストに対する意識がかけていることである。

初めに知性を議論していながら、批判的精神に欠けた単なる非難になってしまっている点について。筆者もアカデミー賞自体に偉大な価値があるとは考えていないし、ハワード・ホークスら優れた監督が受賞をしていない点は大きな問題だという意識を共有する。しかしながらその批判は、知的な領域で行われるのであれば、必ず建設的で生産性のあるものでなければならない。

蓮實氏は表題からも分かる通りアカデミー賞と「つき合うこと」を止めろと述べている。これは恰も出来の悪い生徒の答案を破いて捨てる様な行為だ。知的精神を求めるのであれば、教師は常に彼がどの点に於いて誤っているのかを指摘し、論理的な批判で以て答案に零と書くべきだ。その答案を出来の悪さを理由に破り捨て、生徒の相手をしないというのは答案ではなく、彼個人を批判することであり、最早単なる個人的対立である。同様に蓮實氏の批判は全く知的ではない。

アカデミー賞を批判する根拠が知的精神の欠如であるならば、続けるべき言葉は知性の復活であるべきだ。知性が無いからつき合うなと言うことは、知性に欠ける言説であり自己の言葉の内に矛盾を抱えている。

次にコンテクストを全く考慮していない点について。抑もアカデミー賞というのはアカデミー会員による投票で決定し、業界人の都合や国勢に大きく左右されるという特色がある。審査員の討論によって選出される訳では無いから、その意義は真に優れた作品を評価することではなく、世相の反映という一点に求められる。

恐らく世相の反映に付き合っていること自体が無駄なのだ、とお考えなのだと思う。知的でない行事に知的な労力を割くことが無駄である、と。しかしそれは学問の根本精神を批判するのと同義である。マリノフスキパプアニューギニアで打ち立てた文化人類学は果たして無意味な研究だったのだろうか。知性の顕現が見られない分野(ex. 原住民の生活、アイドル文化など)でも興味深い発見はなされるもので、概して科学とは知性とは無関係に始まるものなのである。中学生が「社会に出てから役に立たない」と屁理屈を述べている様に、数学の如きは社会活動とは一般レベルで無縁なのであって、そこに興味を持って知性を向かわせることこそが重要である。

話が逸れてしまったが、例えばメリル・ストリープアカデミー賞ノミネートを通じて見られるアメリカの女性イメージの変化などは興味深い研究テーマであることには違いがない。筆者自身も周囲のコンテクストに目を向けるよりは、作品単体に向き合うことを重視するが、それでもコンテクストを考慮する営為が無駄であるとは言えないだろう。

蓮實重彦村上春樹

文学史上で蓮實氏は昭和50年代以降に登場した新批評を代表する1人と位置付けられている。直接には吉本隆明平野謙ら上の世代が筆を振るっていた昭和50年前半に現れ注目されたものの、浅田彰の登場を待って50年代後半に丸山圭三郎四方田犬彦上野千鶴子らと新時代の批評家として語られることの方が多い。

吉本隆明がマス・イメージを唱えたことに呼応し、文明論・言語論・女性論などに接近した批評のスタイルを取っていたことがその理由とされるだろう。ともかくそうした昭和50年代に登場した批評家である訳だが、その頃の文壇を眺めると日本文学史上の一大事が起こっていた。即ち村上龍村上春樹のWムラカミの登場である。『限りなく透明に近いブルー』が昭和51年、『コインロッカー・ベイビーズ』が昭和55年、『風の歌を聴け』が昭和54年であり、『ノルウェイの森』が少し遅れて昭和62年の作品である。少し視野を広げると三田誠広の『僕って何』が昭和52年、吉本ばななの『キッチン』が昭和63年に発表されている。

これは三島由紀夫の自決から時代が完全に変わったことを示していると言えるし、昭和46年であっても大岡昇平が『レイテ戦記』を発表したことと比べても大きな変化と言えるだろう。そこには転向文学や、天皇制との関係に悩んで悩み抜いた戦後文学の様な苦悩は見えない。寧ろ広範に訴えかける普遍性と、平和の中で持ち余した知性の鬱屈とした感情が前面に押し出されている。

ノルウェイの森』に於いて主人公は学生運動に距離感を感じており、そのフラフラした頼りなさは間違いなく戦後文学には見られないイデオロギーの欠如なのである。『コインロッカー・ベイビーズ』にしても右左のイデオロギーではなく、自己のアイデンティティーの問題として登場人物は戦っている。

個々の作品に関してはそれぞれの批評を読んで頂きたいが、注目すべきは蓮實氏が村上春樹に対して「心から軽蔑している」事実である。既に述べた通り、蓮實氏と村上春樹は同年代の戦後文学がひと段落した後の人物だ。そして両者共々政治イデオロギーや死ぬこととは別の地点から時代感情を捉えている。Wムラカミがアメリカ的、蓮實氏がフランス的という違いはあっても、「心から軽蔑」する程の対立が生まれるものであろうか?詰まり小田切秀雄村上春樹を軽蔑することは自然でも、蓮實重彦が軽蔑するのは不自然ではないか、ということだ。

これに対しては非常に簡単に答えることが出来る。村上春樹が「アカデミックな精神を欠いた」「出鱈目な」小説家に見えているのだろう。理論を以て彼の文学を批判することは出来る。しかし彼自身が村上春樹の同時代人に訴えかける共感性を評価しているのでもあり、そこに見られるのは同時代人への反発意識、いわば持て余した知性の反抗とでも呼べる思想である。ゴダールの革命も結局「人」に訴えない形で突き詰められてしまったから、この親和性は誰の目にも明らかではないだろうか。

それは80年代のクラシック音楽の愛好家がパンクミュージックをクラシックの理論で批判する様なものかも知れない。ロックがクラシックに完全に取って変わった時代に、コードが云々、リズムの取り方が云々...誰の目にもパンクの問題意識はそこに向けられていないことは明らかだろう。

総括

基本的にこのブログでは技術という側面を強調したいと思っている。また作品の評価基準にしてもアカデミックな世界では古典的と称される様なものだ。

しかし古典的な考え方を持つことと、新しい作品を評価しないことは別物だと考える。譬え古典的な価値観を有していたとしても、評価は時代とは無関係な筈だ。古い=崇高。新しい=陳腐。これでは何も発展する訳がない。

個人の意見であって勿論そこには絶対的な自由が存在するが、それでも新しい思想を取り込もうとせず、知性の看板の下で相手を突き放す様な姿勢には同意出来ないものを感じた。筆者がこの場で時代性や社会との関連について述べることは難しいが、どこか別なプラットホームで作品と技術以外について語る必要性を痛感した次第である。