知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

どうして映画を見るのか?

13(Fri). May. 2022

金曜日は留学情報などの雑記を砕けた仕方で残したい。

今日の内容は、どうして映画を見るのか?である。

Anna Karina in Vivre sa vie (1962)

映画の見方

貴方はどれ位の頻度で映画を見るだろうか?

平均的な日本人は(統計がある訳ではないが)月に2本か3本という所だろう。またその映画体験も一通りではない筈だ。

映画館に行く代わりにNetflixなどの配信サービスで映画を見る体験をする人は大変多いと予想されるし、事実映画業界も映画館での興行に重きをおかなくなってきている。

映画館は映画を見る場所ではなく、体験する場所へと変わっているのだ。これは音楽業界がCDの売り上げを重視しなくなり、ラジオでのオンエアが指標として意味を持たなくなった過程と似ているかも知れない。

またあらすじを読むだけで映画を「見る」という行為をやめてしまう人や、早送りとスキップを駆使して「見る」行為を圧縮する試みをする人も多いだろう。

「セリフが無いシーンは意味がないから飛ばしちゃう。セリフがあるシーンも基本的には早送りで見て、面白そうな部分だけ戻って再生。話と結果が分かって、それで面白かったら満足じゃない?」

管理人が友人から聞いた言葉である。

普段から映画をよく見る、詰まり映画館になるべく足を運んで、ビデオで見る際も1倍速で見る、管理人はこれを聞いて唖然とすると共に考え込んでしまった。

エンターテイメントの消費財

陳腐な議論である。これまでだって映画はずっと作られては消費され、賞味期限が切れれば別の作品にとって変わられてきた。

映画だけの話ではない。小説も、音楽も、絵画や彫刻にしたって同様である。

それにも関わらずエンターテイメントの消費財化と題をつけたのは、映画がまるでティッシュやビニール袋の様に生産されては捨てられていくからだ。

これまで映画はアートハウス系・インディー・カルト・ブロックバスターいずれにしても鑑賞され、観客を楽しませてきた。それは例えば美味な食べ物の様に、咀嚼され化学的に分解された後我々の栄養となると共に、記憶に刻まれ思い出として残るというプロセスを持っていた。映画は観客が理解し、楽しむと共に何らかの形で我々に訴えかけるメディアだった。

ブロックバスター映画マトリックスボードリヤールの"Simulacra et Simulation"をインスピレーションとしていることは大変有名だが、資本主義と記号的消費の問題の他にも、キリスト教的なモチーフや、日本のサイバーパンク的なヴィジュアル、ジェンダー問題をも含んで巨大な世界観を提示している。最新作マトリックス レザレクションでそのマトリックス世界のコンセプトを議論するオタクを皮肉ったシーンが挿入されたことは、大変興味深い。

ともかく我々はマトリックスを見て近未来的ヴィジュアルと壮大なストーリーに圧倒されると共に、この映画の主題は何か考察を巡らせる。この過程を全てひっくるめて映画はエンターテイメントなのではないか?

私は一面的な娯楽性だけではなく、それに付随する経験も含めて議論するべきだと思う。異論は勿論あるだろう。ただ1つの考え方として私はその様に思っている。

この考え方に基づけば映画は、昔からずっと消費財であった。但し意味のある消費をされていた。観客が何かを得る為の消費財であった。

それでは現在はどうか。まとめサイトやこうしたブログで取り上げられる感想、ザッピングで骨と皮だけになるまで削ぎ落とされた映像から、我々は果たして何かを得ることが出来るだろうか?

それこそティッシュの様に乱雑に取っては捨てられる低級な消費財となっているのではないだろうか?象徴的な意味も、内奥に込められたメッセージも何もない、面白いか面白くないかだけのメディアである。

これではニコラス・ワインディング・レフンのドライブや、北野武のその男凶暴につきはただの「よくある映画」になってしまう。

反抗としての知性

管理人は映画とは、趣味の1つであり娯楽の対象であるべきだと主張したい。

しかし現状の映画を取り巻く劣悪な環境下(これは日本でも海外でも変わりはしないだろう)で、映画を見る理由はどこにあるのだろうか?

映画館に足を運ぶ人は減る一方で、ザッピング人口は増えるばかりである。その中で純粋な楽しみで映画を最初から最後まで見る魅力は失われつつあるのではないだろうか?

管理人が子供の頃には絶滅寸前ではあったがVHSテープも家にあったし、映画を見るとなればレンタルビデオ店に行くか、DVDを購入するかのどちらかだった。その時代に埋めれたからこそ私は映画を見ているのだと思う。若し私が今の時代に生まれた子供であったとしたなら、映画好きになどならなかった。

その様な今日のエンターテイメント業界で映画を見る理由はどこに求めるべきか?

1つの答えとして、知性があっても良いと思うのである。

もののけ姫に於ける神道のモチーフ。ラスト・タンゴ・イン・パリフランシス・ベーコンの関係性。アメリカン・ビューティーセックスと嘘とビデオテープの間に見られる、ビデオカメラの役割の違い。

映画の中で語られる物語や、その文化的な表象には知的好奇心を刺激する要素で溢れている。そしてそれらは高度な技術によって、時に複雑に、時には下手なやり方で表現されているのだ。

管理人はは元々研究職を考えていたこともあるが、自分の大好きな映画を守る為の、いわば世界に対する反抗として知性を持ち出したのである。知性が映画に対する好奇心を高め続けてくれると期待した訳だ。

大学に行って、それも日本の大学ではなく海外に目を向けて映画を勉強したいと思った理由も一重にこの知性という側面を重視していたからでもあり、その知性を他人にも共有して欲しいという気持ちが当ブログの1つのコンセプトとなっている。