知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】映画の見方応用編/ディストラクション・べイビーズ(2016)

18 (Wed). May. 2022

先日の概説編に続き、映画の見方、本日は応用編である。

sailcinephile.hatenablog.com

取り上げる映画は、真利子哲也監督作品のディストラクション・ベイビーズ柳楽優弥菅田将暉小松菜奈村上虹郎池松壮亮他豪華なキャスト陣が顔を揃えた映画だが、この手の邦画にしては観客に媚びを売らない、珍しい映画でもある。

同じく菅田将暉×小松菜奈コンビの糸(2020)も、両者に加えて成田凌斎藤工二階堂ふみ榮倉奈々松重豊など超がつく程豪華なキャストを揃え、潤沢な資金を提供された訳だが、瀬々敬久監督は結果俳優陣を持て余し、満遍なく見せ場を与えるだけの大衆映画で終わらせてしまった。

一方で本作は無難な売れ線映画に逃げなかった点で評価できると思うのだが、果たして内容は如何だろうか。

村上虹郎 in ディストラクション・ベイビーズ(2016)

分析される対象

今回も再び文学との比較から展開しようと思う。幾許かでも分かりやすい記事になっていれば幸いだ。

先日の記事では文学を読む際、主だって3通りの読み方があると紹介した。そしてその内特に2番と3番の読み方に関しては、テキストに実際に当たらなければならないと述べた。

ではテキストに実際に当たるとはどういうことなのか。次の例文を見て欲しい。

  • 彼は今朝パン屋に行った。クロワッサンを1つ買った。帰って犬に与えてやった。

上の文章が小説中に登場したとする。3つの文章にそれぞれ1つずつ情報が示されており、文末は全て〜した、という形で言い切られている。1つ1つの文章が短いことから、リズムも良く、感情的な含みを持たせることも出来る。このスタイルで小説1つが描かれているとすれば、恐らくそれはアルベール・カミュ『異邦人』中のムルソーの様な人物が主人公となるだろう。

対して「よく晴れた朝、xx氏は〇〇通りのベーカリーに寄った。薄茶色の木板に大きなガラス窓で仕切られた店の外観は決して贅沢というものではなかったが、少し色褪せた金色に濃紺で縁取られた店名が記されたガラス板は釣り合いの取れた心地よいものであると感ぜられた。」などと文章が続いて行った場合、その文学内世界にムルソーは登場し得ないだろう。

文章や場面に細かく区切って検討するだけでも全体に奉仕するスタイルは浮かび上がってくるし、そこから重大なモチーフが得られることもあるだろう。先の例で言えばクロワッサンというモチーフが、後々の場面でも登場し、両者の場面を対比させることで、一定の感情効果が生まれているなどと述べることが出来るかも知れない。他には韻が踏まれていることによるリズム効果などを分析する人もいるだろう。

ディストラクション・ベイビーズ/シーン解説

それでは映画における文章とは何だろうか。

それは端的に言ってカメラである。Le caméra-stylo(カメラ=ペン)理論というものが提唱された程、映画の物語方法とカメラの動きは密接に関係している。他にも様々な仕掛けは登場するが、基本線としてカメラとカメラに写ったものという2点は絶対に必要である。

ディストラクション・ベイビーズの6:27からのシーンに注目して欲しい。

先の場面で集団と喧嘩をしていた柳楽優弥がどこかの街中を歩いている。広い港のショットから一転して街中を写すことで、そして村上虹郎の兄は帰ってこなかったとのナレーションにより、失踪した彼の姿を捉えていることが分かる。

カメラはトラッキングショット(恐らくハンディカメラの種類の1つで撮っていると思われる)で街中を歩く柳楽優弥を後ろから写しているのだが、彼が常に画面の中心にいることに注意する。我々の注意は自動的に彼へと向けられ、彼がこの次何を始めるのか意識しながら彼を追っていく。

ドリーショットなどの滑らかな動きではなく、揺れのある撮影をすることで緊張感は必然的に高められていく。柳楽優弥は何かを探しているようだ。彼はギターケースを抱えた男とすれ違い、足をとめ、振り返る。彼を追いかける柳楽優弥と、それを追いかけるカメラは我々に第二の注目点を伝える。

詰まり我々は柳楽優弥が何をするのか、という意識から、ギターケースの男と柳楽優弥の間で何が起こるのだろう、という2人の関係性に注目をする。

曲がり角でギターケースの男がフレームの中から消え、曲がり角の先も映らない。この先に何が待っているのだろうか。柳楽優弥は何をするつもりなのだろう。彼と喧嘩を始めるのだろうか。緊張感が高まっていく。

そしてその緊張感が最高潮に達した時、彼は走り始める。喧嘩を始めるのだ。しかしそれはジェームス・ボンドジョン・ウィックの様な華麗な殴り合いではない。アクション映画に見られるスピード感溢れる闘いではなく、ただひたすらに生々しい殴り合いをシンプルなカットで見せていく。

多数のカメラを使って細かく演出するのではなく、背後から見せるか、正面から見せるかの基本的には2つだ。その他のカットは押し倒され、殴られ、血を出す柳楽優弥の顔をアップで写すカットのみである。

10:00頃までざらついた緊迫した空気感が続くが、それは柳楽優弥の演技も勿論だが、加えて佐々木靖之撮影監督(寝ても覚めても他)のカメラの働きも大きいと思う。

映画は全体的にカット割が少なく、じっくりと役者の動きを追っていく。そのためショットの名前や撮影方法が分からなくともカメラの動きを辿りやすいと思われる。日本では撮影監督や編集者の名前が注目されることが少ない様に感じられるが、先に述べたテキスト分析の様な仕方で、じっくりと映画に向き合うためには彼らの仕事に注目することが不可欠だ。

先日は全体的な映画の見方を概説したが、細かい部分としてこうした要素にも気を配って頂きたい。より深い理解に繋がることは確実である。

ディストラクション・ベイビーズ/総評

本映画について、日本のファイト・クラブではないか、というレビューをネット上で読ませて頂いたが、個人的にはノー・カントリーに近いものを感じた。

ノー・カントリーはアントン・シガーという暴力の権化の様な存在が、最後には事故という不条理に襲われる様子を描いた現代の二重の不条理劇だと思う。

このディストラクション・ベイビーズでも柳楽優弥は所構わず喧嘩をふっかけていく、恐ろしい存在だ。彼がアントン・シガーと異なるのは、彼が弱いということだ。彼は決して無敵の存在ではなく、アクション・ヒーローの様に1人で10人の倒すことはない。

しかし、彼が怖いのは彼がひたすら暴力を行使し続けることであり、その暴力が伝染していくことだ。分かりやすい人物は菅田将暉であろう。鬱屈とした生活を送っていた菅田将暉は、彼に心酔し、彼を追いかけ、呆気なく死んでしまう。

万引きを繰り返し、常にお高くとまっている小松菜奈は誘拐されると、強者(柳楽優弥菅田将暉)の前にボロボロにされる。交通事故を誘発し、何とか逃げ出すも、既に暴力に取り憑かれた彼女は菅田将暉を殴り殺してしまう。それでも彼女は柳楽優弥には噛みつかないし、警察の聴取に対しては、弱者を演じて庇護を求める。

兄を慕う無垢な少年であった村上虹郎も、暴力に取り込まれ同級生に喧嘩を挑む。その姿は映画冒頭の柳楽優弥そっくりだ。この先の彼の人生は、兄の様になってしまうのだろうか?

現代に蔓延する暴力、狂気を柳楽優弥というキャラクターを媒介に、それぞれの仕方で社会の中で蔓延する様子を描いた映画が本作である。即ち模倣犯菅田将暉)、知能犯(小松菜奈)、後継者(村上虹郎)という3つの形で暴力は社会に広がっていくのだ。それを老人の目から諦観した映画がノー・カントリーだったとすれば、より直接的に暴力と不条理を描いた映画がディストラクション・ベイビーズだと言える。

しかし非常なリアリティを追求した結果、作品に制限が加えられてしまった感も否めない。純粋な暴力がそこにあって、それを超える要素は個人的には見出せなかった。その点ラブ・」ストーリーという軸を持ち込んだ真利子監督の次作宮本から君へ、の方が管理人の好みではあった。

繰り返しになるが、カメラの動きが丁寧で非常に追いやすい作品であると思う。キャスト陣の演技と合わせて楽しんで頂けたら幸いだ。