知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【時事】カンヌ映画祭でのゼレンスキー大統領演説全訳/その意味と政治の過干渉

22 (Sun). May. 2022

75周年を迎えたカンヌ国際映画祭は問題だらけだ。

デヴィッド・クローネンバーグを筆頭に、リューベン・オストルンドクレール・ドゥニ、アルノー・デュプレシャン、パク・チャヌク、ケリー・ライカート、アルベルト・セラ、ルーカス・ドンと豪華なラインナップで、「当たり年」になるのではと期待していた管理人だったが、開幕早々アカデミー賞同様スキャンダルが続出している。

公式スポンサーを務めるTikTokは短編コンペで審査員への過干渉が明らかになった。これはバズ・ラーマン監督のエルヴィスや、トップガン:マーヴェリックが招待されたことと併せてカンヌが「商業化された」と揶揄されている。

レッドカーペットではウクライナでの女性へのレイプ被害に抗議する目的で、裸にウクライナ国旗のボディペイントを施した女性が乱入し、排除された。

そして映画祭の幕開けには、その戦時下のウクライナからゼレンスキー大統領がビデオ演説を行った。

欧米のメディアは(そして恐らく民間も)概ね好意的にこのサプライズ演説を受け止めている様だが、実際彼の演説はどの様な意味を持つのだろうか。世界的にロシア人のアスリートやアーティストが排除される傾向にあるが、我々日本人はこのことをどの様に受け止めていけば良いのだろうか。

Colin Firth in King's Speech (2010)

スピーチ全文訳

以下初めにウクライナ政府公式Webページに記載されているカンヌでのゼレンスキー大統領の演説である。

www.president.gov.ua

 

 

この場で演説できて大変光栄です。

紳士淑女、そして友人方へ!

今から1つお伝えしようと思います。多くの物語が「今から1つお伝えしようと思います」と言って始まりますね。しかしここでは、始まりよりも終わりの方がずっと大切です。そしてこのお話は未完結とはならないでしょう。遂に、百年以上続く戦いに終止符を打てるかもしれないのです。

この戦いは電車の訪れと共に始まりました。主役と悪役がそこから降りてきます。銀幕には対立が生まれ、実際の対決に繋がるのです。初めに映画技法が生まれ、次に我々の生活となるのです。そして将来もまた映画技法に依っているのです。

私の今日のお話はこの戦いについてです。戦いそのものです。そして将来についてでもあります。

20世紀最悪の独裁者達は映画技法を好みました。彼らはよく知られていますが、亡き後残された中で最も重要なものはゾッとするような一連の実際のニュースからの場面でしょう。そしてまた彼ら独裁者達に挑戦した映画達です。

1939年の9月1日、初の映画祭がカンヌで始まりました。しかし第二次世界大戦が始まり、6年間、映画技法は、全ての人類と共に最前線に立つことになりました。6年の間、映画技法は自由のために戦い、また不幸なことに、独裁者の道具ともなってしまいました。

今当時の映画を振り返ってみると、自由が勝利の道をいかに歩んできたのか、知ることができます。そして最後には独裁者達に民衆の心を掴ませることを許しませんでした。

指摘すべき重要な点はたくさんありますが、最も目覚ましいものは1940年にあるでしょう。悪役との対比により、世界は初めて - ヒーローには全く見えない - 地味な男を目撃したのです。けれども彼はヒーロでした。

チャーリー・チャップリンの独裁者は当時本物の独裁者に打ち勝つことができませんでした。けれども彼のおかげで、映画技法は唖であることをやめたのです。それはあらゆる意味でです。映画技法は声をあげ、その声は来たる自由の勝利の声でした。

当時でさえ、1940年のことですが、映画は次の様に語りました。

「人々の憎しみは去り行き、独裁者達は死に、そして彼らが人々から奪った力は、民の元へ帰するだろう。人が死ぬ限り、自由もまた滅ぶことはない。」

以来、チャップリンの演じた英雄がこの様に語った以来、人類は数多の美しい映画を作ってきました。美が人々をスクリーンの前に集わせ、心震わせることは最早周知の事実です。愚によってシェルターに人々を追いやる様にしては、人の心を得ることはできません。

大陸全部を覆い尽くすような全面戦争の恐怖は長続きしないと皆が信じているでしょう。

しかし、そこには独裁者がいるのです。そこにはまた自由への戦争があるのです。映画技法は再び唖となってはならないのです。

2022年2月24日、ロシアはウクライナと全面戦争を始めました。欧州へ侵略を進めるつもりです。これは如何なる種類の戦争でしょうか?はっきりお答えしましょう。かつての大陸間戦争の後生まれた年月を経て映画技法が語った言葉によって武装して、はっきりとお答えします。

既にお聞きしたことかもしれません。本当にゾッとする言葉です。しかし、残念ながら、それは現実となりました。

覚えていますか?映画の中でそれがどの様に響いたか、覚えていらっしゃるでしょうか?

「嗅いだかい?ナパーム弾の匂いだよ。こんな匂いは他のどこにもない。朝に嗅ぐナパームの匂いは最高だな...」

そうです。ウクライナの朝で、これが始まったのです。

朝の4時、私たちは最初のミサイルが爆発するのを聞きました。空襲が始まりました。死が、ウクライナの国境を超えて、鉤十字によく似たZのシンボルに象徴された装備と共に訪れたのです。

ヒトラーより優れたナチになりたがっている。」

今や、ロシアの部隊が進軍し、あるいは止まっている場所で殺されたり、拷問された人々が発見される、その痛切な悲しみに覆われない週はただの1週とてありません。ロシアの侵攻によって229人の子供が殺されました。

「彼らはどこにも行かない。殺して、殺して、殺して、殺す!あいつらはヨーロッパ中に死体をばら撒いた。」

ロシア軍が小村ブチャに何をしたか、目撃したでしょう。マリウポリも見ましたね。アゾフスターリもです。ロシア軍の爆撃で劇場が吹き飛ばされました。ところで、その劇場は今あなた方がいる場所にそっくりですね。一般市民がそこで爆撃から逃れていました。大きく、目立つじで「子供達」と記していました。劇場側のアスファルトにです。決して忘れることが出来ません。地獄にいる訳でもないのに。

「戦争は地獄じゃない。戦争は戦争で、地獄は地獄だ。それで2つあって、戦争の方がよっぽど酷い。」

2000発以上のロシア軍のミサイルがウクライナへ落とされました。沢山の街が完全に破壊されました。村々は焦土と化しました。

50万人以上のウクライナ人が強制的にロシアへ連れ去られました。何万人もがロシアのキャンプで、ナチスのそれをモデルに作られたキャンプにいるのです。

誰もどれだけの収監者が生存できるか分かりません。ですが誰に非があるかは誰の目にも明らかです。

「泡で洗ったら落ちる汚れだと思ったかい?」

そんなことはないでしょう。

第二次世界大戦後最悪の戦争が、既にヨーロッパにあるのです。それもこれも、モスクワにいる1人の男のせいです。他の皆が日々死んでいきます。「ストップ、カットだ!」と言って彼らは生き返る訳ではありません。

ですが今我々は何を耳にしているのでしょう?映画は沈黙しているのか、声を上げているのか?

もしそこに独裁者がいれば、自由の為の戦争があれば、全てが我々の連帯にかかっているとしたら、映画技法はその連隊の外側にいるのでしょうか?

我々の街はCGで破壊されているのではありません。多くのウクライナ人が剽軽になって、子供達に何故地下に隠れなければいけないか説明しようと努めています。

アルド・レイン中尉の様に振る舞っているのです。祖国は何千もの塹壕で縞模様になってしまいました。

当然、我々は戦い続けます。自由のために戦う以外我々は考えていません。そして私は独裁者は破れると確信しています。

しかし、1940年の様に声が上げられるべきです。全ての世界の全ての銀幕から。新たなチャップリンが、再び映画技法は唖でないと証明する人物が、必要なのです。

その響きを覚えていて下さい。

「欲望は人の魂を蝕み、憎しみで世界を隔て、悲哀と殺戮の中へ我々を行進させる。我々は加速度的に進歩し、その中に閉じ込められてしまった。機械がもたらす豊富さは、望みの中に我々を捨ておいた。我々の知識は、我々を皮肉屋にした。狡猾さは、厳しく不親切だ。多くを考え、感じることは非常に少ない。機械よりも我々には人間性が必要だ。狡猾さよりも、親切心と穏やかさが必要だ。私の声が聞こえる者へ、私は言いたい。絶望するなかれ。人々の憎しみは去り行き、独裁者達は死ぬ。」

最後にこの戦争に勝たねばなりません。そしてその様な結末をもたらす映画技法が必要です。全ての声は自由へと向けられています。いつもそうであった様に、何よりもまず映画技法の声が。

皆様に感謝します。

ウクライナに栄光あれ!

 

 

まずは管理人の拙い訳で申し訳ない。そして誤った翻訳がある場合は管理人まで教えて欲しい。

さてこの演説であるが、政治的な解釈はそれぞれに任せたい。大切なことはこれがカンヌ国際映画祭のオープニングで行われたということだ。そして映画芸術を讃える場で、「映画はこの様であれ」と政治家が語ったということである。

映画は政治に干渉することは出来る。しかし干渉しない(様に努める)ことも出来る筈だ。ロシアで独裁者に反対する映画人の声は、彼がロシア人であるというだけの理由で沈黙させられるべきだろうか。日本でロシア人に共感する日本人の声は、また同様に沈黙させられるべきだろうか。表現の自由を考える上で1つの象徴的な出来事だったと思う。

そして管理人が最も疑問に思っていることは、日本の主要メディアや映画系のメディアで、彼の演説を紹介するメディアは無数にあっても、その全文をきちんと紹介するメディアがないということだ。

表現の自由と人権の保護、戦争の終結と冷戦後のイデオロギーの対決、様々な角度からControversial=物議を醸す問題であればこそ、きちんと全訳でメッセージを伝え、個人1人1人に考える様促すことがメディアの役割ではないだろうか。

政治的な立場が異なれば全く異なる解釈も出来るこの彼の演説を日本人はどの様に考えるのか、責任ある立場にあるメディアこそ取り上げるべきだろうし、映画界も同様である。

何れにしてもWokenessという考え方が広がり、人々が社会的に活動的な現代で、抱える政治問題は映画人にとっても難しい問題だと思う。