知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【映画解説】映画の見方概説編/LUCY(2014)

16 (Mon). May. 2022

2014年のリュック・ベッソン監督作、LUCYの解説である。

90分という小品でレオス・カラックス、ジャン=ジャック・べネックスと並び称された監督でありながら、早々にCinéma du look路線を脱し、Taxi (1998) やアルティメット(2004)を手掛けた監督らしい、一見軽妙な作品である。

ところがその実2001年宇宙の旅リスペクトな壮大なメッセージが込められた作品でもあり、映画の見方と合わせて解説していく。

Scarlett Johanson in Lucy (2014)

ディテールへの意識

普段映画を見る際、どの様な点に注意して鑑賞しているだろうか?

恐らく夢中で筋(プロット)を追いかけているという人が殆どだろう。基本的に映画は娯楽として楽しむものだし、全くそれで問題はない。因みに研究に際してはプロットという単語を用いることが多く、当ブログでもなるべく標準的な語彙を使いたいという意図でプロットと述べる。

ところが実際に研究対象として細かく映画を分析したいと思った場合それでは不十分である。今回取り上げるLucyの様な娯楽作品であっても、ディテールを意識することで沢山のことが見えてくる。

これから取り上げる映画の技術的な側面に留意することで管理人は映画がずっと面白くなると信じるところではあるのだが、その為にもプロット以外の側面にも是非目を向けて欲しいし、例えばアンダー・ザ・スキン 種の捕食の様なプロットへの意識が希薄な映画も楽しめる様になってくるだろう。

勿論映画の楽しみ方に絶対的な仕方などないし、これから紹介する見方も飽くまで一例に過ぎないが、考え方として次の様なものがあるのだと理解して頂きたい。例えばバスケットボールのシュートフォームは、極論シュートが安定して入ればどの様な形でも良いのだが、最初に教科書的な綺麗なシュートフォームを教わると思う。それから段々自分流に崩していってシュートフォームが固まるのであって、野球の投げ方や水泳の泳ぎ方でも同様だろう。今回紹介する映画の見方は基本的な型の様なものだと思って欲しい。

文学との比較

所で小説の読み方は以下の3通りに分類されることは概ね納得されるだろう。

①周辺の事情に気を配りテキスト外の事象と絡めて研究する

②テキストを集中的に読み、その文学的な機能を研究する

③テキストを集中的に読み、単なる作品を超えた内奥を研究する

1つ目の読み方は例えば作者の交友関係や、執筆の影響を与えた出来事を明らかにすることで、文学作品を外に開こうとする試みである。

それに対して2つ目は、より内向きな読み方で主題やモチーフの考察、言語的な働きを仔細に検討していく。

3つ目の読み方では先と同じくテキストを集中的に読むのだが、そこから文化的・心理学的考察を加えるなど、テキスト内世界の内部を明らかにすることを試みる。

管理人の大雑把なまとめ方には批判もあるだろうし、現在の文学界は第三の読み方を超えた新たな方法論を模索していることも承知しているが、概ね上記の様に分類して多大な誤解は生じないものと信じる。

さて実は映画でも同様のことが言えるのだ。

即ち1つ目の見方に関しては、映画の制作過程や資金の使われ方、配給のされ方などの情報を総合的に研究することで作品を深く理解しよとするものであり、例えばテレンス・マリックハイデッガーの研究に取り組んでいたことを知ることで、シン・レッド・ラインは単なる戦争映画ではなく、存在への問いに答えようとしたのだということが分かる。

2つ目の見方はカメラの動き、ショットのサイズ、色の使い方、シーンとシーンの繋ぎ方、ライトモチーフとシーンの関係性などの分析と絡めてプロットを分析し、全体として映画がいかなる作品として成立しているかを明らかにする。

最後の見方ではそれらの技法に関する分析を、文化的・心理的あるいはフェミニズム研究の立場から映画世界を批判的に分析することに役立てていく。

ここで肝要なことは個々のシーンに対する分析は必ず、全体としての映画の分析のために役立てられなければならないということである。小説でも1つの場面だけを切り取って全体の作品を議論出来ない様に、分析の帰結は最終的に映画全体に関わるものである必要がある。

LUCY

冒頭のクレジットで細胞が1つから2つ、2つから4つへと分裂していくグラフィックが示される。

続いて本編が始まるのだが、私達が最初に目にするショットは川辺で水を飲む猿の姿である。モーガン・フリーマンのナレーションが加わると共に林から、都市へ(原初から現代へ)カメラは移動し、高速で動く人間の都市生活が描写される。

次のシーンはスカーレット・ヨハンソンがボーイフレンドと話しているものだが、ボーイフレンドは最初の人間がLucyと名付けられていることを彼女に伝える。そして彼女の名前はLucyなのだ。

現実世界では単なる偶然なのだが、これは映画内世界であるから、この一致は必然であろう。

ボーイフレンドはLucyに荷物をホテルのとある人物に届ける様強制するのだが、フロントのボーイとの会話の最中には草食動物とそれを狩るチーターの映像が挿入される。Lucyが狩られる側の獲物であることを分かり易く伝える為であろう。囚われたLucyは麻薬の運び人として協力することになってしまう。

一方モーガン・フリーマンは大学の講堂で生命の誕生・進化と脳容量の拡張についてついて講義している最中だ。リュック・ベッソンらしい洗練されたモンタージュで、人間の活動が科学的・社会的に発達してきたことが示される。彼によれば人間は脳容量の10%しか使用していないが、イルカは20%を使用して、超音波を発出している。それでは人間も脳容量を拡張していくことが出来るのだろうか?

映画の中では答えはイエスだ。Lucyは体内にドラッグを埋め込まれてしまうのだが、運搬途中で彼女は別の中国人勢力に捕まってしまい、暴行される。蹴られた下腹部から体内でドラッグが破裂し、Lucyの体内に取り入れられていく。クロースアップとグラフィックの組み合わせでこの様子が映されていく。その結果彼女は超人的な力を手に入れるのだ。

モーガン・フリーマンの講義は続く。彼は仮説として脳容量が拡張された場合の人類の進化について、紹介していく。100%解放された場合には?彼にもそれは分からない。

それを体現するのがLucyだ。彼女は超人的な力で組織から脱出し、病院で特殊な薬物が吸収されたこと、自分の肉体が長くは持たないことを知る。彼女は自身の生命を維持する為に薬物を摂取すると共に、残りの薬物の回収に向かう。

この時点でLucyはモーガン・フリーマン接触し、次々と阻止を試みる中国系犯罪組織を倒していくのだが、この部分のヴィジュアルは流石の一言だ。詳しいストーリーやヴィジュアルに関してはここでは問題とならないので省略するが、興味を持たれた方は是非ご自身で見て楽しんで頂きたい。

さて敵の殲滅と並行してLucyの脳の覚醒も進んでいく。脳の覚醒が90%を超えた時、彼女は現代のフランスから、臨海の峡谷、そして消費社会のシンボル的なタイムズスクエアへとワープするのだ。そこで彼女は時間を逆転させ、開拓直後のニューヨーク、インディアンの時代、大恐竜時代へと遡る。そして少しだけ時計を進めLucyは最初の人間、Lucyと接触する。人類史を再体験したLucy(スカーレット・ヨハンソン) はそのまま宇宙史を追体験するのだ。これはグリーンバックを使用しての撮影だろうと推測される。

ここまで来れば何故スカーレット・ヨハンソンの役名がLucyだったのかが、理解出来るだろう。彼女は人類を象徴する存在なのであり、脳の覚醒というSF的な仕掛けとスリリングなアクションを挟みながら、人類の歴史を追体験していたわけなのだ。

これは霊体となったオスカーがエンター・ザ・ボイドで目の当たりにするヴィジョンと同様だし、その大元となるのは猿人の投げる骨を宇宙船と繋げ人類の歴史を総括してみせたスタンリー・キューブリック2001年宇宙の旅と同様のコンセプトである。

そのことを端的に表す為にスカーレット・ヨハンソンはLucyと名付けられ、冒頭から細胞分裂を我々は見せられていたのだ。モーガン・フリーマンは監督の意図を明確にするために作られた狂言回しとして、脚本上創作されている。

この映画Lucy自体は非常に楽しめるライトな作品でありながらも、1つ1つのモンタージュに意識を向け、それらの部分が全体として如何に機能しているかを意識することで、2001年宇宙の旅という大きなテーマが浮かび上がってくる。そして勿論その主題は、作品の部分を説明することに役立つのだ。

今回は特に技術的な専門用語には触れなかったが、管理人が映画を見る際に意識をどこに向けているかを辿って貰えれば幸いだ。プロット=全体としての映画ではない。映画を構成するのはシークエンスであり、シーンであり、そしてショットなのだ。往々にして監督は主題というものを映画に設定している。プロットはその主題を物語として伝えるためのものであり、個々のシーンや描き方(ナレーションやモンタージュ)が何のために挿入されているのか考えることで、映画はずっと面白くなると思う。