知らない、映画。

在英映画学部生のアウトプット

【業界研究】1920年代までのアメリカ映画館事情とスタジオ・システムから見えてくるもの

17(Mon). Oct. 2022

元々の映画離れにコロナ禍も相まって、映画館のオーナーは何処も頭を悩ませているのではないだろうか。寧ろ頭を悩ませる段は終わって、閉業に追い込まれてしまった映画館も(数字を見ている訳では無いから正確には言えないけれど)多いかも知れない。

有名どころでは神保町の岩波ホール、大阪・テアトル梅田が今年で営業を終了。筆者の地元で嘗て足繁く通った映画館も今年いっぱいで閉館の見込みらしく、となると県内で映画館は数館だけ、その内TOHOシネマズを除くとほぼ絶滅状態になってしまう。

と書くと中々大変なことに思えるが、案外何処でも同じ様な状況だったりするのでは、という気もしてくる。満足に見たい映画が見れる環境なんて東京、京都などの大都市圏だけ。呪術廻戦だったりアバターはちょっと足を伸ばせば見れても、女神の継承、わたしは最悪、この辺りの映画は配信待ちするしかないという方が普通かも知れない。

昔はレンタル落ち、旧作落ちと言って首を長くしたものだけれども、時代は配信落ちを待つのである。それはともかくとして窮地にある映画館産業は一体なぜ苦しむことになったのか。それは新型コロナウイルスのせいなのか。Netflix等の配信サービスの為なのか。はたまた映画産業自体が良作を生産できなくなってしまい体力が落ちているのか。色々議論されているが、その背景には少し別な理由がある様にも思えるし、そもそも時期的な理由だけでここまで急激に、そして恒久的に映画館が追い込まれるとも考えにくい。

今回は映画誕生間もない1910年代から1920年代のアメリカを除いて見ることで、映画館とは何か考えてみようという記事である。当時の時代背景とスタジオ側の都合が当時の映画館を大きく揺り動かしていた訳なのだが、その辺りの事情を知ると現代の映画館が苦労する理由が見えてくるのではないだろうか。

当時の映画を知っている必要は殆ど無い(正直筆者も鑑賞済みの作品は多くない)。なるべく平易な解説を心掛け、一般的な内容となる様努めたつもりでもある。是非最後まで目を通して頂けたら嬉しいし、実際に映画館で働く方々の目に留まる様なことがあればこの上ない喜びである。

The image of "Who Killed Cock Robin?" from Sabotage (1936)

ニコロデオン時代の映画館

活動写真”Moving Image”の歴史は1893年に有名なトーマス・エジソンが開発したキネトスコープから始まる。フィルムを手で回しながら動く映像を楽しむ装置で、極めて簡単なアニメーションといった形だ。

より本質的な映画の原型が開発されるのは1895年、今度はアメリカではなくフランスでリュミエール兄弟がシネマトグラフを発明した時だ。シネマトグラフはより今のカメラに近い存在で、彼らが撮影した一連の映像”Actualités”(工場の出口を含む)を以て映画の起源とすることも多い。黒沢清監督などは講演で工場の出口を最初の映画として紹介していたと思うのだが、筆者の教授は「ただの動画に過ぎない」と言っていたから統一認識という訳では無いのだろう。

さてシネマトグラフが普及し始めると、一連の映画?が凄まじい勢いで生産されることになる。その鑑賞形態は様々で、初期には見世物小屋に似た仮設の映画館で上映されることも少なくなかった。郊外のショッピングセンターの駐車場で偶に見かけるサーカスの様なものをイメージして頂きたいのだが、人々はそこでショート・リールを楽しんでいたとされる。この時期の映画の魅力は専ら「動く」という事実そのもので、新規な見世物として映画を楽しんでおり、それ故か題材も闘鶏や女学生の部屋、異様な体など見世物じみたものが多かった。

しかし段々と見世物として目新しさが薄れ、「動く」ことに人々が慣れてくると映画は娯楽としての特徴を備える様になった。コメディ映画製作の始まりであり、これは大凡ショート・リールからシングル・リールでの上映(1リールの長さは15分程度)が主流になる時期と重なる。1910年頃の話だ。

この頃になると映画鑑賞は雑多で無統制な見世物小屋から発展し、産業としての形態を帯びる様になる。ニコロデオンNickelodeon)映画館の誕生である。ニコロデオンとは米国で5セント硬貨に使用されていた金属ニッケルと劇場を示すギリシャ語オデオンを併せたもので、企業やフランチャイズといった纏まりは有していなかったものの、同じ名前で全米各地に展開された。日本で言うワンコイン弁当くらいのニュアンスだったのかも知れない。

小さな劇場(vaudeville)でも映画は上映されていたし、1910年代後期からは宮廷(Movie Palace)と呼ばれる奢侈な施設も建てられるなどその上映方法は単一では無かったが、最も重要な場所、詰まり多くの非上流階級市民が見る場所として主流だったのがニコロデオン劇場と言える。その殆どは1スクリーンか2スクリーンの600席以下、その内半分は300席にも満たない小さな劇場で、地元住民がショート・フィルムを見る為に気軽に訪れる一時滞在場所といった趣きだった。規模としてはアップリンク吉祥寺が5スクリーンで300席だから殆ど同じかそれより小さい程度で極めて狭く、しかし立川シネマシティの最大規模のスクリーンで303席となっており、スクリーン単位では大きいことが分かる。

後に詳しく述べるが映画館は1920年代を過ぎて大作映画が主流となる頃でも安価に入場出来る場所であり、待ち合わせ場所や冷房に当たる為だけの場所として人々は映画館を訪れていた。現代の料金設定では考えられない様な贅沢である。

ともかく1910年代の上映形式の中心はニコロデオン映画館であり、その観客は基本的に気晴らしを求めて映画館を訪れていた。当初は「動く」ことの目新しさが魅力だった映画館は、気晴らしの場所として集客力を持つ様になったのだ。となると当然シリアスなドラマよりは明るいコメディが好まれることとなり、且つ上映作品が定期的に変更されることが重要となる。

この役割を果たしたのが通称MPPC(The MPPC)、The Motion Picture Patents Companyである。patentとは特許を意味し、トラスト或いはエジソン・トラストと呼ばれることからも分かる様にエジソンが当時頭を悩ませていた映画制作の特許問題を解決する為に作られた組織である。アメリカ内の8つの最大製作会社(に加えてその提携会社1社)と、アメリカ外では最大規模の製作会社1社を併せた10企業による巨大なトラストで、無数に存在していた独立系製作会社・配給会社の力を弱め、業界をコントロールすることを目指していた。

そして1910年代初頭、このトラストは実際に圧倒的な力を有しており、映画を産業化する上で欠かせない存在だった。既に述べた通り、この時ニコロデオン映画館を中心とした上映者に求められていたのはいつ訪れても楽しめる、気軽でバリエーションの豊富な短編コメディだった。MPPCはこの需要に応えるべく必ずしも後世に残るとは言えない「そこそこ」の映画を大量に生産し、まとめて配給することに尽力したのである。質よりも量を、ロングランよりも短距離リレーを、という訳だ。

それは必ずしも悪いことではなく、特に観客の需要が特定の映画”films"ではなく漠然と映像"movies"だった時代には賢い経営戦略だった。近年のMCUやDC、その他フランチャイズ作品の様に大量の資金を投下して大きな利益を得ることは目的ではなく、観客を映画館に呼び込み続けることが目的だったのだ。必然的に特定の作品の広告を打つこともなく、より一本当たりの予算は削減されることになる。そしてその小さい予算規模で固定客が訪れ続けることにより、利潤が生まれ、その利益を元に新たな低予算作品を製作し.....という好循環が生まれていた。

フィーチャー・フィルムへの移行

しかしMPPAの寡占もフィーチャー・フィルムへの移行と共に終わりを迎えることになる。これが大体1915年頃からの出来事であり、現在の我々がイメージする「ハリウッドらしいハリウッド」へ変貌を遂げていくのがこの時代だ。

現在でもNew Feature Filmなどと広告を見かけることもある、フィーチャーという単語。これが具体的に何を意味しているかを知っている人は案外少ないのではないだろうか。元々は演劇の世界で使われていた用語で、最大の見せ場である幕のことを"feature act"と呼んでいたらしいのだが、これが映画界でも採用され、プログラム中で最大の見せ場となる映画のことをフィーチャー・フィルムと呼んで特別視する様になったと言われている。

従来のシングル・リール、ツー・リールといった短い映画とは異なり、フィーチャー・フィルムは通常70分から90分程度の長さを持っていた。現在では120分前後が標準だろうか。この時代は90分くらいの作品が多かった様である。そして1910年代と言えばまだまだサイレントの時代、1927年が最初のトーキー映画公開の年だから、完全な無音である。となるとその上映には音楽隊が伴うことが多かった。

さてここで一つの疑問が生まれる。当時主流のニコロデオン映画館は小さい映画館であったと書いた。また観客も気軽な映画を求めていたと書いた。それではフィーチャー・フィルムは誰に向けて製作されていたのか?その需要はどこにあったのか?

端的に答えるとよりハイ=クラスな人々である。製作費がシングル・リールと比べて高額になることもあり、フィーチャー・フィルムは都会の然るべき映画館、劇場、宮廷(Movie Palace)などに優先的に配給されていた。そしてフィルムをレンタルする為の料金も高く、場所代も相まって鑑賞料金高くなっていた。従ってその需要はより質の高い作品を求める人々によって支えられており、安価な気晴らし映画とは初めから一線を画する存在であった。ここで強調しておかなければならないのは、フィーチャー・フィルムが特別な映画だからと言って一般庶民に鑑賞の機会が無かった訳ではないということだ。現在でも多くの日本人が演劇に通うのは難しくても、映画になら行けないこともない、と考えている様に、毎日通うことは出来なくとも一般庶民がそうした劇場に足を運ぶことは少なくなかった。

さて最大顧客であるニコロデオン映画館の多くが音楽隊を入れ、ツー・リール以上のフィルムを上映する能力が無かったことから、MPPCはフィーチャー・フィルムの製作に反対の立場を取っていた。MPPCが1910年に設立した配給会社(MPPCは基本的に製作会社の連合)、The GFC、The General Film Companyはゆっくりとフィーチャー・フィルムの必要性を認め、ショート・リールと抱き合わせで配給を始める様になる。しかし彼らのビジネスの軸足はショート・リールにあり、人々の関心が次第にフィーチャー・フィルムに移り始めた時必然的に映画のクオリティで違いを生み出そうとする独立系製作会社の後塵を杯することになってしまう。

整理しよう。1920年頃までにフィーチャー・フィルムが劇場の中心となり、映画館の魅力は目新しい映像から娯楽へ、そして「特別な」娯楽へと変化した。

そうしてGFCも1915年には解散してしまい、時代はフィーチャー・フィルムの製作に移っていく。ここで登場するのがビッグ5/リトル3と呼ばれる8社であり、MPPC時代には独立系映画製作会社として位置付けられていた彼らが業界の中心となるのである。ただしここにはアメリカならではの事情もあって、広すぎる国土故に東海岸を拠点としていたMPPCはハリウッドで起こっていたフィーチャー・フィルム製作を抑え込めなかったという理由もあった。ともかく映画業界はより利幅の大きい、大規模な映画づくりを始めることとなる。

スタジオ・システムの誕生

スタジオ・システムに於いてもその中心には製作会社が居た。フィーチャー・フィルムの製作では大規模なスタジオと機材、膨大な長さのフィルムを全国各地に届ける配給網、そしてスターを起用した宣伝を打つだけの資金が不可欠となる。そうした大掛かりなプロセスに責任を持った製作会社は大きな権力を得る、と同時に莫大な利益を生む様になった。このメカニズムはマクドナルドでも衣類でも全国規模でチェーン展開する大企業が小売店を駆逐していくそれと同じと言える。

具体的にはビッグ5と呼ばれた5社、ワーナー・ブラザーズメトロ・ゴールドウィン・メイヤーパラマウントRKO20世紀フォックスが業界のトップに立ち、その下をリトル3、ユニバーサル、コロンビア、ユナイテッド・アーティストが追随する形となった。その他にはセルズニック・インターナショナル・ピクチャー(スタア誕生風と共に去りぬなど)やウォルト・ディズニーなどといった独立系映画製作会社も存在していたが、彼らにせよ自身の映画を配給する際にはビッグ5/リトル3と契約する必要があった。

例えば世界初の長編アニメーション映画、白雪姫は紛れもなくディズニー製作の映画であり、現在でも彼らのコンテンツとしてディズニー・ランド等に登場する。けれどもオリジナルのフィルムを見ると配給はRKO(ビッグ5、現在はワーナー・ブラザーズが権利を保有)となっているのだ。これにはある特殊なカラクリがあって、その仕組みこそがスタジオの権力を高めていた理由でもあった。

所で読者の中にはここまでの文章に潜む矛盾に気がつかれた方もいる知れない。ビッグ5/リトル3は製作会社、スタジオであると書かれているのに、RKOが白雪姫を「配給した」とはどういうことか?製作会社と配給会社は別物ではないのか?

その通りである。そしてこの点こそがスタジオ・システムの最大のカラクリでもある。詰まり彼ら製作会社はスターを起用し、比較的高額なフィーチャー・フィルムを製作することで大きな利益を得た。そして彼らがフィーチャー・フィルムで成功する程に観客の期待は高められていき、また資産も増えることで規模も拡大する。こうした背景から他の製作会社が参入しにくい状況となっていた中で、その資金力を活用し製作会社は配給会社・映画館を保有し公開のプロセス全てをコントロールする様になったのだ。

このコントロールは一般に縦の系列化、vertical integrationと呼ばれている。製作会社は自らフィーチャー・フィルムを製作し、それを宣伝する。完成したフィルムは自らが保有する配給会社を通じて配給され、その値段や権利は完全に作り手によってコントロールされる。更に上映する映画館までも製作会社のコントロール下にあることから、観客からもたらされる直接の利益も製作会社の管理下となる。よってディズニーが白雪姫の配給をRKOと契約して行った理由も、末端の映画館で確実に作品を公開する為にはRKO傘下の映画館で上映機会を担保する契約を結ぶ必要があったからであり、彼らと利益を折半した方が単独で配給するよりも売上が大きかったからなのである。

その様な市場の寡占は違法ではなかったのか?当然違法であった。正確には合法的に容認はされていなかった。戦後の時代とは異なり戦艦期のアメリカは飽くまで強国の1つという立場であり、業界のトップランナーとして莫大な利益を生み出すスタジオを司法部も黙認していたが、小さな独立系配給会社からの訴訟が増えるにつれ違法と断じざるを得なくなった、というのが背景である。だから違法と分かっていながら運営されていた訳ではないものの、正式に認められていた系列化ではなかったし、明文化された寡占形態でもなかった。

だからその手法もグレーゾーンを付く様なものだったと言える。具体的には2つの方法、ブロック・ブッキング(Block Booking)とブラインド・ビディング(Blind Bidding)、でありスタジオはこれらにより実質配給会社と映画館を系列化することが出来た。順に見ていこう。

初めにブロック・ブッキングである。映画館は製作会社の目玉映画、例えばMGMのベン・ハー(1925)を上映する為には、通常は一年単位だったが一定期間MGM製作の映画全てを借りる必要があった。映画が企画段階の内からそのスタジオのフィルム全てを借り受ける契約をしてしまうことで、制作会社側は一定の利益を担保することが出来、また映画館も確実に売れる映画(ベン・ハーなど)を確保出来るという契約だ。少し分かりにくいから具体的に名前をお借りして解説しよう。勿論現実とは一切関係は無い。

さて新宿であればTOHOシネマズ、バルト9新宿ピカデリーなど映画館が多数存在しているが、それぞれのスタジオは映画を上映する為にスタジオと契約を結ばなければならない。今年だと目玉作品のバットマンを上映する為にTOHOシネマズはワーナーと、バルト9ドクター・ストレンジ/MoMを上映する為にディズニーと、新宿ピカデリートップガン:マーヴェリックを上映する為にパラマウントと契約しなければならないが、ブロック・ブッキングの場合は確実に目当ての映画を契約する為一年単位でそれぞれ映画館は全てのスタジオの映画を契約してしまう。だからTOHOシネマズはワーナーの今年分の上映作を全て公開する契約を年始に結んでしまうのであり、バルト9はディズニーの作品を完成前に上映すると確約してしまう。これがブロック・ブッキングだ。

スタジオ目線で見れば(譬えの上で)実質バルト9はディズニーの子会社と言って差し支えないことになってしまうし、新宿ピカデリーパラマウントの子会社ということになってしまう。力関係は当然スタジオ上位であり、それ故スタジオを中心とする縦の系列化と呼ばれていた。これは映画が売れている内は問題が無かったかも知れないが、例えばチップとデールの大作戦/レスキュー・レンジャーズ(2022)は劇場公開としては全く予算を回収出来ていない。サブスク用映画だったからディズニー側には関係ないかも知れないが、この売れない映画をブロック・ブッキングにより上映し続けなければならないバルト9としては堪ったものではない。

こうした映画館が被る損失の多さが注目される様になり、後には廃止される。現在は各映画館が公正にプログラムを選定できるが(TOHOシネマズでもバルト9でも新宿ピカデリーでも多様な映画を楽しむことが出来る)、当時のハリウッドではこうした寡占に繋がる仕組みが一般的だった。

次にブラインド・ビディングである。これはブラインド・バイイング(Blind Buying)とも呼ばれるが、後者が分かり易く示す通り、Bidding=入札に関わる仕組みだ。この慣例は上述のブロック・ブッキングを支えるもので、上映館が企画段階から映画の権利の入札してしまうことを指している。映画館はブロック・ブッキング、一年単位の契約をするのであるが競合相手と同じ映画を上映しても利益は薄い。従って予めそのフィルムの権利を入札しておくことでブロック・ブッキングを意味のあるものにしようということだ。

この問題点であるが、企画段階で、詰まり映画が製作される以前から契約をしてしまう為不公平なのは勿論企画倒れになってしまった時に映画館側が被る損害が多いことがある。又ブロック・ブッキングを成立させる目的で過剰に入札した結果スケジュールの都合などで映画館側が上映出来るよりも遥かに多くのフィルムを抱えてしまい、結局上映しないまま契約不履行に終わるというトラブルもあったそうだ。

当然契約という形であるから不履行となればそれなりのペナルティがある。そして何より契約を結んでいる以上その他のスタジオからの映画を上映することも出来ない。実質映画館はスタジオによって上映作品を制限されていた。

以上がスタジオ・システムにより系列化が進んだ当時のハリウッドの概観だが、必ずしも負の歴史というだけではない。少なくとも当時寡占が進まず、スタジオが巨大に発展しなければフィーチャー・フィルムが満足に製作されることもなく、映画業界が産業として成長することもなかった。簡単に言ってしまえば一連の不都合がありながらもそれこそが大戦前のアメリカに於いて映画産業が巨大化する最大の要因とも言えたのである。従って現在の映画産業の礎は不公平なパワー・バランスの上に作られたものであるという現実が見えてくるのだ。

2020年代の映画館

ここまで説明すると現在映画館が苦境に追いやられている理由が見えてくる。

昔と今。映画館に人が入っていた時代と、苦戦している時代。今から考えれば不公平でしかないブロック・ブッキングやブラインド・ビディング。これが表面上許されていたのはスタジオが供給する映画に観客が集まったからに他ならない。そしてそれは観客の映画に対する関心が高いレベルで保たれていたからに他ならない。

当時の一般的な上映形態はニュースリール、アニメ、短編ミュージカル、短編コメディ、フィーチャー・フィルム、短編コメディ(別)、予告の一連の作品群で構成されていた。そして観客は映画館に対して入場料という形で料金を支払い、延々と再生され続けるプログラムを途中から鑑賞していたのである。

アニメや短編ミュージカル、短編コメディは現在は全く見なくなったが、20~30代以上の方なら分かるだろうか。昔はディズニーなどのDVDを借りると本編の前に短いアニメが挿入されていたものである。あの様な特にフィーチャーとは関係がない作品が別個にフィルムとして映画館に供給され、前座として上映されていた。ブルーレイやリマスター版では恐らくカットされているだろうから、2000年代に販売されていた古いDVDをレンタルしてみると鑑賞出来るかも知れない。

その他色々なフィルムが上映されたがやはり目当ての中心はフィーチャー・フィルムであった。とは言え観客がそれを途中から見ることも珍しくなかったし、観客は映画を「映画館という身近な場所で鑑賞するモノ」として親近感を持って見ていた。先に書いたエアコン目当てに〜、というのはこの文脈と絡んでくる。

整理しよう。観客は現在よりも気軽に映画館に来ることが出来た。物価の影響もあるから正確には言えないけれども、喫茶店に入るのと同じくらいの感覚だったのだろうか。そしてそこで上映されているフィーチャー・フィルムに対して一定レベルの関心があった。暇つぶしに見に行っても良いか、と。それ故に映画館側も相当不利な契約を結んでいても経営していくことが可能だった。この関心はニコロデオン劇場の頃から高いままだったが、2020年までに徐々に低くなってきたのだといえる。

であれば人々が映画に同レベルの関心を持っていない今映画館の経営が苦しくなるのも当然ではないだろうか。ブロック・ブッキングはなくともスタジオ優位の構図は今でも変わっていない。スタジオが映画を製作するアプローチは規模が大きくなればなる程時代を遡って、詰まり新規なフィーチャー・フィルムに人々は惹きつけられるという前提に頼る様になる。配信メインの現代・未来になってもスタジオは大衆に見られなくても良い映画を作ることはないだろうし、しかし大衆が映画を見たいと思っていないのだから需要と供給のミスマッチは大きくなり続けるばかりである。スタジオはもっと規模を大きく、もっと新しい映像を、と意識するのに対し、観客側には「見に行っても良いか」の前提が無い訳でそうした顧客層に対して「この映画は面白いですよ」とアプローチしても何も響かないのだ。

そしてその影響は直接映画を上映する映画館から受けるのであり、スタジオ・製作者が観客に響かない映画を作り続けるばかりに顧客が減っていく。これは映画が面白くないから客が減る、というロジックとは少し異なっていて、面白い映画でも大衆が観たがっていないなら売れないよね、という前提との区別が必要かなと思う。1920年代の様に観客の意識が映画に向いているのであれば面白い映画を作れば客は増える。逆に映画を見たがっていないのに映画を見せてもただの押し売りなのであって、映画館が儲からないのも当たり前だ。

だから正直筆者としてはサウンドやスクリーンに力を掛ける映画館のアプローチには懐疑的でもある。それを望むのは結局映画に関心がある層で、映画に無関心な人口が振り向くとは思えない。何故映画か?という部分が解消されていないからだ。

何故映画か?これに答える方法は2つしかない。1つは映画館に行くから映画だ、と感じさせること。エアコンに当たる為でもリクライニングのソファで寝る為でも良い。映画館に行くこと自体を気軽な行為、生活の一部にしてしまえば映画館に行くから映画を見る、という逆転の関係が生じる。しかしこれを実現する為にはチケット料金をワンコイン程度まで下げなければならないし、或いは飲食・雑談可にしたり、アルコールをメインで提供したりという工夫が必要で、映画の上映権が高い現状難しいと言わざるを得ない。それでなくても鑑賞マナーに以上に厳しい日本人には無理だろう。筆者はスマホが付いても余りノイズを感じないタイプだが、映画ファンには激怒する人も少なくないから20年代の様な身近な存在として機能するとは思えない。

もう一つは見なければならない映画を上映することだ。これは実際に日本の多くの映画館で挑戦していることでもあって、コアなファンにターゲットを絞った作品(今年であればWANDAなど)やカルト映画など(新文芸坐で行われたDJタイムを含むゼイリブ上映)を扱っている。ただこれも映画ファンにターゲットを絞って合理的な上映をしているのであって、全社会的な広がりは無いだろう。東京の映画館ならアリでも街で1つの映画館、長年やってきた映画館が取る方針としては難しい。

他には君の名は。が大ヒットした背景には映画としての面白さもさながら若者に特化した社会現象としての一面もあった。当時筆者はまだ中学生だったが、一年経って高校生に上がった頃でも上映されていた筈だしデートスポットとして人気だったとも思う。カップルでそれぞれ三葉と瀧の画像をホーム画面にし、二つ併せて一つに完成させる遊びが有名になったりもしていた。

こう考えると特に君の名は。の様に社会現象となる映画は強いのかなと思う。日本の映画界が強みを活かせるというのも良いポイントだ。海外で流行するコンテンツは日本の流行語の様に皆で真似をして、関連グッズが出て、といった盛り上がりに欠ける印象があるから、一般のライトな映画層を取り込む上でも効果的という気はする。

ビジターQや閉じる日、ざわざわ下北沢の様な企画も面白いだろう。何にせよ長々解説した通りハリウッド的なモノは概ね1920年代までにスタジオ・システムを通じて作られたのであり、映画館の形態も多少の変化はあれその頃までに固まった。それは現在でも継承されている部分が多く、個人的には映画館で映画が見られない理由の一つではないかと感じている。仮説として配信で人が映画を見るなら(コンテンツとして魅力があるなら)映画館に足を運ばない理由もないのだ。というよりはサブスク会員と映画館人口の間に巨大な開きが生じるとは思えないのである。

Netflixでなら映画も見るけど映画館には行きたくありません、となる思考の方が不自然ではなかろうか?早送りできるからとか色々理由はあるかも知れないが、それにしても映画館やTSUTAYA、ゲオと相次いで潰れる理由には弱いと思う。寧ろスタジオが作る映画が映画館の現状と合わなくなっているという方がしっくり説明される気もしているし、その意味で映画館は難しい経営を迫られるのだろう。

何人が最後まで読み通したのか分からないが、ここまで読んで下さった貴方。是非一度映画館という「場」について考えてみて欲しい。そして多くの人に記事が読んで貰える様助けて頂きたい。直接映画館を助けることは現状難しいが(構造的な問題だとしたら)、考えることは無駄にはならないだろう。

【時事】竜とそばかすの姫を擁護してみる/果たして酷評されるべき映画だったのか?

24(Sat). September. 2022

日本時間で昨日、金曜ロードショーで竜とそばかすの姫が放送された様。公開当初から酷評されていた本作だが、今回改めて地上波放送されたことで改めて批判の声が高まっている。

脚本が酷い、リアリティが無い、ルッキズムがキツすぎる云々。言わんとしていることは理解出来る(understandable)且つ議論の余地がある(arguable)と思うものの、そんなに叩く程なのか?と筆者は正直に思った。特にトップガン:マーヴェリックに甚く感動した筆者としては、竜とそばかすの姫も同様に(同程度ではないにせよ)高く評価したいのである。

ということで今回は竜とそばかすの姫に触れながら映画の見方について考えてみよう、という記事である。短めの記事で、軽い内容なので気軽に読んで頂ければ幸いだ。

中村佳穂 and 幾多りら in Belle (2021)

トップガン:マーヴェリックは素晴らしかった

トップガン:マーヴェリックは素晴らしかった。いきなり全く違う映画の話で恐縮なのだが、筆者の圧倒的今年ベスト、オールタイムベストも更新した本作は世間的にも非常に高く評価されていた様に思う。実際全世界的な興行収入でも第11位、日本映画界でも記録的なヒットを飛ばしており、TwitterなどのSNSや各種メディアでも好意的なリアクションが大半を占めていた様に思う。

そのトップガン:マーヴェリック、筆者は没落する帝国に夢を見せるエンターテイメント映画として受け取った。第一作が公開された当初はアメリカが偉大な帝国としての威厳をまだ有していた頃で、日本も当然アメリカに追いつけ追い越せの姿勢でいたし、実際それだけの力がかの国にはあった。トップガンも軍人のリクルート映画だとか揶揄されていたけれども、それだけ明るいエナジーに満ち溢れていたと思う。フットルースやダーティー・ダンシング、バック・トゥ・ザ・フューチャーなどの大衆映画と同等のエッセンスを持っており、それは軍隊モノという特性を考えると少し驚くべきことだ(スリー・ビルボードハート・ロッカーの様な映画が増えてきた現代では特に)。

では現代のアメリカはどうか?もはや帝国としての力を持ってはいない様に見える。誰もがアメリカに憧れていた時代はとうの昔に終わり、日本のアーティストもアメリカ=最先端として捉えることをやめてしまった。国内でも人種や貧困、その他諸々の問題を抱えマクドナルド・グローバル主義的なイデオロギーは信頼に値しないものになっている。

そんな時代にアメリカ人は自らのアイデンティティと権威を求めて苦しんでいる様に見える。嘗ての家庭・郊外の一軒家・日曜日のミサなどに代表されるイデオロギーが通用しなくなり、唯一の勝者としての立ち位置を失いつつある中で如何に自らの価値を見定めるのか。トップガン:マーヴェリック前半部では新たな時代に不必要となりつつあるドッグファイトを若手のパイロットに伝授する訳だが、第一作が持っていた特徴を踏まえると新たな時代に嘗てのアメリカを継承しようとしていると見ることも出来る。

女性のパイロットをサポートし、指導方法やグースとの向き合い方を通じてトム・クルーズが再び輝きを取り戻していく様子は困難な時代にどう立ち向かうか、80年代の輝いていたアメリカが新たな時代、新たな問題にどう向き合っていくのか、その表れである様に見えた。

キャストの人種や性別を変更したり、ヒップホップ音楽を取り入れたり、その程度の方法でしか価値観をアップデート出来ない昨今のアメリカ映画、特にディズニー映画に飽き飽きしている筆者としてはトム・クルーズジョセフ・コシンスキーの演出は正に時代が求めているものではないのかな、と感じた。

*余談、アリエルの実写版について。端的に言って筆者は反対である。リメイクを製作して新しいメッセージを発信するに当たって、人種を変える、という安直な方法に頼ってしまう所が時代遅れだなと感じてしまうからだ。これが2015年から精々2020年くらいであればまだ納得出来るのだが、2023年の作品にもなって今更これをやるのか、という印象。その程度の多様性ならここ数年さんざん議論されてきた訳で、そしてそれが上手くいっていないことが問題であるにも関わらずまた同じ様な手法で同じ様な映画を生産してしまうことにガッカリした。

さて、嘗ての帝国が価値観のアップデートを試みる映画、トップガン:マーヴェリックだが、上映時間の大半を費やして作り上げたリアリティをラスト数十分でこの映画は見事に破壊してしまう。ミッションの成否に関してはまだ理解出来る。問題はその後、トム・クルーズが地上に降り立ってからグースを連れて再び飛行する場面だ。

100%現実では起こり得ない奇跡が連発するのである。筆者はそれに寧ろ感動したのであるが、それは何故ならそれまで描いてきた上手くいかない現実を映画というエンターテイメントで奇跡を見せることで、観客に希望を与えて見せたからである。

要約すると、嘗ての栄光の象徴の様な映画だったトップガンを凡そ40年ぶりにリメイクしたマーヴェリックは現代の問題を極めて真剣に扱い、それらに回答を与えようと試みている。そしてリアルの世界では必ずしも上手くいっていないアメリカ(と世界)に希望を与えようと、ラストで奇跡を連発し、エンターテイメントとして昇華させてみせた本作は正しく今我々に必要な映画だったと思う。

竜とそばかすの姫との共通点

所で竜とそばかすの姫もトップガン:マーヴェリックと似た構造を持っているのではないだろうか。主人公すず、またはベルは仮想世界Uで出会った竜がある深刻な危機に瀕していることを知り、解決に向けて走り出す訳だが、主にその点に批判は集中している様だ。曰く

  • 本来警察や行政に然るべき対応を促す場面で、一人で夜行バスに乗るなど不適切
  • まして周囲に母親代わりの大人がいるのだから冷静に止めるべき
  • どうしてもと言うならせめて付き添うべき
  • 父親も父親で呑気に感傷的なメールを送ったりして信じられない
  • DV男があの様な行動を取るとはとても考えられない。深刻な危害を加えられていてもおかしくなかった
  • 結局すずが助けに向かった子供達は救済されていない。安易な台詞を喋らせて解決したかの様に見せかけている
  • これらの問題点を含んでいる作品が「感動作」とか「勇気を与える」とかの枕詞がついて宣伝されている危険性

その他にも娘を置いて川に飛び込む母親の無責任さを批判する様なコメントも見られた。ただ筆者としてはこれらは問題にもならないと考えている。トップガンと比較しながら見てみよう。

すずがベルとして歌うことを思い出し、そして竜と出会って世界の歪みに気づく場面はトップガン:マーヴェリックで言えば前半部の教練のシーンにあたるのではないだろうか。詰まりそばかすだとか思いを寄せる彼だとか、父親との関係などの問題に向き合い、竜と出会う中で自分を発見する物語。この部分には十分な説得力があったし、見ていて面白い場面であったとも思う。

そして竜とコンタクトし、彼を救い出そうとする場面。これはグースが救出に現れて以降、敵機を乗りこなす奇跡の描写と構造的に重なる。すずは高校生だ。高校生なら現実味のない夢やロマンを抱え、時には無鉄砲なことを、そして大抵は大人になって恥ずかしくなったり公開してしまう様なことを言ったりするものである。

現実世界では起こり得ないとしても、喩え冷静に考えれば社会的に間違っていることであっても、その夢やロマンは映画の中では「奇跡」として実現してしまう。それはエンターテイメントとして素晴らしいことではないだろうか。竜とそばかすの姫ではその奇跡に向けて丹念にすずの性格や生い立ちが描かれているし、しっかりと背景が作り込まれた上での奇跡であれば筆者は問題ないと感じた。高校生や中学生の頃にすずが実際にやってみせた様な奇跡を妄想したり考えてみたことも無いという方がいればそれは余程の天才か、或いは死ぬほど退屈な生活を送っていたかのどちらかだろう。残念ながらよくある学生と変わらなかった筆者としては、すずがみせた奇跡に心を動かされたし、トップガン:マーヴェリック同様このエンディングを受け入れたいと思った。

心の余裕

ある映画ブログで、万引き家族に寄せられた批判(日本を万引き大国の様に見せている、万引きを美化する描写は経営者として心が痛い)を紹介し、現在の日本は映画を楽しむ心の余裕がなくなってしまっているのではないか、と書かれていたが、筆者も本当にその通りだと思う。

恐らく多くの人が嘗ては持っていた筈の馬鹿げた夢やロマンを忘れ、杓子定規に社会で生きているばかりに竜とそばかすの姫が提示して見せた極上の奇跡を楽しめなくなってしまっているのである。彼らの目には本作は社会の誤解釈(misinterpretation)にしか写っていない様だ。それは筆者にして見れば大変残念なことだと思う。

映画を巡って議論することは結構だ。先ほどのアリエルで言えば表現の方法に関して議論することは必要だと思う。どんな映画でも多様な観点から議論することが出来るし、社会問題と絡めて竜とそばかすの姫を批判することは構わないと思う。それに実際彼らの批判は的を得ている。

ただ社会問題の描き方故に「竜とそばかすの姫は酷い映画、大嫌い」という感想になってしまうことは違うのではないだろうか。繰り返し述べている様にこの映画が示す奇跡は十分説得力があって万人に通用するロマンのあるものだったし、その感動が社会問題の為に受け取れないというのは映画を楽しむ心の余裕に欠けているとしか言えないのではないかなと思う。

トップガン:マーヴェリックを賞賛した皆さん、是非落ち着いた心で竜とそばかすの姫を見直してみては如何でしょうか?

 

【留学】意外と知らない、知らないと苦労するイギリス生活のリアル

8 (Thu). September. 2022

随分更新期間が空いて久しぶりの投稿。NOPEが公開され、ヴェネツィア映画祭が開幕し、ロード・オブ・ザ・リング新作『力の指輪』を巡って揉め.....映画業界はニュースが絶えない中で皆様如何お過ごしだっただろうか。

筆者はと言えばプライベートのあれこれに奔走し、更新どころではなく、まして映画を見るどころでない1ヶ月だった。この1ヶ月で20本も見てないのではないだろうか。筆者にしては異例の少なさである。

そんなこんなで忙しかったが、漸くひと段落し、時間も少しずつ出来たということで本日は軽めの記事から。意外と語られない(少なくとも筆者は渡英前は知らなかった)、けれども知らないと苦労するイギリス生活のリアルについてお伝えしたいと思う。

留学・ワーキングホリデーで訪れる方、駐在予定の方(このご時世いるのか分からないけれど)、移住予定の方は勿論旅行で訪れる方も知っておくべき内容だと思うので是非お付き合い頂ければと思う。

Edward Norton and Brad Pitt in Fight Club (1999)

Superdry・極度乾燥(しなさい)

私が住む街は駅を降りてすぐこちらの店が、日本でも一昔前に流行った店がある。失礼ながら日本で見なくなった時点で一過性のブランドかな、と思っていたのでまだ存在していることに驚いた記憶。

さて何が言いたいかというと、空気が非常に乾燥している。イギリスと言えば雨が多く、晴れの日が少ない。霧も深くなる。そう聞くとどこか乾燥とは縁がない様に考えてしまうというもの。筆者も安直に湿度が高いイメージを持ってイギリスに入った。

場所によっては500mlのミネラルウォーターが400円近くもする国である。そして外食しようと思えばどんな店でも1000円は軽く超えてしまう国である。当然節約したくもなる訳だが、そうすれば必然的にのどが乾き、手先も乾燥する。真冬にジェットヒーターを焚いて温めていた小学校の教室と同じくらいには乾燥する。

この時点では時差ボケで体調が悪いのか?と軽く考えていた筆者だったが、夕方強烈な目の痛みで空気が乾燥していることに気が付く。コンタクトレンズが8時間も持たないのである。渡航後すぐで目薬もしていなかった為、コンタクトを外すしかなく....という状況になって初めて自分の体調が問題ではなく空気が乾燥していたんだな、と気が付いた。

今思えばもっと早く気が付いて良さそうなものだが、ともかくイギリスの空気は非常に乾燥している。季節を問わず夏でも非常に乾燥している。コンタクトで普段過ごされている方は使用時間に注意が必要。朝から観光して、夜遅くパブに行って、というスケジュールを組んでいるのであればメガネを着用するか目薬を用意してくることをお勧めする。乾燥肌の人なども同様に対策をしてから渡英することをお勧めしたい。

Bad Chaismokers, Terrible Manner

ヨーロッパと言えば環境に対する意識が進んでいて、健康意識も高く、添加物や医薬品に対する審査も厳しい。となればタバコなんて目にすることはない筈だ。では現実はどうかというと、確かにコンビニやスーパーでパッケージを見ることはないし、飲食店で喫煙可能な店も殆どない。

けれども路上喫煙に関しては40年分くらい時計の針を逆に回した様な有り様なのである。路上で吸っている人がいる、というレベルの話ではなく何処を歩いても喫煙者に出会う。それこそ1ブロックに2~3人くらいの喫煙者がいるイメージで、30分も散歩すれば最低でも5人の喫煙者には出会うだろう。

そして飲食店で喫煙出来ない分、店先やテラス席に集まって皆でタバコを吸っている。だからパブでは店の中よりも外の席の方が混雑している店もある位で、ロンドンの繁華街の人気店の前では40人から50人くらいがグラス片手にたむろしているのも珍しくない。

これだけでも頭の痛くなる話だが、更に最悪な事に彼らは非常にマナーが悪い。路上で吸う。百歩譲ってそれは良いとして、彼らは吸い殻をそのまま路上に捨てていくのである。だからイギリスの街中はいつでも汚い(これは後にもう少し説明する)。他には筆者が住んでいるフラットの隣のフラットの住人は窓から吸い殻をそのまま投げ捨てている。恐らく部屋に灰皿を準備して吸っているのだろう。フィルターぎりぎりまで短く吸ったタバコの吸い殻が朝起きて外に出てみると綺麗に放射状に散らばっていたのである。路上喫煙には見慣れてきた筆者でも流石に閉口してしまった。

ベビーカーを押しながらタバコを吸っている人も数えきれないくらい見るし、一番驚いた例としてはスーパーにベイプを吸いながらそのまま入ってきた客がいたことだ(ベイプはイギリスでは非常に普及している様で、大きいストリートには2軒から3軒ほどのvape storeがあるし、駅ではsmoking and vaping is not allowedとアナウンスされる)。

日本に居た際には付き合いでタバコを吸ってみたりしていた筆者で、元々タバコに対する嫌悪感は無い方だった。が、イギリスに辿り着いて2日で極度の嫌煙家に様変わりした筆者である。一部の例外を除いてほとんどの日本人は(喫煙者も含め)辟易してしまうのではないだろうか。必然的に大量の副流煙に曝されることにもなるから、喘息持ちの方や子供と一緒の方、出産直後のお母さんなどは渡英を控えた方が良いかも知れない。その程度にイギリスのタバコ問題は深刻である。

一周回って不便なキャッシュレス

ニュースでも事前にキャッシュレス化が進んでいるという話は聞いていたし、日本は現金社会で世界基準では電子化が遅れているという話を耳にした方も多いだろう。実際本当にその通りで、日本とは比べものにならない程度にキャッシュレス化は進行しており、留学が初海外、という状態だった私は文字通り目を丸くしてしまった。

日本ではPayPayなどで払える店も急速に増え、suicaなどの交通系電子マネーは殆ど誰もが利用しているが、これらは飽くまで「オプション」の一つだ。どういうことかと言うと、イギリスでは電子決済以外の支払いが出来ない店も多く、支払い方法の一つとしての電子マネーではなくスタンダードとしての立ち位置を確立してしまっているのである。

初日。イギリスに到着し、ヒースローからロンドン市内へ向かう為地下鉄に乗る必要があるのだが、チケットを買おうと思っても紙幣を入れることができない。硬貨は受け付けているが、硬貨など用意していないし、そもそもzone1(中心部)まで行くのに硬貨だけでは足りない。

ホテルに着き、支払いに紙幣を取り出した所「今どき現金なんて誰も使わないよ」と言われて断られ、併設のラウンジでの支払いも電子マネーのみと言われてしまう。他の店であっても大体似た様なもので「キャッシュ使える?」とこちらから聞かない限り問答無用で電子決済を促されてしまう。観光地のテムズ川周辺でも"NO CASH PAYMENT"と張り紙をした店もちらほら見受けられ、そうでない店に行っても現金は断られることが多かった。

筆者が住んでいる小さい街では問題なく現金が使えるが、ロンドンなど大都市では電子マネーでの支払いが不可欠だと感じた。筆者も羽田空港である程度まとまったお金を準備して貰ってから現地に向かったが、観光で数日滞在する、という方であれば用意した現金は無駄になる可能性が極めて高いと思われる。ロンドンを中心とした観光地を巡るのであれば特に。

デビットカードなどを用意しておくか、モバイルバンクを予め開設するなどして電子決済に対応してから渡英される方が賢明だろう。現金は精々100ポンドもあれば十分過ぎるくらいではないだろうか。電子決済が出来ない店は存在しないから(路上の屋台でさえもキャッシュレスで、現金お断りの張り紙をしている)1ポンドも持たなくとも支払い可能だし、モバイルバンクであれば何処でも無料でキャッシュが引き出せるので、そうした準備をしてから出ないと羽田や成田で用意した現金を大量に持て余してしまうことになるだろう。

キャッシュレス化も進み過ぎて最早不便になってしまっている。

色々と雑

イギリス人は色々と雑。繊細で完璧な仕事に慣れた日本人からすると驚くことばかりで、特に階級意識の残存する先進国イギリス、というイメージを持って訪れるとその驚きも一入。噂には聞いていてもイギリスだから、インドに行く訳じゃないから、という甘い考えで渡英した筆者は痛い目を見ることになった。パッと思いつく限り列挙してみよう。

  • ゴミの回収が気分次第。毎週火曜日に来る筈だが、市の中心部や高級住宅街のゴミが多いと飛ばされることもある。従って家の前に並べたバケツにゴミが溜まっていき、ハエや羽虫が耐えない。リアル・ジョーカーの世界。
  • 網戸がない。ハエが集っている中網戸がない地獄。窓も開けられないし、換気も出来ない。
  • カビ。窓を開けられない為、密閉した室内で生活しているからかカビが何処からともなく湧いてでる。引越してすぐカビ臭い室内に気が滅入りそうになった思い出。リアル・ファイトクラブみたいな家に暮らしている。
  • 土足での生活。正確には掃除のしなさ。カビ臭い家で土足で生活しているにも関わらず、全然掃除もしないし普通にカーペットの上に昨晩のチップスとかが落ちている。ハエが集ってても気にならないイギリス人だからこそ掃除もしないし、タバコも平気で路上に捨てれるのかなと思った。
  • タクシーもバスも電車も時間通りに動かないことが多い(ロンドンは例外。他の都市部は分からないが、筆者の知り合いはロンドンだけと言っていた)。特にタクシーはいい加減で、Uberの様な予約制のタクシーを頼むと時間通りに来ることがないらしい。教えてくれた彼曰くタクシーを取るなら流しに限る、らしい。その延長線上で宅配便や郵便も信用ならない。宅配はイギリス人も呆れる酷さ。
  • 片手鍋半分程度の水が沸騰するまで7分から8分くらい掛かる。しかもガスコンロで。何故かと言えば(TESCOの廉価品を買った筆者の責任だが)鍋の熱効率が異様に悪いから。他にも電圧が安定しないからなのか分からないが、ドライヤーは熱風設定にしていても一定間隔で冷たい風が噴き出てくるし、バスタオルは初回の時点で毛玉でボソボソになっている。詰まりは製品の質が微妙に低く、安定していない。
  • スーパーで売っているアスパラガスがクネクネと曲がっている。人参が袋の中で割れていたり、欠けていたり(寧ろ欠けていない人参の方が珍しい)。何でも完璧に整った日本での生活に慣れきった筆者は先の曲がったアスパラガスに妙なイギリスらしさを感じた。

ザッとこの程度だろうか。列挙してみると随分と酷い国の様だが、決してそうとは限らない。人によってはこうした雑さに耐えられない人もいるだろうが、3日も暮らせば意外と慣れるものである。筆者が耐えられないのはタバコくらい、おまけにもう一つ述べればタオルケットがないことぐらいである。それ以外のことは大概我慢できる。ただ筆者の様に何らの心構えもなく渡英してしまうと、心が折れたりホーム・シックになってしまう方もいるかも知れない。素敵な写真や動画の裏にはリアルな汚らしいイギリス生活があるのである。

それからイギリスなんかに足を向ける予定の無い諸氏へ。日本は中々に素晴らしい国である。と書くとありきたりだが、考えてみて欲しい。どれだけ安く高品質な製品が届けられるか、日夜真剣に研究開発がなされ、おかげで百円ショップやコンビニでも驚くほど高品質の商品を手に出来るのである。筆者がイギリスの百均(正確には1ポンド均一)で買ったタッパーは一度開けたら二度と蓋が閉まらなくなった。よく店頭で閉まって並べられていたなと感心するくらい、びっくりする程噛み合わなくなってしまった。一度も使っていない、ただ蓋を開けてみただけのタッパーが。

という訳で日本はそれだけの誠実さと勤勉さがある国なのである。円が多少安くともと政治家が信用ならなくとも、たとえ子供の数が少なくとも、それでも十分これからも成長していける国だと思う。G7と言って肩を並べておきながらタッパー一つまともに閉まらない国もあるのだから。

某TV局のコンビニなりチェーン店なりの商品をプロがジャッジする企画。あの様な番組はこの国では成立する筈がない。何故ならどの商品も雑に作られているどころか、より良い商品を、という改良すら恐らくされていないからである。この価格ならこの質、という所がしっかり決まってしまっているのだ。

ということでイギリスに出向く予定の方には待ち受けるトラブルを、予定のない方には海外から見た日本の姿を感じて頂けたら嬉しい。次回からは映画関連の内容に戻る予定だが、こうして度々イギリス関連の内容も投稿出来ればと思う。

 

 

 

【映画解説】メソッド・アクティングの罪と性的暴力/ボーイズ・ドント・クライ(1999)

22 (Fri). July. 2022

演技にリアリズムを獲得する上でメソッド・アクティングが如何に強力で有効なツールか、このことは既に十分論じたつもりだ。

sailcinephile.hatenablog.com

理想的な演技が登場人物と俳優自身の境目が消失する様なものであるとする時、俳優は正に登場人物と同等の動作をする必要がある。そのことによってカメラに捉えられる演技は真の感情を表現することが出来るのであり、その為に役者は徹底的なリサーチを実行し、且つ行為そのものをキャラクターに近づけなければならない。これがメソッド・アクティングの骨子である。

所が、これも既に述べた様に、現代ではメソッド・アクティングは優れた演技法というよりも寧ろ俳優やスタッフを攻撃する有害な方法論であると捉えられる様になっている。その一つの契機となったのは間違いなくジャレット・レトがジョーカーを演じたスーサイド・スクワッドであるが、他にも俳優の演技に対するアプローチが問題となった例は枚挙に枚挙に遑がない。

具体的には1999年の映画、ボーイズ・ドント・クライを取り上げたいと思う。主人公を演じたヒラリー・スワンクは実際にメソッド・アクティングを取り入れ本作に向けて準備したと言われているが、そのアプローチは筆者としては大いに問題であったと思う。概観の後詳しく解説したい。

Hilary Swank in Boys Don't Cry (1999)

アイデンティティの侵害

メソッド・アクティングの問題点と言って真っ先に挙げられるのが肉体重視の価値観への反対である。確かに役柄の為に体重を落としたり、髭を伸ばしたりすることで演技にはそれらしさが添加される。しかしスタニスラフスキーが主張する様な深い感情の表現に必ずしも繋がるものではないという批判だ。

筆者としてはこの批判は的外れだと思っており、そもそもメソッド・アクティングはリアリズムを追求する際にしか採用されないのであって、それならば肉体を変形することは当然のことだ。ミザンセンを適切に機能させる、即ち現実的な描写を獲得する上で俳優の肉体をシーンに沿うものに変える努力はなされて然るべきだと思うし、その上で感情の表現が伴わないというのは役者の力量の問題でもある。

例えばNHKが制作した戦争ドラマ太陽の子(るろうに剣心The Final でも良い)に出演した有村架純。彼女がメソッド・アクターでないことは十分了解しているが戦争ドラマであるにも関わらず(且つ物資に欠けているという状況設定にも関わらず)肉体の変形を試みないのは如何なものか。ミザンセンからすっかりリアリズムが欠けてしまい、かと言って心情を抽出する様な演出をしている訳でもないから観客に訴える力が欠けてしまっている。俳優として肉体をキャラクターに近づける努力は多かれ少なかれ必要だろうし、メソッド・アクティングはその極端な方法だとすれば、感情の表現はあまり問題とはならない。

本当にメソッド・アクティングが問題となるのは肉体を変形することによる俳優自身の精神、延いてはアイデンティティが破壊される危険を孕んでいることだと思う。メソッド・アクティングは準備期間から、そしてプロダクション中もカメラの外でさえキャラクターに接近することを要求する。これは必然的に普段無意識に行なっていた動作を禁止し、不自然な行為をするということであり、また肥満や痩身など適正体重から程遠い体型は著しく精神に悪影響を及ぼす。

具体的に考えてみよう。レクイエム・フォー・ア・ドリームで薬物中毒の主人公を演じるにあたりジャレッド・レトは一切の性行為を断ち、その性衝動を代わりとして薬物中毒の渇望を表現していた。これはスクリーン上のみを見る我々からすれば素晴らしい演技であったが、ジャレッド・レトは当然銀幕の中に存在している訳ではない。彼自身にも我々と同様プライベートの生活があって、メソッド・アクティングにより(性行為の禁止)彼の個人的な生活が悪影響を受けたことは否定できない。

マリリン・モンロー等も役作りを通じて精神の安定が損なわれていたと報告されているが、この様にメソッド・アクティングによる肉体の変形はオンとオフのスイッチを切り替えることを難しくさせ、俳優のアイデンティティを破壊してしまう危険性がある。スクリーン上のことだけを考えるならば肉体の変形は素晴らしい影響をもたらすし、まして彼が一流の俳優であれば深い感情が伴ってくる。しかしその一方で彼の個人的な生活、撮影外の生活でもキャラクターを演じ続けなればならず、それは極めて不健康なことだと言える。

実際ジョーカーの為睡眠時間を削って撮影に臨んだヒース・レジャーは彼個人の精神を著しく傷つけ、鬱状態に苦しんだ結果命を落としており、この撮影外の精神の安定は大きな問題だと言えるだろう。

傷跡神話・性的暴力

確かに役柄と俳優の人格の切り替えは大きな問題だ。しかしそれは適切なメソッド・アクティングの実行、或いは十分なアフターケア体制の構築により乗り越えが可能であるとも言える。

だがハリウッドが長年継承してきた傷跡神話とそれに付随する性的暴力の問題は簡単に解決することは出来ない。ここで映画史全体を振り替える紙幅はないから簡単に説明するが、ハリウッドは昔から男女共に傷を見せることをキャラクターに求めてきた。

男性にとってその傷は強さの象徴となる。古くは西部劇の傷だらけのガンマンの肉体(アウトローなど)から近年ではレオナルド・ディカプリオが演じたレヴェナントなど体を傷だらけにすることで強さを表現する演出が見られてきており、寧ろ傷付いていること自体が強さであるかの様に考えられてきた。

故にハリウッド、特にオスカーでは傷付いた俳優が評価される傾向にあり、抑制した演技をする男性は好まれないという傾向にある。ウルフ・オブ・ウォール・ストリートでダラス・バイヤーズ・クラブのマシュー・マコノヒーに負けたディカプリオはレヴェナントで傷つくことで主演男優賞を手にしたし、2003年ジュード・ロウジョニー・デップビル・マーレイを制して栄誉に輝いたのは娘を亡くした男をミスティック・リバーで演じたショーン・ペンだった。アメリカン・ビューティーケヴィン・スペイシーレインマンダスティン・ホフマン。例外もあるが、大半が傷付いて強さを見せつけた俳優だ。

だからメソッド・アクティングを俳優が取り入れる際には輝く為ではなく、傷つく為に行為を変化させることが多い。詰まり弁護士や医者、完全無欠のスーパーヒーローを演じる目的でメソッド・アクティングを取り入れる俳優は少なく、大抵がトランス・ジェンダー鬱病精神障害、肉体の障害などの困難を抱えており、その傷を強調する為に睡眠時間を削ったり瞼を縫い付けたりする訳である。

これは一面では強さの賛美、傷付いて立ち上がる姿こそ素晴らしいという安易な表現に陥ってしまう危険があり(その困難の克服が素晴らしいという事実は否定し難いのだが)、アウトサイダーアウトサイダーとして生きていく、そうした人生を否定し映画を画一化してしまうことにも繋がりかねない。その意味で俳優に傷つくことを求めるメソッド・アクティングは問題だとも言えるし、或いは役者が傷つかないメソッド・アクティングを作り上げる必要があるとも言える。

そして女性の場合、傷つくことはステレオ・タイプとの合致を示す。女性は従来映画の中で傷つくことにより弱者、被保護者としての立ち位置に甘んじてきた。これは映画史上に存在しなかったという意味ではなく(その様な女性は幾らでも発見される)、女性は傷つき易いというイメージを埋め込んできた事実を意味する。

羊たちの沈黙アカデミー賞主演女優賞を獲得したジョディ・フォスター。彼女は極めて有能で、知的、行動力に溢れる強靭な人物だ。続編となるハンニバルでは強引に捜査を進め上司から疎まれてもいる。彼女に一般的な意味での「弱さ」は見当たらないものの、ハンニバルは彼女の中に羊を助けられなかったトラウマ、家庭で恵まれなかったトラウマを見つけ出す。

こうしたトラウマ自身は男女問わず見出されるものだろう。しかし仮にクラリスが男性であればそのトラウマを乗り越えて刑事として成長するだろう所を、ジョディ・フォスターは決して克服しない。その過去の苦悩を抱えたまま彼女は刑事になるのであり、単に殺人犯を捕まえるだけでは羊は救えないと明らかにしている。これは極端な見方をすれば「有能なクラリス刑事も傷(過去のトラウマ)を抱える脆い女性だったんだよね」という物語にもなっている。

強い女性でも、そして弱さを抱える女性なら尚更彼女たちが劇中で経験する(発見する)傷は弱さの象徴として使われており、その点で男性の傷の描かれ方とは逆行していると言えるだろう。メソッド・アクティングが既に述べた通り傷を強調する演技法であるとすれば、それは女性の弱さを意識させる表現方法でもある訳でこれも重ねて問題だと言えるのではないだろうか。

ボーイズ・ドント・クライ

1999年に発表された本作で主演を演じたヒラリー・スワンクアカデミー賞主演女優賞を獲得しており、それも納得の素晴らしい演技を、メソッド・アクティングを取り入れた上で見せていたのだが、筆者としてはこの映画はあまり好きではない。

事実を提示することから始めよう。劇中に見られる様にヒラリー・スワンクは実際に胸部に包帯を巻き、男性器を模した靴下を入れて生活をし、声を低くし、そして体重を落とすためにダイエットを実施した。髪を切り徹底して男性になることを目指したヒラリー・スワンクは隣人をして従兄弟が遊びに来ているのだと本気で信じさせた程だったそうだ。

当たり前の事実としてヒラリー・スワンクと彼女が演じたキャラクター、ブランドン・ティーナは全く別の人格である。

ブランドンは女性に生まれながら男性としての自認を持っており、恋に落ちたクロエ・セヴィニーとの生活を夢見て男性として生きていくことを決める。それはヒラリー・スワンクの人生ではなく、性別というアイデンティティの重大な構成要因を変え、見た目の話し方も服の着方まで変えた生活を撮影外でまでするというのは余りにも役者本人への負担が大き過ぎはしないだろうか?映画の中でそうした人生を描くことは賞賛に値する。スクリーンの中で彼女は素晴らしい演技を見せてもいる。だが既に述べた通り、俳優はスクリーンの中にだけ存在している訳ではない。

メソッド・アクティングという演技法は良くも悪くもキャラクターに完全に同化し、究極のリアリズムを手にすることを可能にする。その副作用として私生活でまでも俳優はキャラクターと同化して生活しなければならないが、筆者にはヒラリー・スワンクとブランドン・ティーナの間の差異が大き過ぎる様に、ブランドンという人格は日頃抱えるには辛過ぎるのではないかと考えてしまった。実際大きな問題は起きなかったから良いものの、メソッド・アクティングとして実行するには非常に大きな危険があったと思う。

詳しくブランドン・ティーナがどの様な人物かについては映画を見て欲しいのだが、その人格は追体験するには痛々し過ぎる。上に習った言い方をすれば傷が多過ぎる。所で監督のキンバリー・ピアースは観客がヒラリー・スワンクに共感する様な映画の作りにはしておらず、その意味で傷痕を弱さとして表現していない。佳作な監督だがその手腕は確かなものだろう。

正直映画そのものに関して筆者の口から言えることは少ないのだが(何故なら全体的に好感を持てずに鑑賞していたから)、最後に1つだけ付け足すとすればこの映画が発表された年に注目して欲しい。

1999年は映画史的には極めて大切な年でアメリカン・ビューティーマトリックス17歳のカルテファイトクラブ、バージン・スーサイドと価値観を揺さぶる作品が立て続けに発表されている。前年にはアメリカン・ヒストリーXが公開されており、この作品とボーイズ・ドント・クライアメリカン・ビューティーまでを繋げると世紀末に如何に人々の価値観が変わりかけていたかが分かるのではないだろうか。

2022年にこうした一連の映画群を振り返って感じるのは#MeTooムーブメントやその他諸々進歩派と称する人々の行動のエッセンスが如何に古くからあるものか、ということであり2001年のあの事件さえなければもっと早くに世の中が変わっていたかも知れない、という事実である。何かしらの危機、国難を前に人々は右傾化する傾向にあると言われるが、アメリカをひっくり返してしまった2001年の直前には素晴らしい映画が沢山公開されていた訳である。ボーイズ・ドント・クライは決して明るい映画ではないが、こうした事実を踏まえながら見ることもまた面白いかも知れない。

【映画解説】映画におけるメソッド・アクティングとは何か/ディア・ハンター(1978)

20 (Wed). July. 2022

ジャック・ニコルソンに始まりヒース・レジャーホアキン・フェニックスバリー・コーガン、アニメ版ではマーク・ハミルと数々の名優が挑戦してきた難役、ジョーカーだが、その中で一際酷評されたのがスーサイド・スクワッドでその役を演じたジャレッド・レトだ。演技自体の質もさることながら特に批判されたのはそのアプローチで、凶悪犯罪のビデオを見るというのは理解出来ない所でもないが、使用済みのコンドームや死んだ豚、生きたネズミを共演者に送りつける行為は厳しく非難されている。

彼のこの「凶行」は役作りの為のアプローチ、メソッド・アクティングの実践なのであるが、そもそもメソッド・アクティングとは何であろうか?

既に述べた通りジャレッド・レトのジョーカーを発端に近年では否定的な見方が多いメソッド・アクティングであるが、一時期は優れた役者による優れた演技を提供する方法として広く使われてきたものでもある。これがなければ数々の名作が誕生しなかったことも事実であり、ここではその優れた特徴を紹介したい(尚次回は何故メソッド・アクティングが問題なのか、如何に役者を破壊するかという負の側面を集中的に取り上げる)。

解説する映画はマイケル・チミノ監督のディア・ハンター。言わずと知れた名作だが、筆者本人も非常に高く評価する大好きな一本だ。実際に脚本、音楽、演技、撮影どの側面を取っても素晴らしく、その上でベトナム戦争という暗い主題に真剣に向き合っている点も評価される。                         レイジング・ブルやタクシー・ドライバーと比較するとデ・ニーロの役作りはあまり語られることはないが、そちらも踏まえて解説したい。

Robert De Niro, Meryl Streep, John Cazale and others in The Deer Hunter (1978)

メソッド・アクティングの発祥

メソッド・アクティングは元来ロシア人の演出家、Konstantin Stanislavski(コンスタンチン・スタニスラフスキー)が考案したスタニスラフスキー・システムに由来している。これは俳優自身と役柄(キャラクター)との間の境界線を無くすことを目的としており、彼はこれによって俳優がキャラクターの人生を生きる様に演じること、即ちより深い感情を表現することが可能になると考えた。この時"method"、メソッドとは彼にとって肉体を感情に接近させる為の運動であり、多分に弁証法的な発想に基づいた概念であったと言える。

さてスタニスラフスキーはキャリアの中でメソッド・アクティングに対する理論を発展させ続けたが(即ち彼は今日考えられている様な確定した理論を築いた訳ではない)、その理論を完成させたのは Lee Strasberg(リー・ストラスバーグ)であった。彼は後に述べるマーロン・ブランドロバート・デ・ニーロ、そしてマリリン・モンローポール・ニューマンといった数々の名優を指導し、メソッド・アクティングをハリウッドに広めた立役者でもある。

彼は肉体と感情の関係を見つめ直し、一つの事実を発見する。即ち肉体は無自覚に動作を行い、その動作は常に何らかの印象を与えている、という事実である。スタニスラフスキーはメソッドを感情に接近させる為に用いることを提唱したと述べたが、彼にとってそれは感情を構成する為のツールであった。役者はそれまでの人生で種々の経験をしている。その経験を活用し、キャラクターの感情を再生成することが「生きる様に演じる」為には肝要だとスタニスラフスキーは考えたが、その感情の再生成をメソッドによって促進しようとした訳だ。

所で映画の中で演技とは常にカメラの前での行為である。演劇とは微妙な差異が観察されるのであり、映画の中で俳優は常に行為、アクションを起こすことを求められている。であれば俳優は如何に行為を本物らしくするのかを要求されているのであり、その行為が自ずと与える印象は感情と結びつき本物らしく見える筈だ。ここにストラスバーグの根本原理がある。

我々は椅子に座ったり、ペンを持つ時に一々考えることはない。また水とウォッカの違い、傍目には一緒に見える、を味覚で体得しており、思考を以て区別することはない。こうした動作は極めて純粋なものであり、言わば本物の行為である。

こうした日常的な行為は俳優にとっても日常的で、そして恐らくキャラクターにとっても日常的なものだろう。従って両者には感情的な結びつきが生まれるのであり、そこから観客に与える印象は相似する筈だ。問題となるのは特殊な状況に於ける特殊な行為であり、それを如何に本物らしく見せるかが俳優に課せられた使命ということになる(何故ならば観客が提示するのは飽くまで行為であるから)。

この段を以てストラスバーグは言う。俳優自身が特殊な行為を日常に引き寄せれば良いのだ、と。詰まり徹底的なリサーチや行為の追体験、レヴェナントで動物の死骸の中で眠りバイソンの肝臓を食べたレオナルド・ディカプリオの様に、を通じて役者は自然な行為を体得するのだ。そして自然な行為は自然な感情を表現し、従って「生きる様に演じる」ことが可能になる。

以上がストラスバーグが完成させたメソッド・アクティングの思想の体系である。根本にある思想は俳優は役柄を生きる様に演じるべきだ、という思想。そしてその為には感情を再生成し、役柄と同じ様に泣き、笑う必要がある。所でカメラに映るのは飽くまで行為だけであり、行為が感情を表現する。それが極めて身近な行為である故に椅子に座ることは容易で簡単に表現出来る様に、キャラクターの好意を身近なものとすれば好意を自然に表現することが可能となるだろう。その為には徹底的なリサーチと人生の追体験が必要であり、従ってメソッド・アクティングとは周到な役作りを出発点とする。

マーロン・ブランドを見よ

先日の記事で筆者は良い演技とはミザンセンを適切に機能させるもので、リアリズムの追求ではないと書いた。

sailcinephile.hatenablog.com

これは映画のスタイルがリアリズムだけに止まらないからであり、コミカルな演出にはコミカルな演技(オーバーリアクションなど)が必要である故だが、当然リアリズム映画ではリアルな演技が必要であるということになるだろう。

上で述べたメソッド・アクティングは「生きる様に演技する」と謳うだけあってリアリズムを志向している(実際リアリズムの獲得の為には有効でもある)訳だが、このリアリズムを目指す傾向はどこから始まったのだろうか。

映画史的にはその問いには結論が付けられている。欲望という名の電車(1951)でスタンリー・コワルスキーを演じたマーロン・ブランドからだ。メソッド・アクティングの体現者であり、映画界に多大な影響を及ぼした記念碑的な作品で、その前後の作品で俳優の演技は決定的に異なっている。

彼は役柄を表現する、という今では当たり前の演技に初めて取り組んだ俳優なのである。ケリー・グラントのコメディ、ハンフリー・ボガートのハードボイルド、ジュディ・ガーランドの明るさ、それまでの俳優は役柄と自身のイメージがセットで語られていた。オズの魔法使い若草の頃イースター・パレードと出演していたジュディ・ガーランドは役柄以前に彼女そのものだったのである。だから両者の間に受け止められ方の差異はなく、寧ろ役者のスターパワーでキャラクターを売る向きもあった。

確かにマーロン・ブランドに対しても波止場や蛇皮の服を着た男、乱暴者といったロマンチックで乱暴といった役所を演じ、トラブルメーカーという評判とも相まってイメージが先行している部分もある。しかしラスト・タンゴ・イン・パリや野郎どもと女たちなど幅の広い演技を見せており、やはりそのレガシーは大きい。ジェームス・ディーンやジャック・ニコルソンといったハリウッドの名優の系譜はマーロン・ブランドから始まると一般には了解されているのである。

本題に戻ろう。このマーロン・ブランドが映画史に占める特異な立ち位置は彼がメソッド・アクティングを採用したことによる。それ以降ハリウッドはブランドの様なリアリズムを高く評価する様になり(勿論その限りではないが)、アル・パチーノダスティン・ホフマンといった役者を一流として評価する様になったのである。ニコラス・ケイジという例外を除き、現代の映画界で役者が役柄に先行することを許された俳優はいない。特に多様性を売りに出すメジャー映画界では、キャラクターにどれだけ寄り添った演技をするかが問われているのである。

その意味で現代でもマーロン・ブランドの作品を見る意義は大きい。決して過去の、古臭い俳優ではなく、またゴッドファーザーで名を馳せた役者なのでもなく、彼は現代でも生き続ける名優なのだ。

ディア・ハンター

さてリー・ストラスバーグの教え子、ロバート・デ・ニーロはブランド以来の系譜を受け継ぎメソッド・アクティングを実践する俳優として知られているが、その役柄に対するアプローチは本作でも変わっていない。

彼は撮影を始める前、実際に彼が演じるキャラクター、マイケルを理解する為実際にピッツバーグで数ヶ月間暮らしたと語っている。特にピッツバーグ周辺の山岳地帯とそれに伴う自然を理解することが重要で、街を取り巻く環境が人々に与える影響を正確に把握し、演技に反映することを希望していた。その一環として製鉄所も見学し、実際にそこで働くことまで試みたそうだ。

ディア・ハンターと言えばかの有名で、そして議論を呼ぶロシアンルーレットのシーンが真っ先に思い浮かべられると思うが、筆者は最も大切なシーンは最後、デ・ニーロやメリル・ストリープらが机を囲んでゴッド・ブレス・アメリカを歌うシーンだと思っている。様々な規制がスタジオの中に残っていたとは言え本当に戦争の惨劇を描こうとしたのであればロシアンルーレットという仕掛けは余りにも現実離れしていて、文学的に過ぎる。

寧ろ監督のマイケル・チミノが描きたかったのは傷ついたアメリカの姿そのものだったのではないかと考えている。だからこそ3時間を超える長尺の殆どが戦地以外、特に出征前のピッツバーグに費やされているのであり、そこで暮らす三人の工員がベトナム戦争という(恐らく今でも)アメリカ史上最大の汚点をきっかけに変化したかを描いているのだ。

当初の結婚式の場面、どの人物も丁寧に描き分けられており、そして彼らが謳歌する「アメリカ的」幸せがどの様な要素から作り出されているのかを余すことなく盛り込んでいく。田舎町、広大な国土に広がる自然、製造業、隣人同士の結びつき、教会、鹿狩り....こうした要素が混然一体となって形成されていることが分かる。しかし一度ロバート・デ・ニーロが帰省すると、彼には全てが違って見えてしまう。彼自身が丁度揶揄っていた戦争帰りの兵隊の様に、戦地のトラウマが世界を一変させてしまっており、鹿を捉えても撃つことも出来ない。

それは今風に言えばPTSDということだが、恐らくそこにあるのは彼らアメリカ兵がベトナムで残虐行為を働いたという事実、そしてそのことによって傷つけられた彼らのプライドだ。昨今聞くことは少なくなった主張だが、当時はアメリカ万能主義、アメリカこそが世界一の強国であると考えられていた。そしてそのアメリカがベトナムという小国に対し、民間人を殺し、国土を焼き払っているという事実が兵士に与えた衝撃は計り知れないものがあったのだろう。

その点でベトナム帰りの兵士のPTSDは他のそれと異なっていたのであり、デ・ニーロは苦しんでいたのだと考えられる。最後に歌われるゴッド・ブレス・アメリカは突きつけられた事実からは目を逸らし、安易なヒロイズムと盲目的なアメリカ賛美に繋がっているという点で批判もされる。しかし筆者としてはそれこそが本作が傑作である所以だと、詰まりアメリ絶対神話が崩れていることを証明する負の遺産として優れていると思うのだ。傷ついたアメリカの姿こそが本作の最大の主題なのである。

これは決して穿った見方だとは思わない。それを証明するのが、ロバート・デ・ニーロのメソッド・アクティングだ。何故彼はPTSDに罹った帰還兵ではなく、ピッツバーグの街のあり方を学んだのだろう。何故メソッド・アクターである彼は戦争に苦しめられた帰還兵ではなく、街の空気を学ぼうとしたのだろうか?それはきっとアメリカを体得し、アメリカのそれが戦争を通して徐々に変わっていく姿をこそ写したかったからだ。そしてより直接的に言えば傷ついたアメリカを描写する様に彼が受け取った脚本が書かれていたからだろう。

以上のことから筆者はディア・ハンターの最大の見せ場はゴッド・ブレス・アメリカを歌うシーンだと考えているし、そのシーンまでの登場人物の心情の描き方の素晴らしさこそが本作の最も優れている点だと考えている。読者の方々にはこの点を踏まえて鑑賞して頂きたいのだが、最後にもう一点だけ解説して結びにしよう。

それはブロマンスという観点だ。北村紗衣の言う所の「腐女子的」な要素である。ブロマンス自体は映画や文学の世界では広く見られる且つ伝統的に見られるもので、古い所では中世フランスの騎士道物語にも登場する。男同士の精神的な紐帯をテーマとしており、時には恋人(女性)や社会的な立場を投げ打ってでも親友の男を救い出そうとする、その精神的態度のことだ。

明日に向かって撃て!やワイルド・バンチなど映画の中にも同等の関係は登場するが、このディア・ハンター内のロバート・デ・ニーロクリストファー・ウォーケンもまたブロマンスを感じていたと言えるのではないだろうか。デ・ニーロが再びベトナムに行く理由が分からない、クリストファー・ウォーケンメリル・ストリープを大事にしない理由が分からない、等々聞かれたがそれも全て女性よりも大事なもの、詰まりブロマンス故の行動ではないだろうか。

ブロマンスは決して同性愛ということではない、という点は強調しておきたいが、その男同士の結びつきという観点にも注目するとロシアンルーレットがより深い意味を持っていると分かるだろう。何度見ても素晴らしい(筆者自身は4回ほど鑑賞している)傑作であるから、デ・ニーロの演技にも注目しつつ是非鑑賞して貰いたい。

*次回はメソッド・アクティングの弊害を取り上げる予定であり、そちらも併せて読んで欲しい。またブロマンスについても今後まとまった文章を書きたいと思う。

 

 

 

【映画解説】映画批評に関する幾つかの覚書/ドゥ・ザ・ライト・シング(1989)

11 (Mon). July. 2022

一応物を書いて世に出す身分であるから(と言う程大した立場でもないが)、常々主張の根拠とする所は明らかにしておかねばならないだろうと考えている。ここでは映画を論じることが専らであるが、それに対しても「良い映画」と「悪い映画」は何を以て区別されるのかを明確に読者に示す必要があるだろうとも思う。

感情論で話すならば、筆者は基本的に全ての映画が好きだ。どんな映画でも裏には心血を注いで制作するスタッフが、百人単位でいるのであり、譬え面白いと思えなくても、嫌いな作風であっても褒めたいと思う。それこそ淀川長治氏が述べていたけれども、どんな映画であっても必ず優れた点があるのである。

その上で名作と駄作の違いが生まれるのは、批評家本人が内に持つ批評軸と合致するかどうかに依っている。優れた点を沢山持った映画であっても、彼本人の判断基準と重なる所が無ければ駄作(或いは凡作)として処理されてしまうのではなかろうか。

これは自身を振り返っても屢々見られる事件であって、例えばスパイク・リー監督のドゥ・ザ・ライト・シングは筆者は酷い映画だと(少なくとも現状では)判断している。疑う所なく映画史上に君臨する名作映画であり、戦後最も重要な映画の1つであるが、それでも筆者は高い評価を下さない。それは何故ならばドゥ・ザ・ライト・シングが筆者の映画観とは合致しないからなのである。

記事を書きはじめてから或る程度の期間が経ったが、失敗作や傑作などはっきり記事の中では書いてきた。ここでは今後の議論の土台とする為筆者個人が持つ批評軸を提示し、読者の誤解の無い様にしたいと思う。その手掛かりとしてドゥ・ザ・ライト・シングに触れ、批評の仕方に就て筆者なりに示すことが出来たならば、この記事は有意義なものとなるだろう。

Spike Lee and Danny Aiello in Do The Right Thing (1989)

アカデミズムの嘘と批評の絶対性

昨今のアカデミズムには断定的な主張をせず、多文化主義的なアプローチを取る学者が多いだろうと思う。少なくとも筆者の在籍していた大学ではその傾向が顕著で、或る文化人類学の教授は今では理事に就任した人物なのだが、絶対的な判断の不可能性をレヴィ=ストロースを引きながら語っておられた。

曰く未開部族の文化は我々のそれと比較して劣っているのではなく。単に低開発であるに過ぎなく、また同時代の種々の文化間でさえも優劣は存在しない。従って人の作りし文芸作品や映画の類に於いても作品に優劣は存在しないし、抑も個人の判断自体が多分に文化的な性格を持った揺らぎのあるものだから、絶対的な真を提出することは出来ない。

確かに種々の文化に対しては優劣は存在しないし、ギュスターヴ・クールベの絶望とバルザックのウジェニー・グランデを比較して優劣を論じても無意味である。クールべとマティスを比較することも無意味かも知れないし、バルザックオクタビオ・パスを比較することも無意味かも知れない。

しかしワシリー・スリコフの絵画とクールベのそれを比べることは有意味だし、ポール・ボードリーの真珠と波をクールベの寝床の女性と比較することも有意味な筈だ。映画を批評することが容易だと述べるつもりはないが、表現形式が比較的一様な映画に於いてはまして判断もシンプルなものとなる。以上のことより、先の文章中の「従って」の使用は誤謬だと考える。事実として絶対的な批評というものが存在するのだ。

これは厳密な議論によってもそれは証明され得るし、感覚としてもそれは理解されることだろう。詰まりゴッドファーザーアマデウスプライベート・ライアンを人生ベストに評価する彼はきっとラブ&ポップという映画を愛さないであろう。彼個人の批評軸が最新のテクノロジーを駆使し、豪勢に作られた大規模な作品を評価するというものであれば、ラブ&ポップの様な時代性を備え叙情に満ちた、さりげない作品は彼の趣向と逆行する。

確かに別の評価軸ではラブ&ポップを高く評価することも可能であって、それを常に念頭に置いておくことは可能かも知れないが、これが例えばドクター・スリープ(シャイニングの続編映画)であればどうか。お世辞にも名作とは言い難い作品を、シャイニングと同等の評価だと胸を張って主張する勇気のある人物がどれ位いるだろうか?

結局どれだけ謙虚な姿勢を持ち続けていたとしてもアカデミックに真摯な検討を加えようと思ったならば、低い評価を下す作品を選ばなければ筋が通らないのである。これは決して不寛容でも独りよがりでもなく、一つの判断軸を立てた結果生まれる必然に過ぎない。ウィリアム・オブ・オッカムとアンセルムスは嘗て唯名論実在論を掲げ、普遍論争を闘ったが、彼らの主張の差異は独善的な判断によるものではなく彼らの信じる所、依拠する論理が違った為に乗じたものだ。同様に信頼に足る批評をしようとするならば絶対的なー恒久的ではないにせよー判断を下す必要があると言える。

従って多文化主義的共生論は敢えて言うのならば、自分の判断に自信を持てない結果譲歩の余地を残す日和見主義と同義なのである。間違った判断を下した際に撤回し修正する寛容さは必要でも、判断を下さない「寛容さ」は必要でない。何故ならそれは単に批評することを放棄しているからで、進歩派風を気取っているだけだからだ。

批評軸の参考例

当然批評をする上でその依拠する基準は各様異なっている。一例として、そして筆者の文章を明快にする為、ここで採用している批評軸を提示してみよう。批評について専門的に取り上げた記事はこれまでに2つある。

1つは批評をする為には先ず映画を見なければならない、ということを書いた記事だ。

sailcinephile.hatenablog.com

詰まりは映画を批評するに当たって映画外の要素を主張の根拠としてはいけない、という内容なのだがこれは少し補足される必要があるかも知れない。文学でも、映画学でも確かに作品外の事象を取り上げるアプローチは存在する(とは言え作品外の要素を結局は文学なり映画に返す必要があるから、作品を取り上げなくとも良いということにはならないが)。

これは例えば作者の生い立ちや、時代背景を考慮することで作品内のモチーフやシンボルの意味を明らかにし、作品に同時代性を持たせようとする研究である。筆者はこのアプローチには反対で、文学研究に従事していた際には寧ろ言語論に近い研究を行っていた。これは筆者が時代性でしか読者に訴えない作品など面白くないし、時代性を超えて普遍的な人間精神に訴え掛ける故にその文学が名作と評価されていると考えている為で、これは個人の指向や思想に負う所が多いだろう。ともかく筆者としては作品を見ずに批評など出来ないと思っているし(だから全ての言及される映画は鑑賞済みの作品だ)、作品外の事項を重視する批評スタイルも好んではいない。

もう一つ批評に集中的に言及した記事は、映画の形式というものに注目したものだ。

sailcinephile.hatenablog.com

映画に限ったことではないが、作品が作品として別個に認知される大きな要因は形式の違いにある。デヴィッド・ボウイイギー・ポップシェイクスピアとサミュエル・ベケット。ジェフ・クーンズとアイ・ウェイウェイ杉本博司蜷川実花。誰でも、どんなジャンルでも良いが肝心なのは、何を撮るかではなくどう示すか、だと考える。

その上で内容(プロット)が肝要なのは中身が示され方と一致しているか、順序を正せばプロットを適切な形で表現する形式が採用されているか、これが映画を批評する上で最も大切な要件だと思う。少なくとも筆者が一番大切にしている考え方であり、だからこそ作品の中身をより注意深く眺めなければならないだろう。

心理学的批評や対作品反応的批評、共産主義的批評など多様なアプローチが存在し、その分だけ作品の評価も変わってくるが、その全てを網羅することは筆者の意図する所ではない。元より全てを1人の人間がカバーすることは、科学的には理想的でも、不可能だろう。筆者は上記の様な見方で映画を見ているし、その上で「良い映画」だとか「悪い映画」だとか書いているわけである。

それでは最後に作品に対する評価方法の違いが如何に鮮明に現れるのか、という具体例を見ることにしよう。

ドゥ・ザ・ライト・シング

私も尊敬する高名な批評家、A.O. Scott氏は次の様に書いている。

How does that happen? How does it keep happening? "Do the Right Thing" looks for the answer in the details of everyday life, which is full of accidents, potential flash points and micro (and not so micro) aggressions. It's also full of tenderness, silliness, and small moments of sorrow and grace. 

Lee's genius resides in the way he orchestrates all of that. This is one if the funniest movie I know - I'll just mention Sweet Dick Willie and leave it at that - and also one of the saddest. It's noisy and quiet, brazenley theatrical and breathtakingly subtle. Not all at once, but in just the right order.

確かに映画としての完成度はこの上なく高い。舞台設定、登場人物の描き方、脚本の妙、肉体性と精神性の顕然、サウンドトラック、どの点を取っても非常に高い水準にある映画で、批評するまでもなく文句の付けようが無い。

特に素晴らしいのは熱波の襲うブルックリンのコミュニティのさり気なく、それでいて濃密な描き方で、殆ど物語は1ブロックで展開されるにも関わらず適切な仕方でそこに暮らす人々が描写される。特に市長が飛び出した子供を救った所、母親に乱暴にどやしつけられてしまう場面。かねてから思いを寄せるマザー・シスターに慰められる場面など映画全体に於いて重要なアクセントを与えていると思う。その他気弱な弟が不思議とスパイク・リーと心を通わせる描写なども素晴らしい。

しかし筆者がこの映画を見て不満に感じたのは、事実こうした人々の描き方なのである。監督スパイク・リーの眼差しは親密で、どのキャラクターにも寄り添い、愛情を見せている。それ故に終盤の「事件」が胸に刺さるのだが、その原因は単なる社会問題ではなく些細なミス・コミュニケーションや日頃のすれ違いの積み重ねにある。結果社会問題化するのは、駆けつけた警官の横暴さにあるのだ。しかしスパイク・リーはエンド・クレジットでマルコムXキング牧師を対比させ、彼のアイデンティティーとメッセージを隠そうとしない。そして極め付けはタイトル、「正しいことをせよ」である。

映画として、大衆が鑑賞する作品として、最後の最後に人々を裏切り社会問題に着地させてしまうスパイク・リーの演出が筆者には評価出来なかった。彼が告発した問題を軽視するつもりはないのだが、これでは作中の登場人物があまりに報われないではないか。基本的に筆者は作品内の世界を外に優先させて考えているから、映画の中くらいはあるべき姿、理想とするべき姿を提示するべきだと思うし、少なくともそれが見える様に問題提起するべきである。現代の人間の見方なのかも知れないが、単なる問題提起ならニュースや書籍、延いてはSNSで十分なのだ。

例えばデトロイトはドキュメンタリー調に始まった物語は凄惨な「ゲーム」の場面へと移行する。両者がシームレスに繋がれると共に、その後トラウマに苦しむ人々を映すのだが、三部を音楽、具体的にはモー・タウンが繋いでいる。これによって感情的な連続性が生まれると共に、音楽を通じて観客の心を揺さぶり主題に対して取るべきアクションを示唆している。これは映画にしか出来ない表現方法だし、素晴らしい演出だと思う。

対してドゥ・ザ・ライト・シングは徹底的にリアルに描写した劇中人物とコミュニティを破壊し、観客を感情的に零の状態に落とした所で終結する。最後に観客が目にするのはエンド・クレジット中の政治的メッセージであり、それは内容と形式が矛盾しているのではないだろうか。筆者であれば、3時間の映画になってでも「事件」の後スパイク・リーダニー・アイエロの対話を描いたと思う。それでなければ登場人物の誰も救われないし、事件前の展開が等閑になってしまうと感じるからだ。逆に言えば社会問題に着地させたいのであれば、こうしたコミュニティの描き方は不適切だろう。もっと不気味に、例えばスリー・ビルボード未来世紀ブラジルの様な描写が出来た筈だ。

まとめるとドゥ・ザ・ライト・シングは素晴らしい表現がなされた映画である。けれどもその主題=日常の中に潜む「事件」の予兆、を描く為の形式としてコミュニティとその中の人物に密着する方法は不適切だと筆者は考えるし、この形式で描くのであればタイトルやメッセージは変更するべきだっただろう。この間の矛盾が超え難いものに感ぜられ、筆者としては高い評価は下せないと考えた。

しかしこれは飽くまで一個人の見方であるし、世界中で広く重要な映画、masterpiece として認められている作品であることも事実だ、筆者にしてもスパイク・リーの高度な表現方法を疑うものではないし、未鑑賞の読者には是非見て貰いたいと思う。その上で自分が映画を批評する際に、どの様な点を重視しているのか振り返って頂ければ実りが多いだろう。

 

【映画解説】主題が持つ二重性、反自覚的なテーマ/ざわざわ下北沢(2000)

8 (Fri). July. 2022

以前現代的な脚本では理性によって導かれた主題を前面に打ち出している点に特徴がある、と述べた記事を書いた。その内容自体は実際に公開された映画に対して適応出来る考え方であって、著しい誤謬は無いと考えているのだが、ある見方からは大変紛らわしい表現となってしまっている事実を認識した。

sailcinephile.hatenablog.com

というのも全ての映画に主題は存在しているのである。主題を持たない脚本というのは存在せず、我々観客は脚本の中に必ず何らかの中心点を見出しているのである。先の記事で主題と述べた所の意味はこうした自然と立ち現れるものではなく、作者が自覚的に設定し、且つそれが脚本を書く際の出発点となっている様なものを指していたのだが、この点に関して一層明確にする必要があると感じた。ということで本日は主題の二重性、反自覚的或いは二次的な主題について解説しようと思う。

取り上げる映画は市川準監督のざわざわ下北沢。2000年にフィルムで撮影された映画で、誤解を恐れずに言えばミニシアターに通い詰めるサブカルオタクが愛する映画である。ゆったりとした時間が流れる下北沢の街を群像劇風に映し出し、95分の上映時間が過ぎた頃には多幸感でいっぱいになる様な、そんな作品だ。TITANE/チタンとはまるで違うその映画の作りを感じながら、主題の意味と機能について考えて頂きたい。

北川智子、りりィ and 原田芳雄 in The Whispered City (2000)

主題が持つ二重の機能

先日の記事では「脚本執筆の際には主題の設定は極めて大事な項目なのだが、それは事項、具体的には登場人物や生物などを生き生きと動かす為に必要とされる」と書いた。これは脚本家が事前に主題を設定し、それを登場人物に反映させることで(ヴィジョンを持たせる)劇中の対立を表現し易くなるからである。

明快な例はオリバー・ストーンプラトーンに求められるのだが、戦争、具体的にはベトナム戦争下で自国と何より自身の勝利の為に機械的に任務を遂行するトム・ベレンジャーは戦地でも人道を忘れないウィレム・デフォーに対置される。両者の対立は主題、即ちベトナム戦争とそこで問題提起されたヒューマニズムから出発し、その両面を2人の人物に割り当てたと考えることが出来るのではないだろうか?観客はチャーリー・シーンの目から戦争を目撃し、その功罪を見ることで主題について認識を深めるのである。

この様に登場人物を設定し、彼らの関係を規定する主題がTITANE/チタンで言う所の怒りであり、BIRDS OF PREY で言う所のフェミニズムなのだが、必ずしも全ての映画がこうした深刻なテーマを孕んでいる訳ではないだろう。ストレンジャー・ザン・パラダイス博士と彼女のセオリーメリーに首ったけ....こうした映画は先程述べた意味での「主題」とは無縁である。

ガイ・リッチースナッチは円環構造でダイヤが行き来する様を通じて人間の欲望をシニカルに描写し、その詮の無さを描き出している。」

こんな解説はとてもまともに受け止められたものではないし、単に肥大した知識を持て余して知った風を装っているだけのことだ。スナッチは単なるコメディで、観客を楽しませ笑わせる映画なのである。

それではこれが主題を持たないのかと言うと矢張りそれは間違いだ。博士と彼女のセオリーでは愛と献身、メリーに首ったけでは積年の片思いという主題がある。これは登場人物を対立させることも、観客の思考を喚起することもなく、ただ物語を成立させることにのみ機能しているに過ぎない。仮にフェリシティ・ジョーンズが早々にエディ・レッドメインに見切りをつけ結婚もしない様な女であればこの物語は成立しないし、ベン・スティーラーが有能で容姿端麗、キャメロン・ディアスもさっさと忘れてしまえば、矢張りこの物語も成立し得ない。

従って主題には2つの機能があると言える。1つは物語の核となり、それを成立せしめる働き。この働きをする主題がなければ脚本は成立しないし、仮にこの主題が存在しない場合には前衛的だとか難解、或いは単に退屈と言われることになるだろう。もう1つの機能は先に見た通り深層で観客に訴えかけ、登場人物を支配する所の働きであり、名作と絶賛される作品にはこの意味での主題が盛り込まれていることが多い。それは普遍的な共感力を作品が獲得する為であるが、一方で主題の扱い方を間違えたり極端な解釈が行われている場合には議論を呼んだり、酷評される原因にもなる。

以上が二重の機能に対する簡単な解説であるが、既に了解されている様に実際の所両者ははっきり区別されるものでもなく、又複雑に影響し合っている。

4分33秒

これら2つの主題が混同され、取り違えられる原因は1952年に発表された4分33秒という楽曲に求められると思う。言わずと知れたジョン・ケージの楽曲である。

現代アートの研究を読めば「デュシャン....ベケット.....ケージ.....」と繰り返している。彼らが生まれて1世紀近くの時間が経過しているのにも関わらず、である。芸術家の名前よりも多く登場する位頻発して見られる名前であり、これにウォーホールを加えれば殆どの論考は読む所がなくなると言っても良い(それは流石に誇張であるけれども)。ポップ・アートを経て登場した現代アートレディメイド(既製品)で以て自己を破壊し、よりコンセプチュアルで簡素・思弁的に発展した経過を解説する上で欠かせない三人がマルセル・デュシャン、サミュエル・ベケット、そしてジョン・ケージなのだ。

中でもジョン・ケージは単にアートの区別をなくしたというだけではなく、観客の意識を直接観念にぶつけさせたという意味で重要だと筆者は考える。泉は一応実体としての作品があり、観客はその性格について議論することが出来た。ゴドーも勝負の終わりも演劇として見せるものがあった。どちらも観念なしには作品を議論することは出来ないけれども作品自体は存在していた。

ジョン・ケージは先達の思想を更に追求し、4分33秒に於いて演奏することを止めた。これが「楽曲」として存在することを考えれば作品そのものが完全に破壊されてしまったという事実が分かるだろう。作品自体の性格を変化させるのではなく、作品そのものを無にしてしまうことで観客が思惟なしで鑑賞することを不可能にしてしまったのだ。この点で筆者はジョン・ケージデュシャンベケットとは異なると考えている。

ともかくこの4分33秒を境に現代アートは完全に自由になった。自由になったと言えば聞こえが良いが、それは詰まり何を作ってもアートになったと言うことだ。最早作品を規定する上で美学や形態、技術などを用いることは不可能になり、全てを、例え作品としての形が何もなくともアートとして扱うことになった。この辺りの事情はアーサー・ダントの著作に詳しい。

さて映画の話である。4分33秒は確実に映画界にも影響を及ぼしており(正確には映画を鑑賞する観客と批評家に影響を与えている)、我々は観念を準備した上で映画を見る様になった。我々は車とセックスする女性を見て「機械文明」というキーワードを持ち出さずにはいられないし、比喩としての透明人間に対して「他者化」とか「セグリゲーション」について考えない訳にはいかない。要は観念の介入を受けず、純粋に作品からのみ考察を深めるという見方が難しくなっているのである。

勿論観念は思考の過程で絶対に必要なものだ。しかし絵画の伝統ではアトリビュートや構成について分析することから出発していたのに対し、現代アートは初めから観念に依る分析を試みる。映画でも同様に作品内の対象を直接考察することは難しくなっており、言わば自動的に抽象化の作業が行われてしまっている。それ故に主題というものの機能が曖昧になっているのではないか?これが筆者の推論である。

ざわざわ下北沢

本映画は明らかにそうした観念に依る抽象化とは無縁の作品である。どれだけ必死に作品を読み込んだ所で如何なる難解な主題を発見することは出来ず、あるのはただ街と人が紡ぐ人間模様だけである。そしてそこには「汗臭さ」、詰まり生活感や生命力の類を感じることも出来ない。恐らく家の中でも最も個人的で人間模様の浮き出る台所に注目しているにも関わらず、吉本ばななの文章には醜悪さが全くない。こう言ったのは村上龍だったが、丁度その『キッチン』の様な清潔感が漂っているのである。

恋人の証をフリーマーケットで売る広末涼子からは涙とか鬱屈した感情を感じることは出来ないし、何となく仕事を辞め突如現れた元彼を殴りに行く(「話あった」らしいが)小澤征悦も不思議と「汗臭さ」はない。どこか割り切ってさっぱりしている様な風もあり、彼に限らず登場人物全員が浮遊感のある、どこか現実離れした空気を漂わせている。

こうした脚本に於いて観念としての主題を発見することは困難だろうし、監督もそれを望んでいないだろう。我々が知覚することの出来るのは下北沢という街の喧騒と、その中で展開する人間模様だけである。だから物語の核として「下北沢」という主題は存在するが、TITANE/チタンが提示する様な主題はここには見られない。その意味で映画脚本の中で主題の機能が如何なるものかを明らかにする際の貴重な比較例となると思う。

筆者自身が2000年頃の下北沢を訪れたこともなく(抑も生まれてすらいなかった)、実際に街の雰囲気を知らない身分であるから何かこれ以上の解説をすることも難しいのだが、1つだけ付言するとナレーションには気を使った方が良いだろうと思う。ナレーションがなければ正直成立しない様な物語なのだが、監督の市川準はそのバランスを上手に取っているだけでなく陳腐になることも防いでいる。

特に直近の日本映画界には是枝裕和という御仁がいるだけに澄んだ画作りで、サラサラとした物語を展開する作品が多いのだが、これは一歩間違えると陳腐で「イタイ」映画になってしまう。劇中で出てくる詩など危険な綱渡りをしている様にも見えるのだが、作品全体を見終わった時に不思議と綺麗な映画だったと思うのは素晴らしいナレーションによる所が大きいと思う。

近年の理論で固められた映画も面白いのだが(そして筆者はそうした映画に親和性を覚えるが)、こうした主題なき映画、情動のみを抽出する様な映画も見どころが多いと思う。これまで取り上げた映画の中では20センチュリー・ウーマンが最も近しいかとは思うが、あの映画も社会情勢を踏まえた複雑な引用に満ち満ちていた。その辺りの比較も踏まえて見て頂ければ面白い映画だと思うし、映画館で上映される折には是非足を運んで欲しいと思う。