知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【時事】Wokenessの翻訳、Cancel Cultureと映画業界の変化

15(Sun). May. 2022

映画祭や時機を捉えたニュースについて日曜日は解説していきたい。

カンヌ国際映画祭も間もなく開幕を迎え、是非当ブログでも取り上げたい所ではあるのだが、何よりも先ずWokenessという言葉を紹介しない訳にはいかないだろう。

本日のテーマは、日増しに混迷を極めるWokenessを取り巻く現状と、それに付随する映画業界の変革、そしてその様な重大な議論が全く日本では取り上げられていないことに対する問題的である。

Daniel Kaluuya in Get Out (2017)

Woke vs Broke

woke (目覚めた状態でいる) のか、それともbroke (終わってる)のか。こうした議論が英語を媒体としたメディア・SNSでは盛んになっている(なっていたという方が正確かも知れない)。

Wokenessとはこのwokeである状態を指し示す単語で、一種のイデオロギーを形成する単語でもある。

歴史的にはアフロ=アメリカンの間で広く使われていた言葉であり、特に活動家として人々を教化するアフロ=アメリカンが積極的に使用していた単語だった。

人々の耳目を集めるきっかけとなったのは2014年、ミズーリ州ファーガソンで起こった警察による、Michael Brown殺害事件である。この事件に対する抗議では"Stay Woke(目を逸らしてはいけない)"が合言葉として用いられ、抗議活動は日本でもよく知られた#Black LIves Matter 運動へと繋がっていく。

この#Black LIves Matter 運動は日本のメディアは、2020年のGeorge Floyd 殺害事件を機に起こった運動であるかの様に取り上げていたが、実際には以前から続く根が深い問題なのである。正確には#Black Lives Matter というハッシュタグは2013年の Trayvon Martin 殺害の罪に於ける George Zimmerman 訴追の際に登場したものであるとされ、もっと言えば警察による人種的横暴は歴史的に繰り広げられてきた行為であり、突発的な運動として捉えるべきではないだろう。但しWokenessとの連関に限っては2014年 MIchael Brown 殺害事件からの動きと見て良いと思う。

さてこの事件をきっかけに社会的不正義や人種間差別に目を閉ざしてはいけない。こうした問題に対して自覚的であるべきだ、との声が特に若者の間で高まってくる。

そしてそうした新時代的な感覚はソーシャルメディア等々と結びつき、1つの運動となってWokeなのか、Brokeなのか、まるで踏み絵の様に人々に選択を迫り、分類していく。

Wokenessという単語の多義化、概念の曖昧化

しかし活発になった運動は、徐々に不明確さを増して、主に2つの側面から恣意的に使用される様になっていく。

1つは左翼的陣営からの使用で、これは従来の運動の発起人でもある。彼らは運動を常々変革し、押し進めていくことを要求した結果"Not Being Woke Enough" であると主張する様になったのだ。

同時代的な社会の変化に伴い、常にWokeであることを要求する姿勢は、不徹底な姿勢を糾弾し、運動の先鋭化に疑問を呈する人々を "Broke" であると批判してしまう結果となった。例えば当初は白人警官による暴力の撤廃と警察の構造改革を支持していた人々の中にも、その結果として(その人本人の能力とは必ずしも関係なく)アフロ=アメリカンやアジア系の警官を所長に据え、立場上優遇させる措置をとるべきだ、という意見には賛同できないと考える人もいる。しかし、そうした慎重派は "Not Being Woke Enough(十分に目覚めていない)" として批判され、時には攻撃されてしまうのだ。

これは共産主義者に対する無政府主義者アナーキスト)の関係と似ているかも知れない。

左翼陣営の中でも最早、Wokeな状態とは何か不明確になってしまい、且つ理想とされる社会とは何か、運動の目的は何か、こうした根本的な基盤も失われてしまった。

もう1つは右翼的陣営からの使用で、これはWokenessという考え方に賛同できない人々が、皮肉として用いる場合を指す。これには当初のWokeness運動から離反した人々も含まれる為、右翼的陣営をナショナリストの様な純右翼集団として理解することは誤りである。

彼らはWokenessは問題を十分に理解していない、という認識で共通点を持っている。Wokenessは現状のやり方では問題の解決策にはならない、という認識と言い換えても良い。

中でも比較的右寄りなMatt Gaetz(共和党党員で、ドナルド・トランプの賛同者として有名)は左翼陣営に対してWoketopians という言葉(woke と utopians の混合)を用いて、彼らが国を破壊していると批判している。

Matt Gaetz の批判には賛否共々あるにせよ、彼のWoketopians という発言は知っておくべきだろう。つまり右翼陣営は左翼陣営に対して、理想主義的な非現実的改革だと考えているのだ。

Cancel Culture と映画業界への影響

こうして広く共有される様になったWokeness という意識は、現実に影響を与え始める。その1つの典型が Cancel Culture である。

Cancel Culture とは主に若者(ミレニアル世代、Generation Z)がSNS上で有名人の不適切な言動を批判し、謝罪を強要し、社会的恥を負わせることを目的とした運動である。これまでに多数の著名人が被害者となっており、例えばトランスジェンダーへの批判的コメントでJ.K.Rowling(ハリー・ポッターシリーズの作者)や婚約者への虐待によりJohnny Depp(ファンタスティック・ビーストからの降板を強いられた)などが批判されてきた。

日本でも主にTwitter上で政治家や有名人に対する批判は散見されるが、ある程度社会的なコンセンサスとして成立しているWokenessに基づいているのか、単に個人の政治的立ち位置に基づいて批判しているのか、という点で違いが見られるのではないだろうか。

このCancel Culture そのものは社会改革を大衆が参加する形で主体的に推し進めるという点から問題はないのだが、これが映画業界をはじめとしたエンターテイメント業界や政治家への言論の自由を奪う形で進行していることが議論を呼んでいる。

詰まりWokeな表現を取らなかった場合、インターネット上でCancel される恐れがあることから、自由な表現ができなくなってしまっているのである。それを歓迎する人々もいる一方で、中には"Wokeness killed cinema" といったタイトルで昨今の映画界を批判する人々もおり、先ほどのWokeness という考え方の不明確化と相まって陣営の対立を深めている。

例えばスターウォーズの新たな三部作では主人公が女性に変更され、黒人のジェダイが誕生した。ゴーストバスターズも主要キャラクターは全て女性に変更されている。アカデミー賞の選考基準には女性やアジア系の俳優を一定割合以上キャスティングすることが条件化され、プロダクションチームにもトランスジェンダーのスタッフなど社会的マイノリティの割合を高めることが求められている。

観客から分かりやすく見える部分でも、見えない部分でも多様化が押し進められており、それ自体は歓迎されるべき変化である。しかしながらその結果本当に良い作品が選考外となってしまったり、あるいは創作面で制限が加えられてしまう自体は歓迎されるべきであろうか?

ジョージ・ルーカスによるスターウォーズのファンの中には、JJ エイブラムスによるスターウォーズは以前ほど面白くないと考える人もいる。

こうした意見は差別的故に本当にCancel され、批判されるべきものであろうか?それとも表現の自由に基づく、純粋な意見として守られるべき発言であろうか?

管理人がどちらかの立場を擁護しているという訳ではないが、双方の陣営から幅広い人々に検討されるべき議題だと私は考えている。だからこそ、映画に批評を加えたり、あるいはニュースを取り上げる以前に必要な知識として今回記事に起こしている。

教条化

Wokenessが一種の教条として宗教的な役割を果たしていることも指摘されている。

1つのイデオロギーとして機能する現在のWokenessは正に宗教の様に、人々の言動を矯正しており、それに批判的陣営(他宗教、他派閥)との間との宗教戦争の様相を呈示しているという指摘である。

確かに公にキリストの不在を(キリスト教信者でなくとも)批判し難い様に、多様性や共同社会参画、社会的平等といった価値観を表立って批判することは難しい。

これに対する行動、考え方は人それぞれだと思うが、1つ分かることとしてまるで宗教の様にWokenessという概念は浸透しているのだということだ。

人々はキリスト教を問題にする様に、Wokenessを議論している。

それでは日本の現状はどうだろうか?

日本の現状

管理人の無知であるならば本当に申し訳ない。しかしながら、日本のメディアでWokenessやCancel Culture について本格的に取り上げ、発信している媒体は少ないと思う。私は特に#Black LIves Matter 運動の際にそのことを感じた。

Wokenessに賛成か、それとも反対かが問題でないことはこれまでの文章で分かって頂けたと思う。定義が曖昧で問題も多い考え方であるから、それに対する姿勢はどちらが正しいというものでもない。しかしながら西欧の英語圏を中心に世界中で議論されている議題に対して無知であるという日本社会の現状は危機感を抱くべきだと思う。

そしてそうした議題に対して議論を深めることないままに制作される映画やドラマ、テレビ番組が今後繁栄していくことは可能だろうか?世界的に注目され、受け入れられるだろうか?あるいはWokenessが問題視している種々の問題に答えを提示することは可能だろうか?

管理人個人の意見としては難しいと思う。

だからこそ、遅まきではあっても幅広く議論され何らかの意見を持つこと、その為に適切な訳語を見つけていくことが必要ではないだろうか。

管理人としてはWokeに対し「気づき」または「直視」という訳語を当てたい。そしてWokeness とは「気づきの問題」、「直視の問題」であり、Cancel Culture とは気づきを持ち、問題を直視した若者が起こした「文化的批判の文化」だと思う。

映画を見る上で、あるいは広く一般にニュースを見る際にも、当記事を思い出して広く問題意識を共有して頂ければ幸いである。